愛が激重すぎる独眼の若頭は、婚約破棄を申し出た冷遇娘を手放したくない。

 西崎蘭は、十八年前に西崎家に生まれた長女である。
 家族構成は、会社員の父と専業主婦の母、そして二歳年下の(りん)
 ただ、この家は普通の家庭とは異なる。
 父の収入だけでは、とても維持できるとは思えない豪邸に住んでいるのだ。
 使用人が何人もいて、それぞれに役割がある。
 庭の手入れをするための庭師は、三人もいる。
 両親と凛は本邸で暮らしている。
 一方、蘭だけは敷地内に建つ離れで、一人ひっそりと暮らしていた。
 実の両親とは年に数回、口がきけるかどうかという程度である。
 何かしらの意思疎通がある時は買い与えられたスマホのメッセージアプリを通じてである。
 そんな両親から、『本日夜七時、本邸へ』というメッセージが来て、思わず飛び上がった。
「えっ……本邸、へ……?」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返して、何度も画面を確認した。
 蘭は、本邸への出入りを禁じられている。
 理由がどうしてか、というのは分からないけど何となく察しがついていた。
 自分が愛されていないからだ。
 物心ついた頃から、休みの日になると両親と凛は手を繋いで笑顔でどこかへ行く。
 何をしに行っているのか、分からない。
 けれど、その表情から楽しそうというのは分かった。
 幼い蘭は、何度も彼らについて行こうとしたけれど――。
「いけません! 蘭様!」
「えっ……」
 家族について行こうとすれば、何度も使用人に止められた。
 誰も、理由は教えてくれず何度も枕を濡らした。
 そんな両親からメッセージが届けば、蘭は間髪入れずに返信をした。
『わかりました!』
 いつもなら文章だけなのに、今日は思わず感嘆符までつけてしまった。
「ふふっ。最近は嬉しいことが続くなぁ」
 それだけではない。
 最近の蘭には、もう一つ楽しみにしていることがあった。
 それは、遡ること二日前の学校での出来事だ。
「来週の蘭の誕生日、だけどさ……」
 昼休みに彼氏の東雲健人(しののめけんと)と、中庭のベンチに座ってお弁当を食べていた時。
 照れくさそうに頬をかきながら、ようやく勇気を振り絞ったように声を出す彼にぱぁっと表情が明るくなる。
「誕生日…覚えてくれてたの?」
「当たり前だろ。俺、彼氏だし」
 健人がはにかめば、蘭の心はぽっと明るくなった。
 生まれてから、誕生日が特別なものという感覚はなかった。
 その感覚が芽生えたのは、小学校に上がった時。
 その時の担任の先生が、月ごとに誕生日の生徒をお祝いするというイベントをする人だった。
 そこで嬉しそうにするみんなの顔と、「おめでとう!」と祝福する声を聞いて、あぁ、誕生日ってそういう日なんだと知った。
「それでさ、さっきの話だけど……その日、親がいないから家で祝いたい」
「うんっ。すごく嬉しい」
 蘭が嬉しそうに返事をすると、健人は安堵の表情を浮かべた。
 しかし、その後蘭の手をぎゅっと握ってじっと真面目な表情を浮かべる。
「あのさ……そういうつもりで誘ってるんだけど」
「そういうつもり……? あっ」
 健人の頬が赤く染まる。
 最初はきょとんとしていた蘭だったが、しばらくしてハッとする。
 恋人同士として、もう一段先へ進みたいという意味なのだと。
 彼とは付き合って半年になる。
 しかし、手を繋いだりキス以上のことはしたことがない。
 十八歳にもなれば、『そういうつもり』が何を意味するのかくらい分かる。
 蘭は固まりながらも、控えめにこくりと頷いた。
「――っ! よかったぁ」
 にへら、といつもの柔らかい笑顔を浮かべてうなだれる。
 健人は、黒髪にブロンドの毛が筋のように入っている。
 耳にはピアスが開いていて、目は宝石のように透明感のある翡翠色をしており『チャラい』とか『怖そう』という印象を持たれるけれど、全然違う。
 彼の容姿は、日本人の母とフランス人の父からによるもので、ピアスは祖母の形見らしい。
 彼は、誠実で優しくて、学校で浮いていた蘭にも他の誰とも変わらぬ態度で接してくれた人なのだ。
 あの日のことを思い出せば、今も胸がときめいて健人の顔が思い浮かぶ。
「いつか……お母さん達にも紹介出来たらいいな……」
 メッセージを眺めながらそんなことを零すと、七時になるまで自室で時間を潰した。

***

 そして迎えた午後七時。
 蘭が本邸へ足を踏み入れると、使用人達が客間へ案内した。
 そこには、既に両親が座っており、目の前にはずらりと御馳走が並んでいる。
「蘭。そこへ」
「はい」
 父に促され、二人と向かい合う形で座る席に着いた。
 凛の姿はなく、彼女が来るまで待つのだろうと料理に手を付けずにいたら、父が口を開いた。
「お前、三日後誕生日だろ」
「っ、は、はい」
 父から誕生日について触れられたのは初めてで、思わず息を呑み瞬きが増えた。
「十八になったら、鬼道家の当主、鬼道樹様の元に嫁ぐことが決まっているから、今のうちから荷物をまとめておきなさい」
「……えっ?」
 突拍子もなく、現実味の薄い話が出て、蘭は声を漏らした。
「お前は三日後には、鬼道家で生活するんだ。ようやく、俺達の肩の荷が降りる」
「そうねぇ、あなた」
 母が父の言葉に、うんうんと何度も頷く。
 ――肩の荷が下りる。
 その言葉だけが、妙に鮮明に耳に残った。
 けれど蘭には、両親から世話をされた記憶などほとんどない。
「あ、あの……私、そんな話一度も」
「当たり前だ。これは口外してはならないことだったのだから」
 蘭の言葉に、不思議そうに眉をひそめる父。
「で、でも……明後日は、その……予定が……」
「何を言ってるの。そんなもの、断りなさい」
「っ……」
 予定の内容を聞くこともなく、頭ごなしに断ることを言われると言葉に詰まった。
「でも、その日の予定は――」
「うるさい。その日は天地がひっくり返ろうと、約束がなくなることはない。それより、早く食べなさい」
 話を聞いてもらえることもなく、初めて彼氏の家で過ごすはずだった誕生日。
 その約束まで奪われると思うと、食事など喉を通るはずもなかった。
 気づけば自室へ戻っていて、手の中には嫁ぎ先の住所が記された一枚のメモが残されていた。

***

 翌日、蘭は車に揺られていた。
 蘭は、毎日の登下校を車で行っている。
 これは、昔からだ。
 けれど、今日はいつものようにまっすぐ家路についているのではなく、昨日持っていたメモを頼りに鬼道家へ向かっていた。
(私には彼氏がいる。だから、嫁げないってこと……お父さんに言ってもダメだったから、直接言わなきゃ……)
 膝の上で、ぎゅっとメモを握りしめる。
 怖い。
 けれど、このまま何も言わずに従うことだけはしたくなかった。
 やがて目的地が近づくと、車は徐々に速度を落とし、路肩へ停車した。
「わ……すごいお家……」
 運転手に頭を下げて車を降りると、目の前に広がる古風で立派な屋敷に蘭は目を丸くした。
 辺りには自然豊かな緑が広がり、豪邸を囲うように白く高い壁が建っている。
 きょろきょろと周囲を見回していると、門の近くに立っていた強面の男と目が合った。
「っ……」
「あぁ? 何だ、お嬢ちゃん」
 ぎろりと鋭い目つき。筋肉質で逞しい体。
 声を掛けられただけで、蘭の体は強張った。
「おい。見せモンじゃねぇぞ」
 もう一方からも声が飛ぶ。そちらにも、同じように厳つい男が立っていて、蘭は思わず身をすくませた。
 けれど――ここで怯むわけにはいかない。
「あ、あのっ……き、鬼道樹様に……ご用があって……」
「あぁ? 今日は若にそんな予定ねぇよ。女のガキだと思ってたが……お前、どこの回しモンだ?」
「や、あの……」
 凄まれて一歩下がると、とん、と何かにぶつかった。
 慌てて振り返る。
 そこには、黒いスーツにネクタイを締め、色付きの眼鏡をかけた男が立っていた。
 ぶつかった拍子に、ほのかに苦みのある香りが漂う。
「っ、す、すみませんっ……」
 すぐに謝って立ち去ろうとした。
 けれど――。
「おや。嬉しいねぇ。お嫁さんの方から来てくれるなんて。でも――極道モンの家に一人で来るのは、ちょいと警戒が足りないんじゃないのかい?」
「えっ……?」
 男はふっと小さく笑みを浮かべた。
 色付きの眼鏡の奥、覗いた片目が細くなる。
 その独特の空気だけで分かった。
 この人が――鬼道樹だ。
「わ、若っ! お、おかえり――ぐおっ!」
 強面の一人が出迎えの言葉を告げるのと同時に、屈強な男の身体が横たわる。
 何が起こったのか分からなかった。
 けれど、横たわった男の頬が丸く凹み、ぴくぴくと痙攣している。
 そして、樹の拳が強く握られている様子から、目にも止まらぬ早さで殴ったことが分かった。
「えっ……?」
 思わず声を漏らす。
 膝がガクガクと震えるが、樹から目を逸らせばどうなるか分からない。
 その思いで彼を見ていると、にこりと柔らかい笑みを浮かべた。
 つい先ほど、人を殴り倒したとはとても思えない表情だ。
「悪いね。ちょっとだけ待っててくれるかい?」
 そう言うと、蘭の返事を聞く前に横たわった男とその近くでガクガクと震える男の首根っこを掴み、ずるずると敷地の中に入って行く。
 しかし、数歩で足を止めると、男二人から手を離して蘭の方を向いた。
「――いや。やっぱり……お嬢さん」
 断ろうとしたが、樹が蘭に近付けば、スッと胸の中に抱き留めた。
「え……っ!」
 突然のことに、目を見開き彼の腕から離れようとするけれど、逞しい腕から逃れられない。
 片手でグッと抱き留められて、もう片手は門の方へと向けた。
 その瞬間、薄い壁のようなものが蘭の背後にできた。
「ちょっと物騒になりそうだからね」
 薄い壁のようなものが蘭の周囲を包み込むと、樹は彼女を自分の背後へ回した。
「おい。いつまで寝かせてる。叩き起こせ」
 自分が殴り倒したというのに、冷たく言い放つ。
 強面の男がびくっと肩を震わせた。
「へ、へいっ。おいっ!」
 伸びている男の体をばしばし叩くと、はっと正気に戻った男がむくりと起き上がる。
「お前ら、お嬢さんを屋敷の中へ避難させろ」
 樹は蘭へ目を向けることもなく、門の外を見据えたまま命じた。
「は、はいっ。ですが若、その程度の相手なら俺たちが……」
「いや、いい。俺は今――気が立っている」
 何があるのだろう。
 そう思って身を乗り出しかけたが、その前に男に無理やり立たされた。
「お嬢ちゃん。こっちへ!」
「へっ!?」
 有無を言わせず抱え上げられ、そのまま屋敷の中へ運ばれていく。
 その体勢のまま見えたのは、樹が両手から青い炎を放ち、門の外にいる誰かへ向けて撃ち出す姿だった。
 それはまるで、アクション映画のワンシーンのようだった。
 屋敷の中へ入れば、玄関の隅にちょこんと座る。
 そして、五分もしないうちにガラッと玄関の引き戸が開く。
 樹が中へ入って来た。
「若! 大丈夫でしたか!?」
「当たり前だ。誰に聞いている」
 短く息を吐きながらギロリと男を睨めば「す、すいません!」と謝って、二人は門の方へ向かった。
 蘭は、そんな光景をただ茫然と見ていた。
(この人……今の、何だろう……)
 そんなことを考えていたら、樹が蘭の隣に腰を掛けた。
「それで、どうしたってんだい。こういうサプライズ、嫌いじゃないけど今みたいなこともあるからね」
 ぴったりと蘭の真横にくっついて、怖い顔が近づいてくる。
 けれど、先程まで一緒にいた二人のような怖さではない。
 短い髪はワックスで整えられていて、鼻筋は高く通っている。
 色付きの眼鏡から覗く片方の目は鋭く切れ長で、嘘偽りをすぐに見破りそうだ。
 怖い雰囲気をまとい、顔にはいくつか傷もある。
 それでも、顔立ちそのものは驚くほど端正だった。
「あ、あのっ……お話が、あって……」
「話? 二日後にゆっくり聞くってのじゃいけないのかい?」
 緊張している蘭とは対照的に、落ち着いていて柔らかな声音で告げる。
 蘭は、その問いに小さく首を横に振った。「そ、その……二日後のお話、なんですけど……わ、私っ。彼氏がいるんですっ」
「……へぇ。それで?」
 樹の眉がピクリと動く。
「そ、それでって……だから、結婚とか、そういうのは……そ、それにっ。私、まだ十七歳で、二日後に十八歳になるばかりで、結婚とかって……」
 今は令和。
 親同士が勝手に決めた相手と結婚するなんて、今の時代にある話だとは思っていなかった。
 そして、蘭はまだ十八歳。
 高校に通っていて、大学に進学することも決まっている。
 学生同士で結婚するということもあるだろうが、蘭には考えられなかった。
「なんで? 法律では、十八歳で結婚できるよ?」
「え……いえ、法律ではそう、ですけど……私には、彼氏が」
「そうか、そいつはいけないねぇ」
 父よりも理解してくれる樹に、ホッと胸を撫でおろした。
 しかし、その安寧はすぐに打ち砕かれる。
「だったら、その男――殺しに行かないと」
 そんな物騒なことを平然と言ったのだ。
「こ、殺す……?」
「当たり前だ。俺の花嫁に手を出すとは、どこのモンだ。落とし前つけさせてやる」
 任侠映画で出てきそうな言葉を、冗談ではなく本気に捉えられるような面持ちで言う男。
 彼氏との関係をぶち壊そうとする。
 この瞬間、蘭の中で鬼道樹という男の第一印象は、最悪なものになった。
 ――大嫌い。