緑豊かな木々に囲まれた土地に建つ高い塀。
それらは、その中にある広大な敷地に古くから続く異能一族・日下家を守っているようだ。
ただ、高い塀の中の様子は他の者からは見ることができない。
その中で何が行われているのかというのは、日下家の一族と、そこで働く使用人しか知らない。
「っ! ちょっと、お姉様! あなたがそこにいるせいで失敗したじゃない!」
来週に控えた異能試験を前に、いつも以上にきつく理不尽なことを言うのは日下香鈴。
異能を持つ者は人口の二割。
しかし、その力を公に使うには国が定めた試験に合格しなければならない。
強大な異能が無秩序に使われれば、国を揺るがしかねないからだ。
香鈴が所望した紅茶をいつ出そうかと稽古場の扉からひょっこりと顔を覗かせていた姉の日下瑞乃は、怯えてビクッと肩を震わせた。
「も…申し訳ありません…あの、お紅茶を…」
「っ、今そんなものが必要ないって分からないの!? アタシが今、必死に試験に備えているっていうのにっ!」
つい、十分ほど前には紅茶とそれに合う洋菓子を用意するように言っていたのに、手のひらを返した発言はまさに理不尽である。
けれど、瑞乃にとってこの程度の理不尽は、もはや日常だった。
このようなことは、日常茶飯事行われているのだ。
「よしなさい、香鈴。貴女の大切な時間をあんなのに費やすんじゃない」
「っ…お母様…」
香鈴の練習を見ていた継母の椿が涼しげに扇いでいた扇子を閉じればギロリと瑞乃を睨みつけた。
「っ…」
その視線に思わず声を漏らす瑞乃。
一歩退けば、椿がズカズカと間合いを詰めてきた。
閉じたばかりの扇子を大きく振りかぶれば、瑞乃の頬を目掛けて勢いよく振り下ろした。
パチン、と乾いた音が響き、瑞乃の身体が床へ倒れ込む。
盆に乗せていたティーカップと皿がガシャンッと音を立てて割れた。
紅茶がピシャッと飛び散った。
「あらあら…お紅茶とお菓子が…たぁいへんっ」
口では心配するようなことを言いながら、香鈴の頬は愉快そうに緩んでいる。
「チッ…汚いわね…! そうだ。アンタなんかじゃ飲めないような紅茶と菓子よ…? 責任を取って食べなさい」
「ひっ…う、うぅっ…」
椿が横たわる瑞乃の後ろ髪を掴み、紅茶が飛び散った床へ擦り付けた。
その時、一瞬ーー稽古場の前をちらりと一瞥して通り過ぎる日下家の当主であり瑞乃の父である清と目が合った。
けれど、血の繋がる娘がこのような目に遭っても清は助けになんて入らない。
(痛いっ…助けて…っ、おじい様っ…)
一瞬だけ、助けてくれるかもしれないと思ってしまった。
けれど、それはあり得ない。
瑞乃が唯一頼れるのは、寝たきりの祖父しかいなかった。
***
瑞乃の扱いが変わったのは五歳の時。
病気により亡くなった瑞乃の母、弓乃に代わって世話をしていた祖父が、寝たきりになったのがきっかけだった。
弓乃が十八歳になった時、結婚したい人がいると連れて来たのが清だった。
けれど、清は異能を使えるものの、異能一族の名門と呼ばれる日下家と釣り合わない家の出身だった。
迎え入れることを瑞乃の祖父、和正はひどく反対した。
しかし、挨拶に来た時にはすでに瑞乃を妊娠していることが分かった。
弓乃は昔から病弱で、出産が厳しいことは明白だった。
ところが、授かった命を無下にすることはできず、祖父は泣く泣く清を婿養子として受け入れた。
出産時に大量に出血したことが原因で、弓乃は布団の上で過ごすことが多くなり、瑞乃を抱いたのは出産した直後だけだった。
だが、母からの愛情が乏しかったということはなく寝たまま瑞乃の頭を撫でたり、添い寝をすることがあった。
その穏やかな日常が長続きすることはなく――瑞乃が三歳になった時、弓乃はこの世を去った。
「貴様のことだけは、絶対に許さん。お前は、我が日下の地位と名誉と財力が欲しいだけだろうが」
弓乃が亡くなって、葬式を終えて和正が清と二人きりになった時――物凄い形相で睨みつけて冷たく言い放った。
祝言を挙げる前に娘を妊娠させ、その弓乃が亡くなったことで清のことを和正はひどく憎んだ。
清の血が入っている瑞乃のことも恨みそうになったけれど、半分は弓乃の血が流れている。
そして、瑞乃は弓乃の生き写しのようにそっくりなことから憎むことはできなかった。
弓乃が亡くなってからの二年間、和正は母親代わりのように瑞乃を大切に育てた。
「瑞乃。お前は特別な存在だ。儂から家督を継ぐのは、あの男ではなくお前だ」
瑞乃にはまだ理解が難しかったけれど、和正は何度も言い聞かせるように言った。
和正は、清に家督を継がせる気はなかった。
その事実を知ってから、清は日下家に帰らない日が増えた。
どれほど恨んでも、清は瑞乃の父ということで和正は清のことを追い出そうとはしなかった。
その和正までもが、瑞乃が五歳の時に床に伏した。
瑞乃の目には、和正はずっと元気に見えていた。
だからこそ、突然床に伏したことが信じられなかった。
母を亡くして間もないうちに、今度は大切な祖父まで。
しかし、悲しむ間もないほどに瑞乃の生活は一変した。
和正が床に伏せた日に、たまたま帰ってきていた清。
使用人達が慌てており、「当主様が倒れた」という話を聞いたのだ。
次の日には、椿と香鈴を連れて日下家へやって来た。
「やっと、この家に私達が住めるのねっ」
初めてやって来た立派な日下家に、目を輝かせて嬉しそうにする派手な身なりをした椿。
まだ一歳になったばかりの香鈴は、見慣れない場所をきょろきょろと見渡していた。
「お…父様…?」
和正が倒れたことで頭がいっぱいになり、状況を飲み込めない瑞乃。
奮えた声で呼びかけると、清と椿がギロリと鋭く睨みつけた。
「チッ…子どもが残ってるのだけが目障りね」
明らかに不機嫌に言う椿。
初対面の大人にこれほど悪意を向けられたのは初めてで、小さな体を震わせる瑞乃。
「体が弱いと聞いていたから、子どもなんて生まれずに母子共に死ぬと思っていたのに…面倒なのが残ってしまった」
非人道的なことを平然と言えてしまう清。
和正が思っていた通り、清は弓乃を愛していたのではなく、日下家の権力欲しさに弓乃と結婚をしたのだ。
それから十二年。
次期当主となるはずだった瑞乃は、その約束を奪われ、清たちから冷遇され続けている。
***
あれから一週間が経過し、瑞乃は庭の掃除をしていた。
夏が近づき、ただ外にいるだけでじんわりと汗をかく時期の庭掃除は使用人の誰もが嫌がる。
しかし、瑞乃は自ら外の掃除を進んでしていた。
この時期の掃除は一人でやらされるが、瑞乃にとって一人で作業をするのは心地よかった。
椿と香鈴から嫌味なことを言われることも、暴力を振るわれることもない。
それだけで、瑞乃の心はほっと落ち着くのだ。
(草抜きは終わったから、次は石畳の掃き掃除をしないと…)
頭の中で次の作業を効率よく組み立てて、物置から竹ぼうきを取り出して玄関前の石畳に向かった。
すると、玄関前に人影が見えた。
何色にも染まらない漆黒の軍服をまとい、帽子を深くかぶっている。
遠目からでも確認できるほど、胸には無数の徽章が付いている。
帝都軍に所属する軍人で、かなり立場の上の人だと分かった。
(ぐ…軍人様が、日下家に…?)
何か悪いことをしたというわけではないけれど、軍人の威圧的な雰囲気に圧倒されて思わず竹ぼうきが手から落ちてしまった。
「あっ…」
カタン、とほうきを落としてしまうと、男性の目が瑞乃に向いた。
「ちょうどよかった。日下家の人間か?」
男性を正面から見ると、一層緊張が高まった。
彼は瑞乃よりも、うんと背が高い。
軍服を着ていても普段の訓練で鍛えあがっているのが分かる逞しい肉体。
短く整えられた黒髪は柔く、しなやかに見える。
切れ長な目に、氷のような冷たく見える青い瞳。
通った鼻筋。
(綺麗な、人…)
人形のように整った顔立ちで、今まで見たどの男性よりも美しかった。
思わず目を見開き、うっとりとしてしまったがすぐに目を逸らした。
そして、目を逸らした先には腰に携えた刀。
その存在が、一気に瑞乃の緊張を高める。
「っ…は、はい…」
固まってしまったものの、こくりと頷けば一歩ずつ瑞乃に歩んでくる男性。
あっという間に目の前に来ると、男性はぺこりと小さく会釈をして落ちた竹ぼうきを拾い瑞乃に差し出した。
「も、申し訳ありません…軍人様に、こ…このようなことを…」
瑞乃は深く頭を下げて竹ぼうきを受け取った。
「この程度のこと、構わない。キミは――奉公人、か?」
「え…あ、は、はい…」
瑞乃の胸がちくりと痛んだ。
十二年もの間、清達から冷遇されてきたものの、他人から日下家の人間でないと言われるのは辛いものがあった。
「そう、か――では、これを当主に渡してもらいたい」
瑞乃の言葉に違和感を感じ、目を細める男性。
けれど、それ以上言及することはなく一通の封書を瑞乃に差し出した。
「阿佐ヶ谷家からの催しの招待状と伝えてくれ」
「軍人様が、郵便を…ですか?」
つい口に出してしまうと、彼の眉がぴくりと動く。
(しまった…!)
慌てて封書を受け取ろうとした手で口元を押さえた。
彼は瑞乃が封書を受け取るとばかり思っていた。
その手から封書がひらひらと舞ってしまう。
「あっ…」
瑞乃は軍人から受け取るものを落としてはいけないと思い、手を伸ばした。
彼も落ちそうになる封書に反射的に手を伸ばした。
すると、二人の手が宙でそっと触れ合った。
「っ…! も、申し訳ありませんっ」
慌ててパッと手を引き、地面に落ちた封書を拾った。
(い、嫌だわ…! 軍人様に、ふ…触れちゃった…!)
異性であり軍人の手に触れただけで、ポッと瑞乃の頬は赤く染まった。
しかし、彼の方は瑞乃に触れた手をじっと見つめて固まっていた。
「っ…こ、これ…渡しておきますからっ…申し訳ありませんっ…」
彼を不快にさせたと思い、また深く頭を下げて口早に告げるとさっさと屋敷へ向かった。
(嫌だわっ…私、手…汚れてるのに…きっと、軍人様だって、嫌な思いをしたに違いない…)
先程まで庭仕事をしていた手を見た。
手は土まみれで、日頃の水仕事で荒れている。
とても、年頃の娘の手には見えなくて恥ずかしくなった。
自分なんかが、誰かを異性として意識してしまったことが恥ずかしくてたまらなかった。
「待ってくれ」
「え…?」
屋敷に入り扉を閉めようとした時。
ハッとした彼が瑞乃を呼び止めた。
その声に、いそいそとしていた瑞乃の動きも止まる。
「キミーー名はなんという」
「っ…瑞乃と申します」
突然名を聞かれれば、目を丸くした。
しかし、すぐに答えてピシャリと引き戸を閉めてしまった。
***
「…瑞乃、か」
聞いた名をぼそりと、確認するように呟いた。
最近、帝都内では国を転覆させようと企む反国組織の動きが活発になっている。
そのため、帝都内で三本の指に入る名家と呼ばれる阿佐ヶ谷家が催しを開くということに国の治安を護る帝都軍は警備に当たることとなっていた。
また、招待状に妙な細工をされないよう、招待する異能一族一軒ずつに手渡ししていた。
その任務をこなすために、日下家を訪れた男性――天海朗が瑞乃に触れた手をじっと見て拳を握ったり開いたり繰り返した瞬間ーーボッと轟々とした炎が巻き上がった。
久しぶりに見る異能に、朗は目を丸くした。
これは、朗にとってーーあり得ないことだった。
「どういうことだ…私はもう――異能を使えないのに」
朗は自身の肩にそっと手を触れた。
そこには、半年前に当時所属していた部隊の仲間を反国組織の攻撃から庇った際に受けた呪いが刻まれている。
その呪いは、異能を全く使えなくするという異能者にとって致命的なものだった。
反国組織の制圧には成功したけれど、朗に呪いをかけた反国組織の一員は捕まる前に――自害した。
そのため、朗は生涯異能を使えなくなった――そう、思っていたのだ。
「あら…軍人…様?」
たまたま買い出しへ出ていた使用人が、日下家へ来た珍しい訪問者に目を丸くした。
「失礼。先ほど、奉公人に用件は伝えた」
「左様でございますか――あの、失礼ですけれど…もしかして、所属って…『先陣隊』でしょうか?」
朗に丁寧に頭を下げる使用人。
そして、彼の胸にたくさんついている徽章のうち多くの国民が知る特殊なものを見つけてさらに目を大きく見開いた。
「えぇ。私は帝都軍先陣隊に所属している天海朗です」
「先陣隊…やはり…いつも、ありがとうございます」
使用人は朗の所属を聞き、深々と頭を下げた。
先陣隊とは、どのような状況においても先頭に立ち、仲間の道を作るための英雄――国民にはそう称されている。
国のために、民のために働く軍人は国民から尊ばれており、特に先陣隊は絶大な支持を得ている。
けれど、国民はその実情を知らない。
先陣隊は呪い等で異能を失った者が集められ、危険任務にばかり就かされることから一年以内にほぼ死ぬ『死兵隊』と軍内で呼ばれる部隊だということを。
異能を持っていることが当然の帝都軍の中で、異能を失った隊士の“お払い箱”とされていることを。
「いえ。民のために働くのが我々の役目ですから」
朗も、異能を失ってすぐに先陣隊へ配属になった。
先陣隊へ配属された者の多くは、一年以内に殉職する。
朗には、異能の他に剣技の才があったため今日まで生きながらえてきた。
共に肩を並べて生きて来た仲間が死ぬのを目の当たりにし、明日には今日まで普通に話していた者が死ぬかもしれないという綱渡りのような状況にいる。
朗もまた、自分だけが例外だとは思っていなかった。
いつか来る死を、ただ静かに待っている。
朗の言葉に使用人が目を涙ぐませると、深々と頭を下げた。
そんな使用人に朗も会釈をして日下家の敷地を後にした。
「そういえば、彼女に名乗らなかったな…まぁ、またすぐに会いに来る。瑞乃」
そう呟いている事は、瑞乃は知らない。
***
屋敷に入ると、受け取った封書を清に渡すため瑞乃は座敷へ向かった。
この時間、清は座敷で新聞を読んでいるのだ。
しかし、普段なら静かな座敷から賑やかな声がして瑞乃の体は固まった。
声だけで、香鈴と椿もいることが分かったからだ。
(っ…大丈夫、封書を渡すだけ、なんだから)
ごくりと生唾を飲み込み意を決して盛り上がっている座敷に恐る恐る顔を見せた。
すると、楽しそうに話していた雰囲気から一変し、ピシャリと話し声が聞こえなくなった。
氷点下のように冷たい視線を瑞乃に向ける。
「あ、あの…お父様…その…」
「ーーなんだ。用があるならさっさと言え」
緊張した空気に言葉を詰まらせる瑞乃。
清はその様子に苛立ったように、短く言い放った。
「あの…これ、を…」
震える手で軍人からもらった封書をそっと差し出すと、奪うように荒々しく受け取った。
封書に乾いた土が付着しているのを見ると、眉をぴくりと動かして瑞乃をちらりと見た。
その視線に、ビクッと肩を跳ね上げる。
委縮した瑞乃の態度を見て、清は視線を逸らした。
よかった、と安堵したのも束の間。
今度は椿が口を開いた。
「あら、なぁに?」
清にべっとりとくっついて猫なで声で尋ねる椿。
清は受け取った封筒の裏面を見るが、差出人の記名はない。
「これ、誰から受け取ったんだ?」
「あの…軍人様から受け取りました。阿佐ヶ谷家が開く催しの招待状、と…おっしゃっていました」
瑞乃の口から『軍人』と『阿佐ヶ谷家』という、彼女には縁遠いはずの名が出たことで、清たちは目を見開いた。
「軍人様から!? どうして阿佐ヶ谷家の催しの知らせを軍人様が持ってくるのよ!?」
「そうよっ! アンタ、その格好で対応したんじゃないでしょうね!? みっともない…まさか、日下家の人間と知られていないでしょうね!?」
香鈴と椿が瑞乃の言葉に被せるように責め立てる。
帝都軍は国を守る精鋭たちであり、異能一族であっても直接言葉を交わせる者は限られている。
そんな人達が、わざわざ招待状を持ってくるという異常とも思える状況に声を張り上げる。
そして、阿佐ヶ谷家というのは帝都で三本の指に入る名家。
数百年続く老舗旅館を経営している一族だ。
日下家は足元にも及ばない。
「…いえ。軍人様は、私を…奉公人、と思っています…」
かつて、祖父から次期当主の座を譲り受けるはずだった瑞乃。
しかし、祖父が倒れ今も寝たきりの状態でその間に清が家督を継いでしまった。
その状況は受け取りがたかったが、覆すことのできない事実となってしまった。
自分で日下家の人間ではなく、奉公人と思われたと告げるのは胸がきゅっと締め付けられた。
そして、その事実を告げると、「ぷっ…」と香鈴が笑った。
「あははっ! やっぱりね! だって、お姉様って…ねぇ?」
吹き出した後に、大げさに声を上げて笑う香鈴。
瑞乃を指さして頭のてっぺんからじっくりと改めて瑞乃を見ると、目じりを下げた。
瑞乃は、何度も繕われた古着同然の着物を着て、髪は艶がなくボサボサ。
ロクに食事を食べられない日も多いため、着物から見える手足は細く血色も良くない。
おまけに、日ごろの家事で手も年頃の娘のものとは思えないほど荒れていた。
母の椿に同意を求めるように視線を送る香鈴。
「そうねぇ…まぁ、軍人様だから…さすが、分かっているわ」
椿も同じように、瑞乃を見下した目でじろりと見る。
普段なら、瑞乃の重い前髪から覗く目と合っただけで「睨んだ」と言いがかりをつけるのに、見下している今は嫌というほどみすぼらしい瑞乃を見る。
そして、椿は瑞乃とは対照的な娘の香鈴を誇らしく思った。
香鈴は異能試験にピリピリしているけれど、いつも通りであれば合格できる知識と技量がある。
そして、髪色は明るい栗色で最近流行りのウェーブ。
メイクも垢抜けていて、派手でハイカラな着物を着こなせる美貌。
異能者としての実力は、すでに日下家の中でも頭角を現している。
瑞乃のことは憎いと思いながらも、自身の娘と比較するための対象としては面白くて仕方ないのだ。
「――それで、なぜ軍人が招待状を持ってきた? 従来通りなら、配達員が持って来るだろう?」
二人の笑い声を遮るように言う清。
「それは…申し訳ございません。分かりません…」
そこまで聞くという頭が回らなかった。
軍人に不快に思われたという恥ずかしさから、一刻も早く立ち去りたかったのだ。
「まったく…お前、封書はいつも配達員が持って来るのに、どうしてそこに違和感を持たないんだ」
「申し訳ありません」
謝る言葉はすらすらと出てくる。
それほど、謝ることに慣れている証拠だ。
瑞乃が深々と頭を下げると、清は呆れたようにため息を吐きながらも封書を開けた。
「…阿佐ヶ谷家の当主が、息子が家督を譲った。パーティーを催し、そこで紹介するらしい」
清が文を読み上げると、椿と香鈴の目の色が変わった。
「まぁ…! 阿佐ヶ谷家の息子さんに…!?」
「颯様がっ…!」
阿佐ヶ谷颯――柔和な美貌と紳士的な振る舞いで知られ、次期当主だった頃から帝都中の令嬢が注目していた男だ。
それは、まだ結婚できない年齢の香鈴も同じである。
椿は、阿佐ヶ谷家との縁ができるかもしれないという嬉しさに口元を緩ませた。
そして、香鈴も阿佐ヶ谷家へ入り込むきっかけができるかもしれないというわずかの可能性に胸をときめかせていた。
「ふっ…二人の思っている通り、この催しはそういうことも目的としているようだ」
清が、椿と香鈴に文を見せる。
二人が文を覗き込むように見ると、一文に目を輝かせた。
「女性の参列者歓迎…ですって!」
「あらあらっ! アタシが颯様の妻に選ばれちゃったらどうしましょうっ!」
「もうっ。香鈴が結婚できるのは、あと二年後でしょうっ。でも、香鈴なら…颯様も待ってくださるかもしれないわ。二年くらい」
椿と香鈴が見つめ合って嬉しそうに笑う。
瑞乃はただ、早くこの場から解放されることだけを願っていた。
視線を落としていると、香鈴は瑞乃に口を開いた。
「お姉様も行くでしょう?」
「…え?」
それは、意外だった。
思わず、顔を上げたけれど――そこに浮かんでいたのは、悪意を隠そうともしない笑みだった。
今まで、瑞乃はこのような催しに参列したことがない。
清達は瑞乃を日下家の人間だと知られたくなかったからだ。
香鈴の言葉に、瑞乃が声を漏らすと椿も目を少し大きく見開いた。
「えぇっ!? 香鈴、どうしてそんなことを言うの? あんなの連れて行ったら、日下家の格が下がるじゃない」
瑞乃を一瞥して、嫌そうな顔を浮かべる椿。
その言葉に、瑞乃の心はぎゅっと締め付けられた。
また、視線を落としてしまう。
「だって、颯様と会うのだからきちんと準備しないといけない。そのためには――荷物持ちが必要、そうでしょう?」
椿にそう告げると「あぁ…」と納得したように声を漏らした。
「そういうこと…そうね。さすがは香鈴。賢いわねぇ」
椿はまた、香鈴を誇らしげに見つめた。
「そうでしょう? お姉様だって、アタシがその日のうちに颯様と恋仲になれば…お話しできるかもしれないわよ? お姉様なんかじゃあ、一生縁のない阿佐ヶ谷家のご当主様と…ね?」
「っ…分かり、ました」
香鈴の言葉に、きゅっと唇を噛みしめて頷いた。
「あぁっ! 本当に楽しみっ。ねぇ、お父様っ。新しい着物…いえっ。ドレスにしようかしら!? 買っても良い!?」
「あぁ、構わない。椿も一緒に選んでやってくれ。これは、日下家総出で努めなければならない」
「そうねっ。香鈴、明日にでも街に新しくできたデパートメントに行きましょう」
瑞乃は蚊帳の外だ。
瑞乃は何度も繕った着物しか着られない。
今着ている着物も、弓乃が着ていたものを何度も繕ったためボロボロだ。
しかし、香鈴はまだ問題なく着れる着物や洋服があっても次々と新しい服を買い与えて貰える。
それは、年頃の瑞乃にとってとても羨ましいもので、三人の楽しげな声を聞いているうちに、胸の奥がじくじくと痛んだ。
同じ父を持つ娘なのに、どうして自分だけ――。
そんな考えが浮かびそうになり、瑞乃は慌てて目を伏せた。
***
数日後、瑞乃が廊下に這いつくばりながら雑巾で床を磨き上げていると香鈴の部屋から楽しそうな声が聞こえた。
「ねぇっ。こっちの赤いドレスの方が良いかしら!? それとも、紫で大人っぽく行こうかしらっ!?」
きゃっきゃと楽しそうに椿に言う香鈴。
つい最近まで試験勉強にピリピリしていた。
まだ試験が終わったわけではないが、香鈴がこれほど浮足経っているのは来週に控えた阿佐ヶ谷家主催の催しへ参加するためだ。
そこで、帝都中の女性が狙う阿佐ヶ谷颯の妻の座につけるかもしれないと、内心ほくそ笑んでいる。
香鈴はまだ十六歳ではあるが、結婚はできなくても二年間の花嫁修業という名目で、阿佐ヶ谷家へ入り込むことはできる。
それを虎視眈々と狙っているのだ。
「ふふっ。香鈴は華やかだからどちらもよく似合うわ。髪もメイクもいつも以上にうんと派手にしないとね」
「えぇっ。明日にはパーマ屋へ行って、髪を整えてくるのっ。あぁっ、本当に楽しみっ」
「そうねぇ。私も楽しみよ。香鈴が阿佐ヶ谷家の妻になったら、本当に誇らしいわっ」
香鈴がまだ、結婚できる年齢ではない。
それにも関わらず椿はもうすでに香鈴が選ばれることを見越しているかのように話す。
(来週は荷物持ち…それなら、今日はいつもより入念に掃除をしないと…)
部屋から聞こえる声に自然と意識が向いてしまう。
けれど、瑞乃がすべきことは目の前の掃除。
一通り廊下の拭き掃除を終え、ふと顔を上げた。
そこには、入念に掃除をすると決めて拭き上げた窓ガラスに映る自分の顔があった。
みすぼらしく、醜い顔にすぐに顔を逸らした。
(嫌い、嫌い――大嫌い。記憶の中にあるお母様と…よく似ている顔だけど、私は…お母様のようには、なれない…)
頭の中に浮かぶ弓乃の記憶は、三歳までのものしかなくその記憶は日を追うごとに遠ざかり靄がかかっていくようだ。
忘れたくないのに、消えてしまう。
弓乃とよく似ている顔も、本当に似ていたかどうかも怪しく思えるほどだ。
掃除を終えると、今度は和正の部屋に向かった。
和正は寝たきりだが、まだ生きている。
瑞乃にとっての唯一の肉親で大好きな祖父。
ただ、祖父のことは日下家にいる使用人達みんなから慕われていたため、祖父の身の回りの世話は肉親の瑞乃でも月に数回しかできなかった。
「おじい様。今日、とても天気が良いんですよ。障子、開けますね」
返事はないけれど、寝たきりの祖父がいる部屋に入ると自然と話しかけてしまう。
「私、来週初めて催しに行くんです…といっても、香鈴の荷物持ちなのですけど」
和正の体を拭き上げながら、そう話しかけた。
やはり返事はないけれど、言葉は続けてしまう。
「おじい様が起きていたら…私も一度くらい、綺麗な着物を着て行けたのでしょうか――なんて、身の程知らずにもほどがありますか、ね」
和正の背中を拭きながら声が震えてしまう。
和正に、このような話を聞かせるのが申し訳なかった。
次の当主になるはずだったのに、和正の力がなければなにもできない。
そして、今は使用人同然の扱いを受けている。
日下家の直系の血筋を受けているというのに、その瑞乃には立場がないのだ。
「私が無能、だから…おじい様のように、力があれば…それなのに…」
異能一族に生まれておきながら、無能――自分が悪いと思い込んでいながらも、罪悪感からぽろりと涙が頬を伝う。
無能な瑞乃のことを、たまにしか家に帰ってこなかった清は軽蔑していた。
しかし、和正はそんな瑞乃のことをいつも――庇っていた。
『瑞乃は特別だ。軽視することは、儂が絶対に許さない』
そう、何度も言っていた。
ただその言葉は、いくつになっても異能を開花させないけれど初孫の瑞乃が可愛いからだと周囲には思われていた。
瑞乃の中に眠る力に気づいている者は、祖父と、つい最近出会ったあの軍人だけだった。

