待ちに待った日曜日。駅前の銅像の下で、俺は何度も深呼吸をしていた。
二人きりではないにしても、私服姿の先輩に会えると思うと、さっきから胸が高鳴って仕方ない。
ちらちらとスマホの画面に映る時刻に目を向けるが、おかしい。さっきから全く進んでない。どうやら一分間のうちに何度も時刻を確認してるらしい。どんだけ楽しみなんだよ、俺。
スマホを見るのはもうやめようと視線をあげたとき、向かいに何やら光り輝く気配を感じた。
実際には光ってはいないのだが、俺の目にはそう見える。
「先輩!」
遠くからでもわかるように、大きく手を振ると、隼人先輩は俺に気づいたようでこちらに向かって歩いてくる。
少し大きめの七分袖の黒のシャツに、デニムというラフな格好にもかかわらず、先輩が通るたびに周りの女子が振り返る。
きっと先輩なら何を着ていても注目の的なのだろう。
「おはようございます」
「はよ。お前早くね?」
「先輩だって早いじゃないですか」
だってまだ集合時刻の二十分前だ。
「俺は、誰かさんが方向音痴で道に迷うかもしんねーと思って、迎え行けるように早めにきてたんだよ」
「それって……俺のことですか?」
「他に誰がいるんだよ。まぁ杞憂だったけど。今日はちゃんと来れたんだな」
いつもはクールな隼人先輩の柔らかな笑顔に、心臓が鷲掴みされる。
ていうか、俺のこと迎えに行こうとしてくれたのか。どうしよう嬉しすぎる。
「実は迷子になるのも見越して予定よりずっと早く家出たんです」
だって先輩とのデート。遅刻するわけにはいかない。
「でも、先輩が迎えに来てくれるんだったら、もっと遅く家を出て、もっと迷えばよかった……。そしたら先輩が颯爽と迎えに来てくれたのに……」
「ふっ、なんだそれ」
先輩は薄い唇からわずかに歯を見せて笑った。きっと冗談だと思っているのだろう。
でも俺はめちゃくちゃ本気だ。本気で反省している。もっと道に迷えばよかった。
だってそしたら先輩と二人きりでいられたのだ。
俺が肩を落としたそのとき、二人のスマホが同時に鳴った。
見ると、花村先輩からグループにメッセージが届いていた。
『金田とふたり、道に迷った。先に球場行っておいて』
二人で顔を見合わせる。
「……迷ってるな」
「……迷ってますね」
思わず、噴き出すと、先輩もくくくっと笑った。
「じゃあ、先行くか」
「はい!」
ふたり並んで歩き出す。こうしていると本当にデートみたいだ。
嬉しさで胸が高鳴る一方で、改札に向かう足が徐々に重くなる。
心はこの状況を楽しんでいるのに、まるで身体が自分のものじゃないみたいに言うことを聞いてくれない。手に汗が滲み、心臓が嫌に脈打つ。
けれど、そんなことには気づかないふりをして、俺は自分に言い聞かせた。
今日はきっと大丈夫。きっとあんな風にはならないはず。隣には先輩がいるし、いまだってこんなに楽しいじゃないか。
「おい、どうした?」
気づけば俺は改札の前に立ち尽くしていた。先輩は改札を通った先でこちらを見つめている。
大丈夫。症状がでるのは毎回じゃないし、最近は調子が良いし。
なのに、足が思うように動かない。
先輩は訝しげな表情で、こちらを見ていた。
嫌われたくない。今日のデートをこんなことで終わらせたくない。
その一心で、強張っていた身体を無理やり動かす。
「あっ、あの……スマホ! そう、スマホ見つからなくて。でも、いまありました!」
わざとらしいくらいにおどけてみせる。
先輩は少しだけ不審そうに俺をみながら、でもそれ以上は何も訊かなかった。
ホームに着くとすぐに電車が到着した。休日の電車はもちろん席が空いているわけもなく、二人で扉の前に並んで立つ。
発車のベルが鳴り、扉が音を出して閉まったその瞬間、俺が一番恐れていたことが現実になった。
窓の外で景色がゆっくり流れていくにつれ、息がどんどん浅くなっていく。
心臓が不規律に跳ね、視界が揺らぐ。
目の前で先輩が何かを話しているようだったけれど、その内容が全く頭に入ってこない。声が音としてしか耳には届かず、ただ雑音の一部となって溶けていく。
そんな俺の様子に気づいたのか、先輩は急に顔色を変えた。
「お……い。……大丈……か? チワ……おい……る!」
先輩の必死そうな顔が視界に入る。何かを一生懸命に言っているようだ。
『どうしたんですか先輩。そんなに慌てた顔して』
そう笑いとばしたいのに、自分が息を吸っているのか吐いたのかもわからなくなって、一層息が絡まる。
――あ、もう駄目だ。
かろうじて自立していた足が、膝から崩れ落ちる。視界がぐらりと揺れたとき、先輩が俺を抱えるように腕を伸ばした——。
「渉!」
その声に意識が引き寄せられた。先輩の顔と声が徐々に鮮明になっていく。
「降りるぞ」
気づけば電車は停止していて、次の駅に着いていた。まだ降りる駅ではないはずなのに、先輩は俺の手を強く握りしめ、電車をあとにする。
ひどく冷たくなった指先に触れた、先輩の手の熱が少しだけ身体のこわばりをほぐしてくれる。
それでも、完全に元通りになったわけではなく、今も息が上手く回らない。
そんな俺を先輩は優しく抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから」
まばらとはいえ人が行き交う駅のホームで、隼人先輩は人目も気にせず、まるで泣いている子供をあやすように、俺の背中をさすってくれた。
体中を巡っていた恐怖が、先輩の温もりでゆっくりと溶けていく。
「とりあえず、ベンチに座るぞ。動けるか?」
声を出す代わりにコクリと頷くと、隼人先輩は俺の身体を支えながら、ベンチまで連れて行ってくれた。
「ここで待ってろ」
隼人先輩は俺を座らせると、どこかへ駆けた。
しばらくして戻ってきた先輩の手には、一本のペットボトル。
「もし飲めそうなら」
蓋を開けて差し出されたペットボトルを受け取る。うまく指先まで力が入らなくて、両手で包み込むようにして持つ。
「……ありがとうございます」
「無理に飲まなくてはいいからな」
「はい」
ついさっきまで息ができないほどに苦しかったのに、今はもうあの震えが嘘のように落ち着いた。
もらったペットボトルを飲もうと上に顔をむけたとき、ホームの時計が目に入った。
「あ! 試合! すみません、遅れちゃいますよね。俺、もう元気になったんで行きましょう」
立ち上がろうとした俺の肩を、隼人先輩が押さえる。
「まだ休んどけって」
「でも、試合が——」
「試合なんかよりお前の身体の方が大事だろ。大丈夫なのか? 病院行くか?」
「……大丈夫です」
あくまで先輩は、俺の身体を気遣ってくれただけ。それなのに、『お前の方が大事』って言われたようで、顔が赤らむ。
それに。先輩と駅のホームでふたりベンチに座るなんて、あまりにも二年前のあの時と重なってしまう。
あのときも、先輩はこうやって俺を助けてくれた。
「……また、助けてもらっちゃいました」
「また?」
隼人先輩はきっと覚えてなんていないのだろう。何のことだろうと困惑している。
俺は渇いた喉を潤すように再びペットボトルの水を飲むと、静かに口を開いた。
「実は、電車で先輩に助けてもらったの、今日が初めてじゃないんです」
二人きりではないにしても、私服姿の先輩に会えると思うと、さっきから胸が高鳴って仕方ない。
ちらちらとスマホの画面に映る時刻に目を向けるが、おかしい。さっきから全く進んでない。どうやら一分間のうちに何度も時刻を確認してるらしい。どんだけ楽しみなんだよ、俺。
スマホを見るのはもうやめようと視線をあげたとき、向かいに何やら光り輝く気配を感じた。
実際には光ってはいないのだが、俺の目にはそう見える。
「先輩!」
遠くからでもわかるように、大きく手を振ると、隼人先輩は俺に気づいたようでこちらに向かって歩いてくる。
少し大きめの七分袖の黒のシャツに、デニムというラフな格好にもかかわらず、先輩が通るたびに周りの女子が振り返る。
きっと先輩なら何を着ていても注目の的なのだろう。
「おはようございます」
「はよ。お前早くね?」
「先輩だって早いじゃないですか」
だってまだ集合時刻の二十分前だ。
「俺は、誰かさんが方向音痴で道に迷うかもしんねーと思って、迎え行けるように早めにきてたんだよ」
「それって……俺のことですか?」
「他に誰がいるんだよ。まぁ杞憂だったけど。今日はちゃんと来れたんだな」
いつもはクールな隼人先輩の柔らかな笑顔に、心臓が鷲掴みされる。
ていうか、俺のこと迎えに行こうとしてくれたのか。どうしよう嬉しすぎる。
「実は迷子になるのも見越して予定よりずっと早く家出たんです」
だって先輩とのデート。遅刻するわけにはいかない。
「でも、先輩が迎えに来てくれるんだったら、もっと遅く家を出て、もっと迷えばよかった……。そしたら先輩が颯爽と迎えに来てくれたのに……」
「ふっ、なんだそれ」
先輩は薄い唇からわずかに歯を見せて笑った。きっと冗談だと思っているのだろう。
でも俺はめちゃくちゃ本気だ。本気で反省している。もっと道に迷えばよかった。
だってそしたら先輩と二人きりでいられたのだ。
俺が肩を落としたそのとき、二人のスマホが同時に鳴った。
見ると、花村先輩からグループにメッセージが届いていた。
『金田とふたり、道に迷った。先に球場行っておいて』
二人で顔を見合わせる。
「……迷ってるな」
「……迷ってますね」
思わず、噴き出すと、先輩もくくくっと笑った。
「じゃあ、先行くか」
「はい!」
ふたり並んで歩き出す。こうしていると本当にデートみたいだ。
嬉しさで胸が高鳴る一方で、改札に向かう足が徐々に重くなる。
心はこの状況を楽しんでいるのに、まるで身体が自分のものじゃないみたいに言うことを聞いてくれない。手に汗が滲み、心臓が嫌に脈打つ。
けれど、そんなことには気づかないふりをして、俺は自分に言い聞かせた。
今日はきっと大丈夫。きっとあんな風にはならないはず。隣には先輩がいるし、いまだってこんなに楽しいじゃないか。
「おい、どうした?」
気づけば俺は改札の前に立ち尽くしていた。先輩は改札を通った先でこちらを見つめている。
大丈夫。症状がでるのは毎回じゃないし、最近は調子が良いし。
なのに、足が思うように動かない。
先輩は訝しげな表情で、こちらを見ていた。
嫌われたくない。今日のデートをこんなことで終わらせたくない。
その一心で、強張っていた身体を無理やり動かす。
「あっ、あの……スマホ! そう、スマホ見つからなくて。でも、いまありました!」
わざとらしいくらいにおどけてみせる。
先輩は少しだけ不審そうに俺をみながら、でもそれ以上は何も訊かなかった。
ホームに着くとすぐに電車が到着した。休日の電車はもちろん席が空いているわけもなく、二人で扉の前に並んで立つ。
発車のベルが鳴り、扉が音を出して閉まったその瞬間、俺が一番恐れていたことが現実になった。
窓の外で景色がゆっくり流れていくにつれ、息がどんどん浅くなっていく。
心臓が不規律に跳ね、視界が揺らぐ。
目の前で先輩が何かを話しているようだったけれど、その内容が全く頭に入ってこない。声が音としてしか耳には届かず、ただ雑音の一部となって溶けていく。
そんな俺の様子に気づいたのか、先輩は急に顔色を変えた。
「お……い。……大丈……か? チワ……おい……る!」
先輩の必死そうな顔が視界に入る。何かを一生懸命に言っているようだ。
『どうしたんですか先輩。そんなに慌てた顔して』
そう笑いとばしたいのに、自分が息を吸っているのか吐いたのかもわからなくなって、一層息が絡まる。
――あ、もう駄目だ。
かろうじて自立していた足が、膝から崩れ落ちる。視界がぐらりと揺れたとき、先輩が俺を抱えるように腕を伸ばした——。
「渉!」
その声に意識が引き寄せられた。先輩の顔と声が徐々に鮮明になっていく。
「降りるぞ」
気づけば電車は停止していて、次の駅に着いていた。まだ降りる駅ではないはずなのに、先輩は俺の手を強く握りしめ、電車をあとにする。
ひどく冷たくなった指先に触れた、先輩の手の熱が少しだけ身体のこわばりをほぐしてくれる。
それでも、完全に元通りになったわけではなく、今も息が上手く回らない。
そんな俺を先輩は優しく抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから」
まばらとはいえ人が行き交う駅のホームで、隼人先輩は人目も気にせず、まるで泣いている子供をあやすように、俺の背中をさすってくれた。
体中を巡っていた恐怖が、先輩の温もりでゆっくりと溶けていく。
「とりあえず、ベンチに座るぞ。動けるか?」
声を出す代わりにコクリと頷くと、隼人先輩は俺の身体を支えながら、ベンチまで連れて行ってくれた。
「ここで待ってろ」
隼人先輩は俺を座らせると、どこかへ駆けた。
しばらくして戻ってきた先輩の手には、一本のペットボトル。
「もし飲めそうなら」
蓋を開けて差し出されたペットボトルを受け取る。うまく指先まで力が入らなくて、両手で包み込むようにして持つ。
「……ありがとうございます」
「無理に飲まなくてはいいからな」
「はい」
ついさっきまで息ができないほどに苦しかったのに、今はもうあの震えが嘘のように落ち着いた。
もらったペットボトルを飲もうと上に顔をむけたとき、ホームの時計が目に入った。
「あ! 試合! すみません、遅れちゃいますよね。俺、もう元気になったんで行きましょう」
立ち上がろうとした俺の肩を、隼人先輩が押さえる。
「まだ休んどけって」
「でも、試合が——」
「試合なんかよりお前の身体の方が大事だろ。大丈夫なのか? 病院行くか?」
「……大丈夫です」
あくまで先輩は、俺の身体を気遣ってくれただけ。それなのに、『お前の方が大事』って言われたようで、顔が赤らむ。
それに。先輩と駅のホームでふたりベンチに座るなんて、あまりにも二年前のあの時と重なってしまう。
あのときも、先輩はこうやって俺を助けてくれた。
「……また、助けてもらっちゃいました」
「また?」
隼人先輩はきっと覚えてなんていないのだろう。何のことだろうと困惑している。
俺は渇いた喉を潤すように再びペットボトルの水を飲むと、静かに口を開いた。
「実は、電車で先輩に助けてもらったの、今日が初めてじゃないんです」


