死を待つ軍人と、無能と蔑まれた加護令嬢


一週間後、阿佐ヶ谷家の催しへ参加する日となった。
阿佐ヶ谷家は、帝都中心部から少し外れたところにあり日下家からは車で一時間近くかかる距離の場所にある。

「阿佐ヶ谷家って、結構田舎にあるのね」

帝都中心部は、連日人で賑わっており街並みも栄えている。
そのため、見ているだけであっという間に時間が過ぎてしまう。
けれど、阿佐ヶ谷家へ向かう道中は帝都中心部を過ぎてしまえばどこまでも似たような緑の景色が続く。
ふてくされた香鈴が、後部座席の真ん中で腕を組みぷくっと頬を膨らませる。

「こら。よしなさい」

清が優しく注意をすれば「はぁい」と気の抜けた返事をする香鈴。

「それにしても、いつもより狭いわねぇ」

後部座席には清、香鈴、椿が座っている。
いつもなら誰か一人が助手席に座るため、後部座席はもっと広々としている。
そして、助手席には――瑞乃が座っている。

「仕方ないじゃない。今日は――余計なのがついてきているのだから」

椿はそう言うと、後ろから見える瑞乃の後頭部を扇子で小突いた。

「…申し訳ありません」

運転手の隣で、瑞乃は体を小さく丸めて謝った。

「あぁ、そうだったわね。あーあ、やっぱりお姉様を連れて行く、なーんて言わなければよかった」
「そうよ。今から降ろして、歩いて帰らせれば良いじゃない」

椿と香鈴が後部座席でくすくすと笑いながら穏やかではない会話を進めている。

「そうねぇ…お姉様なんて、歩いて帰らせたいのだけれど――それじゃあ、アタシの幸せな姿を自慢できないじゃないっ」
「まぁ、香鈴ったら」

香鈴は、相変わらず颯と恋仲になれると信じて疑っていない。
そして、それは椿と清もだった。
椿は声に出して同調し、清は数回も頷いた。

「でも、帰りは…そうねぇ。お姉様が気に入らなかったら途中で降ろしましょう?」
「あら、香鈴は優しいのね? 私なら、最初から乗せて帰らないわ」

瑞乃相手にはどれほど意地の悪いことを言ったとしても許されてしまう。
そんな環境に瑞乃はただ、着物をぎゅっと握って耐えることしかできなかった。
そして、嫌味を言われながらも目的地の近くになると目的地が近づくにつれ、周囲には同じような高級車に乗った異能一族の姿が増えていった。
車の中から他の令嬢の様子を確認すると、香鈴はにやりと口角を上げた。

「ふふっ。やっぱり、アタシが花嫁にふさわしいんじゃないかしらっ」
「本当ねぇ。それが言うには、わが家には軍人様が招待状を持って来られたそうだし…もしかして香鈴は特別な待遇を受けられるんじゃないかしら!?」
「えぇ! きっとそうよ! だって、あの人達よりもアタシが一番かわいいものっ」

ちらりと一瞬だけ瑞乃を見て言う椿。
舞い上がる香鈴は、鼻息を荒くしながら機嫌を良くしていた。

「お待たせいたしました」

目的地の前になると、車の速度を落として路肩に停める運転手。
きゃっきゃと話す椿と香鈴だったが、運転手がそう声をかけると後部座席の三人と瑞乃は車を降りた。

(わ…すごい…)

日下家も広い土地と大きな屋敷を持っているが、目の前に広がる阿佐ヶ谷家は桁が違う。
広大な敷地にはいくつもの屋敷が並び、それほどの規模でありながら庭は隅々まで美しく整えられている。
ぞろぞろと異能一族が入っていくのを呆然と見ていると、車のトランクを開ける運転手。
椿がそっと瑞乃に近づけば、ギロリと睨みつけた。

「なにしてるの…! アンタ、今日の役目を忘れてるわけじゃないでしょうね…!?」
「っ…も、申し訳ありません…」

瑞乃にしか聞こえない声で言われ、ビクッと体を震わせる。
そして、サッと車のトランクへ向かった時香鈴が瑞乃の歩の邪魔をした。
急ぐ瑞乃の足に、自身の足を引っかけると『っ……!』と息を呑み、瑞乃は派手に地面へ倒れ込んだ。
派手に転んでしまい、手のひらにはかすり傷ができてしまった。
何度も繕った着物もズザッと音を出して足元が破れてしまった。

「ぷっ…あらあら。お姉様、何をしているの?」

足をかけた当の本人が心配している風を装って声をかけた。
しかし、瑞乃にしか見えない角度で向けられたその表情は――ニンマリと笑っていた。

「も…申し訳ありません…」

香鈴に謝ってすぐに立ち上がる。
けれど、着物は思っていたよりも大きく破れており細い足が露わになる。

「やだ! お姉様ったら! そのお着物! どうしたというの!?」

香鈴が、いつもより大きな声で言う。
それにより、阿佐ヶ谷家の催しへ参加する他の者達の視線が一斉に瑞乃へと集まった。
瑞乃の大胆に破れた着物に他の者達の視線がいった。

「まぁ…可哀想に」
「でも、あの着物なら…ねぇ?」
「そもそも、あの方も阿佐ヶ谷様に招待された方…? 随分とみすぼらしいけれど…」

瑞乃を心配する声と、瑞乃のみすぼらしい容姿から異能一族に見えないと非難する声。
周囲から注目を集めたことにより、瑞乃の顔はかぁっと赤くなる。

「お姉様、良かったじゃない…地味で日陰にいるようなお姉様でも、目立てて」

悪意に満ちた笑みを浮かべ、くすりと笑う一部始終を見ていた運転手も瑞乃を心配そうには見る。
けれど、運転手を雇っているのは清。
その清や妻の椿、そして清が溺愛する香鈴の見ている前で、瑞乃を気にかけるという行動は、香鈴を咎めるようで気が引けた。
特に何も言わず瑞乃に荷物を手渡す運転手。

「お姉様の汚い血で、アタシの荷物…汚さないでね?」
「っ…はい…」

くすりと小馬鹿にするようなら笑いながら言うと、清達は阿佐ヶ谷家へと入って行った。
荷物を受け渡せば、運転手も車に乗り込んでさっさと行ってしまった。
荷物で破れた裾を隠しながら、人の流れとは逆方向へ向かう。
やがて塀の窪みを見つけると、そこへ身を潜めるように腰を下ろした。

(こんなふしだらな姿…誰にも見せられない。終わる時もきっと、わかりやすいはず…その時までここでずっとーー)

そう瑞乃は何度も心の中で唱えた。

日頃に比べたら、ずっとマシだ。
ここなら、誰かの目に触れることなんてない。
身を縮めて、小さくしておけば――誰の目にも留まらない。
日下家では、空気のように扱われるし目立つような存在でもない。
気配を消すことだけは、いつの間にか得意になっており、視線を落とす瑞乃。
しかし、瑞乃の思惑を覆すかのように黒い大きな人影が視界を暗くさせた。

「え…?」

思わず顔を上げれば――あの日の軍人、朗がいた。
瑞乃は目を大きく見開いたが、朗も同様に目を少し開いた。

「瑞乃…? そこで、何をしている?」
「え…? どうして、名前…」

あの日は、朗に不快な思いをさせたことでさっさと屋敷の中に入ってしまった。
だから、名を伝えたことをすっかり忘れていた。

「以前、日下家で会っただろう。その時に名を尋ねた」

朗にそう言われると、ハッと思い出す瑞乃。

「も、申し訳ありません」
「? なぜ謝る?」

瑞乃が謝る節が見当たらず、眉をぴくりと動かして小首を傾げる朗。

「その…軍人様との大切な時間を割いて頂いて話したことを、覚えていないから、です」
「それを言うなら、謝らなければならないのは私の方だろう。非礼を働いたのだから」
「え…?」

朗の言葉に目を丸くした。
今の日下家では、瑞乃は最底辺の扱いを受けている。
瑞乃に非がないとしても、何かと理由を付けて理不尽に叱られたり暴力を振るわれるというのは日常茶飯事だった。
それなのに――国民から尊ばれている軍人が、謝ろうとする。
それは、瑞乃にとって異様なことだった。
思わず声が漏れて固まったが、すぐに首を横に振った。

「そ…そんな、軍人様が私にそのようなこと…思わないで、ください…」

図々しいと思われる気がするから、という言葉は頭の中にだけ浮かんだ。
言い終えると、きゅっと唇を噛みしめた。

「なぜそのように自分を卑下する物言いをする。キミは、日下家の直系の血を継ぐ次期当主ではないのか?」
「えっ…どうして、それを…? でも、私は…」

日下家の血を継ぐ娘ということを知られていることに驚いた。
そして、次期当主ということを知っているのも――けれど、それはあり得ない話で首を横に振る。

「まず、詫びておきたい。キミのことが気になり、少し調べさせてもらった」
「えっ…あ、あのっ…わ、私…何か、した…のでしょうか…?」

気になると言われれば、ビクッと体を震わせて固まってしまった。
軍人から目を付けられるとは、相当悪いことをしてしまったに違いない。
けれど、日々日下家で罰と称されて痛めつけられている瑞乃にとって、どれが該当するのか見当がつかなかった。

「そうだ」
「っ…」

何をしてしまったのだろう――そう思うと血の気がさっと引いた。

「あ、あの…私は、どう…なるのでしょうか」
「そうだな。尋問を受けてもらいたい」
「っ…」

良くない考えばかりが、頭の中をぐるぐると巡る。

(軍人様から尋問だなんて…きっと、何か違うことを言ってしまえば、椿さんや香鈴からされてきたこととは比にならないことを…されてしまう)

瑞乃の胸はきゅっと締め付けられ、目には涙が溜まった。

「おい、どうした。なぜ泣く…足が痛むのか? それに、手も…」

目に涙を溜めて、今にも大きな瞳から零れそうになるのを見ると、ぎょっとして声が上擦る朗。
瑞乃を注視して見ていると、持っている荷物の隙間から足にかすり傷を負っていることが分かった。
さらに、荷物を不自然に抱える手にも擦り傷があることに気づき、朗は目を細めた。

「っ…も、申し訳――」

目を汚してしまったと思い、足を自分の方へ引き、手の怪我も見えないように背中に回した。
そして、謝ろうとしたが、朗が遮った。

「謝るな。帝都軍の医療隊の所へ行こう。手当てをする…歩けるか?」
「は、はい…あっ、で、でも…」

そう告げると、手を差し出す朗。
しかし、瑞乃はその手を掴むことはできない。
立ち上がれば――破れた着物から足がはだけてしまう。
女性に見られるのも恥ずかしいのに、異性であり軍人である朗に見られるのはひどく恥ずかしく、いたたまれない気持ちになってしまう。

「そういう傷の手当は早くしないと痕になる。女性の身体に傷痕が残るのは良くないだろう」
「い、いえ…あ、あの私――ひゃっ」

着物のことは言えず、恥ずかしくて頬を染めてもごもごと口を動かしていると、朗がしゃがみ片手は背中に回し、もう片手は膝裏に入れてひょいっと簡単に持ち上げてしまった。
悲鳴に近い声が出てしまい、慌てて口元を押さえる瑞乃。
朗の顔が自然と近くなり、至近距離にある造形物のように綺麗な顔を何度か瞬きをして見つめた。

「私は今日、阿佐ヶ谷家周辺の警備を承っている。あまり時間を取れないから、このまま医療隊の所まで向かうことにした」
「え、あ、あの…私、本当に…!」

瑞乃の恥ずかしがる様子に構うことなく淡々と告げる朗。
人に抱えられることは初めてで、緊張と躊躇いから慌てて告げると、朗が短く息を吐いた。

「大人しくしておけ。落ちるぞ」
「っ…」

そう言われると、ぴたりと動きを止める瑞乃。
大人しくなった様子に朗はちらりとだけ瑞乃を見て、阿佐ヶ谷家の門をくぐった。
中庭へ行けば人がたくさんいるが、彼が進んだのは異能一族がいない建物の方で、医療隊への足を早めた。

「あ、あの…」
「なんだ」
「わ、私…重いですし、その…自分で歩きます」
「重くない。むしろ、瑞乃はもう少し食べた方が良い。随分と細い。医療隊まであと少しだから、このまま行く」

今更降ろす必要もない、と付け加えて警備にあたる軍人用に開放されている建物の中へ入っていく。
外装と同じように、内装も華美で豪華な造り。
まるで、物語の中からそのまま出てきたような洋風の造りに目を奪われた。

(綺麗…あっ、でも…)

抱えられたまま、周囲を見ていた瑞乃だったがこの建物の中には右を見ても左を見てもどこかに必ず軍人がいた。

「おい、あれ…」
「天海隊長が…女を抱えてる」

軍人達と目が合えば、すぐに目をそらす瑞乃。
椿や香鈴のように、目が合っただけで理不尽に怒られると思っているからだ。
しかし、隊士達は朗が瑞乃を抱えていることにぎょっとしていた。

(天海隊長…と、おっしゃるんだ…天海、様…)

ヒソヒソと話している声は自然と瑞乃の耳にも入る。
姓を知り、何度か頭の中で繰り返す。

「ここだ」

廊下を少し進んだところで立ち止まると、瑞乃に告げる。
開いている部屋の中を覗くと、白衣を着用した男性が見えた。

「下野。入るぞ」
「はーい…って、んえぇっ!? あ…天海…! しかも、女性、と…えぇっ!?」

朗が声をかけると、眠気からくぁ、と小さくあくびをする男性、下野善(しものぜん)
医療隊の隊長を務めている。
朗が女性を連れているということに、他の隊士達以上に大げさに反応し口をあんぐりと開ける。
善がここまで驚くほど、朗には普段まるで女性の影がなかった。

「何を考えているのかは知らんが、手当てをしてくれ」
「あ、なんだ。手当てか。はいはい、じゃあそちらに座らせて」

朗の返事で、明らかにつまらそうにする善。
善の目の前にある椅子を示すように、ひらひらと手を振る。
朗は瑞乃をそっと椅子に降ろすと口を開いた。

「下野。彼女に触れずに治療をしろ」
「は?」

治療をしろと言っておきながら、触るなと言う朗に眉間に皺を寄せる善。

「私はここの奉公人に女性用の召し物がないか聞いてくる」

そう告げると、善に何の説明をすることもなくさっさと出て行ってしまった。

「あ! おい…ったく、勝手な奴…」

善は引き留めようとしたものの、朗はすでに部屋を出ていた朗に軽く舌打ちをして、ぼそりと呟いた。
そして、瑞乃の方を見る。
先程までの態度を見ていたため、瑞乃は体を強張らせたが瑞乃を見るとにこりと笑みを浮かべた。

「なるほど。天海はこういう女性が好みか」
「へ…?」
「あぁ、何でもない。お嬢さんに触れるなと言っていたが、男と二人きりになるのは良いのかね。ねね、お嬢さんは天海の婚約者とか?」

ぼそり、と呟き瑞乃を見る善。
そして、善の突拍子のない言葉に目を丸くする瑞乃。

「ちっ…違いますっ。わ、私なんかが、天海様の…その、こ…婚約者、だなんて…」

ぶんぶんと首を横に振ると、またつまらなそうに口を尖らせる善。

「あ、違うんだ。てっきり、あんなに手厚くされてるから、そういう関係だと思ったのに」
「い、いえ…天海様は、私が、その…どんくさいから、手を煩わせてしまって…」
「へぇ、どんくさいからで、あれほど…ねぇ」

善は何かを察したように、意味ありげに目を細めた。

「天海が触るなって言ってたから、着物の裾自分で上げてくれる?」

口早に話す善。
口を動かしながらも、同じように手も動かす彼に言われる通り裾をそっと持ち上げた。

「直接触らないから、治療には時間かかるけど責めるなら天海に言ってね」

善が得意とする治癒の異能は、直接患部に触れることで効率的である。
もちろん、朗が望むように触れずに治療をすることもできるが、それでは時間が随分とかかってしまう。
時間がかかることを瑞乃に告げると、患部に手を近づけて異能を発現させた瞬間――ぶわっと神秘的な光が部屋中に満ちた。

「は…?」

初めて見る光景に、善は声を漏らした。
そして、治療を開始したばかりだがすぐに異能を止めた。
けれど、たった数秒のできごとで瑞乃の足の傷も手に付いた傷も、そして日々の家事で手にできた赤切れも――すべて、なかったことのように綺麗になった。

「わ…すごい。治癒の異能って、初めて受けたのですが…ありがとうございます。お手を煩わせてしまい…」

綺麗に治った足と手のひらを見て、少し表情が柔らかくなる瑞乃。
治癒の異能を使うには、異能試験に合格するだけでなく専門的な知識と技術も必要となる。
異能者の中でも、一握りの人間しか使えないのだ。
そんな貴重な異能を無償で施してくれた善には、瑞乃は申し訳なさそうに、それでも嬉しそうに深く頭を下げた。
善に深く頭を下げれば、彼の眉間の皺が深くなった。
これは、善の力によるものではないからだ。
それなのに、原因と思われる本人にはまるで自覚がない。善の中に、ますます疑念が膨らんだ。

「いや、オレの異能じゃこんなこと…ねね、お嬢さん今日、この催しにいるってことは、異能者でしょ? どの一族?」
「っ…そ、それは…」

無能――そう伝えれば、どんな顔をされてしまうのか。
そして、日下の人間――そう名乗っても良いのか戸惑った。
朗のように、もし善が調べたら分かってしまうこと。
しかし、自ら名乗ってしまえば――清達にそれを知られてしまえばどうなってしまうのか。
悪いことばかりが頭を巡り、顔を逸らしてきゅっと唇を噛みしめる。
すると、善と瑞乃の間にすっと腕が入り込んだ。

「彼女に必要以上の詮索をするな」

朗の声にパッと顔を上げる瑞乃。
朗が戻ってきて、瑞乃の前に庇うように立っていた。

「詮索って…どこの家の出身かを聞くなんて、異能者同士で最初にする会話だろ。だって、お嬢さんは――」

瑞乃の力は、滅多に見ることのできない――とあるものかもしれない。
善の頭にも、それがよぎっていた。
しかし、善が言い終える前に朗が口を開いた。

「下野。それについては、私から話す。瑞乃は――知らないんだ」
「は!?」

朗の言葉に、声を上げて目を見開いた。
二人の会話が読めず、小首を傾げる瑞乃。

(何の…話をしているのかしら…?)

呆然としていると、目の前にいる朗が振り返って瑞乃を見た。

「先ほど、使用人に召し物について尋ねたらすぐそこの本邸にあるそうだ。だから、そちらへ案内する」
「は、はい…あっ…」

こくりと頷くが、立ち上がるのを躊躇ってしまう。
傷は治ったけれど、着物が破れたという事実は変わらないからだ。

「私がまた抱えても良いが、本邸へ行くには他の一族の目もある。瑞乃は気にしてしまうだろう?」
「そ…それは…」

朗の言葉に視線を落とす瑞乃。
先ほどのように、軍人に抱えられると知られれば日下家だけでなく他の一族からも反感を買ってしまう。
忙しい軍人の手を煩わせている迷惑な娘だと、思われてしまうのだ。

「これを腰に巻けば、見えないだろう。女性がする身なりにしては多少不格好だが、抱えられるよりマシだろう?」

そう言うと、着ていた上着を脱ぎ差し出す朗。
しかし、その上着には帝都軍での功績を示す勲章や、階級を示す徽章が付いている。
軍人にとって、それほど大切なものを腰に巻くという非礼極まりない行為に瑞乃は躊躇った。

「そ、それをお借りするだなんて…!」
「それじゃあ、抱えるが?」

上着を羽織りなおせば、腰を屈めて片手は背中に回し、もう片手を膝裏に回して瑞乃の体を持ち上げようとした瞬間。

「まっ…待ってくださいっ…」

瑞乃は、恥ずかしがり耳まで赤く染めて朗を見上げた。

「なんだ?」
「そ、その…抱えられるのは…で、でも…それは軍人様にとって、大切なものです…私なんかが」
「私が良いと言っている。私も共に行くのだから、他の者に何か言われれば、いくらでも弁明する」

そう言うと、再び上着を脱いで瑞乃に手渡した。

「も、申し訳――」
「謝るな。キミは謝れば事が済むと思っているように言葉を繰り返す。けれど、それは謝罪している気持ちを軽んじていて非礼な行為だ」
「っ…」

心にいつからか住みついている気持ちを見透かされて言葉が出なくなった。
何をしても、何があっても――悪いのは瑞乃だという考えは日下家にいることで、染まっていった。
だから、自分が謝れば、我慢すれば、すべてが丸く収まる。
それが一番平和で、楽なのだと思っている。
瑞乃の表情が暗くなれば、朗はばつが悪そうに視線を逸らした。

「…すまない。説教のように言ってしまった」
「い、いえ…私が悪いですから…その…」

また、謝ろうとした。
けれど、それでは朗の言葉を全く聞いていないようだ。
どうしよう――そう不安な気持ちに苛まれていると、キィと椅子が軋む音が聞こえた。
そちらに目を向けると、朗の背後からひょっこりと顔を出している善と目が合った。
そして、彼は口をパクパクと動かす。
『あ・り・が・と・う』
続ける言葉を朗に聞こえないように、教えてくれている気がした。

「あ…ありがとう、ございます…その、上着を貸していただいて」
「あぁ…」

瑞乃の言葉に、短く返事をすればくるりと善の方に体を向ける。
瑞乃が腰に上着を巻くところを見るわけにはいかないからだ。
善の方を向けば、目が合った。
善の表情は緩み切っており、それを見た朗は眉をぴくりと動かした。

「何を笑っている」
「いや、別に? 天海も人間なんだな、って」
「当たり前だ。私を何だと思っている」

ギロリと視線を鋭くさせる朗。
そんな朗の背後で「あの…」と控えめな瑞乃の声が聞こえると背を向けたまま口を開いた。

「準備は、できたか?」
「は、はい…お待たせしました」

瑞乃の言葉を聞けば、くるりと瑞乃の方を向いた。
袖を腰に巻きつけ、上着はまるで丈の長いスカートのように見える。
しかし、すらりと背の高い朗の上着は瑞乃が腰に巻けば床に付きそうになっており、瑞乃は汚さないように持ち上げている。
自分が着ればちょうどいい上着も、小柄で華奢な瑞乃が身につければひどく大きく見える。
その姿を目にした瞬間、朗の胸が不意に高鳴った。
瑞乃に対する庇護欲が、胸の奥底からかきたてられ、しばらく呆然と見ていた。

「あ、あの…軍人様…?」

朗が固まってしまい、様子を伺う瑞乃。
その言葉にハッとすると、誤魔化すように咳ばらいをした。

「――失礼。その状態で荷物を持つのは大変だろう。また、ここへ戻ってくれば良い。下野、荷物を置いておいても良いだろう?」
「あいよー。忘れずに来てねー」

善はそう言うと、朗と瑞乃にひらひらと手を振って送り出した。
朗の後ろをついて歩けば、本邸へ向かうには、中庭を通る必要がある。
上着を着ていない朗は、催しに参列している青年に見えるようで、すれ違う年頃の令嬢達がポッと頬を染める。
その後ろにいる瑞乃が、彼の上着を腰に巻いているとは、一部を除いて誰も気づいていない。

「どうしてお姉様が…」

朗が異能一族の女性たちの注目を集め、周囲に人だかりができれば、自然と香鈴の視線もそちらへ向いた。
その後ろをついて歩く、破れた着物のまま、荷物番をさせているはずの瑞乃がいると――嫌でも目に入ってしまう。
好意的な意味で注目されている姿に、香鈴は奥歯をギリッと噛みしめて目じりを吊り上げた。

***

本邸に足を踏み入れた朗と瑞乃。
すると、朗が近くにいた女中に声をかけた。

「すまない。彼女が先ほど話した女性だ」
「かしこまりました。瑞乃様、こちらへどうぞ」

女中はにこりと優しく笑みを浮かべると、瑞乃を近くの部屋へと案内しようとした。

「は、はい…あ、あの…軍人様…」

瑞乃はこくりと頷いてついて行こうとしたが、その前に朗の方を見た。

「上着、ありがとうございます。あの、お返ししますので――」

袖の部分を解こうとする瑞乃の手を思わずパッと掴む朗。

「今は良い。少ししてから、部屋を訪ねる」
「そ、そう…ですか…? えっと、そ、それではまだ…拝借、致します」

大きな手のひらが、瑞乃の小さな手を包むように握り顔が熱くなる瑞乃。

「あぁ。それからで良い。少し、私に時間をくれ」
「っ…わ、分かりました…」

朗が言っていた『尋問』が頭にちらつく。
これほど良くしてくれた人が、酷いことをするはずがない――そう思いながらも、何を聞かれるのだろうと不安でいっぱいになった。
朗に会釈をしようとした時――ドォオン!と轟音が聞こえ、大きな屋敷もぐらっと揺れた。

「わっ…!」
「何だ…!?」

瑞乃の体は壁にもたれかかり、朗はすぐさま視線を鋭くし、窓辺へ駆け寄って外の様子を確認した。

「チッ…『反国組織』か…私は行ってくる。それでは、瑞乃をよろしく頼む」
「――はい。かしこまりました。お気をつけて」

突然の事態にも朗は取り乱さない。
窓の外を一瞥すると、迷うことなく身を翻した。
朗の言葉に、女中は深々と頭を下げた。
彼女も、朗が先陣隊という立場で危険な前線に立つということを知っているからだ。

***

女中に瑞乃を預けると、本邸から駆け出す朗。
そして、屋敷の外へ出るとくるりと振り返って片手を屋敷に向ければ、見えない透明な膜が屋敷全体をあっという間に囲んでいく。
結界を張って、万が一にも瑞乃へ危険が及ばないよう、先に手を打ったのだ。

「やはり…異能が使える」

自身の手のひらを見つめて、あの日抱いた疑問が、確信へと変わっていく。
グッと拳を握った。
あの日、少し触れただけでも十分程度は異能を使えるようになった。
今日は、あの日のように少しの時間ではなく瑞乃を抱えて、先程も彼女の手に少し触れた。
これが、どれほど――異能の制限を解除するかは分からない。
けれど、確実に以前よりも異能を使える事は明らかだ。
体中に力が巡るのがそれを証明している。
騒ぎが起きている方向に目を向けると、背後から声が聞こえた。

「隊長!」

それは、朗が隊長を務める部隊――先陣隊の隊士達。
警護に当たっていた十名が朗の元へ駆けてきたのだ。

「先ほど、反国組織による暴動が確認されました。異能者が多くいる阿佐ヶ谷家の中庭です! 早くそちらへ――」
「待て」
「えっ!?」

隊長に指示を仰ごうとした隊士達を制止する言葉。
隊士達はどよめき、お互いに顔を見合わせた。

「今日も私が先陣に出る。しかし――お前たちは一人として前に出るな。私一人で制圧する」
「なっ…! 現場にいる先陣隊隊士からの報告だけで、十人以上の反国組織が潜入しているというのに、そんなの…!」

自ら死にに行くような決断は絶対に反対だ――そう言おうとしたけれど、朗の様子はいつもと違う。

「十分でカタをつける。それまでは、お前たちは絶対に前線に出るな」
「っ…」

言葉を失う隊士達。
しかし、ただ一人――副隊長を務める千手宅磨(せんじゅたくま)が一歩前に出た。

「かしこまりました。でも、それだけの大口を叩いておきながらアンタが死にそうになったら、俺は前線に出る」
「あぁ。それで構わない。その時は頼むぞ、千手」

朗がそう告げると、宅磨は頷き、朗を先頭に現場へと駆けつける先陣隊隊士達。

「なんだなんだぁ! 国から認められたお偉い異能者様のくせに、随分弱いじゃねぇか!」

中庭に到着すると、立派で綺麗に整えられていた芝生にはボコボコと複数の穴が開いていた。
先に現場へ到着していた先陣隊の隊士達が、腰に携えた刀を抜いて凄んでいるけれど異能の攻撃を受けた彼らの中には、すでに命に関わるほどの傷を負った隊士もいた。

「仕方ねぇよ。だって、コイツらは『死兵隊』っていう、異能を使えなくなった用済みの軍人の集まりなんだからな!」

ゲラゲラと下品に笑う反国組織。
傷を負い、不利な立場となっている隊士達が、ギリッと奥歯を噛みしめて鋭く反国組織の人員を睨みつける。
相手が異能者でも、前線に立って彼らに少しでも深手を負わせなければならない。
しかし、反国組織のほとんどが強い異能を持っている。
国にその力を認めてもらえないのは、民の生活に危険を及ぼしかねないと判断された危険な思考を持っているからだ。
反国組織の者が残した呪いによって異能を奪われた隊士達は――『お払い箱の先陣隊』と彼らに揶揄される。

「おい――戦闘で無駄口とは、随分と余裕があるようだな。反国組織」

命を落としそうになりながらも、必死に民を守ろうとする同士を悪く言う反国組織に、朗の堪忍袋の緒が切れた。

「あぁ? おい、誰だアイツ。血が目立たなくなるための上着も着てないなんて、死にざまを無様に晒しに来たとしか思えねぇな!」

朗の格好を見て、一層笑い声が大きくなる反国組織。

「おい! 隊長を侮辱するとは――!」

今まで、みんなの命を守るための采配をしてきた朗を侮辱する言葉。
それに、朗に前線に立つなと言われたはずだが、一人の隊士が血気にはやり、思わず声を荒らげた。
しかし、それを朗が腕で止めた。

「言わせておけ」

当の本人である朗に止められれば、隊士は悔しそうに前に出るのを止めた。

「っ! しかし、隊長!」

それでも納得できず、隊士は朗へ食い下がった。
すると、顔だけ隊士の方に向ける朗。

「忘れたか。私が前線に立つという話を」

その表情は絶対零度のように冷たく、隊士の顔からサッと血の気が引いた。

「も…申し訳ありません…」

隊士の冷静さが戻った。

「なんだぁ? 仲良しごっこかよ」
「さっさとこんな雑魚共殺して――っ!」

煽る反国組織達の真横を赤い火の玉が横切る。
そして、男の頬がまっすぐに焼け裂けてツーっと赤い血が滴る。

「黙れ。貴様らごときに、我が先陣隊が殺されるわけがないだろう。とっとと貴様らを拘束して、豚箱に放り込んでやる」

朗の両手から囂々と炎が巻き上がる。
その光景に、反国組織達の足はガクガクと震える。
それ以上に、同じ先陣隊の隊士達が目を見開いた。

「えっ…!? い、異能…!?」
「隊長が異能を…!」
「これじゃあ、負けなしですよ! だって隊長は…『帝都の歴代最強の異能使い』なんですから!」

怒りと不利な戦況に訪れた一筋の希望の光に、隊士達の目には輝きが戻った。
そして、朗の異名を聞いた反国組織の一人は恐る恐る口を開いた。

「帝都の歴代最強…? それって、天海――」

朗をフルネームで言おうとした時、また反国組織の隣を物凄い勢いで炎が通る。

「貴様らの口から呼ばれては、名が廃る」
「ひぃっ!」

反国組織の者達が腰を抜かした隙に、炎の壁で逃げ道を塞いで動きを制御した。
そして、他の隊士達が彼らを拘束している間にテキパキと指示をした。

「医療隊をすぐに呼んできてくれ。今ならまだ助かる。お前達――よくやった。民は誰も負傷していない」

医療隊の元へ駆ける隊士達。
深手を負った隊士を労う朗に、涙ぐむ隊士達。
先陣隊の隊士達は、催しに呼ばれた異能一族達の避難誘導もしっかりとしていて、被害が出たのは阿佐ヶ谷家の整えられた中庭だけで収まった。

「すごい! さすがは帝都軍!」
「あの異能を使ったお方はどちら様!?」
「先ほどすれ違ったけれど、まさか軍人様だっただなんてっ!」

先陣隊に称賛の声が上がり、その中でも群を抜いて注目を集める朗。
そして――。

「まぁ…! すっごくカッコイイ! お父様、お母様っ! アタシ、颯様じゃなくてあの方がいいっ! 天海朗様っ」
「ふふっ。たしかに、先程の異能はすごかったものね。それに、天海家なら、阿佐ヶ谷家に並ぶ…いいえ。それ以上の力を持つ名家ですものっ。私は大賛成よっ」
「ほう…最近名は聞いていなかったが力は健在か…それより、今は早く帰るぞ。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ」

朗の行動を見て、きゃっきゃと騒ぐ椿と香鈴。
そして、それを落ち着かせようとする清は瑞乃のことなど一度も頭に浮かぶことはなくさっさと車に乗って帰路についてしまった。
車が一台減っていることにも、誰も気づかなかった。

***

遡ること、数十分前。
朗が本邸を出てから、瑞乃は何が起こったのか分からないまま近くの部屋へ案内された。
その中には、二人の女中とずらりと並ぶ着物と洋服、そして綺麗に着飾るための小物がたくさん揃ってあった。

「お召し物をお求めと伺いまして。こちらにある着物、洋服どれでもお召しになってくださいませ」
「えっ…で、でも…」

部屋の中にある服は、どれも上質なものばかり。
それを選んでも良いと言われるのは、気が引けてしまう。
自分なんかに似合うはずがない、服が可哀想――そんな考えが浮かぶほど、瑞乃の自己評価は低くなっていた。

「どれでも構いませんよ? 坊ちゃんは友人の頼みだから、最高のもてなしを…そうおっしゃっていましたから」
「坊ちゃん…?」

女中の言葉に、小首を傾げる。
すると、もう一人の女中がハッとした。

「ちょっと、人前で坊ちゃんなんて知られたらヘソを曲げるわよ?」
「あっ、そうだったわね…瑞乃様、失礼いたしました。颯様が、天海様とは幼い頃からのご友人なのです。その友人の頼みなら、と…そうおっしゃっていました」

こほん、と咳ばらいをして誤魔化しながら瑞乃に伝えた。

「そう、なのですね…」

親切にしてくれる朗が、軍人というだけでも雲の上にいる人のように思っていた。
さらに、帝都で三本の指に入る名家と言われる阿佐ヶ谷家の当主とは幼馴染と知り、勝手に距離ができているような気がした。

(…最初から、近いわけでもないのに――どうして、こんな図々しいことを考えてしまうのかしら)

小さく首を横にぶんぶんと振って頭の中から、朗を消そうとする。
けれど――朗のことは頭の片隅にひっそりと根を生やすように住み着いていた。

「瑞乃様…?」

瑞乃の様子に、女中が心配そうに声をかけるとハッとする。

「も、申し訳――あっ、いえ。少し、考え事をしてて…」
「よかった。具合でも悪いのかと…さぁさぁ、お召し物はどれにします?」

目をキラキラと輝かせる女中達。
着物から見える手足は細く、髪はボサボサ。
みすぼらしいと言われる容姿だけれど、女中たちは、瑞乃の中に隠れていた美しさに胸を躍らせていた。
睨んでいると椿や香鈴から言われる目は、大きくてぱっちりとした二重瞼に長く、ふさふさとした睫毛。
鼻筋はすっと通っていて、ふっくらとした形の良い唇。
無駄な肉がついていないシャープな輪郭に小さな顔。
磨けば輝くダイヤモンドの原石のような女性だと見抜いていたのだ。

「え…えっと…」

これまで、選択という自由を与えられたことのない瑞乃にとって、あまりにも多い選択肢を前に、瑞乃は困り果てた。
どれを選べば、この人たちは喜ぶのか。
逆に、どれかを選んでしまえばがっかりされてしまうのか。
他人の目を常に気にしている瑞乃にとって、それは苦渋の選択だった。

「あのう…もしよろしければ、私達がお手伝いしてもよろしいですか?」

おずおずと控えめに手を挙げる女中に、瑞乃はホッと胸を撫でおろした。

「は、はい…! ありがとうございます」
「ふふっ。それでは…瑞乃様は、お着物をお召しになることが多いですか?」
「は、はい…」

むしろ、洋服なんて着たことがないけれどそれはそっと口をつぐんだ。

「でしたら…このお色なんていかがですか? 淡い水色で、足元にはほら。紫陽花。今の時期にぴったりでしょう?」
「そ、そう…ですね」

こくりと瑞乃が頷けば、目を輝かせる女中。
瑞乃の体をカーテンの付いている部屋の隅へと誘導すれば、女中一人が一緒に入った。

「ささ、お手伝いしますよ」
「えっ…わっ」

女中の手が瑞乃の手に伸びて、腰に巻いた朗の軍服を解いていく。
大きく破れた着物が露わとなり、恥ずかしさから顔を真っ赤にする。
服に詳しそうな女中達なら、この着物が何度も繕われて古着同然ということがバレてしまう。
そんな着物を着ている者になんて、服は渡さない――そう言われたって、おかしくない。
そう思いぎゅっと目を閉じた。

「瑞乃様。大丈夫ですよ。たしかに切り口は大きいけれど…直せないものではありません」
「え…?」

女中の言葉に、目を丸くする瑞乃。

「そのお着物、大切な代物なのでしょう? 何度も繕われてまで着ていらっしゃるもの…それを見抜けない私ではございません」

女中の優しい目に、瑞乃の目頭は熱くなった。

『何よその汚い格好!』
『本当、みっともない。アンタ、絶対に日下家の人間なんて言うんじゃないわよ! ウチの品位が落ちるから!』

着物を買い与えられないから――ということもあるけれど、それ以上に母が身につけていた着物を絶対に手放したくなかった。
そのため、何度も繕ってきた着物を椿達には散々嘲笑われてきた。
けれど、女中の言葉は椿達とは正反対で瑞乃に寄り添ったもの。
温かい言葉に、涙が零れないようきゅっと唇を噛みしめた。

「はい…亡くなった母の着物、なんです」
「まぁまぁ。それは…でしたら、なおさら。きちんと直してお返ししますね」
「えっ…で、でも…」

新たな着物まで用意してもらうというのに、そこまでの迷惑はかけられない。
そう伝えようとしたけれど、女中は首を横に振った。

「大丈夫です。だって、天海様からも、颯様からも承っていますから」

ふふ、と小さく笑う女中。

「あ…ありがとう、ございます…」
「いえいえ。それでは、着替えたらそのお着物は阿佐ヶ谷家がお預かりしますね」

女中の言葉にこくりと頷き、瑞乃は新しい着物に袖を通した。

「まぁ! よくお似合いですねっ」
「瑞乃様はお上品ですもの。淡いお色がよくお似合いです」

カーテンから姿を現した瑞乃に、外で待っていた二人がきゃっきゃとはしゃぐ。

「それでは、私はお化粧を!」
「私は、髪型を整えさせていただきますねっ」

瑞乃を取り合うように言い、鏡の前に座らせた。

「っ…」

綺麗な着物を着たところで、自分まで綺麗になれるわけではない。
顔色は悪く、髪はボサボサ。
そんな自分の姿から視線を逸らした。

「…瑞乃様。粉が目に入ってはいけません。目を閉じていただけますか?」
「は…はい…」
「終わったら、お声がけしますから」

瑞乃の行動に、何か事情があると察した女中が優しく伝えると、瑞乃はこくりと頷いてそっと目を閉じた。
その間に、顔には筆先のくすぐったい感触と髪には、ふわりと花の香りがする髪油を馴染ませられた。

「…さぁ、終わりましたよ」
「は、はい――っ!」

十数分ほど目を閉じていたが、女中の声でゆっくりと目を開ける。
そして、目の前には――あの日の母に見える自分の姿があり、目を丸くした。

(お母様…? いえ、私、だから…でも…)

化粧をし、髪型を整えるだけでこれほど似るというのが不思議だった。
弓乃は寝たきりなことが多かったけれど、それでも朝起きて化粧をしていた。
たまにしか帰ってこなかった清のために、そして瑞乃のために綺麗でいたかったのだ。

「まぁあああっ! 可愛らしいっ」
「本当ねぇ。お人形さんみたいじゃない」
「瑞乃様は元がよろしいですからね。私達も綺麗にし甲斐があるってものですよ」

外では反国組織による暴動が起きているが、瑞乃が入った部屋の雰囲気はほのぼのとしていた。
三人の女中の手によって、瑞乃の姿は見違えるほど華やかになっていた。