みんなの恋人だった僕が先輩だけの恋人になるまで

 プールに繋がるフェンスを押し開けると、九月のまだ夏の顔をした風が顔面に吹き付けてきた。
 う、と呻いた僕に、藤野、と声がかけられる。
「遅かったな」
 風にさらさらの前髪が揺れている。白々とした太陽の光でカッターシャツの白がレフ版みたいになって、滑らかな頬が眩しく光った。
 光や風なんて誰の上にも平等に降り注ぐもののはずなのに、視覚効果がぐぐっと上がって見えるのは、この人が持つもともとのかっこよさが絶対影響している。
「どした? おいでって」
 目をハートにした女子達がこの人に声をかけてもらえるなら、おいでもこらでもいいとさえ言う声がまっすぐに飛んできて、僕は慌ててプールサイドを走った。
「座って」
 促され、フェンスにもたれるように座るその人の隣に慌てて腰を下ろす。それと同時だった。
 ふわっと気配が近づき、さらさらの髪が目の前を通り過ぎた。と思ったら、膝の上に甘い重みがかかる。
「重くない?」
「だ、大丈夫てす」
「よかった」
 僕の膝に頭を乗せ、口元に笑みを刻んで呟いたのは、県内でもトップクラスの進学校である我が榊学園の中でもトップオブトップの頭脳を持つと言われている人。しかも頭の出来だけではなく、顔面もめちゃくちゃ整っていて背も高い。すっと伸びた背筋や、広い肩幅、長い手足を持つこの人は、女子だけではなく男子からも憧れの的だ。
 そんな超有名人であるこの人、高宮斎(たかみやいつき)先輩が、なんでだか僕の膝に頭を乗せている。
 しかも。
「藤野」
「は、はいっ」
 声が裏返ったのが面白かったのか、先輩はくすっと笑って腕を伸ばす。体温の低い指先が、僕の頬をするっと撫でた。
「なんか話して。藤野の声、すっごく脳に優しい。疲弊した脳を癒すサプリみたい」
「そんな、大げさな……」
「大げさじゃないって」
 言いながら先輩は膝の上で頭をゆさゆさする。
「それくらい恋人の声は特別ってこと。だから話して」
 恋人。
 直接的な言葉とふわっと包んでくるみたいな声に当てられて顔が赤くなる。
 あああ、どうしよう。
「ええと、じゃあ、あの……昔話、とか」
「いいよ。桃太郎でも花さかじいさんでも、好きな動画の話でも」
 促すだけ促して先輩は目を閉じる。陽光が真上から落ちてきて先輩のまっすぐな睫毛を照らす。睫毛さえ芸術品みたいに見える。こんな人もいるんだなあ、なんて感心しながら僕は口を動かした。
「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……」
 先輩は目を閉じたままだ。まだ眠ってはいない。あと少ししたら寝ちゃうかもしれないけれど。
 本当になんでこんなことになったんだか。
 二週間以上経った今も僕は混乱している。
 僕とは学年も頭のレベルもなにもかもが違うこの人はなんで僕なんかに、恋人になって、などと言ったんだろうと。