みんなの恋人だった僕が先輩だけの恋人になるまで

 高宮先輩と初めて言葉を交わした場所は、昼休みでごった返す廊下の一角だった。
「あー! 藤野! いいところにいた!」
 呼び止められ、僕は購買へと向かおうとしていた足を止める。
 見れば、同じ中学出身で、吹奏楽部の先輩だった黒木先輩がこちらに向かってぶんぶん手を振っていた。
「購買行くんだよな! ついでにさ、俺にもパン買ってきてくんねえ? 課題終わってなくてまじで時間なくてさ」
「そうなんですね、いいですよ。メロンパンとカフェオレですか?」
「おー! よく覚えてんな。さすがみんなの“恋人”!」
「あはは……」
 そのあだ名は勘弁してほしい。ちらっとそう思ったけれど、顔に出さずに僕は笑顔を作る。
「買ったら教室持っていきますね」
「あ、ちょっと待った! 他にも頼みたいんだよ。えーと、お前はなにがほしいんだっけ?」
 そう言って黒木先輩が一緒にいる友達らしい人を見る。黒木先輩も髪色が明るめだけれど、一緒にいる人はそれ以上で、ほぼ白に近い金髪だ。
「三食パンとカツサンド、あと俺もカフェオレ」
「んー、ってことで藤野。こいつの分も頼んでいい? こいつも課題終わってなくてさー」
「あ、そうなんですね。わかりました」
「あと、持ってくんの教室じゃなくて、中庭にして」
「え、あ、そう、ですか?」
 そんなとこで課題? いやこれ違うかも。ちょっと嫌な感じはしたけれど、僕は笑顔のまま頷く。
 まあ、購買に行く途中だし、ついでといえばそうだ。先輩達も喜んでくれるし、いいか。
 そのまま購買に向かって歩き出そうとした。そのとき。
「ちょっと待った」
 頭上から声が落ちてきて、僕と黒木先輩、そして黒木先輩の連れらしい人も一斉にそちらを見た。
「黒木、急ぎでやる課題なんて出てないだろ。なんでそんな嘘つくの?」
 言いながら、階段を下りてくる人がいた。
 その顔を見て僕はのけぞりそうになった。
 だって、眉を顰めてこちらを見る人が、学年違いの先輩の顔なんて同じ中学の先輩しかわからない僕でさえ知っている有名人、高宮斎先輩だったから。
「お前、この子パシってんの?」
「はあ? 人聞き悪い……。本当に忙しかったから……」
「でも課題ないよね。なのにわざわざ買いに行かせるってそういうことじゃないの? 赤城も。後輩いびりとか見てて気分悪いんだけど」
「そんなんしてねえって。俺は黒木が頼めばいいって言うから乗っかっただけ」
 赤城と呼ばれた先輩が舌打ち交じりに言う。とたん、黒木先輩があたふたし始めた。両手を振ってこちらを見る。
「いやいやいや! 別にいびりとかパシリとかじゃないって。ってか、高宮知んないだろうけどさ、藤野はこういうの好きなの。な? 藤野、そうだよな?」
「え」
 いきなり話を振られて僕はフリーズする。その僕の間をどう思ったのか、黒木先輩はさらに声を重ねてくる。
「中学時代、こいつ吹奏楽部でみんなの恋人って呼ばれてたの。尽くすのが好きな奴って意味で。みんなの喜ぶ顔が自分の幸せって本気で思ってるやつなんだってば。な?」
「あ、えと、はい」
 ちょっと違う。けれど、訂正すると厄介なことになるかもしれない。大人しく頷くと、高宮先輩がすうっと目を眇めてこちらを見つめてきた。
「ほんと?」
「あ、はい。僕で役に立てるならそれでいいので」
「……へーえ」
 すごく深いところから出てきたみたいな声で言われてちょっとどきっとする。まだなにか言われるかな、と思ったけれど、高宮先輩はそれ以上言わずに僕の脇を抜けて廊下の向こうへ消えてしまった。
「な、なあ、藤野、お前別に嫌じゃねえよな? 俺、無理やり頼んだりしてねえよな?」
 確かめるみたいに訊かれて僕は笑顔を黒木先輩に返す。
「嫌じゃないです。ついでなので。じゃあ僕行きますね」
 そうだ。別に嫌じゃない。無理強いされたわけでもないし、頼まれたことを果たしたとき感謝されるとほっとする。
 だからこれは僕のためだ。
「あー! 咲人! またパシられてる!」
 黒木先輩達と別れ、購買へ行く。頼まれたメロンパンと三食パンとカツサンド、カフェオレふたつ。それと自分用のサンドイッチを買ったところで、いきなり大声を出されてぎょっとした。
 見ると、同じ中学出身で幼馴染の西尾ひかるがぬうっと立って、こちらを見下ろしていた。
 バレー部の期待の新人といわれているひかるは、百六十センチそこそこしかない僕より十センチは背が高い。気も強く、腕っぷしも強い彼女にいつも僕はたじろいでしまう。
「パ、シられては、ないって」
「うそつけ。そんなにひとりで食べないでしょ。あんた私より全然食細いじゃん」
 そう言うひかるの腕の中には、焼きそばパンとコロッケパン、チョココロネにおにぎりが四個ある。練習厳しすぎて食べても食べてもガソリン足んないのよ、とひかるは涼しい顔だ。
「咲人がさ、親切なのは知ってるよ。でもあんたのそういう態度って周りから見たら都合がいいだけなんだって。そういうの見てていらいらすんだけど」
「都合よく使われてるわけじゃ……」
「使われてんじゃん」
 う、と呻くと、ひかるちゃん、と一緒にいたひかるの友達の成田さんがひかるの腕を掴んだ。
「藤野くんには藤野くんの考えがあるんだし……」
「考えって! 単に気弱いだけでしょ? だったら気付いた人間がびしっと言ってやらなきゃ。高校でまでみんなの恋人なんて呼ばれていいの? ってかさあ!」
 エキサイトしたらしいひかるは腰を曲げて僕の顔を正面から睨む。
「咲人みたいなのって一番誠意ないって思う」
「ひかるちゃん、言い過ぎ。藤野くん、それ届けなきゃなんでしょ? 行きなよ」
 成田さんがひかるの肩をぽくぽく叩きながら促してくれる。ごめんね、と僕は曖昧に笑ってその場を離れた。
 中庭にいた黒木先輩と赤城先輩に頼まれたものを渡すと、ありがとな、と軽い口調ながら言われた。
 ありがとな。
 言われた言葉を胸の内で繰り返し、僕はほっとする。
 よかった。今日も僕は誰かの役に立てている。
 ただ、やっぱり少し疲れたかも。
「ふう」
 やっと息をついたのは、いつもの場所に辿り着いたときだった。
 漂ってくるのは池のほとりみたいなほんのりと生臭い水の香り。夏場は透明な水が満たされて空の青を映して水色に輝いているけれど、今、目の前に溜められた水はどろっとした緑色に沈んでいる。
 居心地なんて絶対によくない場所。
 でも僕は中学のときも今も、この場所、閑散期のプールサイドで寛ぐことをやめられない。
 ……人に好かれたい。
 ……人とかかわっていたい。
 これは紛れもなく僕の本心。
 でも誰にも入り込まれない場所にいるときのほうが、自由に息ができる。
 サンドイッチをかじり終えた僕は、スマホを操作し、音楽アプリを立ち上げた。イヤホンを耳に突っ込み、空を仰ぐ。
 いつもと変わらない凪いだ時間。耳の中に流れてくるのは、今僕が一番はまっているホリ―スナップの新曲だ。
「そこにあるのに見えない場所に滑り込んだ僕ら♪」
 ホリ―スナップの声に合わせて口ずさむ。
 ちょっと声、大きいかも? でもこの辺りには人なんてまず来ないのを僕は知っている。
「気付いてほしいって思った日は気付けば遠くて♪」
 歌いながらごろり、とプールサイドに横になると、じんわりと背中からコンクリートにため込まれた熱が染み込んできた。その温もりに抱かれながら僕は口を動かす。
「エアポケットみたいなここに君の声だけが響く♪」
 ホリ―スナップの歌詞はやっぱりいい。ごちゃごちゃした日常から足音もなくするっと抜け出そうとする身軽さがすごく刺さるから。
 まあ、この曲は唯一無二の相棒とともに地上を捨てる、みたいな歌だから、僕とは違うわけだけれど……。
 なんてつらつらと考えていた僕の背中に、突如振動が響く。誰かが歩いてくるようだ。イヤホンを片方外すと、きいっと扉が開く音も聞こえてきた。
 え、うそ、こんなとこ来る人いるの?
 自分を棚に上げて慌てて身を起こす。音はやっぱり気のせいなんかじゃなくて、プールを挟んだ向こうにある出入口からするりと入ってくる人影が見えた。
 目が悪い僕にはこの位置からだと背が高い男子ということくらいしかわからない。ただ制服を着てるし、とりあえず先生じゃなさそうでそこだけはほっとする。
 とはいえ、どうしよう。なんの用で来たかわかんないけれど、歌っているの、聞かれちゃったかも。
 恥ずかしくて小さくなっている僕に向かって足音は容赦なく迫ってくる。
「なに聴いてんの?」
 足音の主が僕のすぐ傍らに佇んで言う。ええと、とそろそろと視線を上げて固まった。
 軽くめくられたシャツの袖口から覗く、すんなりと長い腕がつっと上がる。強めの風に乱された後ろ髪を押さえながらその人は僕のすぐ隣に腰を下ろした。
「聞こえてる?」
 軽く小首を傾げて訊かれる。それでも僕は返事ができないでいた。
 だってその人は、あの人だったから。
 さっき僕に声をかけてきた人。いじめられてないか? と眉を顰めて言った人。
 学園におけるトップオブトップの頭脳を持つ人。高宮斎、先輩。
「あ、あの! ええと! さっきは、あの、あり、がとうございます!」
 緊張しすぎてしゃちほこばってしまった。うう、と顔を赤らめる僕の顔を覗き込むようにして、高宮先輩が言う。
「ああ、うん。でもいじめとかじゃないんだよね? そう言ってたもんね」
「はい、あの、はい。黒木先輩には中学時代、すごくお世話になった、ので」
「そっか。だから恋人してあげてたんだ」
「は?!」
 恋人? ぎょっとして目を見張る僕を高宮先輩はじいっと見つめてくる。
「さっき、黒木が言ってただろ。みんなの恋人だって。藤野はそれなんだよね?」
「あ、は……え……あ」
 藤野? なんでこの人僕の名前……ああ、さっき黒木先輩が呼んでたから……と納得してから僕は赤面する。
「それは、中学時代のあだ名で……」
「人に尽くすのが大好きって黒木言ってたけど。そうなの?」
「あ、まあ……」
 嘘じゃ、ない。
 人に喜ばれるとほっとするから。
「喜んでもらえたら、僕はそれで……」
「そう」
 先輩は短くそう言って口を閉じる。
 この人と僕は当然ながらこれまで会話なんてしたことがない。今日が初めてだ。つまり話題なんて皆無。そもそもこの人がなに目的でここにいるのかも不明。
 もしかしてさっきのやっぱりいじめとかそういうものだと思っているんだろうか? だとしたら誤解を解かないと。黒木先輩は高校で僕を見つけてからよく買い物を頼んでくるようになったけれど、了承したのは僕だ。無理やりさせられているわけじゃない。嫌といえば無理強いまではしない。多分。おそらく。
「あ、あの! 黒木先輩は悪くないので! ついででしたし! だから!」
「ねえ、片方、貸して」
 会話の流れを無視して言われ、僕は言葉を呑み込む。先輩の指は僕が片方だけ外していたイヤホンのコードにかかっていた。
「俺も聴きたい。聴いていい?」
「あ、え、はい。いい、ですよ」
 なんだ? なにがしたいんだ? よくわからないけれど、頼まれたらオッケーする。それが僕のポリシーだ。慌ててイヤホンをハンカチで拭いて差し出すと、先輩は軽く目を見張ってから、ありがと、と切れ長の目を和ませてイヤホンを長い指で取り上げた。そのまま形のいい耳に差し込む。
「ああ、やっぱりホリスナ」
「やっぱり?」
「藤野、さっき歌ってたから」
 うわ、やっぱり聞かれてた。顔が熱くなるが、見られずに済んだ。先輩は目を閉じてイヤホンから聞こえてくる音楽に耳を傾けていたから。
「いいね、ホリスナ」
「先輩もお好きなんですか?」
 なんの気なしに問うと、すうっと目が開いた。じっと顔を覗き込まれてたじたじとなる。
 この人、さっきも思ったけれど、やけに凝視してくる。癖なのかな。
「あの……」
「ん、好き。元から好きだったけど、もっと好きになった」
「あ、そう、ですか。よかっ」
「まあ、ホリスナがってか、藤野の歌声がってのが正しいかも」
 被さるように言われて変な感じに笑顔がしぼむ。
「藤野ってさ」
 これ、どう反応するのが正解なんだろうとおろおろしている間にも、先輩はさらに声を発する。はひ、とひきつった声で返事をすると、先輩はまたも僕を凝視してきた。
「みんなの恋人、なの?」
「え、まあ、そういうあだ名で……」
「頼んだらなんでもやってくれる感じ?」
「え」
 なんでも、と言われるとさすがに躊躇する。でもまあ、これまで断ったことはない。
「まあ……」
「そしたら、三つ頼みたいことがある」
「三つ、ですか?」
 初対面なのにずいぶん多いな、とちらっと思った。まさか犯罪まがいのことじゃないよね、と内心びくびくしながらも頷く。
「僕でお役に立つことなら」
「ありがと。それじゃあひとつめ」
 言いざま、先輩が不意にこちらに体を寄せてくる。え、と焦った僕の顔を正面から見ながら、厳かに先輩は言った。
「ここで毎日、俺と弁当を食べてほしい」
 え?
 意味がわからなすぎて目が点になる。ぽかんとして先輩の顔を見返すと、ゆらっと先輩が首を傾げた。
「嫌?」
「い、いやっていうか、あの……」
「嫌なら断ってもいいよ。話したの初めてだし、怪しいよね、俺」
「い、い、嫌っていうか! その、せ、先輩は怪しくは、ないですけども」
「そっか」
 ほっとした顔をしながらも先輩は僕の答えを待っている。頼みごとを引っ込めるつもりはなさそうだ。
 別に変なことを頼まれたわけじゃない。弁当くらい別にいいとは思う。でも先輩も言っていたように僕達は初対面だ。そんな初対面の僕、しかも認知度は限りなく薄い僕と学校一の人気者で有名人の先輩がなんで毎日弁当を食べるなんて話になる? しかもこんな荒れ果てたプールサイドで。
 わけがわからない。でも断ることで嫌な顔をされるのは嫌だ。初対面だけれど、がっかりされたくない。
「えと、僕でよかったらいいですけど」
「よかった」
 先輩の広い肩が安堵したように波打つ。その様子にほっとする。どうやら期待には応えられたみたいだ。
「あの、ふたつめは……」
「ふたつめは」
 元通り真剣な顔に戻った先輩がこちらを向く。緊張のあまり、こくん、と唾液を飲み込んでしまった。
「俺に藤野の歌を聴かせてほしい」
 え、歌?
 もしかして偶然聞いた僕の歌がよっぽどよかった……? いやいや、僕、音楽の成績、2だし。
 答えに窮し黙りこくると、先輩は沈黙を拒否と受け取ったらしい。
「歌とか言われても困るか。なら声聞かせてくれるだけでもいい。それじゃだめ?」
 は……?
 一体、僕はなにを頼まれようとしてるんだろう。さっぱりわけがわからない。
「あの、ちょっと理解が追いつかないんですけど。声と言われてもなにを……」
「なんでも。朗読でも、雑談でも。とにかく藤野の声が聴きたい。毎日」
「僕の声なんて聴いても……」
「価値ってさ、主観に基づくものだろ。ある人にとっては取るに足らない石ころだと思っても、ある人にとっては宝石になる。このプールサイドだってそうだ。他のやつらにとっては汚い水溜まりかもしれないけど、俺と藤野にとってはなくなったら困る場所だろ」
 さらさらっと言われて息が止まった。
 僕にとってここは確かに大事な場所だ。でも先輩にとってもそうだったのか? 全然知らなかった。自分以外にそんな人がいるなんて……。
 驚きすぎて気持ちがついていかない。フリーズする僕を見据えたまま、先輩は淡々と続ける。
「藤野の声もそう。藤野は価値なしと思ってるのかもしんないけど、俺にとってはホリスナの歌声より上」
「それは言い過ぎでは……ダウンロード数億越えですよ、ホリスナ」
「誰が何億回ダウンロードするかより、俺だけにもらえる声のほうが俺は大事だって思う」
 めちゃくちゃ真顔でとんでもないことを言ってくる。
 理路整然と言葉を紡いでいるようにも聞こえるけれど、やっぱりこの状況はおかしい。ただこれ、断ったらどんなことになるのだろう。
「ええと、それでみっつめは……」
 テンパりながら問いかけると、先輩が黙った。
 その無言の空気を埋めるみたいにカエルが鳴く。今日は午後から雨って天気予報言ってたな、と異常事態に麻痺した頭で思ったとき、先輩がゆっくりと唇を動かした。僕の目を見据えたまま。
「俺の恋人になってほしい」
 ……ん?
 え、今、なんて?
「すみません、もう一度……」
「つまり……俺以外のお願い事はもう聞かないでほしいってこと」
 先輩はそこまで言ってさらっと髪を搔き上げた。そうしながら僕の顔をやっぱりじいっと見る。
 その……僕がやったら絶対かっこよくはならない仕草をされて、ちょっとどきっとしてしまった。だって。
 ……この人の顔面、めちゃくちゃきれー……。
 なんて考えている場合じゃなかった! しっかりしろ僕!
「ええっと……それ、あの、僕がみんなの恋人なんだってあれ、聞いたからですよね」
 そう言うと先輩がわずかに唇を開けた。呆気に取られたような顔に僕はますます混乱する。
 え、どゆこと? なに、その顔?
「あの、あれはですね、面白がってつけられただけのあだ名なので、実態は恋人でもなんでもないっていうか……」
 そろおっと言ってみるが、先輩の表情は変わらない。
 僕はなにかを間違えただろうか。この人のことはよく知らないし、なにが怒りに繋がるかもわからない。いずれにしても不快にさせないようにしなきゃ。
 他の人のお願い事を聞かないでっていうのを聞けるかっていうと微妙だけれど、四六時中、この人といるわけでもないし。ここは、はいって言っても問題ない、のかな?
 そこまで考えて僕は首を振る。だってそれ、約束を破る前提じゃないか。それはさすがに駄目だと思う。
「そういうわけなので三番目のはちょっと……」
「恋人になるのが嫌って意味?」
 低い声で問われて体が跳ねる。
「え! い、嫌ということじゃ」
 とっさにそう言ったとたん、目に見えてほっとした顔をされた。回答を間違えた気もしたけれど、とにかくちゃんと言わないと、と僕は息を整える。
「ちょっとその、他の人の頼み事聞かないでというのが守れない気がして……」
 そろそろと言うと高宮先輩は自身の額に手を当てた。きゅっと眉を顰めてなにかを考えている顔をする。困らせてしまったのかもしれない。
「そういうわけなので、だから」
「ごめん」
 あっさりとした声で言われる。え、と見上げると、先輩がゆらっと首を傾げてこちらを見ていた。
「勝手なことを言った。藤野の行動制限するみたいだよな、こんなの。ごめん」
「あ、いえ、そんなことは……」
「ただ俺は藤野に恋人になってほしい。お試しでも。そこは、どう?」
「こ……」
 これってやっぱりみんなの恋人ってあれのことを言っているんだよな、絶対。
 そうじゃなきゃ高宮先輩がこんなこと僕に言ってくるわけないし。だとしたら断るのもだめかも。他の人の頼み事は聞くのに、俺のは聞かないのかって不快にさせちゃいそうだ。
「僕でお役に立てるかわかんないですけど……先輩が助かるなら、はい……」
「それ」
 そこまで言ったところでゆっくりと長い睫毛が動いた。一度くっきりとした瞬きをした後、先輩は再びじいっと僕を見据えてくる。
「了解って意味?」
「あ、えと、はい」
 なんか変なことになっている気がする。大体、この人の頼み事、ひとつめとふたつめも大概おかしかった。
 弁当と声って……ちょっと、やっぱり。
 断ったほうが、いいのかな。
 どうしようどうしようと焦ったとき、ふっと先輩の表情が変わった。
「よろしく、藤野」
 先輩の手がすうっと伸びてくる。そのまま柔らかく頭を撫でてくる先輩の顔を見て、僕は呆然とする。
 先輩は……笑っていた。
 この人のことなんてなにも知らない。誰もが振り返る圧倒的なビジュと学園一の頭脳を持つ人。僕の脳内データベースにある先輩の情報はたったそれだけ。
 だからこの人がどういうつもりで「恋人」という言葉を発したのかわからない。
 わからないのに僕は頷いてしまった。
 断って、こいつ価値ないってこの人に思われるのが怖かったのと……こんなにうれしそうに笑われたことに胸がむず痒くなってしまったために。