花散る雨、里に恋し生りゆく

 だが、楓の動揺と興奮はなかなか消えない。ずっと在るのか否か半信半疑だった、彼(・)が確かに存在していたという事実。
 本当に起こった事なのか実感がなく、後ろ髪引かれる思いだ。暫く祠を眺めていたが、ふと、固まったままの足をよろり、と動かし、帰路についた。
 見慣れたいつもの帰り道が、まるで違う道に見える。ぼんやりして思考を失っているけれど、習慣的に辿る道順と両足が、身体を自宅に誘導してくれていた。
 慣れというのは楽な一面もある。何も考えなくていいし、安定する。だけどやっぱり花の泣き声は別だ。何度聞いても慣れない。
 けれど、彼(・)が現れた今夜は、桜の啜り泣きも、傘に響く雨音もいつの間にか聞こえないでいた。もっと予想外のあり得ない異種者(モノ)に会ってしまったからとは言え、何かに化かされ、手の内にまかれたようだ。


 気がつくと自宅のマンションに辿り着いていた。
「ただいま……」
 部屋に入り点(つ)けた蛍光灯で明るくなった空間に向かって、ぽそり、といつもの言葉を発する。見慣れた仕様のリビングには誰もいない。返事が無いのは知っていた。
 洗面所で手を洗い、キッチンに直行する。カウンターに飾ったフォトフレームの写真には、今よりも幼い顔立ちの楓が年配の女性と映っている。晴れた青空を背景にし、桜の木と映る二人は笑っていた。
 ちらり、とそれに目をやり、椅子に置いていたバッグから、帰りにコンビニで買って来た物を取り出し、テーブルに並べる。牛乳、納豆に食パン……そして、レトルトの筑前煮パック。
「今夜は卵使って……これ、とじよか。おばあちゃん、こういうの好きやったよね」

 出来上がった卵とじ筑前煮を、自分用の皿に盛り、レンジで解凍した冷凍白飯と合わせて、テーブルに置く。
「いただきます」
 楓以外誰もいない場で一人手を合わせ、箸を取る。咀嚼しながらフォトフレームに視線をやった。
「……おばあちゃん。今日、あ(・)の(・)水神様に会(お)うたよ」
 誰もいない家に、自分の空虚な声だけがぼんやりと響く。返事は無い。それでも今日は、これだけは口にしたかった。
「おばあちゃんなら……信じてくれるわな。声だけやったやけど」
 夕食時、毎日写真に向かって話をする。そんな日々じゃないと、彼女はダ(・)メ(・)なのだ。
 こんな事でしか、心のバランスを保てない。今(・)の日常を送れない。虚(むな)しく滑稽な行動だと自覚していても、思い出に縋(すが)って生きるしかなかった。


 花曇りの湿度を帯びた、翌日の夕暮れ時。改めて祠を訪れた楓は、早速、彼を呼んだ。
「水……サクヤさん、いますか? 楓です」
 ――本当に、来たのか
「理由、知りたいし……教えてくれます?」
 以前と同じくピッ、とした空気の中、静かに淡々と放たれる声(・)に対し、丁寧で毅然とした口調をなるべく意識し、楓は問う。
 ――お前は、桜が好きなのか
 固まっていた瞳孔が無意識に緩み、開いた。楓の時間が急速に戻ると同時に、温かな声と記憶が脳内をぼやり、と包む。
『楓は、桜が好きなんやなぁ』
 心が痛い位懐かしく、いつまでも覚えていたいのに、哀しくて思い出したくなかった記憶。どんな音(・)で紡がれた言葉だったか、今では鮮明に再生できない……
「……なんで?」
 古い残像を振り切るように、冷ややかに問い返す。質問したのに、逆に問われた事が、はぐらかされたようで不満にも思った。
 ――好きだから、ずっと私に願っていたのだろう?
「サクヤさんは、好きやないんですか?」
 わかってるなら、何でそんなことをわざわざ聞くのだろう…… この水神の考えている事が、まだよくわからない。人間では無い、神様の思考だから当然と言えばそうだが。
 ――好きも嫌いも無い。桜に限らず、花……地上の生物自体に、関心は無い
 予想外の真実に、楓は少しショックを受けた。少なくとも、地上の生物には慈愛があるのだろうと思っていた。
 天上の神々というのは、そういうものなのだろうか。このサクヤという水神が、そんなポリシーなだけなのかもしれないけれど。
 ――雲の声を聞いて、その要求に合った雨を降らす。それが私の役目だ。それ以上でも以下でもない
「……花とか、人間の為……やないんですね」
 ――お前達人間がどうしようと、基本的に神々や天上の者は知った事ではない。……失望したか?

『こない汚れとったら、神様(かみさん)気の毒や……』

 そう悲しげに呟きながら花を供え、丁寧に手を合わせる、細く小さな背中。そんな様子を半ば嘲笑するように語り、見下す親戚や周りの冷ややかな視線――
 再び蘇った忌々(いまいま)しい記憶を頭の隅に追いやり、楓は少し考えた後、静かに首を振った。
「……仕方あらへんかな、と思う」
 意外な答えに、サクヤは絶句した。