花散る雨、里に恋し生りゆく

 痛い。イタい。カッコ悪い。このまま消えてしまいたい……
「……わかり、ました。変な事言って、ごめんなさい……」
 これ以上何か言ったら、出来たばかりの傷が悲鳴を上げそうだった。俯いたまま頭を軽く下げ、ゆっくりと踵(きびす)を返した。そのまま背を向け、逃げるように足早に駆け出す。
 何より大切にしたかった存在だったのに、どうしてこうなってしまったんだろう…… 訳が解らず、涙がまた溢れ出した。『今日は泣いてばかりだ』と壊れそうな意識の中、思った。


 残業と言っていた父はやはり家にいない。夕食をとる気にもなれず、ぼんやりとベッドに横になっていた。涙だけは、自然に流れてくる。
 彼は人間ではない。別世界の神様だ。だけど、話していたかった。それ以上を望んでいた訳ではないけれど、困らせてしまった。
 何故、大切なもの程、手に届かない場所に行ってしまうのだろう。少なくとも、楓にとって大切だと思うものは、いつも瞬く間に離れて、消えてしまう。
 子供の頃に聞いた、桜の愛らしい笑い声も、祖母も、サクヤも……
 もう、全てが嫌になっていた。自分も消えてしまいたい。棄(す)ててしまえたら、どんなに楽だろう……と思う時もあった。自分が生きている意味さえわからない時だって、数え切れない程、何度も。

 暫く泣いた後、さすがに喉の渇きを感じ、とりあえず何か飲もうと、キッチンに向かった。ミネラルウォーターのボトルを取り出し、グラスに注ぐ。水がコポコポ、と打ち鳴る、涼しげな音がする。
 水――彼が司っているもの。普段、自分は当たり前のように口にして、飲んでいる……
 人間の世界にルールがあるように、神様の世界には神様の生き方やルールがあるのだろう。そんな事にすら気づかず、甘えてしまった。

 ふと、視界にフォトフレームが映る。あの、祖母との写真だ。
『水神様は、おばあちゃんに何かしてくれたん?』
 彼に全て捧げているような祖母が不思議で、また、それに付き合わされているのが少し面倒に感じてきた頃の、幼い疑問だった。
 そんな孫娘に、祖母は言った。
『おばあちゃんが楓より小さかった頃、戦争が終わったばかりやった。水を飲むだけでも大変やったんよ。暴れ川になった事もあったけど……水に生かしてもろた思てる。だから今、お返ししとるんや』
 祖母との暮らしは凡庸(ぼんよう)で、少し哀しみを秘めた日常が、淡々と過ぎてゆくだけだった。が、この頃の自分は『しあわせ』だったのだと、今は思う。
 だったら、祖母も『しあわせ』だったろうと、あの水神様は言ってくれた。彼からしたら、経験上の何気ない言葉だったのだろうけど……それでも。
 嬉しかった。ずっと苦しかったものを軽くして、励ましてくれた……
 頭の中で何かが弾け、瞬く。
 祖母が、たとえ『しあわせ』だと思ってくれてたとしても、もっと返したかった。病気が見つかった時、幼い自分はショックで泣いてばかりだった。今までのお礼すらまともに言えないまま、永遠の別れを迎えたのだ。
 また、あの時みたいな事を繰り返して、同じ思いをしたくない。後悔で苦しみたくない。彼はもう口を利いてくれないかもしれないけど、せめて謝って、きちんとお礼を伝えたい――
 くじけそうな心に喝を入れるように、グラスの水を、一気に飲み干した。


 翌日は土曜日だった。寒暖差の激しかった日暮れ。決戦にでも挑むような思いで、楓は祠に向かった。
 いつもと違った場所に見える空間の中、恐る恐る、口を開く。
「……サクヤさん、すみません。私です……」
 少し後、辺りが引き締まる気配に包まれ、あの声(・)が響いてきた。
 ――……もう、来ないとみていた
 とりあえず話しかけてくれた事に楓は安堵し、同時にきまり悪そうに俯く。
「ぎょうさん優しくしてもろたのに…… あんな終わり方はひどいな、思て」
 ――私もきつく言い過ぎた。悪かった
「お礼だけでも……ちゃんと言いたかったんよ」
 ――だが、今までと何も……変わらないぞ
「……何も得せんでも、動きたくなる時があるんが人間、なんやろ?」
 以前、彼女に言った言葉に、サクヤは圧(お)される。なら、自分がした事は何だったのか…… あれから、彼も自問自答し続けていたのだ。
 そんな彼の動揺と葛藤には気づかず、改めるように、なるべく毅然とした面持ちで、楓は告げた。そして、伺いを立てる。
「ほんまに……色々、ありがとうございました。おかげで、また頑張ってみようって……思えた」
 真っ直ぐな感謝の言葉に、サクヤは黙り込む。返す言葉が見つからない。こんな時、何を言えば『正解』か判らないのは、人間ではないからなのか。
「だから……辛(つら)なった時は、また来ても……ええかな……?」
 ――……花の声(・)は、もう大丈夫なのか
「サクヤさんおるなら……大丈夫。雨の日は、なるべく避けるし」
 不安そうな表情だが、初めて声をかけた時よりも、どこか力強い口調に変わった彼女を、サクヤは感慨深く、そしてどこか切ない想(・)い(・)で見ていた。
 ――……わかった。構わない
 許しを得た事でようやく安堵し、微かに楓は微笑む。
 ――……もう本当に、声はかけられないが
「……ええよ。大丈夫」
 こうなるだろうと覚悟はしていた。だが、どうしようもない名残惜しさ、寂しさが沸き上がり、ちりちり、と楓の胸の奥を焦がし、痛ませる。