死を待つ軍人と、無能と蔑まれた加護令嬢


鏡を見れば見るほど、自分が母とそっくりなことを再認識する。
(記憶の中のお母様にそっくり……私なんかが、お母様と並べるなんて図々しいとは思うのだけれど)
それでも、鏡から視線を外すことはできなかった。
すると、外からドアを三回ノックする音が聞こえた。

「はぁい? どうぞー?」

女中の一人がそう返事をすれば、入って来たのは朗だった。

「失礼する。瑞乃は――」

部屋に入るなり、視線を向けた先にいた瑞乃と目が合えば朗は少し目を見開いて息を吞んだ。
何も言わず、固まってしまった朗に恥ずかしくなってしまう。
(きっと……私なんかがこんな格好をして、呆れているんだわ……。天海様は、破れた着物の代わりになるものを私にあてがうようにおっしゃっていたのに……私ったら、自分の立場も理解せずに図々しく受けてしまったのだから……)
視線を床に向けていたら「ほらほらっ」と女中が嬉しそうに朗に瑞乃を見るように話す。

「瑞乃様、とっても美しいでしょう? やはり、元がよろしいお方を着飾るというのは、すごく楽しくて」
「あ、あぁ……よく似合っている」
「えっ……」

呆れたと思っていた彼から出た言葉に、思わず顔を上げた。
目が合えば、朗はふいと視線を逸らした。
ただ、その表情に浮かんでいるものが何なのかは分からない。
けれど――嫌悪ではなく、どこか温かなものを感じた。

「ここまでしてくれて、感謝している」
「いえいえ。それでは、瑞乃様。先ほどお預かりした着物は、お直しが終わり次第……えっと」

瑞乃の姓を知らない女中は、送り先に困ったようで言葉に詰まった。

「瑞乃の着物は、私が取りに参る」
「左様でございますか。それでは、お直しが終わり次第、ご連絡いたします」
「あぁ、頼む。それと、瑞乃。今日は帰った方が良い。これ、戻ってくる前に取って来た」

そう言うと、朗は医療隊の部屋に預けた香鈴の荷物を手渡した。

「あ……ありがとうございます。あっ、あの……これ、ありがとうございました。とても、助かりました」
「あぁ、気にすることはない」

瑞乃が借りていた軍服を返すと、朗はそれを受け取って袖を通した。
瑞乃のスカートのように長かった上着は、やはり朗が着るとぴったりと着こなせる。

「外は少し、物騒だ。車まで送ろう」
「えっ……で、でも……」

自分なんかに、軍人の手をわずらわせても良いのか。
それが気がかりになったが、朗は瑞乃が戸惑うことを疑問そうにしながらも、面倒そうには見えなかった。

「構わない。それに――日下家には少し、話したいことがある」
「っ……」

その表情は、決して穏やかではなかった。
瑞乃の頭に、先ほど朗が口にした『尋問』という言葉が再び浮かんだ。

女中達に頭を下げて、二人で本邸から出ると目の前に広がる光景に目を丸くした。
整えられていた中庭の芝生には、ボコボコと穴が開いていて帝都軍の隊士達が参加者の異能一族に話を聞いている。

「えっ……これ……」
「少し色々とあってな。日下家も、この中にいるだろう?」
「えっと……」

キョロキョロと見渡すけれど、日下家が見当たらない。

「あ……あの、軍人様」
「どうした?」
「参加されていた一族の方々は、皆さんこちらにいらっしゃるのですか……?」
「あぁ。話を聞かなければならないから、席を外している者などいないはずだが……?」

朗の言葉を聞いてサーっと血の気が引いた。
どこを見渡しても、いないのだ。
(置いて行かれた……?)

『でも、帰りは…そうねぇ。お姉様が気に入らなかったら途中で降ろしましょう?』
『あら、香鈴は優しいのね? 私なら、最初から乗せて帰らないわ」』

行きの車での会話を思い出してしまう。
まさか、本当に置いて行かれるとは思わなかった。

(どうしよう……帰り道なんて、分からないし……)

今の経緯を親切にしてくれている朗とはいえ、言い出せなかった。
置いていかれるような人間であると、知られてしまうのが恥ずかしかった。

「……まさか、帰ったのか?」
「っ……恐らく。申し訳ありません、私が……不甲斐ないから、だと思います」
「いや、置いて帰るなどありえないだろう――ここから日下家……相当な距離があるな」

朗が顎に手を添えて、ぼそりと呟く。
(きっと……私に呆れていらっしゃるわ……)
置いて行かれるようなどんくさい娘だと思われているに決まっている。
恥ずかしさに耐えるために着物をきゅっと握った。
視線を地面に落としていると、頭上から「千手」と朗が近くにいた隊士を呼んだ。

「はい」

呼ばれた隊士が駆け寄って来る。
視界を暗くするほど大きな人影に、瑞乃がそっと視線を上げる。
背丈は朗より少し低いけれど、それでも瑞乃よりも高く切れ長な目から見える瞳の鋭さに瑞乃は思わず視線を逸らした。

「悪いが、車を回すよう手配してくれ。私も持ち場を離れるから、指揮を頼みたい」
「かしこまりました」

二つ返事で応じた宅磨はその場を離れ、数分後に戻って来た。

「ちょうど表に空いている車があるそうです」
「分かった。それじゃあ、頼むぞ」
「はい」

そう言って、朗に敬礼する様子を見ると、やはり彼の軍における地位は高いのだと改めて実感した。
そして、阿佐ヶ谷家を出ると門のすぐそこに黒い車が停まっている。
それは、異能一族という多くの裕福な家の出の者でも思わず見入るほどの高級車。

「どうぞ」

そう声をかけると、朗が後部座席のドアを開けて瑞乃に乗るように促した。

「は、はい……」

運転手の後ろの席まで入ると、その隣に朗が乗り込んだ。

「え……?」

思わず声が出ると、朗は不思議そうな顔をしたまま口を開いた。

「私も行く。キミに聞きたいことがあるし、日下家とも話がしたいからな」
「あっ……そう、なのですか……?」

これから一時間もかかるというのに、送ってくれるのかと思ってしまった自分の図々しさに恥ずかしくなった。
朗が扉を閉めると「日下家まで頼む」と運転手に端的に伝えて車が動き出した。

「荷物、持とう」
「えっ……あ、ありがとうございます……」

瑞乃の膝の上に乗せていた荷物をひょいと軽々持ち上げると朗の膝上に乗せた。

「ただ、一つ頼みがあるのだが」
「頼み、ですか?」

そう返せば、朗はこくりと頷いて大きな右手を瑞乃にすっと差し出した。

「えっと……?」

突然差し出された手に小首を傾げ、朗を見ると真面目な顔をしている。

「日下家に着くまで、手を拝借できないだろうか?」
「手を、拝借……ですか?」

自分の手のひらをじっと見てぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「回りくどい言い方だったな。手を握らせてくれ」
「っ……!?」

手のひらから朗に視線を上げると、真面目な顔をしたまま告げる。
朗の言葉に、ぶわっと顔に熱が集まり、声にならない声が出てしまう。

「嫁入り前の娘にこのようなことを言うのは、無礼極まりないと思う。だから、責任は取るつもりだ」
「い、いえ……私なんかの手でそれほど……ですか……?」

これまでの日々で虐げられて来た瑞乃にとって、手を触れられることくらい、どうということはない――そう思っていた。
むしろ、瑞乃が近くにいるだけで椿や香鈴からの虐げの対象になってしまう。
逆に、近づきたい――それどころか、触りたいと言う朗は瑞乃にとって異質だった。
見つめている左の手のひらをそのまま差し出せば、大きな手がそっと優しく瑞乃の手を握った。

「っ……」
「すまない。力が入っていたか?」

男性と手を握るのは初めてで、何ともないと思っていたけれどドキッと胸が高鳴る。
大きく角ばった手で、瑞乃の手は難なく包み込まれる。
緊張から思わず声が漏れてしまえば、朗はパッと手を離して心配そうに瑞乃の顔を覗き込んだ。

「ち、違います……! 痛くは、ありません」
「そうか……まぁ、心地よくはないだろう。このような手だ」

瑞乃の反応に一人で納得したように呟けば、朗は自身の手のひらをじっと見つめる。
その手は、日々剣技を磨くことでその手には日々の鍛錬でできたマメや切り傷があり、まだ新しい痕も残っていた。

「あ、あの……軍人様こそ、痛くないのですか……?」
「あぁ、これは随分と前にできたものだ。鍛錬していれば自然とできるものだから心配されるほどではない。それと、私は、天海朗だ」

何度も『軍人様』と呼ばれていることから、瑞乃の方を見て名乗り出た。

「失礼いたしました。天海様」
「いや、名乗っていなかった私が悪いから気にしないでくれ」

そう言うと、再び視線を手のひらに戻した。

「あの……申し訳ありません」
「なぜ謝る?」
「その……天海様に良くして頂いたのに、きちんとお応えできなくて……でも、決して心地よくない、とかではなくて……その、私が不慣れだから、です。男性の手を、その……」

握ったことがないと申し出るのも、ドキドキしてしまった。

「そう、か。では、もう一度……頼めないか?」
「っ……は、はいっ……」

今度は朗が手を差し出すだけにする。
瑞乃のタイミングで、瑞乃が握りやすいようにするためだ。
緊張していたが、恐る恐る手を差し出して優しくぎゅっと握ってみた。

「……やはり、キミはすごいな」
「えっ……?」

手を握れば、ふっと小さく笑みを浮かべて柔らかい表情をする朗に、瑞乃は首を斜めにした。

「キミに尋問したいことがあると伝えたな。日下家に着くまで、受けてもらおう」
「っ……」

しかし、浮かべていた笑みとは対照的に穏やかではなさそうな物言いに、瑞乃の体が強張った。

「それほど緊張することはない」

手を握っていることで、瑞乃の微かな反応を朗には拾われてしまう。

「あ、あの……私は、何かしてしまったのでしょうか……?」
「え? あぁ、そういうことか」

一人で納得したようにククッと喉を鳴らして笑う朗に、瑞乃はますます訳が分からず、小首を傾げた。

「キミは、自分が何かをして私に尋問されると思っていたのか?」
「えっ……ち、違うのですか……?」
「違う。もし、キミが何かをしたというのであれば、拘束するしこれほど自由になどさせない」

瑞乃が見せる怯えた様子に、朗が納得したように笑った。

「それじゃあ、聞かせてもらおう。キミ、自分が『加護』を宿していることは自覚しているのか?」
「……かご?」

初めて聞く言葉に、瑞乃は目をまん丸にした。

「……やはり、知らないか。私も、生涯で加護を宿した者と会えるとは思っていなかった」
「あの、加護ってなんですか……?」
「瑞乃は、異能のことは知っているな?」

朗の問いに、こくりと頷く。
詳しいことは分からないけれど、存在自体は知っている。

「異能は人口の二割が持って生れるとされる特別な力。そして、加護は――この世に一人しかいない神から与えられると言われる……そうだな『お守り』のような存在だと思ってくれれば良い」

加護そのものが極めて稀な存在であり、いまだ解明されていないことも多い。
そのため、朗の話でも明確ではないところがあった。

「えっ……でも、私にそんな力……」

無能と呼ばれ、蔑まれてきた日々から自分が異能一族に生まれながら、自分には何の力もないと思い知らされてきた。
だから、朗の言葉を真に受けるのは難しかった。

「キミのことは少し、調べさせてもらった。歴史の長い異能一族である日下家でありながら、キミがないがしろに扱われているのは、先代が寝たきりになってからだろう」
「え……そこまでご存じ……なのですか……?」

母が亡くなり、祖父が寝たきりになってから瑞乃の立場というのは確実に変わってしまった。
そこまで知っている帝都軍の隊長クラス、もしくは帝都で三本の指に入る名家である天海の力――どちらか、あるいは両方で調べたという力にゾクッと背筋が凍った。

「しかし、異能を使えるのに瑞乃の力に気付かないとは……日下家の人間から、異能に関して何か言われたことはないのか?」
「いえ……何も……あっ」

朗に尋ねられると、一つ思い出したことがあり声が漏れた。

「あの、関係あるかはわかりませんが……よく私が見ていたら失敗するから見るな、近づくなというのは言われてきました」
「なるほど。瑞乃のおかげで力が増幅していることには気づいていないわけか」
「そう、なのですか……?」

朗にそう言われても、瑞乃にはまだ自分の力について分からないことばかりだった。

「あぁ。私が日下家に話したい事はもう決まっているのだが――瑞乃。仮定の話として聞いてもらえないか?」
「どうされたのですか?」
「もし、私とずっと暮らすことになればキミは――どう思う?」
「えっ……!?」

突然の言葉に、目を見開いた。

(ずっと暮らすって……そういうこと、よね……? あぁ、でも変な勘違いだったら……! でも、でも……!)

朗の顔を見れば、真面目な顔をしておりふざけている様子は全く見られない。
瑞乃には縁がないと思っていた『結婚』の二文字がちらつく。
瑞乃が婚姻できる年齢になるまでは、まだ少しだけ時間がある。
けれど、これは――そう思い口を開こうとした瞬間。

「お待たせ致しました」

運転手がそう声をかけると、日下家の正面まで到着していた。
行きはとても長く、窮屈に思っていた一時間が、朗と話しながら来るとあっという間に到着したのだ。

「えっ、あっ……えっと……」
「焦って答える必要はない――けれど、前向きに検討してもらえるとありがたい」
「わ……分かりましたっ。それでは、失礼しますっ」

瑞乃がドアを開けて外に出れば、ぺこりと頭を下げて駆け足で日下家の敷地の中へと入って行った。

「み……瑞乃様……!」

敷地の中に入れば、ちょうど使用人が外へ出て作業しており目を丸くした。

「帰ってこれたのですね……」

使用人の言葉で、瑞乃が阿佐ヶ谷家に置き去りにされたというのは知られているのだと分かった。

「え、えぇ。親切な方が――」
「あらぁ? お姉様じゃない」
「っ……」

帰って来た経緯を話そうとすれば、玄関のドアがガラッと開く。
使用人が誰かと話していることに気づき、香鈴が外の様子を伺いに来たのだ。
その顔には、ニタァと意地の悪い笑みが浮かんでいた。

「どうして帰って来たのぉ? ご迷惑でしょうけど、阿佐ヶ谷家で面倒見て貰えばよかったのにぃ」

置いて帰ったことに詫びるどころか、他所へ行けという発言に瑞乃の体は強張った。
先ほどまで、朗に親切にされていたからこそ、彼女の言葉は嫌というほど深く瑞乃の心をえぐった。

「その格好、どうしたの? お姉様のくせに、こんな上質なお着物なんて、お着物が可哀想じゃない」

阿佐ヶ谷家の女中達に綺麗にしてもらい、舞い上がった気持ちを一気に地に落としかねない香鈴の言葉にきゅっと唇を噛みしめた。
(やっぱり……私なんて……)
視線を地面に落とすが、香鈴の言葉は止まらない。

「ところで……アタシの荷物は?」
「えっ……あっ」

香鈴に言われると、ハッとした。
朗と手を繋ぐ時に、彼に渡したまま持って帰るのを忘れてしまったのだ。
今から取りに戻れば、間に合う。
そう思い、くるりと振り返り門の方を向いたが香鈴にグッと後ろ髪を掴まれる。

「いっ……!」
「ちょっと! どこへ行くのよ! アタシの荷物をどこかに忘れて来たの!?」
「も……申し訳っ――」

必死に謝ろうとしたところで、ガラッとまた玄関が開いた。

「香鈴。何を騒いでいるの?」
「お母様っ! お姉様ったらひどいのよ! アタシの荷物をどこかへ捨ててきたのっ!」

嘘を交えて大げさに言えば「……なんですって?」と低い声が聞こえ慌てて振り返った。
しかし、綺麗に着飾った瑞乃――弓乃にそっくりな姿を見ると、椿の顔から笑みが消え、目元が鋭く吊り上がった。

「っ! 忌々しい! このクソ女っ!」

声を張り上げれば、手にしていた扇子を大きく振りかぶって瑞乃の頬を力任せに叩いた。

「っ……」

ぎゅっと目を閉じて、咄嗟に歯を食いしばったものの体は倒れこんでしまった。

「あらあら……せっかくのお着物が」

心配しているような声音でありながら、その顔には笑みが貼りついている。

「似てる似てるとは思っていたけれど、これほどあのクソ女に……! 私は、あの女のせいで妊娠しても清さんと入籍できず、家から勘当されたのにっ! 死んだくせに、また現れるなんて!」

椿が声を張り上げてもう一度扇子を大きく振りかぶった。
(怖いっ……!)
ぎゅっともう一度目を閉じて身を丸めた。
しかし、襲ってくるはずの痛みに構えていたがその痛みはいつまでも襲ってくることはなかった。

「きゃあっ!」

椿の悲鳴が聞こえて戸惑いながらもゆっくりと目を開けた。
すると、椿は腕を大きく振りかぶったままだが、手には何も持っていない。
手にしていたはずの扇子は足元に落ちて、それは轟々と炎に包まれていた。

「えっ……?」

突然のことに声を漏らすと、瑞乃の前に人影が立ちはだかる。
視線を上げると、そこにいたのは瑞乃を庇うように立つ朗だった。

「瑞乃に何をする」

片手には瑞乃が忘れていた香鈴の荷物、そしてもう片方の手のひらからはバチバチと火花が散る。

「天海……様……?」
「瑞乃。忘れ物だ。それに、私も日下家に話したいことがあると言っただろう」
「あっ……」

車の中での会話に動転してしまい、さっさと一人でやって来てしまったことが恥ずかしくなった。
空いていた手から火花が消えると、そっと瑞乃に手を貸して立ち上がった。

「い……いくら軍人様とはいえ、家のことに口を出さないでいただけます!? あなた、関係ないでしょう!」
「関係ならある。私は――日下家へ縁談の話を申し込みに来た」

椿が怒号に近い声を感情的に上げるが、朗は対照的に、静かな声で言葉を返した。。
そして、『縁談』という言葉が出れば香鈴がキラキラと目を輝かせた。

「あらあら。そういうことでしたら、もっと早くにお話しくださればよかったのに。でも、結婚できる年齢ではないから少し待っていただかないといけないのですけれど」
「問題ない。待つことくらい、大したことない」

香鈴は、自分へ舞い込んだ縁談話と思い嬉々としている。
そんな香鈴の様子を見て、瑞乃の表情はだんだんと曇っていった。
(えっ……天海様は、香鈴に……? やっぱり、私なんか――)

「まぁあっ! お母様っ。中へ入っていただいて、お父様も呼んで早く話を進めましょうっ」
「いや、中へ入る必要はない。正式な順序を踏んで話を進めようと思っていたが――」

途中まで言うと、朗は瑞乃の肩を抱いてそっと自分の体に抱き寄せた。
体が傾き、彼の体にもたれかかると「わっ……」と声が漏れた。

「瑞乃の身に何が起こるか分からないから、このまま我が天海家で身柄を預からせてもらう」

落ち着いた声音でそう言うと、瑞乃は目を丸くして瞬きが増えた。

「えっ……?」

突然のことに、思わず朗の方をじっと見上げていると小さく微笑み耳にそっと顔が近づいてきた。

「――安心してくれ。一旦はキミの身の安全のために、天海家で暮らしてもらうだけだ。今すぐ婚姻について考える必要はない」

優しい声音で、そっと囁かれる。
耳に小さくかかる息に、ピクリと体が跳ね上がった。

「瑞乃。荷物をまとめてきてくれ」
「荷物は……あっ、でも……おじい様にご挨拶をしてきてもよろしいですか?」
「あぁ、もちろんだ。私は――」

瑞乃からそっと手を離せば、瑞乃は屋敷の中へ向かった。
そして、朗は玄関先の騒ぎに顔を出した清に目を向けた。

「ご当主と話を進めよう」
「何の騒ぎだ?」

覚悟を決めた朗と、何事かと状況の掴めない清の話を背中に瑞乃は祖父の部屋へ向かった。

「失礼いたします。おじい様」

部屋に入ると、寝たきりの祖父の枕元に正座をした。

「申し訳ありません。もう、日が暮れる時間になるというのに。ただ、おじい様とお話しできるのが、もしかしたら――最後になるかもしれなくて」

朗の口ぶりから、瑞乃のことを容易く日下家に戻すとは思えない。
多くは交わしていないけれど、瑞乃はそう察していた。
瑞乃がそう告げた瞬間――祖父の眉がぴくりと動いた。

「っ、おじい様……っ!?」

祖父にわずかな反応が見え、瑞乃は声を上げた。
しかし、どれだけ見つめていても動くということはない。

(見間違い……だったのかしら……?)

「私、おじい様から大切にして頂いたことをしっかりと覚えています。きちんとご挨拶ができなくて――申し訳ありません」

謝罪に始まり、謝罪で終わってしまう挨拶は、瑞乃のこれまでの生き様を現わしているようだ。
深く頭を下げれば、立ち上がって部屋から出た。
襖を閉める前、最後にもう一度深く頭を下げれば瑞乃は数少ない荷物をまとめるため、自室へ向かった。

「ミ……ズノ……オ、マエ……ハ……」

祖父がそっと呟いていた声は、襖を閉め切って歩き出した瑞乃の耳には届かない。

***

自室は、廊下の突き当りにある厠の隣にある。
そこは瑞乃の自室にあてがわれたが、元々は物置として使われていた。
そのため、今も埃っぽく扉を閉め切ってしまえば明かりなんてない。
衣食住は整っているからと、ロクに賃金を与えて貰えなかったことから瑞乃の私物はほとんど、弓乃が残した物。
ただ、それも夫の前妻の私物があるのは気に入らないと言われほとんどを椿に捨てられてしまった。
瑞乃が持っているのは、壊れかけの櫛と何度も繕ったことで寿命がとうに尽きている着物一着。
ただ、これらを失ってしまえば母との唯一の繋がりも薄れてしまう。
ぎゅっと大切に抱きしめてから、風呂敷にまとめて玄関へ向かった。

「えぇっ!? あの無能を引き取っていただくだけで結納金を……それほど!?」
「まぁまぁっ! すごいじゃないっ! これって相場の五倍、じゃない!」

まだ話が終わっていないようで、扉の陰からそっと外の様子を伺った。
表では、清と椿が前のめりになって朗の話を聞いていた。
ただ一人、香鈴だけはつまらなそうに口を尖らせていた。

「ちょっと! お父様っ、お母様っ! お姉様なんて外に出したら、日下家の恥になるんじゃないのっ!?」

阿佐ヶ谷家の集まりで起こった反国勢力との戦いで、朗の力に心を奪われた香鈴は心底面白くなかった。
朗が、縁談を申し込みたいと言ったのが、普段は無能で役立たずと言われている異母姉の瑞乃だからだ。
見た目だって、いつもなら物乞いのようにみすぼらしく、薄汚れている。
着物が破れたことで、恥をかいて帰ってくれば面白いと思っていた。
けれど、帰って来た瑞乃は上質な着物に身を包んでいて髪や顔も綺麗になっていた。
それは、普段から流行を取り入れた身なりをする香鈴だって負けそうなほど魅力的だった。
だから、とても面白くなかったのだ。

「それはそう、だが……」

香鈴の言葉に清の声が上擦る。
けれど、朗からの申し出は今の日下家にとって魅力的だった。
清が家督を受け継ぐまで、日下家の力は凄まじく、有事の際には軍の要請も受けるほど異能に優れており、国からの支援で裕福な暮らしをしていた。
しかし、清はそれほど異能に優れているわけではない。
そのため、国からの支援はかなり減ってしまったのだ。
香鈴が異能試験に合格すれば、待遇が改善する可能性はある。
だが、まだ異能試験を合格していないし、不合格の可能性もある。
清にとっては、金銭的な危機を回避する絶好の機会だった。

「良いじゃないっ、香鈴っ――それに」

椿が不貞腐れている香鈴にそっと耳打ちをする。
何かを言われた香鈴が、にやりと口角を上げれば先ほどまでとは一変した。

「たしかに……えぇっ。喜ばしいことですね」
「さっさと厄介払いしましょう。追い払うだけで、大金が貰えるのだから……あんなのでもようやく役に立ったのよ?」

クスクスと意地悪く笑う二人に、その言葉の一つ一つが、瑞乃の胸を深くえぐった。

(天海様の前で、そんな――こんなことを聞けば、彼だって、きっと……)

この話はなかったことに、なんて言われてしまう。
そう思い、彼の方を見た。
けれど、彼の表情は想像していたものではなかった。
朗は、笑っていなかった。
それどころか、先ほど反国勢力へ向けていた時よりも冷たい目で三人を見ていた。

「……なるほど。これが日下家の総意ということだな」
「えぇ、当然ですわ。あんな醜女にも価値を見出すだなんて――さすがは、帝都軍の隊長様で天海家ご当主」

椿はくすりと笑い、朗のことまで見下すように嫌味を口にした。
(そんな……! 私は、言われても仕方ない……けれど、天海様は……!)
椿の言葉に、考えるよりも先に体が前に出そうになった瞬間。

「おい、やめ――」

清も、さすがに朗に対する侮辱だと思い牽制しようとした瞬間。
ボウッ!と朗の体から轟々と炎が天まで届きそうな勢いで燃え上がった。

「本人を前にして、それほど失礼な発言ができるとは――日下家も随分と地に落ちたものだな」
「えっ……」

瑞乃の足は、一歩踏み出したところで止まってしまった。
けれど、十年以上染みついた恐怖が、それ以上足を前へ進ませてはくれなかった。
これまでいびられてきた環境を覆すということは、できなかった。
庇えなかった朗と目が合えば、彼の炎は勢いが落ち着いて瑞乃に優しく微笑んだ。

「挨拶は済んだか?」
「えっ……は、はい……」

先ほどまでの事が何もなかったかのように、平然とする彼に、瑞乃はぽかんとした。

「では、行こう。私もちょうど話が終わったところだ」

優しい表情で差し出されるその手は、止まってしまっていた足を一歩、また一歩前へと簡単に動き出す力を与えてくれるようだった。
朗のそばまで行けば、瑞乃の手を取りそっと優しく握った。
日下家から早く出ようと言わんばかりに、これ以上清達と会話を交わすことはなかった。

「なによ、あれ……」
「女の見る目がないだけよ。どうせ、あぁいう女が珍しくてたまたま手を出しただけでしょうけれど――そのうち、飽きて捨てるに決まってる。そうなれば、あの女はこの家しか戻ってくるところがないわ」
「ふふっ。その時は――どうして捨てられたのか、しっかりと話を聞いてあげなくっちゃっ」

この場に、瑞乃がこれから幸せになる未来を予想できた者は、誰一人としていなかった。

***

日下家を出ると、二人は阿佐ヶ谷家からここまで送ってくれた車に、そのまま乗り込んだ。
車内は車を走らせる機械音だけが小さく鳴っていた。

(ど、どうしよう……こういう時って、何かお話を……でも、天海様が私と会話したいと思っているとは思えないし……)

日下家という地獄から連れ出してもらえたものの、自分にそれほどの価値があるとは到底思えなかった。

「瑞乃」
「ひゃっ……は、はいっ」

話すかどうかで迷っていた相手から名を呼ばれると同時に手を握られれば、声が裏返ってしまった。

「失礼。だが、私の所へ来てくれるとなったからには慣れてもらいたいものだ」
「あっ……も、申し訳――」
「謝らなくて良い。緊張することでもない。私は、キミの力を借りるために手を繋いでいるだけだ」
「え……」

緊張していた矢先に、そう言われてしまうとどこか残念に思ってしまう自分がいた。
(いけないわ……私が変な事を考えていたら、天海様に気味悪がられてしまうだろうから……)
首を小さく左右に振って自分を律し、繋いだ手をなるべく意識しないようにした。
けれど、手から意識を逸らそうとすればするほど、かえって繋いだ手のことばかり気になってしまう。
(きっと、天海様は慣れていらっしゃる……これだけ素敵で、優しい方だもの。むしろ、私のように慣れていないわけがない……)
彼の過去など何も知らないけれど、考えが勝手に膨らんでいった。

「瑞乃に、これからのことを話したいと思う」

ぐるぐると頭の中に考えが巡っていると、朗が放った言葉に小首を傾げた。

「これから……ですか?」
「あぁ。婚姻についてはすぐに答えを出さなくて良いと伝えたが、他の者には『婚約者』と名乗った方が都合が良いだろう」
「こ……婚約者……!?」

自分には縁遠い言葉に、大げさに声を出してしまえばすぐに空いている手で口元を押さえた。

「あぁ。キミはまだ、十七歳で結婚できないだろう。あと数か月で迎える誕生日後からは入籍した、ということにすれば良い」
「そう、ですか……」

やはり、舞い上がっていたのは自分だけだったのだと改めて実感した。
たしかに、世間では政略結婚がまだまだ多い。
そのため、愛がなくても結婚するということはある。
けれど、愛を育み、お互いの意思で結婚する者たちも増えてきている。
瑞乃も街で楽しそうにしている若い恋人同士や夫婦を見て羨ましく思っていた。
自分には関係がなく、縁のない話だと思っていたから余計にだ。
今回の話で、もしかしたら自分も――そう、どこか期待してしまっていた。

「私の都合に合わせてもらうのは、大変申し訳ないとは思っている。若く、未来のあるキミの大切な時間を私に付き合わせるのだから」
「え……?」

いつも通りでいたつもりだったが、表情から瑞乃の異変を感じ取ったのか朗は重々しく口を開いて苦笑した。

「私が軍人ということは分かっているだろうが、所属する部隊が『先陣隊』とは――知らないだろう?」

先陣隊という言葉を聞いても、瑞乃はよく分からない様子だった。

「先陣隊は、異能が使えなくなった軍人が最後に配属となる部隊。異能を使えずとも、真っ先に飛び出て命を落として少しでも敵の力を削れ――そういう意図のある部隊だ」
「えっ……それって……」

帝都軍が征伐する対象は、国に仇なす反国勢力。
それは、異能者を指す。
異能を使える者と、異能を失った者が戦えば、結果は目に見えている。
自ら死を覚悟して、戦いに参加するというのは――自殺行為のようなものだ。

「国民は、良いように言ってくれるが帝都軍内でも、そして私も先陣隊は異能を失った隊士の“お払い箱”だと思っている」
「で、でも……天海様は、異能を……!」
「キミの加護のおかげさ。私はもう、異能なんて使えないはずだった。キミに触れたあの日までは」

瑞乃の手を握る朗の手の力がぎゅっと強くなった。

「我々、帝都軍は国民を守るために命を落とすことはいとわない。そう思っているが、自分が実際に先陣隊の隊長となると……これ以上、部下を死なせたくない」

そこに、朗は含まれていなかった。
自分の生死を問わず、部下のことを気にかける彼に瑞乃は息を呑んだ。

「だから、キミの力を借りたい」

恋慕のような気持ではなく、能力を目的とした異能者同士によくある政略結婚の概要。
まさか、自分がそんな風に人から求められる日が来るとは思わなかった。
もしかしたら、どこかの物語のように胸焦がれる気持ちになるかもしれない――そんな淡い期待を抱いていた。

(だけど、私でも……こんな私でも、人様のお役に立てるのなら)

そう覚悟を決めて、首を縦に振ろうとした瞬間。

「ただし、キミの人生を犠牲にするつもりはない」
「……え?」

決意を揺るがす言葉に、瑞乃は目を丸くした。

「入籍はしなくて良いが、キミの生活の保障はするし私が命を落とした時――天海家の全てをキミに譲渡する」

やはり、彼の中に自分が助かるという選択肢がなくて瑞乃は固まってしまった。

「それと、婚約者や夫婦として関係を偽るつもりだが、キミに想い人ができた際も柔軟に対応するつもりだ。その時は報告をしてくれ」

瑞乃の中では特別なことだと認識している結婚も、彼の中では仕事の一環のように淡々と告げる。

「あの……一つだけ、よろしいですか?」
「なんだ?」

おずおずと瑞乃が申し出るけれど、じっと朗を見据えるその表情に、幾多の戦場をくぐり抜けてきた朗でさえ、思わず息を呑んだ。

「私なんかでも、人様のお役に立てるのであればそのお話、お受けします。けれど――天海様も死なないでください」
「……は?」

瑞乃にとっては当たり前だと思った。
むしろ、自分を差し置いてまで人を助けたいと言う朗の方に異質な感情を持った。
しかし、瑞乃の言葉が間違っているとでも言いたそうに彼は目を見開いた。

「……善処しよう」

少ししてからそう返事をすると、瑞乃はホッと安堵の表情を浮かべた。

「気負うことはない。キミの人生の保障はする……これも、書き換えておこう」

そう言って朗は軍服の内ポケットから『遺書』と記された封書を取り出した。

「それって……」
「死ぬのが明日、明後日、もう少し先かもしれない。はたまた、今日死ぬかもしれない身だからな。こういうものは準備しておくべきだ」

彼の死というのが、現実と隣り合わせだと思えば瑞乃はきゅっと唇を噛みしめたもののすぐに口を開いた。

「あの……申し訳ありません」
「なぜ謝る?」
「その……それほどのご覚悟があるのに、私……生意気なことを申し上げてしまって……」

『死なないでください』なんて、死と隣り合わせで生きる彼にはあまりにも軽い言葉だったのかもしれない。
どれだけ虐げられても、死ぬかもしれないという危機に陥ったことがない瑞乃の胸はきゅっと締め付けられた。

「意外ではあったが、嬉しかった。死を覚悟して務める部隊だからこそ、死なないでくれと言うのは……随分と久しぶりに聞いた気がする」

柔らかい表情で言う彼に、胸を撫でおろした。

「それと、キミの力も貸してもらえるということも」

そう付け加えると、運転手がゆっくりと路肩に車を寄せた。
止まったのは『天海』と表札がついた立派な門のある豪邸。
異国の文化をふんだんに取り入れた近代の造りだ。

「中まで案内する。ただ、阿佐ヶ谷家での一件があるから、使用人に引き継いだら私は戻る」
「は……はい」

こくりと頷けば、先に降りた朗に続いて車を出た。
そして、門をくぐれば中は外から見るよりもずっと広い敷地。
阿佐ヶ谷家にも劣らない広さで、門をくぐった瑞乃は思わず足を止めて辺りを見渡した。

「どうした?」
「あっ……も、申し訳ありません……人様のお家をジロジロと……」
「今日からは、キミの帰る家でもある。気にするな」

ふっ、と小さく笑いながら自然と『帰る家』と言われれば胸がときめいた。
(今日から、ここが……)
改めて屋敷を見上げる。
首が痛くなるほど見上げる高さに思わず見入っていると「あらっ」と明るい声が聞こえた。

「坊ちゃん、お帰りなさいませ」
「坊ちゃんと呼ぶな。人前だ」
「あら、これは失礼いたしました。私、千鶴(ちづる)と申します」

千鶴と名乗った女性が、瑞乃に頭を下げれば瑞乃も合わせるように頭を下げた。

「は、はじめまして。瑞乃と申します」
「瑞乃様……」

じっと瑞乃を見る千鶴の視線に耐えられなくなると、視線を地面に落とした。

「まぁまぁ。可愛らしいお嬢さんだこと。坊ちゃんが女性を連れて来られるなんて、初めてではありませんか」
「千鶴。余計な話は良い。彼女は今日からここで住む。部屋の用意と彼女に中を案内してやれ」
「えっ……!?」

朗から話を受けると、千鶴は目を丸くする。
千鶴が色々と聞きたそうにうずうずとしているが、朗の視線は瑞乃に向いた。

「それでは、あとは千鶴に色々と聞けば良い。私は戻る――最後に」

瑞乃の手を優しく、そして丁寧にぎゅっと両手で握った。

「へっ……!」
「まぁ!」

驚く瑞乃と自分のことのように頬を赤らめる千鶴。
少しすると、ゆっくりと手を離して「ありがとう」と呟いて車の方へと戻った。

「瑞乃様はもしかしてっ……!」
「あっ……え、えっと……」

瑞乃と二人きりになると、千鶴が前のめりで鼻息荒くする。
そんな彼女に戸惑い、視線を逸らして言葉を濁した。
(でも……私がちゃんとしないと……!)
朗との契約をしっかりと果たせない。
そう自分を奮い立たせると、千鶴をじっと見つめた。

「婚約者……です」
「まぁまぁ! ねぇ、ちょっとー!」

目をキラキラと輝かせて、庭で作業していた使用人に声をかける千鶴によって、瑞乃が朗の婚約者という話は、朗が帰ってくる頃には屋敷中の使用人達が知っていた。