死を待つ軍人と、無能と蔑まれた加護令嬢


朗との抱擁をきっかけに、分かったことがある。
手を繋げば、繋いでいた時間に応じてしばらく異能が使えるということ。
そして、抱擁を一定時間行えば、一日勤務をしていても問題なく異能を使えるようになるということ。
そのため、あの日から一か月経った今――朗と瑞乃が一定時間抱擁をするというのは毎日の二人の約束となっていた。

「窮屈ではないか?」
「ふふっ。朗さんはいつもそう聞いてくださいますね。大丈夫ですよ」

背後からぎゅっと抱きしめられる。
抱きしめてすぐ、朗がそう尋ねるが瑞乃はいつも小さく首を横に振る。
彼は、やはり優しい。
腕から力強さは感じられるものの、その強さは無理に抱きしめるわけではない。
瑞乃が退こうとすれば、簡単に解けてしまいそうなくらい緩い。
けれど、彼も自分と同じくらい緊張していると分かってからは、この腕のぬくもりも、彼のそばにいられることも、とても心地良く感じるようになった。
当初より、緊張から会話ができなくなるということはなくなった。

「そういえば――瑞乃は、欲しい物とかないのか?」
「欲しい物……ですか?」

唐突に尋ねられるが、瑞乃はすぐに首を左右に振る。

「遠慮しなくて良い。瑞乃の時間をこのように奪っている。生活に不自由していることでも構わない」
「そんなことはございません。朗さんにも、みなさんにもとても良くして頂いて……私が感謝してもしきれないほどです」

そう伝えると、彼の力がグッと強くなる。
顔だけ後ろに向けると、彼はどこか考えているような表情をしていた。

「朗さん……?」
「明日、街へ出かけないか?」

彼の方を見たまま、声をかければ突飛な提案に目を丸くする。

「街……ですか?」
「あぁ。もう瑞乃が我が家へ来てから一か月以上経つというのに、一度も二人で出かけていないと思ってな」

朗の言葉にこくりと頷いた。
瑞乃が天海家へやって来て、あと二週間もすれば二か月が経つ。
しかし、朗が不定期な勤務体制ということや、瑞乃にとってどこかへ出かけたいと申し出るのは彼の負担になるのではないかと不安に思っており、言えたことがない。
さらに、手持ちの金も少ないため有事に備えて自分のために遣うこともなかった。

「どこか贔屓の店はないか?」
「いえ……私、あまり街へは行ったことがなくて」

朗からすれば、瑞乃の嗜好を知るために尋ねたが瑞乃は視線を落とした。
日下家にいた頃は、街へ出かけたこともある。
しかし、瑞乃が街へ出るのは椿や香鈴の買い物の荷物持ちとしてだ。
自分でどこかの店に入ったことも、買い物をしたこともない。
朗との日々で、日下家の記憶は薄れていたが今のように何かの拍子で思い出すことがあり、そのたびに瑞乃の心を蝕む。

「そうか。だが、それなら知らないことを知れる良い機会だ。恐らく、千鶴が雑誌を持っているだろうから、後でいくつか借りれば良い」
「はい」

けれど、朗は決してその闇を刺激しない。
むしろ、どのような話でも瑞乃の心の闇を解くように優しく告げる。

「――では、私はそろそろ行ってくる」

腕を解くと、朗が立ち上がる。
その後ろをついて、瑞乃も玄関まで見送った。

「いってらっしゃいませ」
「あぁ」

これほど心地よい時間が、この先もずっと――淡い期待は胸の中で日々大きくなっていた。

***

翌日。
朝食を食べ終えると、瑞乃は部屋で身支度を整えた。
阿佐ヶ谷家で貰った着物に着替え、化粧を終えて、髪を整える。
(そういえば、最近……鏡を見るの、嫌ではなくなったかも……)
化粧を覚えたばかりの頃は、鏡に映る自分のみすぼらしい姿が嫌でたまらなかった。
朗との抱擁は、不規則な軍務の時間に合わせて行っている。
化粧を落とした後の素顔を見られることもあった。
背中から抱き締められるとはいえ、一瞬でも朗に素顔を見られるのが嫌でたまらなかった。
けれど、ある日――。

「どうした。体調が悪いか?」
「えっ……」

彼に顔を見られたくなくて、長い髪をなるべく顔にかかるようにして視線を落としていた。
彼との会話よりも、顔を見られないようにすることばかりに気を取られていると、異変だと思ったのか、そう尋ねられた。

「い……いえ」
「そうか。無理はさせたくない。体調が優れないなら、すぐに言うんだ。何事も、初手の出方で結果が変わる」

化粧をしなくても彼の顔立ちは、とても端正で華やか。
そんな彼に、瑞乃が抱えているような思いはきっと卑屈に思われてしまう。
そう思って言い出すことができなかった。

「……やはり、おかしい。どうした」
「い……いえ、その……朗さんには、大したことではないと思うのですけれど……」
「それは瑞乃が決めることではない。なんだ、言ってみろ」

ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。
瑞乃からの言葉を求めるようで、瑞乃は恥ずかしい気持ちでいっぱいになりながらも口を開いた。

「その……入浴した後なので、化粧をしていなくて……えっと……」
「顔か? 顔がなんだという?」
「ひゃっ……」

話が読めないようで、眉間に皺を寄せ片手で瑞乃の顎を捉えてクイッと朗の方を向かせる。
端麗な顔と間近で見つめ合うと、朗への緊張に加え、彼と自分の顔を比べてしまい、恥ずかしくてたまらなくなる。

「……少し幼い、か?」

じっと瑞乃の顔を見つめて、朗の中で何か納得したように息を吐きながら呟く。

「へ……?」
「――失礼。違ったか。それなら……」

瑞乃が何を思っているのかと、まじまじと見つめて探ろうとする彼。
(朗さんは……『見るな』とか『忌々しい』とか……そういうこと、思わないの……?)
きっと、彼からはそんな言葉は出てこない。
そう思うと「ふふっ」と小さく笑みが零れた。

「どうした?」
「いえ。何でもありません。大丈夫です」
「そうか。体調が悪いわけではないのなら、良かった」

顔の造形が整っているかと問われても、瑞乃には自分が優れているとは到底思えない。
けれど、彼がそのことに触れないのなら。
気にしているのが、自分だけなら。
そう思うと、悩んでいたことも何だか小さく思えた。

***

(あの時は、すごく恥ずかしくてドキドキした――けれど)
自分の顔に、否定的な気持ちがそこまで出なくなったのは、あの日からというのは分かっていた。

「今日は混んでいるな……」
「わ……すごい……」

車に揺られてやって来た街は、人がごった返している。
人混みにも驚く瑞乃だが、街並みにも目を輝かせる。
帝都中心部にある街は、常に人で栄えている。
老舗の呉服店からハイカラな喫茶店まで、多種多様な店が軒を連ねている。
特に今日は、異能者たちによる露店が並び、多くの観光客で賑わっている。
異能者の多くは、軍に貢献する力が多いけれど、経済の発展に尽力している異能者も多い。

「瑞乃」
「へ……わっ」

栄えている街は、賑やかで見ているだけでも楽しい。
つい目を輝かせていると、朗に声をかけられてそっと手を握られた。
(今日は……勤務される日ではないのに……)
非番とはいえ、有事に巻き込まれないとは限らない。
けれど、勤務以外で触れられるというのは朗に出会った日以外で久しぶりのことなので、短く声を出してしまった。

「これほど人がいるからな。はぐれては困る」
「そう……ですね。ご迷惑をおかけしないようにします」

やはり、手を握るのには目的がある。
少し前なら、期待してしまった自分が恥ずかしかった。
けれど今は――何か理由があったとしても、触れられることが嬉しい。
彼の異能のためにそばにいるはずなのに、そんな不純な気持ちを密かに抱いていた。

「そういえば、行きたい店の目処はついたか?」
「千鶴さんから雑誌をお借りしたのですけれど……素敵な場所が多くて……その」

千鶴が持っている雑誌を読むと、瑞乃の心をくすぐるものばかりだった。
見たことのないハイカラな呉服店や喫茶店や雑貨屋に始まり、格式高そうな呉服店、花畑、帝都の街並みを一望できる夜景。
どこも朗と共に訪れることを想像してしまい、一つに絞り切れなかった。

「そうか。まぁ、街へ来るのも何も今日だけではない」

手を握りながら、歩みを進める中で何気なく話す朗。
(それって……これからも一緒に来られるってこと……?)
朗は、何も意識していないかもしれない。
それでも――未来がある話に、瑞乃の胸はときめいた。

「では、今日は私が贔屓にしている店を回ってみないか? 向かう途中で気になる店があれば、そこへ行こう」
「はい。分かりました」

そう答えると、朗が先に立ち、人混みの中を進んでいく。
朗が向かったのは、『たかやま屋』と墨書きされた大きな看板を屋根に掲げた、老舗の呉服店。

「ここは、天海家がずっと世話になっている呉服店だ。祝言の時に着る白無垢の管理もここがしている」
「へ……へぇ……」

突然、祝言の話が出てくると、瑞乃は耳まで赤くした。

「……何を赤くなっている」
「い、いえ……!」

すぐ隣で話す朗に指摘されれば、さらに耳まで赤くなる。
恥ずかしくて、俯き小さく首を横に振った。

「祝言の話をしたからか?」
「っ……!」

核心を突かれれば、ドキッと胸が高鳴る。

「いらっしゃいませ。天海様」

それ以上の言及を遮るように、たかやま屋の女店主が出てくると朗に深く頭を下げた。

「あぁ。頼んでいた物を受け取りに来た」
「はい。それでは――奥でご確認いただけますか? 瑞乃様、よろしければ店内をご覧くださいませ」
「は……はい」

朗が端的に告げると、女店主がちらり、と瑞乃を見て朗だけを店の奥へと案内した。
(どう……したんだろう……?)
二人の意図が読めず、少し心にわだかまりを抱えたまま一人で店内を見始めた。
ゆったりと間隔を空けて、上質な布地の着物がいくつも並んでいる。
足袋や下駄、そして髪飾りなどの小物も並んでいる。

「わ……綺麗……」

髪飾りを見ていると、つい声が漏れる。
上質な素材に繊細な装飾が施された髪飾り。
ふと自分が付けていることを想像して、長い髪を耳に掛けた。
(でも……このお店にあるような髪飾りなんて、とても……)
瑞乃の手持ちでは、とても手の届かない品だ。
そう思うと、きゅっと胸が締め付けられた。

「瑞乃」
「わっ……!」

髪飾りに見入っていると、突然、朗が瑞乃の背丈に合わせて腰を屈め、声をかけてきた。
瑞乃の肩がピクリと跳ね上がる。

「すまない。何度か声はかけたのだが、随分と見入っていたんだな」
「も……申し訳ありませんっ……」

朗の声にも気づかないほど見入ってしまい、慌てて頭を下げた。

「いや、それほどかしこまることではない……それ、欲しいのか?」

深く頭を下げる瑞乃に、朗が困り顔で言うと声が聞こえなくなるほどに集中していた代物をちらりと見る。
そこには、若い女性が好みそうな髪飾りがあり朗はくすりと小さく笑みを零した。

「えっ……い、いえっ。そんな……!」

慌てて顔を上げて、首を横に振る。
すると、朗の後ろにいた女店主が眉を下げて声を発した。

「そうですか……瑞乃様のお気には召しませんでしたか……」
「い、いえっ。そういうことではなくて……! その、とても素敵で、可愛らしいお品物ですっ」

商品を管理している女店主に慌てて伝えると、その隣でくすりと小さな笑い声が聞こえた。

「そうか。ならそれを貰おう。包んでくれるか?」
「はい。かしこまりました」

朗がそう伝えると、女店主は髪飾りを店の奥へと持って行った。

「お待たせいたしました」
「あぁ」

女店主から品物を受け取れば、朗が会計を済ませた。
女店主に店先まで見送られ、少し歩いたところで、朗は梱包された髪飾りを瑞乃に手渡した。

「……申し訳ありません」
「どこに謝る要素がある?」
「私が、卑しく商品を見ていたから……朗さんに買っていただくことになってしまって……」

髪飾りを買ってもらえたことはもちろん嬉しい。
店の中で、朗の声が聞こえないくらい見入っていた物が手に入ったのだから。
しかし、それ以上に彼にお金を使わせたことが申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
けれど朗は、そんな瑞乃の言葉を否定するように目を細め、優しい笑みを浮かべた。

「良かったではないか。欲しいものが見つかって」
「朗さん……」

彼の言葉に、目を少し見開いてきゅっと胸が締め付けられた。

「少し早いが、昼にするか。今日は特別混んでいるから時間をずらした方が良いだろう」
「……はい」

自然と手を繋ぎ、二人は人ごみの中へ溶け込んでいった。

***

その後、昼は定食屋へ入った。
街を散策し、ハイカラな雑貨屋や花畑へ向かった。
そして、甘味処ではぜんざいを頬張り、とても充実した一日となり日は傾き、辺りはオレンジ色に染まっていた。

「今日は、とても楽しかったです……楽しいと、あっという間に時間が過ぎてしまいます」

夕日を見つめ、寂しい気持ちになりながらそう呟くと朗は頷いた。

「そうだな……最後に、少し寄りたい場所がある。そこへ行けば……呼んである車が来るまでにちょうど良いだろう」
「はい」

朗の手をぎゅっと握り、彼が前を歩きその後ろを歩く。
人の流れと違う方向へ進む足取りに目的地が分からないままついて行った。
そこは、小高い丘で朗は時折瑞乃の足元を振り返って気にしながら登っていった。
そして、登り切った先の景色に瑞乃は目を輝かせた。

「わ……綺麗……」

思わず声を漏らす。
そこに広がっていたのは、夕日に照らされて煌めく帝都の街並み。
絶景に、瑞乃の口元が自然と緩んだ。

「私も、実物を見るのは初めてだがとても綺麗だな」

朗も景色を見つめながら、静かに頷いた。

「朗さんはすごいですね。色々なことをご存じで」
「それほどのことでもない。瑞乃も、この先知っていけることばかりだ」
「私も……ですか?」

朗は、多くのことを知っていて、毎日行う抱擁の時に話す会話にはいつも楽しませてもらっている。
そんな彼と同じように、自分もこれから多くのことを知っていけるのだろうか。
瑞乃は不思議そうに小首を傾げた。

「あぁ。これから先、何度でも街へ来ればいい」
「何度でも……」

瑞乃に加護が宿されている限り、彼のそばにはずっといられる。
そんな有限の未来を匂わされているようで、考えると笑みが綻んだ。

「知らない場所があるなら、一緒に行けばいい」
「ふふっ。どうしたのですか? 今日はなんだか――」

いつもと違う気がする。
そう続けようと、彼の顔を見た時。
初めて見るくらい、彼の表情は強張っていた。

「朗さん……?」
「瑞乃。これを」

そう言うと、朗は手のひらよりも少し大きい細長い木箱を瑞乃に差し出した。

「これは……?」
「開けてみてくれ」

彼が言うように、木箱を開けるとそこには銀線細工の花を模した形の簪が入っていた。

「綺麗……」
「本当は、来週の瑞乃の誕生日に贈ろうと思ったのだが、それでは急になると思って」
「え……私の誕生日、ご存じだったのですか……?」
「もちろん。瑞乃に出会ってから、キミのことは調べさせてもらった」

阿佐ヶ谷家での会話を思い出し、ハッとする瑞乃。
(でも、誕生日の贈り物を当日に渡して急になるって……?)
朗の言葉に小首を傾げると、朗が「んんっ」と咳払いをする。

「来週で、瑞乃は十八になる」
「はい……」

贈り物まで用意して誕生日を祝ってもらうのは、随分と久しぶりで、瑞乃自身すっかり忘れていた。
彼に頷けば、少し視線を逸らす。

「以前、私はキミに契約上の妻になってほしいと頼んだ」
「……はい」
「だが――今は、少し考えが変わった」

朗の言葉に、瑞乃の心を覆っていた闇が少しずつ晴れていくような気がした。
これまでの日下家のことも、朗からの『加護のために』受けていた行動も――もしかして。
淡い期待が生まれた。
(それって……もしかして)
瑞乃の中で期待が膨らみ、目を大きく見開く。

「瑞乃は、簪を贈る意味……知っているだろうか?」
「えっ……そ、それは……」

男性から女性へ簪を贈ることには、『求婚』の意味があると広く知られている。
それは瑞乃も知っている。
けれど、もし――これが勘違いだとすれば。
初めて抱擁をした時のようなことになってしまったら。
その時はもう、恥ずかしさで立ち直れる気がしない。
そう思うと、瑞乃は頬を赤らめて唇をきゅっと噛みしめて視線を地面に落とした。

「――いや、このような聞き方は卑怯だな」
「え……?」
「私は、キミと籍を入れて本当の夫婦になりたい」

それは、瑞乃が最も求めていた言葉だった。
思わずぽろり――一筋の涙が頬を伝った。

「瑞乃……キミが嫌なら、今までの関係のままで構わない」

瑞乃の涙に、朗が目を見開く。
眉を下げて言う彼に、瑞乃は首を左右に振った。

「ち……違うんですっ……これはその……嫌、とかではなくて」
「そうか、良かった。理由をうまく説明できる自信はない。ただ……今日のような時間を、これから先もキミと過ごしたいと思っている」
「朗さん……」

この気持ちの名前は分からない。
けれど――。

「私は明日には死ぬかもしれない」
「そんな……!」
「キミに想い人ができる未来が、明日には来るかもしれない」
「そんなこと……」

首を小さく横に振る。
朗は目を細めて表情を和らげて言葉を続けた。

「それでも、キミの隣の座を正式に得たい。キミが私以外の隣で過ごす姿を――考えたくもない」
「はいっ――私も、朗さんの妻になりたいです」

ずっと欲しかった言葉だった。
朗の隣にいても良いのだと、そう思える確かな理由が欲しかった。
そして二人は、来週に控えた瑞乃の十八歳の誕生日に籍を入れることを決めた。

***

一週間後。
午前六時四十八分。

「なによこれっ! こんなの不味くて飲めないわ!」

朝食を食べながら出された茶を一口飲むと、香鈴の眉がぴくりと動き、露骨に顔をしかめた。
感情のまま、湯呑みを畳に叩きつけた。

「も……申し訳ありません……」

三つ指ついて深く頭を下げている使用人のすぐ隣で湯呑みが割れ、淹れたばかりの熱い茶の染みがじわじわと広がっていく。

「いつものを出しなさいよ! これ……雑巾のしぼり汁でも入れたんじゃないでしょうね!?」
「そ……そのようなことはございません……!」

びくびくと怯えた様子で答える使用人。
瑞乃が天海家へ行ってから、椿や香鈴の悪態は毎日色々な使用人へ当てられるようになった。
使用人たちは怯え、萎縮していた。
退職を申し出る者も少なくない。
残った使用人たちは、少ない人数で以前と同じ仕事の質を求められ、精神的にも追い詰められていた。
日が経つごとに、日下家の経済状況は悪くなっていった。

「よしなさい、香鈴」

怯える使用人を前に、視線を新聞に向けたまま言葉でだけ牽制する清。

「でも、お父様……! こんなの飲めないわっ」
「たしかに……不味いわね。いつもの茶はどうしたのよ」

椿も一口含むと、渋い表情を浮かべた。
使用人は言いにくそうに口をつむぐと、清に助けを求めるように視線を送った。
清は、なぜ日下家がこのようになっているのか現状が分かっているのだ。

「生活の水準を下げなければならないほどの財力になった――それだけの話だ」
「はぁ?」

清が何事もないように言った。
けれど、その事実に椿は一瞬で表情を豹変させる。

「どうしてそんなことになるのよっ! あなた、昔言ったじゃない! 日下家にいれば、生活には困らないって! あの言葉は嘘だったというの!?」
「うるさいっ!」

怒号の混じった金切り声を上げる椿に、清がドン!とちゃぶ台を拳で叩いた。
清は日頃、感情を表に出すことがない。
見た目は華やかで煌びやかな椿だが、感情の起伏が激しいため日々の生活の中で清は感情を出さないようになった。
夫婦でありながら、椿とは極力関わらず、家の中では存在感を消すことに徹していた。
そんな清が声を荒げたことで、椿と香鈴はビクッと肩を上げて言葉を詰まらせた。

「お前達も節制しろ。毎月のように新しい服だの化粧品だの……まったく、無駄遣いばかりしよって」
「なっ……! 無駄遣いなんかじゃないわ!」
「そうよっ! アタシはお友達とのお茶会で、今までに着て行った着物なんて恥ずかしくて着れないわ! お土産だって持って行かないと、なんて言われるか……!」

椿と香鈴が清に食ってかかるが、清の表情は険しいまま。

「お前らは……分からないのか」

瑞乃がいなくなってから二か月近くが経とうとして、ようやく気付いたのだ。
日下家にとっての瑞乃の重要さを。

「な……何を……!?」

将来を約束された異能の持ち主と言われていた香鈴の異能の力は、凡人未満の実力。
自分が特別だと疑わずに育ってきた香鈴に、清の言葉の意味が分かるはずもない。

「そうよっ。ちゃんと言ってくれなきゃわからないわ!」

そんな香鈴と共に瑞乃を虐げていた椿も、分かっていない。
もしかしたら、分かっているのかもしれないが忌々しい女の娘が自分たちより価値ある存在だったと、プライドが邪魔をして認められないのかもしれない。
あの日――瑞乃が異能を使えない人間の異能を復活させたこと。
そして、近くにいる異能者の能力を膨大にさせたこと。
それらのことから、清はようやく瑞乃が『加護を宿している』可能性に気付いたのだ。
(あの老いぼれが言っていたのは……加護のことだったのか……!)
清はギリッと奥歯を噛みしめた。
和正が、『瑞乃は特別』『大切に扱え』と口を酸っぱくして言い、耳に胼胝ができるほど聞いた。
失ってからようやく、言葉の意図が分かったのだ。

「……これでは、落ちぶれたと言われても仕方あるまい」

ボソリと呟けば、椿と香鈴は眉をひそめる。
瑞乃がいなくなったことで軍から要請されていた仕事を清が元からある異能だけでは処理できないということを実感していた。
あの日――軍に呼ばれた日だ。
そこでたまたま、先陣軍の鍛錬場にいた瑞乃に会い、香鈴が挑発をした。
それがきっかけではなく、日下家として力が落ちたため――伊月に軍から応援要請が来なくなると宣言された後、総司令官から正式に要請の打ち切りが通達された。
日下家の財力はこれまで、国からの支援で成り立っていたといっても過言ではない。
その金がなくなってしまい、今は、歴代の当主が築いてきた資産を切り崩して、どうにか生活を維持している。

「と……当主、様っ……!?」

座敷で話をしていると、使用人達が声を上げている。
何事だ、と小さく息を吐きながら清が使用人の声がする廊下へ出る。
何かあって呼ばれた――そう思っていたのだ。

「なっ……!」

しかし、廊下からした声の先に目を向けると、清はぎょっとした。

「ミズ……ノ……ミズノ……ハ……ドコニ……イル……」

十三年間、寝たきりだった和正が体中に光を纏い、おぼつかない足取りで廊下を歩いている。
天海家へ身を預けられたことを知らない和正が彷徨っているようで、清の足が震える。
生きているとは分かっていた。
それでも、十三年間ほぼ植物状態だった和正が歩く姿に、清は亡霊でも見たような恐怖を覚えた。

「良かった……目を覚まされて」
「瑞乃様は……嫁ぎに出られたのです……あの者達の一存で」

しかし、使用人達は亡霊のような和正に嬉しそうにすがる。
寝たきりだった彼の世話も、使用人たちは皆、我先にと引き受けていた。
それほど、和正は人々から慕われてきた。
勝手に当主の座を奪い、横暴な態度を繰り返す妻と娘を持つ男よりも、和正の味方をするのは至極全うだろう。
使用人の一人が、和正に告げると、清を指さす。

「なっ……!」
「キサマ……ユミノ、ダケデナク……ミズノマデ……!」

怒りでワナワナと震え、眩い光が全身を包み込むと、その光が天井を貫き、簡単に屋根にまで大きな穴を開ける。
清が一歩退く。
(これが……歴代最強クラスと呼ばれていた日下家当主の……力……!)
圧倒的な力の復活を前に、清は動けなくなる。
最強の力を持つ和正は、日下家の希望――瑞乃を手放す気は毛頭ない。