死を待つ軍人と、無能と蔑まれた加護令嬢


『家に着いたら、キミを抱いても良いだろうか』

その言葉が、頭の中を何度もぐるぐると巡る。
天海家に着いてすぐ、朗から部屋へ招かれたけれど――。

「よ……夜まで待っていただけませんか……!?」

帰って来たばかりの頃は、まだ日が明るかった。
そんなうちから、応じられるわけがなかった。
(いや……暗かったら良いというわけではないけれど……それに、結婚前にそんな……! いや、もしかしたら、朗さんは本当に私との将来を考えて……!?)
これまでにない展開に、『朗との関係は、加護で彼の部下を守るためのもの』と何度も言い聞かせてきた気持ちが揺らいでしまう。
夕食と入浴を終え、緊張したまま朗の部屋へと向かった。
三回ドアをノックして、小さく深呼吸をしてごくりと生唾を飲み込んだ。

「あ、あの……瑞乃、です」
「あぁ。どうぞ」

朗の返事があれば、ドアノブを回す。
中に入れば、藍色の着物姿の朗が書物に落としていた視線を上げ、瑞乃を見た。
ドアを閉めると、朗と視線が合い気まずさと恥ずかしさから視線を逸らしてしまう。

「立ち話もあれだ。そこに掛けてくれ」
「は……はい」

部屋の中央にソファーを指さしながら言うと、瑞乃はそこに座った。
触り心地が良く、瑞乃の体を沈める。
瑞乃が座ると、間に一人座れそうな距離を開けて朗も腰掛けた。

「――瑞乃」
「は、はいっ……」

しばし、無言の気まずい時間が流れていた。
沈黙を朗が破ると、一人分空いていたスペースに朗が距離を詰めてくる。
一気に緊張感が高まり、顔に熱が集まるのが分かる。
朗の顔が見れず、自分の膝元をじっと見つめて、着物をきゅっと握った。

「大丈夫か? 随分緊張……しているようだが?」

そう優しく声をかけ、瑞乃の手をそっと握る。
(緊張、するに決まってる……! だって私、これから……)
朗への気持ちが、好意へと傾いていることは自覚している。
だから、期待してしまう。
けれど、経験のない未知の進展に不安を抱かないわけではない。
何か至らない点があれば、嫌われてしまうのではないか。
役立たずと思われたり、言われてしまうのではないか。
そして、今日までの関係が夢物語で終わってしまうのではないか。
胸の内を埋め尽くす不安はたくさんあった。
それでも――。

「だ、大丈夫、ですっ……私っ……覚悟、決めてきましたからっ」
「覚悟……なるほど。それほど私への協力を考えてくれるのはありがたいが、あまり気負わないでくれ。そうだな……顔は見ない方が緊張は和らぐのではないか?」
「か、顔を見ない……?」

顎に手を添えて、至極真面目に言う朗に瑞乃の顔は真っ赤になった。
(顔を見ずに……って!? ど、どういう……!?)
瑞乃の知らない世界に、頭の中が真っ白になる。

「あぁ。瑞乃、あちらを向いてくれ」
「へ……?」

分からぬまま、朗が指さす方向を見た。
そちらには、本棚があり著者名ごとに分けられており、さらに書名の五十音順に並んでいる。
朗の几帳面さをそのまま表しているような本棚だ。
(わ……あの本、難しそう……)
朗から視線が外れたことで、緊張が少し和らいだ瞬間。
朗の腕が瑞乃に回り込み、後ろからぎゅっと優しく抱擁された。

「わっ……」
「窮屈だろうが、しばし耐えてくれ」
「は……はいっ……」

日々鍛錬を重ねる朗の腕には、瑞乃とは比べ物にならないほどの力強さがある。
そして、着物の袖から見える腕は筋肉質で手は大きく角ばっている。
そんな彼の腕が、瑞乃の体にそっと触れるだけの優しい力で包み込む。
(朗さん……すごく、気を……使ってくださってる……?)
初めて背後から抱擁された瑞乃にも、彼の優しさは十分に伝わった。
想像できないことに緊張し、怖く思っていた気持ちが和らぐと改めて覚悟を決めた。
大丈夫――この人なら。
そう思っていたけれど、どれほど経とうとも抱き締められる以上のことはない。

「あの……朗さん」
「もう少しこのままでいてくれ。接触時間と異能の持続時間に関係があるのか確かめたい」

朗の言葉に、瑞乃の瞬きが増える。
そして、少ししてからボウッと一気に顔が赤くなり体中が熱くなる。
(抱きたい……抱きたいって、抱きしめたい――!?)
盛大な勘違いに、瑞乃の体がワナワナと震えた。

「すまない。窮屈、か……?」

かなり加減している力だが、瑞乃の体が小刻みに震えればそっと背後から尋ねる。

「そ……そういう意味……」

勘違いのことで頭がいっぱいになっている瑞乃には、朗の言葉は届かない。
一人で恥ずかしさを誤魔化そうとぼそりと呟く。
朗には届かなかったようで、聞き直そうとグッと抱きしめる力が少し強くなって瑞乃に顔を近づける。

「ん? 何がだ?」

よく聞こえるようにするために近付けたため、瑞乃の耳に息が吹きかかると体がビクンッと跳ね上がった。

「ひゃっ……」

いつもより高い声が出て、声が震えると咄嗟に朗の手が離れる。

「す、すまない。大丈夫、か?」

息が吹きかかった耳に手を当てる瑞乃に、朗はぎょっとする。
まさか、このような反応をするとは思わなかったのだ。

「だ、大丈夫、ですっ……」

しかし、そう答える瑞乃の頬は紅潮し、目元もうっすらと潤んでいる。
入浴後に部屋へやって来たため、瑞乃からはほんのり石鹸の香りがする。
そんな瑞乃に、艶めかしさを感じると朗は視線を逸らして口元を押さえた。

「あっ……あのっ。私、至らなかった……ですよね」

結婚前ではあるけれど勝手に初夜だと思い込み、頭の中はいかがわしい想像でいっぱいになっていた。
抱きしめられることに集中していなかった。
そんな気持ちをきっと見透かしている。
その思いから断定的に言うが、朗は不思議そうにした。

「何がだ?」
「その……お、お叱りを受けるのは重々承知、なのですけれど……」
「どうした。言ってくれ」

瑞乃は顔を真っ赤にして、気まずそうに視線を逸らす。
けれど朗は、そんな瑞乃から一瞬たりとも目を逸らさず、真剣な表情を浮かべた。
かりそめとはいえ、夫婦に見られる上、同じ屋敷で暮らしている。
そんな瑞乃に何かあるなら聞いておきたいと思ったのだ。

「……その……『抱く』というのは……もっと、別の意味だと……それで、その……あまり、集中できていなくて……」
「別の意味……あっ」

両手で顔を覆いながら告白する瑞乃に、最初は眉をひそめていた朗。
しかし、自身のこれまでの発言からハッとすれば目を丸くした。

「すまない。私が妙な言い方をしたから、誤解させてしまったな」
「い、いえっ……私が、その……いかがわしいことを考えてしまってっ……私なんかに、そんなこと……思うわけ――」

恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。
恥ずかしくて、たまらない。
この前まで、みすぼらしい格好でロクに化粧の仕方を知らず、髪だってボサボサで艶もなかった。
それが、天海家に来て、朗に親切にしてもらって、使用人から丁重に扱われるようになったからって。
自分が、まるで別人になったかのように思うなんて、図々しくてたまらない。
勘違いした自分が傲慢で、消えてしまいたくなった。
しかし、そんな瑞乃の手を覆っていた両手首を朗が掴めば優しく左右に解いた。

「それほど自分のことを卑下するものではない」

朗の顔は、とても優しく目を細めていた。
まるで、愛おしいものを見ているのではないか――そう錯覚してしまいそうになるくらい。

「あ……朗、さ……わっ」

そんな彼の顔に、思わず見惚れていたら掴まれた両手を引っ張られ、彼の腕の中にすっぽりと収まった。

「それと、安心してほしいのだが」
「安心……?」
「あぁ。私は、婚前にそのようなことを……まして、私に時間をかけて協力してくれる瑞乃にそのようなことを自分の気持ちだけで、一方的に求めるつもりはない」
「そ……そう、ですよね」

朗は瑞乃の背中に回していた手をそっと頭へ移し、優しく撫でながら言った。
健全な関係であることを証明するためだが、その言葉に瑞乃は複雑だった。
(私だけ、よね……手を握ったり、抱きしめられて……朗さんをそういう風に考えてしまうのは……だって、私は彼の異能のための――)
自分の中で、諦める理由を見つけたような気がした。
彼と、どうにか関係が変わるわけがない。
そう思い、彼の力に任せて強張っていた体の力を抜くと彼の胸に耳が当たり、目を見開いた。

ドク、ドク、ドク――。
瑞乃と同じ――それ以上に、早い心音が聞こえた。

「……何をしている」

心音をもっとちゃんと確かめるために、彼の鎖骨辺りに手を添えて胸に耳を押し当てていると頭上から声が聞こえた。
確実に、平静な時とは違う。
運動をした後や――緊張している時のような心音。
けれど、その声は平然としている。
見上げた先にある顔も、何を考えているのか悟れない無表情に近いものだった。

「も、申し訳ありません……その、朗さんの心音がなんだか……私のと、同じ気がしたのですけれど……」

自分の心音が速すぎて、それが耳元にまで響いているだけなのではないか――そう思ってしまうほど、彼は冷静だった。
(私の心音、だったのよね。きっと……むしろ、抱きしめられている時にこんなことをされるなんて……嫌に決まってる)
そう思い、そっと彼の胸に耳を当てるのをやめようと離そうとした。

「わっ……」

けれど、彼の腕がそれを許さない。
ぎゅっと抱きしめる力が強くなると、身動きが取れない。

「あ……朗、さん……?」
「すまない。しばらくこうしてもらえると助かる」
「え……?」

動けないため、彼の胸に顔を埋めたまま尋ねると「んんっ」と咳ばらいをする朗。

「恐らく私は今――とてもだらしない顔をしている」

声はいつも通り、落ち着いている。
けれど、触れている彼の手も、体も、どこか熱を帯びているような気がした。

「……良かった」

くすりと小さく笑みを零す。
顔は分からないけれど、同じ気持ちであると確認できた気がした。

「何がだ?」
「手を繋ぐ時も、今のような時もずっと――緊張しているのは、私だけだと思っていましたから」

手を繋いだだけでも、緊張して頭の中が朗のことでいっぱいになる。
今のように抱き合えば、彼のぬくもりを感じて心拍が速くなる。
いくつ心臓があっても、足りない気がしていた。
けれど、こうして触れ合っていると、確かに繋がっているのだと実感できる。
許されるなら、この時間がもっと――ずっと続けば良い。
そう思っている。
恐る恐る彼の背中に腕を回して密着した瞬間。

「――すまない」
「へ……?」

肩を掴まれて、距離を保たれた。
さきほどまで『だらしない顔』をしていたであろう顔は、いつも通りすましていた。
(やっぱり……私となんて)
そう思い、視線を落として腕を下ろそうとした瞬間。

「私は鍛錬が足りないようだ。瑞乃の嫌がることをしてしまいそうになる」
「え、えっと……?」

朗は至って真面目な顔をしている。
瑞乃は視線を上げると、そんな顔をしている彼を何度も瞬きして見つめた。

「すまない。明日以降、また付き合ってもらえると助かる」
「わ、わかりました……」

結局、その言葉の意味を理解できないまま、瑞乃は朗の部屋を後にした。