4人でいられたはずなのに

 放課後の教室には、一日の終わりだけが持つ、少し気の抜けた空気が流れていた。
 窓の外では、傾き始めた太陽が校舎を淡い橙色に染めている。

 グラウンドからは運動部の掛け声。

 廊下からは、部活へ向かう生徒たちの笑い声。

 黒板には今日の日付と、消し忘れられた数式が白く残っていた。

「つっかれたぁー!」

 神崎緋莉(かんざきあかり)が机に突っ伏した。

 赤みのあるダークブラウンの髪が、机の上にふわりと広がる。

「今日の数学、絶対おかしいって。なんでアルファベットと数字を一緒にするの?」

「今さら?」

 一ノ瀬茉白(いちのせましろ)は笑いながら、紙パックのミルクティーにストローを刺した。

 黒髪のセミロングに、きちんと着たブレザー。

 どこにでもいそうな普通の女子高生。

 少なくとも、茉白自身はそう思っている。

「数学ってそういう教科でしょ」

 向かい側から小さな声がした。

 白石栞奈(しらいしかんな)だった。

 長い黒髪を耳にかけながら、読みかけの小説から顔を上げる。

「ほら、栞奈まで言ってる」

「栞奈は頭いいから私の気持ち分かんないの」

「そんなことないよ」

「じゃあ今日の小テスト何点?」

「……九十八点」

「敵!」

「えっ」

 緋莉が勢いよく起き上がる。

「この中に裏切り者がいる!」

「何の裏切り者よ」

 茉白が呆れたように笑った。

「じゃあ茉白は?」

「聞かない方がいいと思う」

「何点?」

「聞かない方がいいって」

「何点?」

「……六十二」

「仲間!」

「勝手に仲間にしないで!」

 緋莉が嬉しそうに茉白の肩を抱く。

 茉白がそれを振り払おうとして、栞奈が口元を押さえて笑った。

 その時だった。

 カシャ。

 三人が同時に振り返る。

 少し離れた席に、雨宮映美がいた。

 真っ直ぐな黒髪。

 整えられた制服。

 手には小さなカメラ。

「……映美」

「何?」

「今撮った?」

「撮った」

「消して」

「やだ」

「即答!?」

 また笑い声が広がった。

 映美はカメラの画面を確認する。

 そこには、緋莉に抱きつかれて嫌そうな顔をしている茉白と、その二人を見て笑っている栞奈。

 綺麗に並んだ写真ではない。

 目線だってカメラに向いていない。

 だけど映美は、そういう写真の方が好きだった。

「見せて」

 栞奈が近づく。

「いいよ」

「私、変な顔してない?」

「栞奈は大丈夫」

「じゃあ私は!?」

 緋莉も画面を覗き込む。

「普通」

「よかった」

「いつも通り変」

「映美ぃ!」

 緋莉が映美へ飛びつこうとする。

 映美はカメラを守りながら椅子ごと逃げた。

「危ない」

「今のは傷ついた!」

「事実だから」

「茉白! 映美がいじめる!」

「はいはい」

 助けを求められた茉白は笑いながらミルクティーを一口飲む。

 いつもの光景だった。

 特別なことなんて何もない。

 誰かが呼び集めたわけでもないのに、放課後になると自然に同じ場所へ集まる。

 一人が帰ろうと言えば、残りの三人も鞄を持つ。

 一人が寄り道したいと言えば、結局四人でついていく。

 四人でいることに理由なんてなかった。

 気づいた時には、そうなっていた。

 それが茉白たちだった。

     *

「ねえ、これ可愛くない?」

 しばらくして緋莉がスマホを差し出した。

 画面には新作のコスメが表示されている。

「また買うの?」

 茉白が言った。

「“また”って何よ」

「この前も買ってたじゃん」

「あれとこれは違うの」

「同じ赤に見えるけど」

「全っ然違う!」

 緋莉が大げさに首を振る。

「こっちはちょっと青みがあって、前のは――」

「分からない」

「説明途中!」

 栞奈がくすっと笑った。

 その瞬間。

 カシャ。

「映美!」

「いい顔だったから」

 映美が何でもないように言う。

 緋莉が眉を寄せた。

「ていうか映美、ずっと写真撮ってるけどさ」

「うん」

「自分が写ってる写真、全然なくない?」

 映美の指が止まった。

「そう?」

「そうだよ」

 緋莉がスマホの写真フォルダを開く。

「ほら。茉白と私と栞奈の写真には映美がいないこと多いし」

「撮る方が好きだから」

「でもさ」

 茉白が映美を見る。

「私は四人の写真も欲しいな」

「四人?」

「うん」

 映美が少し首を傾けた。

「せっかくずっと一緒にいるんだし」

「それは分かる」

 緋莉が頷く。

「あとで見返した時、映美だけいなかったら怖くない?」

「なんで怖いの」

「三人しか写ってないのに、実はその場には四人いました、みたいな」

「怪談にしないで」

 茉白が笑う。

「でも撮ろうよ、四人で」

「……うん」

 映美が小さく頷いた。

 その返事は、いつもの映美より少しだけ嬉しそうだった。

     *

 いつの間にか、教室に残っている生徒はほとんどいなくなっていた。

 夕日はさらに傾き、机と椅子の長い影が床に伸びている。

 緋莉が突然、天井を見ながら言った。

「ねえ。私たちって卒業したらどうなるんだろ」

「急に何?」

 茉白が聞き返す。

「いや、なんとなく」

 緋莉は机の脚を軽く蹴った。

「大学とか就職とか、みんなバラバラになるじゃん?」

「まだ二年生だよ」

 栞奈が言う。

「でも一年なんてすぐじゃん」

「一年以上あるけど」

「栞奈、細かい」

「普通のこと言っただけなのに……」

 緋莉はスマホを持ち上げた。

「絶対連絡減るよね。グループもそのうち誰も喋らなくなって」

「緋莉が一番送りそう」

 栞奈がぽつりと言った。

「送るよ?」

「毎日?」

「毎日」

「迷惑」

「栞奈!?」

 珍しい栞奈の冗談に、茉白が吹き出した。

「大丈夫だよ。緋莉なら朝から『おはよー!』ってスタンプ百個送ってくるから」

「百個は送らない!」

「五十個?」

「せいぜい十個」

「送るんだ」

 映美まで小さく笑った。

「映美は既読つけるだけで返してくれなさそう」

「返すよ」

「何て?」

「了解」

「業務連絡じゃん!」

 笑い声が、誰もいなくなった教室に響く。

 茉白は三人を見た。

 こんな時間が好きだった。

 何か特別なことをするわけでもない。

 ただ話して、笑って。

 くだらないことで言い合って。

 それだけでよかった。

「……でもさ」

 茉白はストローの先を見ながら言った。

「卒業しても、四人で会いたいな」

 三人が茉白を見る。

「もちろん」

 栞奈が最初に答えた。

「当たり前でしょ」

 緋莉も続く。

 その時。

「……じゃあ」

 映美がカメラを持ち上げた。

「卒業式の日も、ここで写真撮ろうよ」

「ここ?」

 緋莉が教室を見回した。

「うん」

 映美は窓際を指差す。

「今日と同じ場所で」

「まだ卒業まで一年以上あるけど?」

 栞奈が笑う。

「だから」

 映美は静かに答えた。

「今と卒業式で、二枚並べたら面白そう」

「あ、それいい!」

 茉白が立ち上がった。

「撮ろうよ!」

「今?」

「今!」

「急だなぁ」

 文句を言いながらも、緋莉も立ち上がる。

「栞奈も!」

「う、うん」

 映美は机の位置を少し動かし、カメラを置いた。

 何度か画面を確認する。

「茉白、もう少し右」

「ここ?」

「行きすぎ」

「注文多いなあ」

「緋莉は左」

「はーい、監督」

「栞奈、茉白の隣」

「うん」

「もっと近づいて」

「これくらい?」

「もっと」

 栞奈が茉白へ身体を寄せる。

「近いね」

「写真だからいいじゃん」

 茉白が栞奈の肩に自分の肩を当てる。

 栞奈が照れたように笑った。

「よし」

 映美がカメラを確認する。

「これでいける」

「映美は?」

「今から入る」

 タイマーを設定する。

 ボタンを押す直前、緋莉がふと思い出したように言った。

「卒業式も同じ写真かぁ」

「うん」

「その頃も四人だったらね」

 映美の指が、一瞬だけ止まった。

「……え?」

 栞奈が緋莉を見る。

「いやいや、冗談じゃん」

 緋莉が笑った。

「だって卒業までまだあるんだよ? 誰か彼氏できて付き合い悪くなってるかもしれないし」

「何それ」

 茉白が笑う。

「四人に決まってるじゃん」

「言い切った」

「だってそうでしょ?」

 茉白は栞奈を見る。

「うん」

 栞奈が微笑む。

 茉白は映美を見る。

「映美も」

 映美は三人を順番に見た。

 そして、ほんの少しだけ笑った。

「……そうだね」

「ほら!」

「はいはい、分かりました」

 緋莉が両手を上げる。

「じゃあ卒業式も四人で!」

「約束ね」

 茉白が言った。

「約束」

 栞奈が続く。

「絶対ね!」

 緋莉が笑う。

 最後に映美が、

「……うん」

 と頷いた。



 そしてタイマーのボタンを押した。

「十秒!」

 映美が走る。

「早く!」

「分かってる」

「映美、そこ!」

「茉白もっと詰めて!」

「ちょ、緋莉押さないで!」

「栞奈笑って!」

「笑ってるよ!」

 ランプが点滅する。

 三。

 二。

 一。

 その瞬間、緋莉が茉白の顔を見た。

「茉白、顔固っ!」

「え!?」

 カシャ。

 四人の笑い声と一緒に、シャッターが切れた。

     *

「ちょっと待って、最悪!」

 撮れた写真を確認した緋莉が叫ぶ。

「私めっちゃ笑ってる!」

「いいじゃん」

 茉白は画面を覗き込みながら笑った。

「栞奈もすごい笑ってる」

「緋莉ちゃんのせい」

「え、私?」

「最後に変なこと言うから」

「映美は?」

 四人で小さな画面を覗き込む。

 写真の中。

 夕日に染まった教室。

 肩を寄せる四人。

 誰一人、綺麗にポーズなんて取れていない。

 緋莉は大笑い。

 栞奈も珍しく歯を見せて笑っている。

 茉白は緋莉の方を向きかけている。

 映美も、そんな三人につられたように笑っていた。

「……いい写真」

 栞奈が言った。

「うん」

 茉白も頷く。

「私、これ好き」

「えー、撮り直さない?」

「これがいい」

 映美が言った。

 緋莉が映美を見る。

「珍しく強く言うじゃん」

「だって」

 映美はもう一度写真を見る。

「みんな笑ってるから」

 夕暮れの光が、カメラの画面に反射する。

 映美はその写真を、しばらく見つめていた。

     *

 その夜。

 映美の部屋には、時計の秒針が進む音だけが響いていた。

 机の上にはカメラと、何枚もの写真。

 花。

 空。

 水族館。

 夕暮れ。

 そして、三人の笑顔。

 映美は今日撮った集合写真をプリントしていた。

 出来上がった一枚を指先で持ち上げる。

 写真の中には四人がいる。

 茉白。

 栞奈。

 緋莉。

 そして、自分。

「……四人」

 映美が小さく呟いた。

 写真を裏返す。

 ペンを取った。

 少し考えてから文字を書く。

 ――卒業式の日も、四人で撮る。

 そこで一度、ペンを止める。

 緋莉の言葉を思い出した。

『その頃も四人だったらね』

 映美は写真の表を見る。

 楽しそうに笑う四人。

「大丈夫」

 誰に言うでもなく呟いた。

 そして裏側にもう一行書き足す。

 ――ずっと四人で。

 ペンを置いた。

 映美の口元に、小さな笑みが浮かんだ。

     *

 翌朝。

「おはよー!」

 教室へ入った瞬間、緋莉の声が飛んできた。

「朝から元気だね……」

 茉白が欠伸を噛み殺す。

「茉白が眠そうすぎるの」

「昨日ちょっと夜更かしして」

「何時?」

「一時」

「普通じゃん」

「普通じゃないよ」

 栞奈が横から言った。

「ほら、栞奈も言ってる」

「栞奈は十時に寝てそう」

「十一時」

「健康優良児」

 そんな三人のところへ、映美がやってくる。

「これ」

 小さな封筒を机に置いた。

「何?」

「昨日の」

 茉白が中を見る。

「あ!」

 三枚の集合写真が入っていた。

「もう印刷したの!?」

「うん」

「映美、仕事早っ」

 緋莉も一枚取る。

「でもやっぱ私笑いすぎじゃない?」

「いいじゃん」

 栞奈は嬉しそうに写真を見つめた。

「私、手帳に入れようかな」

「じゃあ私は――」

 茉白は透明なスマホケースを外す。

 その中に写真を挟んだ。

「ここ」

「いいじゃん!」

 緋莉も写真を鞄へしまう。

「卒業までなくさないようにしなきゃね」

 映美が緋莉を見る。

「なくさないでね」

「分かってるって」

「絶対」

「映美、心配性すぎ」

 緋莉は笑った。

 映美も小さく笑う。

「……そうかも」

 チャイムが鳴った。

「やば、席戻ろ!」

 四人がそれぞれの席へ散っていく。

 昨日までと何も変わらない朝。

 いつもと同じ教室。

 いつもと同じ四人。

     *

 昼休み。

 四人で廊下を歩いていると、向こうから男子生徒が二人やってきた。

「だから絶対そっちじゃないって」

「いや、俺こっちだと思うけど」

「賭ける?」

「何を?」

「コーヒー牛乳」

「安いな」

 そんな会話をしながら近づいてくる。

 一人は朝倉悠斗。

 そして、その隣を歩いている黒髪の男子。

 桐谷琉生。

 同じ学年、同じクラス。

 それだけ。

 茉白にとっては、名前と顔を知っている程度の男子だった。

 二人が四人の横を通り過ぎる。

 緋莉も気にしない。

 栞奈も何も言わない。

 茉白も振り返らない。

 映美だけが物音に気づいたように一瞬視線を向けたが、すぐ前へ戻した。

「でさ、今日どこで食べる?」

 緋莉が言う。

「いつものところでいいんじゃない?」

「賛成」

 四人はそのまま歩いていく。

 後ろを歩いていた琉生がプリントを一枚落としたことにも、茉白たちは気づかなかった。

 まだ、この時は。

 桐谷琉生はただのクラスメイトだった。

 誰かにとっての王子様でもない。

 誰かと奪い合うような人でもない。

 ただ、同じ学校にいる一人の男の子。

 それだけだった。

     *

「ねえ、帰り寄ってかない?」

 放課後。

 校門を出たところで緋莉が言った。

「どこ?」

 茉白が聞く。

「駅前。新しいクレープ屋できたらしい」

「行く!」

「茉白、甘いものなら即答だよね」

「緋莉もでしょ」

「栞奈は?」

「……行く」

「映美は?」

 返事がない。

 三人が振り返る。

 少し後ろで、映美が立ち止まっていた。

 カメラを手にしている。

 ファインダーの先には、夕日の中を歩く三人。

「映美ー!」

 茉白が呼ぶ。

「何してるの?」

「写真」

「また?」

「うん」

「置いてくよー!」

 茉白が大きく手を振る。

 栞奈も待っている。

 緋莉は、

「先にクレープ全部食べるよ!」

 と意味の分からない脅しをしている。

 映美はカメラを下ろした。

 三人を見る。

 夕日の中で待っている、大切な友達。

 ずっと。

 こんな毎日が続けばいい。

 何年経っても。

 何があっても。

 変わらないでいてほしい。

「映美!」

「……今行く」

 映美が走り出す。

「遅い!」

「ごめん」

「罰として映美一口ちょうだい」

「やだ」

「なんでよ!」

「自分の買えばいいじゃん」

「映美って意外とケチ!」

「緋莉が食いしん坊なだけでしょ」

「茉白まで!」

 四人の笑い声が夕暮れの道に溶けていく。

 足元には、四つの影。

 伸びて、重なって、また離れて。

 それでも四人は同じ方向へ歩いていた。

 この時の私たちは、本気で信じていた。

 卒業式の日にも、きっと同じ場所で写真を撮るのだと。

 写真の中の私たちと同じように、笑っていられるのだと。

 恋をしたって。

 喧嘩をしたって。

 何かが変わったって。

 最後には、また四人に戻れるのだと。

 だって――。

 4人なら、何があっても大丈夫だって。

 あの頃の私たちは、そう信じていた。