同時刻、瑞乃はいつもより早く起きて身支度を整えた。
阿佐ヶ谷家に直してもらった着物に袴を履いて、化粧を終える。
そして、いつもは櫛で解いてまっすぐに下ろしている髪を結ってあの日貰った銀線細工の花を模した簪を刺す。
清が家督を継いでからというもの、誕生日を迎えても、自分が生まれたことを喜ばれることなどなかった。
けれど、今日は――十八歳の誕生日は違う。
想い人と入籍をして、正式に夫婦になれるだなんて――きっと、これまでの人生でも、これから先の人生でも忘れられない、何よりの贈り物になる。
「これで、良し……いつ、行くか分からないけれど……早いに越したことはないはず……」
朗はもうじき帰って来る。
本当は、非番のはずだったが先陣隊の部下が鍛錬中に怪我を負ってしまい夜間勤務できなくなってしまった。
そこへ、朗が入ることになり、瑞乃にはとても申し訳なさそうにしていた。
(軍務だから仕方ないのに……朗さんは、とてもお優しい)
日程をずらすことも考え、瑞乃から申し出た。
けれど、朗は入籍日を変更するつもりはないと両断した。
朗は瑞乃の過去を調べる中で、日下家では誕生日すら特別な日として扱われてこなかったことを知っていたらしい。
だからこそ、今年だけは特別な日にしたい――そう言って、入籍日をずらすことを頑として認めなかった。
朗の思いに心が温かくなっていると、部屋の外から扉を三回ノックする音が聞こえた。
「瑞乃様。千鶴です……よろしいですか?」
「はい、どうぞ」
瑞乃が返事をすれば、千鶴が扉を開ける。
瑞乃が目に入ると、ぱぁっと表情を明るくさせた。
「まぁまぁ……! 可愛らしい……!」
両手で自身の顔を挟み、にこにこと柔らかい笑みを浮かべる千鶴の言葉に照れくさそうにしながらもぺこりと頭を下げた。
「あ……ありがとうございます」
「特に、その簪! 瑞乃様が髪を結われる姿は初めて見ましたが、とてもお似合いです」
「ありがとうございます。これは、朗さんから頂いた特別なもので……今日、初めて挿したんです」
そっと簪に触れ、朗の顔を思い浮かべながら話すと自然と笑みが零れる。
簪を貰ってから、木箱を開けて眺めることはあっても挿したことは、一度もなかった。
簪を挿すのは、今日という特別な日を初めてにしたかった。
「まぁ、坊ちゃんが……! とっても素敵です。ふふっ。坊ちゃんの奥方様が瑞乃様で、私はとっても嬉しいです」
「そ……そんな、私――」
なんかが。
そう続けそうになったけれど、自然と口を閉ざした。
その言葉を自分が言えば、自分を選んでくれた彼のことまでもを否定する気がしたからだ。
今日が入籍する日というのは、使用人達には伝えていた。
千鶴に報告したら、瞬く間に話が広まり屋敷中が、二人の門出を祝うような空気に包まれていた。
「……ありがとうございます」
「ただ、先程坊ちゃんから連絡がありまして……帰るのがまだ少し、先になってしまう、と」
「え……」
仕事だから仕方ないと割り切っているつもりでも、実際に帰りが遅いと分かれば、瑞乃の心はきゅっと締め付けられた。
「あぁっ! でも! 必ず帰ると仰っていましたから!」
瑞乃が視線を落とす姿を見ると、千鶴が慌てて言葉を続ける。
「そう……あっ」
納得しようとした時だったが、重要なことを思い出した。
抱擁をすれば、朗の異能は一日勤務をこなせるほど持続する。
しかし、夜間勤務は、日中勤務より拘束時間が長い。
そのため、夜間勤務の時は日中勤務よりも長い時間抱擁をする。
(夜間勤務の時間が延びるなんて初めて……もし、朗さんの身に何かあれば……)
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
「あの、朗さんって帝都軍からご連絡を……?」
「えぇ、そうですね」
「あ……あのっ。帰って来るのは分かっているのですけれど……私、帝都軍へ行って来てもよろしいですか……?」
「えぇ。坊ちゃんの迎えに行く車がもうじき来ますから、瑞乃様もご一緒にどうぞ。瑞乃様がお迎えに行けば、坊ちゃんもとても喜ばれます」
千鶴は、瑞乃がただ朗を迎えに行くのだと思ったらしく、名案だと言わんばかりに頷いた。
しかし、心中穏やかではない瑞乃は上手く笑えなかった。
(どうか――朗さんに何もありませんように……)
襟元をぎゅっと握り、祈ることしかできない。
「では、車が見えたらまたお部屋に参ります」
「い、いえ……外で待ってます」
少しでも早く朗の元へ行くためにそう伝えると、千鶴は「かしこまりました」とだけ告げて部屋を後にした。
瑞乃も千鶴に続いて部屋を出ると玄関で靴を履き、外へ出た。
敷地の外へ出て左右を見渡すが、車の姿はない。
不安からたまらず、拳をぎゅっと握り視線を地面に落とす。
(もし、何かあれば……いえ、朗さんに何かあるわけ……でも……)
彼の技量は、帝都軍で隊長を任されるほどなのだから、言うまでもない。
異能を自由に使える時は『帝都の歴代最強の異能使い』と言われていた。
しかし、彼なら大丈夫と思おうとすればするほど、それでも、大丈夫だと思おうとするほど最悪の想像が頭をよぎり、不安が心を覆い尽くしそうになる。
そのたびに首を横に振って、自分に言い聞かせていると瑞乃の視界が人影で暗くなる。
「え……っ!?」
運転手だろうか。
エンジン音は聞こえなかったけれど、考え込んでしまうとつい周囲の音が聞こえなくなってしまう。
顔を上げると、そこにいたのは――。
「瑞乃……探したぞ」
「おじい……様……?」
寝たきりだったはずの和正が、両の足でしっかりと立っている。
随分と久しぶりな祖父の立ち姿に瑞乃は息を呑む。
「おじい様……! 目を覚まされたのですね……!」
十三年ぶりに見る祖父の立ち姿は、記憶の中とまるで変わらない。
不安に押し潰されそうだった瑞乃にとって、祖父の姿は突然現れた安堵そのものだった。
笑みが綻び久しぶりの再会に涙が零れそうになった。
「あぁ。この日のために、呪術で眠っていただけ。案ずることはない」
和正が笑みを浮かべると、大きな手のひらで瑞乃の頭を撫でた。
幼い頃、この手が大好きでたまらなかった。
嬉しくて、口元が緩む。
「瑞乃は大きくなったな」
「十三年ぶり、ですから」
「それに、弓乃によく似ている」
「お母様に……」
化粧をして、鏡に映る自分の姿が母に似ている気がして、嬉しかった。
そして、それを他者の目から見てもそうだと言われると瑞乃の胸は嬉しさでいっぱいになった。
「瑞乃。誕生日、おめでとう。お前ももう十八になるのか」
「はい。あの、おじい様。私、今日――」
入籍するのです。
そう、言葉を続けようとしたが和正は貼り付けたような笑みを浮かべた。
「家督を継ぐのに問題のない年齢だ。さぁ、瑞乃――日下家へ帰ろう」
「……えっ?」
祖父の唐突な言葉に、瑞乃は頭を強く殴られたような衝撃が走った。
そして、日下家には清、椿、香鈴がいる。
それを考えただけで、瑞乃の体はカタカタと小刻みに揺れた。
「あ……あの、おじい様……家督は、お父様が……」
「あの男を言うでない!」
初めて聞く瑞乃に向けられた和正の怒号に、肩が大きく震える。
祖父から光が放出されると、近くにあった木にバチッと飛んでいき、一瞬で木っ端微塵に砕ける。
「え……」
目の前で起きたことに、瑞乃は先ほどとは別種の恐怖を覚えた。
(おじい様の異能……初めて見た、けれど……)
瑞乃はごくりと生唾を飲み込んだ。
「儂のいない隙に勝手に家督を継いだ余所者だ。あんな者は当主でもなんでもない。お前が、お前こそが当主だ」
「でも、私……」
「積もる話もあるだろう。それは、帰ってからゆっくりと聞こう」
「えっ……ひゃっ」
和正が瑞乃に手のひらを向けると、眩い光が現れた。
小さな粒子が瑞乃の体に纏わりつく。
それらは次第に瑞乃の体全体を覆い、ふわりと宙に浮いたかと思えば、次の瞬間には一気に急降下するような感覚に襲われる。
そして、瑞乃と和正は天海家の門の前から姿を消した。
***
自分の身に何が起こったのか分からず、ぎゅっと固く目を閉ざす。
「瑞乃」
「おじい……様……?」
パチパチと音が聞こえ、何だか焦げ臭いにおいが鼻を刺激する。
和正の声が聞こえ、恐る恐る目を開く。
目を閉じていたことで暗闇だった視界に、眩い光が差し込みもう一度目を閉じそうになる。
ゆっくりと時間をかけて目を開ければ、そこは――今にも崩れそうな日下家だった。
本邸は形を残しているものの、清の書斎、椿と香鈴の部屋は無残に崩壊している。
香鈴が試験前によく入り浸っていた稽古場や椿の私物を保管している蔵には、今もなお轟々と炎が巻き上がっている。
「っ……た、大変……! おじい様っ……火事です……!」
「案ずるな。それらは儂と瑞乃には不要な物。無くても困りなどしない」
まるで、火事など何事でもないかのように言ってのける祖父に、戸惑いを隠せない。
しかし、日下家に入るのは勇気がいる。
一歩踏み出すのも怖くてたまらない。
きっと、敷居を跨げば椿や香鈴に何か言われる。
恐怖でたまらず、胸の前でぎゅっと手を握っていると玄関の引き戸を開けた祖父が振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「大丈夫だ、瑞乃。この中にはもう――儂と昔からいる使用人しかいない」
「えっ……?」
瑞乃の心を見透かしたように言う祖父のどこか穏やかではない声に、瑞乃の喉がきゅっと締まる。
「お帰りなさいませ。当主様、瑞乃様」
和正が開けた玄関の引き戸の奥から使用人達が笑みを浮かべて二人を出迎える。
使用人達も、今起きていることが何でもないかのように振舞う。
「えっ……み、みなさん……あの……」
「どうしたのですか? 瑞乃様」
「外……火事……お部屋も……」
上手く声が出ない。
そんな瑞乃を、使用人たちは不思議なものを見るように見つめた。
「安心なさってください。瑞乃様」
「え……?」
「私達にとっても、瑞乃様にとっても必要でないものを排除してくださったのですよ。さすがは、私達が長年仕えてきたご当主様」
どう考えても異常なことを、使用人は恍惚とした表情で祖父を見つめながら口にした。
しかし、これ以上言及すれば祖父にどうされてしまうか分からない。
瑞乃は心臓をバクバクと脈打たせながらも、悟られないよう視線を地面に向けた。
「さぁ、瑞乃。入りなさい」
「……はい」
従うしかない。
自分がどうなってしまうか分からない。
呼吸が浅くなりながら、和正の後ろをついて歩く。
「儂の部屋へ行こう。お前が家督を継ぐために、色々と準備をしなければならない」
「あ、あの……おじい様」
「――何だ?」
玄関に上がり、恐怖がありながらも口を開く。
(言わないと……言わなくちゃ。私は、入籍をする。天海家の嫁になるんだって――)
そう思い、祖父をじっと見つめるが祖父からは絶対零度のように冷たい視線を向けられて逸らしてしまった。
「わ……私……入籍、するんです。天海家の……朗さん、と」
ようやく喉から搾り出た声は震えていて、虫の鳴くような小さな声だった。
「あぁ。だが、まだ籍は入れていないのだろう――儂が救ってやったから」
「えっ……?」
さも自分が正しいことをしたと信じて疑わない口ぶりに、瑞乃は目を丸くする。
「忌々しい……自分の落ち度で異能を失くしたのに、瑞乃に頼ろうとは。情けなくて仕方ない」
「っ! そんなことはございません……!」
初めて出た大きな声に、思わず口元を押さえた。
(こんなことを言ったら、おじい様がなんと仰るか……!)
声に出してから、恐怖に苛まれる。
けれど、後悔はなかった。
朗は、部下を守りたいという願いで異能を使えるようにするために瑞乃に役目を与えてくれた。
そんな彼は、情けなくなんかない。
何も知らない和正に否定されるのが、自分の事のように悔しかった。
「……天海家への嫁入りは、あの戯けた男が金の為に仕組んだことではないというのか?」
目を覚ましたばかりのはずの祖父は、これまでのことも全て知っているような口ぶりだ。
「ち……違います。わ、私は……自分の意志で、朗さんの正式な妻に……今日、入籍をするのです」
欲しくてたまらなかった――彼の隣にいてもいいという確かな理由が。
それをようやく手に入れられそうなのに、こんなところで壊れてほしくない――壊したくない。
その一心で呼吸が乱れながらも、必死に伝えた。
「……そうか」
「っ、おじい様」
和正の声に、納得してもらえた。
そう思い、安堵から祖父の方を見た。
すると、祖父は手のひらを瑞乃に向けた。
「では、お前が我が日下家の当主としての道ではなく、入籍した場合の――天海朗の末路を見せてやろう」
「え――っ!」
祖父の瞳が妖しく紫に光り、手のひらからは眩い大きな光が放出されて瑞乃の視界を奪う。
「っ……」
しばらくすると、光は収まりゆっくりと目を開ける。
なぜか、日下家の庭にいる。
「どういうこと……? これって――」
辺りを見渡す。
すると、本邸の玄関の近くに朗の姿がある。
「朗さん……!」
そう声をかければ、彼はいつもと変わらない笑みを浮かべる。
なんてことのない、いつもと似たような光景。
彼の元に駆けようと一歩踏み出せば――どこからか降って来た光が、朗の体を木っ端微塵に砕けさせる。
「えっ……」
「瑞乃」
今度は、後方から声を掛けられる。
そちらを振り返れば、紺色の着物を着ている朗が立っている。
彼は、深い色の着物がよく似合う。
今度こそ――そう思い駆け寄ろうとするが、今度は彼の体に棒状の光が突き刺さる。
「がはっ……」
「えっ……」
苦悶の表情を浮かべ、吐血する朗に絶句する。
「瑞乃」
「瑞乃」
「瑞乃」
何度も朗が色々な方向から名前を呼ぶ。
けれど、瑞乃が近づこうとした瞬間――朗は無残な傷を負う。
どれも致命傷となり、朗が命を落とす光景ばかりだった。
手を伸ばせば届きそうなのに、その手が届く前に全部、全部、全部――消えてしまう。
「なんで……どうして……」
呼吸のリズムが乱れ、訳が分からず自分の手のひらをじっと見つめる。
触れていないのに、生暖かい血が手のひらに湧いてくる。
「嫌っ……嫌っ!」
手から顔を逸らし、膝から崩れ落ちる。
『我々、帝都軍は国民を守るために命を落とすことはいとわない』
『異能を使えずとも、真っ先に飛び出て命を落として少しでも敵の力を削れ』
『私は明日には死ぬかもしれない』
これまで、仮定だと思っていた朗の言葉が現実になったようで立っていられなくなる。
(嫌……嫌だっ……朗さんが死ぬ未来なんて、絶対に……嫌っ)
頭を抱えてその場に蹲れば、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえる。
「瑞乃」
「おじい……様……?」
祖父の声だ。
辺りを見渡し、祖父の姿を探すけれどどこにも見えない。
「儂は今も昔も、お前が一番大事だ。その大事な孫娘を奪われれば、儂は天海朗を殺す」
「そんなっ……!」
「お前は、天海朗に死んでほしくないのだろう?」
「っ……当たり前、ですっ」
朗と、そして彼の仲間を守るため――そのために、瑞乃がそばにいる。
「お前が当主となり、天海家へ行かないのであれば――奴を生かす算段を教えてやろう」
「朗さん……を……」
瑞乃の心は傾いていた。
彼と入籍できれば、それは瑞乃にとって何よりの幸せだった。
しかし、そんな――自分だけが幸せになる未来を選べば、朗が命を落としてしまう。
そうなるくらいなら、朗が生きていて、どれだけ遠くても構わない。
生きている姿を、笑っている姿を、仲間に頼られている姿を、そして嫌だけれど――誰か他の人を愛して、幸せになるそんな未来があるのなら、それでいい。
同じ空の下にいると分かれば、それだけで――彼がいなくなるくらいなら。
そう思った瞬間、また眩い光に包まれる。
「っ……」
次に目を覚ました瞬間。
そこは、見慣れた天井――祖父の部屋の天井だった。
部屋の中央で横になっており、すぐ隣に和正がいるのが分かれば、上体を起こした。
「瑞乃……随分とうなされていたな」
「おじい様っ……朗さんが死なない方法って……?」
開口一番に祖父に尋ねれば、彼の手には瑞乃の頭に挿していた銀線細工の花を模した簪が握られていた。
それを大きく振りかぶると、和正は自身の腕へ勢いよく突き刺した。
「え……?」
驚いた声を上げる瑞乃だが、祖父は一瞬表情を強張らせたがそれを引き抜く。
腕からはドクドクと血が流れる。
簪には血液が付着しており、それに手をかざすと光の粒子が血液の部分を覆うように纏わりつく。
そして、血液と粒子はすっと簪の中へ入り込んで姿を消す。
「これで……異能を封じる呪術をかけることができた」
「えっ……?」
「お前が、これを天海朗の体のどこでも良い。刺せば、奴はお前の加護があろうと異能が二度と使えなくなる」
和正の言葉に、目を丸くする。
「奴が異能を使えなくなったのは、他の呪術の影響だろう。一つの体に二つの呪術……さすがに、加護でもそれはどうにもできまい」
「でも……それって……」
朗が言っていた『キミがそばにいれば、私はもう誰も死なせない』という言葉を――瑞乃の居場所ができるきっかけとなる言葉を打ち消すことになってしまう。
瑞乃はなかなか、首を縦に振ることができなかった。
「お前はどちらを選ぶ。お前が一瞬だけ幸せになる未来か、それとも奴を生かすか――儂はお前さえいれば他はどうでも良い。奴に呪術をかけるなら、儂の手で奴を殺すという手段はとらない」
「わ、私は……」
和正の異能の強さを目の当たりにして、瑞乃の答えはもう決まっていた。
「日下家の――当主になります」
「そうだ。それでこそ我が孫娘だ」
和正が笑みを浮かべて大きく首を縦に振る。
そして、玄関の方から引き戸を叩きながら声が聞こえた。
「帝都軍先陣隊だ。日下家に話がある」
「――っ」
何度も聞いてきた声が、仕事上の凛々しく威厳のある声音となって聞こえてくる。
瑞乃の判断は鈍りそうになった。
「瑞乃……分かっているな?」
簪を手渡されれば、それをもう一度頭に挿す。
「――はい」
(私はこれから、朗さんを傷つける――あなたを守るためとはいえ、怪我を負わせます……申し訳ありません。)
伝えてしまえば、朗は自分より瑞乃を優先してしまう。
だから――心の中でそっと呟いて玄関の方へ足を向けた。
***
午前六時五十五分。
(あと五分……か)
帝都軍部隊隊長書斎室。
ここは、各部隊の隊長達が事務作業をするために割り当てられた大きな書斎。
朗の席からは、顔を上げれば壁に掛けられた時計で時刻を確認できる。
顔を書物へ戻そうとした時、正面の席に座っていた伊月が口角を上げた。
「天海隊長。もうすぐ帰るからって、集中力切れてない?」
日勤の伊月が夜間勤務の隊士と交代をする前に引き継ぎ作業をする名目で早めに出勤しており、先程からチラチラと時計を見ている姿を見て揶揄う。
「そんなことはない」
ギロリと睨むが、彼の言っていることは、少なからず的を射ている。
普段なら、このようなことはあり得ない。
小さな変化も見逃さないあたり、さすがは幹部候補の中でも頭一つ抜けていると言われる伊月だ。
「帰ったら可愛い奥さんがいて嬉しいのは分かるけど、今は軍務に就いてるんだから自覚しなよ」
「私は定刻通りに帰るために、作業の分配を考えていたところだ。それに、彼女は妻ではなく婚約者だ」
今日入籍する予定だが、なんて付け加えれば余計なことを言われそうなので口を閉ざす。
「あと五分なのに?」
伊月はニマニマと笑みを浮かべていて、朗は露骨に嫌な顔をして舌打ちをする。
「まぁまぁ。僕ら同期なんだし、仲良くしようよ」
誰のせいだ――そんな思いを込めて睨みつけ、再び書物に視線を落とした時だった。
「隊長っ!」
部隊隊長書斎室のドアを荒々しく何度もノックする隊士の声。
隊長たちの返事を待つより先に勢いよくドアを開けると、伊月の視線が険しくなった。
「まだ、入室の許可を出していないけれど?」
「も、申し訳ありません……! ですが、異能一族の暴動に関する連絡があり、一刻も早くお伝えしようと……!」
「何だと?」
伊月の睨みに、たどたどしくなる隊士。
彼の言葉に、朗の表情が険しくなった。
異能一族による暴動となれば、危険度の高い現場へ真っ先に投入されるのは先陣隊だ。
「今わかっている詳細を言え」
「はいっ。場所は、異能一族、日下家。敷地内から煙が上がっており、爆発音が何度か聞こえたと通達がありました」
「日下家、だと?」
朗の顔が険しくなる。
日下家と聞いて、真っ先に頭に浮かんだのは瑞乃だった。
(まさか、日下家の奴らが瑞乃を攫って何かしたのか……? いや、日下家程度の異能者が侵入できないよう、毎日結界は強化しているが……)
朗が顎に手を添えて考え込む。
「天海隊長、もう退勤時間。僕もいるし、今日は千手副隊長もいる。だから――」
「いえ。私が行きます。ただ、家に一報だけ連絡します。すぐ、終わりますから」
不穏なことばかりが頭に浮かんでしまう。
一刻も早く瑞乃の無事を確かめるため、室内の電話へ手を伸ばした。
『はい。天海でございます』
「その声は……千鶴か?」
『坊ちゃん。いかがなさったのですか。お電話だなんて、珍しい』
電話をかければ、出た千鶴に口早に用件を伝えた。
「瑞乃はどこにいる」
『瑞乃様なら、お部屋で出かけるご用意をされていらっしゃいますけど。ほら、今日はご入籍の日ですから。ふふっ、可愛らしいですよね~』
「千鶴。今日は少し帰りが遅くなると伝えてくれ。私は――」
日下家へ行く。
そう言いかけたが、口をつぐんだ。
もし、言ってしまえば瑞乃は自分のせいで何かあったのかもしれないと勘違いしてしまう。
そう思い、「んんっ」と咳ばらいをした。
「今日は少し、帰りが遅くなると伝えてくれ。ただ、必ず帰る――そう、伝えてくれ」
『はい。かしこまりました』
「よろしく頼む」
会話を終えると、受話器を置いた。
壁に立てかけていた刀を腰に佩くと、先陣隊の召集先へと向かった。
***
先陣隊を引き連れ、日下家へ向かった。
日下家へ到着すると、屋敷を隠すように立っている高い塀の向こうから、もくもくと黒煙が空へ立ち昇っているのが見えた。
「火事か……!?」
朗の言葉で、先陣隊の足が速くなる。
敷地内へ入れば、本邸は形を保っているものの、何か所かは叩き潰されたように崩れている。
そして、二つの建物からは轟々と炎が巻き上がる。
「な……なんだこれ……」
「た、隊長……! 火の対処から、ですか……!? そ、それとも……」
幾多の戦場を越えてきた隊士達でも、これほどに無残な現場を異能一族の家の中で見ることは珍しい。
朗に指示を仰ごうと、隊士達からざわざわと声が上がる。
「これは……ただの暴動ではない――お前たちは、井戸の水を借りて消火にかかれ。そして、お前たちは辺りの瓦礫に巻き込まれた者がいないか確認だ」
朗はぼそりと呟いて、隊士達に指示をした。
「そして、千手。お前は……私と共に正面から訪ねるぞ」
「かしこまりました」
敷地の中にある建物には轟々と炎が上がっている。
そして、本邸の横に見える何か所かの部屋はまるで、玩具を壊すように簡単に潰されている。
しかし、それ以外に目立った損壊はない。
これだけ綺麗に保たれている建物の中には、誰かがいる。
そう察したのだ。
(しかし、これほどの破壊ができる異能者が、今の日下家にいるとは思えない――まさか、寝たきりの先代当主が目を覚ました……いや、自分の領地を壊すなどありえないか)
朗の中には、様々な思考がぐるぐると巡る。
朗と宅磨は玄関の前まで行き、戸を三回叩いた。
「帝都軍先陣隊だ。日下家に話がある」
半壊している敷地内に、この惨状の中でも、朗はあくまで人家を訪ねる手順を崩さなかった。
しかし、反応はない。
「どうします。蹴破りますか。叩き切りますか」
数秒で、宅磨が目を細めて戸の奥を警戒しながら尋ねる。
「いや。待て――誰か近づいている」
気配を殺した静かな足音。
警戒すべきはずなのに、なぜか朗の張り詰めた神経だけが、わずかに緩みかけた。
(かなり慣れている者……? いや、だが……)
気配の消し方が異様に上手く、朗の判断が鈍りそうになる。
どこか、知っているような――そんな思いを持ちながら、朗と宅磨は刀の鍔に親指をかけていつでも刀を抜ける臨戦態勢へと入った。
「は……?」
「……あなたは」
しかし、鋭く張り詰めていた神経は、引き戸が開いた瞬間にほどけた。
そこに立っていたのは――瑞乃だった。
朗と宅磨は鍔に駆けていた指を下ろした。
「瑞乃……! なぜここに。まさか、拐かされたのか?」
朗の視線がギロリと鋭くなる。
瑞乃の背後にいるであろう、まだ姿の見えない黒幕へ向けた。
「そこは危ない。早く、こちらへ――」
そう言って、瑞乃に手を伸ばす。
しかし、瑞乃は小さく首を横に振って一歩退いた。
朗が伸ばした手を拒むように。
このようなことは初めてで、眉をひそめながら「瑞乃」と名を呼び顔を見る。
けれど、そこにはいつものように恥ずかしがる様子も、嬉しそうにする様子もなかった。
感情なんてなくなってしまったように、無表情。
明らかに様子がおかしい。
それでも、目の前にいるのが瑞乃だからこそ、朗の警戒は完全には保てなかった。
「ほら、瑞乃」
そう言ってもう一度手を伸ばす。
けれど、やはり手を取ることはない。
じっと朗を見つめるその目に、光はなかった。
「私は、日下家の当主になる者です。お話なら、私が聞きます」
「……は?」
自分と約束したはずの未来を打ち消そうとする瑞乃の言葉に、朗は腑抜けた声しか出なかった。

