五線譜からはみ出した、17歳の正解

1,楽屋の重い鉄の扉が閉まった瞬間、世界は別の色へと塗り替えられた。 
スタッフの先導に従い、遥たち4人が足を踏み入れたのは、ステージ袖へと続くコンクリート剥き出しの薄暗い搬入通路だった。頭上を無数にのたうち回る太い電源ケーブル、機材ケースが壁に擦れてできた無数の傷跡、そして冷房の風が届かない通路に溜まった、独特の焦げた機械油と誰かの流した汗の匂い。  

一歩進むごとに、通路の先にある巨大な空間から、地鳴りのような振動が足の裏を通じて骨の髄まで伝わってくる。 
それは、神代玲央のステージがまさにフィナーレを迎えようとしている、何千人もの観客が放つ人間の熱狂の地響きだった。スピーカーから放たれる洗練された重低音が、通路のコンクリート壁に乱反射し、遥の鼓膜を物理的な質量を持って圧迫してくる。 

(冷たい……。指先が、まるでもう動かないみたいに冷え切ってる)  

遥は、両肩に背負ったシンセサイザーのソフトケースのストラップを、指の関節が白くなるほどの力で強く握りしめていた。 昨晩の母親からのメッセージ、そしてさっきの楽屋での漣の言葉。覚悟の炎は確かに胸の奥で燃えているはずなのに、本物の「ステージ袖」という生々しい戦場が近づくにつれて、体の末端から急速に血の気が引いていくのが分かった。  

スタッフの男の腰につけられたインカムから、ザザッというノイズ混じりの無線が漏れ聞こえる。

『――まもなくナンバー4、神代玲央演奏終了します。ナンバー5、オルタナティブ・ライト、スタンバイ位置へ急いでください』 

事務的で、だけど一切の猶予を許さない大人の声。 

「おい、遥。そんなにカバンの紐をいじめてやるなよ。千切れちまうぞ」  

すぐ前を歩いていた漣が、振り返ることもなく、だけど低く掠れた声でぽつりと言った。 
彼の背中には、ステッカーだらけの黒いギターケースが背負われている。緩められたネクタイ、乱雑に捲り上げられたシャツの袖。その背中は、この先に待つ何千人もの人間の視線の海を、今から力技でねじ伏せに行くのだという圧倒的な野生の気配をまとっていた。 

「……千切れたりしないわよ。ケースの耐久性は、ちゃんとメーカーの保証がついてるもの」
「ハッ、言うじゃん。お前のその少し強がった硬い音階、やっぱり嫌いじゃねぇわ」  

漣がフッと肩を揺らして笑う。そのいつも通りの飄々とした態度が、遥の凍りつきそうになっていた思考の輪郭を、じんわりと温かい熱量で溶かしていくのが分かった。  

通路を抜け、ついにたどり着いたステージの上手袖(舞台裏)。 
そこは、天井が目眩がするほど高く、巨大な照明機材やスピーカーがトラスと呼ばれる鉄の骨組みに無数に吊り下げられた、暗闇の空間だった。ステージの真横にあるその場所からは、今まさに最後の1音を鳴らし終えようとしている神代玲央の姿が、逆光の中に黒いシルエットとなって鮮烈に浮かび上がっているのが見えた。  

――ジャァァァァァァン……ッ!!!  

玲央の放った、完璧に計算し尽くされたシンセベースの残響が、ライブハウスの空間全体をビリビリと震わせて静止した。 
一瞬の、真空のような静寂。 
直後、鼓膜を容赦なく破壊するような、何千人もの観客の地鳴りのような拍手と歓声が、ステージの向こう側から津波となって舞台裏へと押し寄せてきた。 

「ありがとうございました。神代玲央でした」  

玲央がマイクを通して、冷徹で、だけど完璧な挨拶を残し、機材の前から離れた。 
彼はゆっくりとステージ袖――まさに遥たちがスタンバイしている場所に向かって歩いてくる。照明の逆光を背に受けた彼の姿は、まるで一つの美しい彫刻のようだった。  

すれ違いざま、玲央の切れ刃のような瞳が、遥たちの存在を捉えた。 
彼は足を止めることなく、だけど遥と漣のすぐ横を通り過ぎる瞬間に、マイクを通さない地声で、冷気まじりの言葉をぽつりと落としていった。 

「……せいぜい、僕の作ったこの完璧な熱量を、その汚い騒音で冷まさないようにね、量産型バンドさん」  

その言葉の刃は、悪意というよりも、圧倒的な現実に基づいた「絶対的な自信」として、遥の胸の最も柔らかい場所に深く突き刺さった。 

中学のときの、あのたった一行のコメント。お母さんの「普通の幸せが一番だ」という優しい支配。それらすべての過去のトラウマが、玲央という完璧な天才の姿を借りて、再び一きわ巨大な絶望の壁となって遥の前に立ち塞がろうとする。  

けれど、今の遥は、もうあの時みたいにただ俯いて泣くような少女ではなかった。 

「――おい、天才サマ」  

低い、獣が唸るような声が、ステージ袖の暗闇を激しく震わせた。 
漣が一歩、玲央の進路を遮るようにして踏み出し、その圧倒的な体躯を以て彼を見下ろした。濡れた黒髪の隙間から覗く漣の目は、怒りを超えて、今にも玲央の喉元を噛みちぎらんばかりの凶暴な光を放っている。 

「お前のその完璧に調律された綺麗な音楽、俺たちの泥だらけの不協和音で、跡形もなく粉々にぶち壊してやるよ。客席の最後列まで、誰の心に一番深い傷が残るか、その腐った耳で特等席で聴いてろ」 
「……期待しないで待ってるよ。せいぜい、本番のステージで恥をかかないようにね」  

玲央はフッと鼻で笑うと、それ以上一瞥もくれずに暗い通路の奥へと去っていった。  

スタッフの慌ただしいインカムの声が、再びステージ袖を満たす。

『――ナンバー4神代玲央ハケました! ナンバー5オルタナティブ・ライト、セッティング開始してください! 持ち時間は転換込みで15分です、急いで!』 

「よっしゃお前ら、行くぞ!! 渋谷を文字通りひっくり返してやろうじゃねぇか!」  

徹先輩が愛用のベースのネックを強く握り締め、真っ先にまばゆい光の射すステージへと飛び出していった。巧くんも、無言でスティックを強く握り締め、その無骨な背中に圧倒的な闘志を宿して後に続く。  

遥は、自分のシンセサイザーの入った重いケースを抱え、一歩、ステージの境界線を踏み越えようとした。 

その瞬間、漣のゴツゴツとした熱い指先が、遥の手首を再び、あの放課後の音楽室の時と同じ力強さでガシッと掴んだ。 

「いくぞ、遥。大人の引いた五線譜の檻なんて、俺たちの音で全部引きちぎってやろうぜ」 
「……うん。あんたのその調律の狂った最低のギターに、世界で一番綺麗な不協和音を重ねてあげるわ」  

遥は小さく、だけどこの1年間で一番美しい笑みを浮かべ、漣と共に、まばゆい光の海が待つステージの真ん中へと、力強く歩み出した。



2,一歩、境界線を踏み越えた瞬間、世界はまばゆい光の粒子と、圧倒的な人間の熱気に塗りつぶされた。 
ステージへと足を踏み出した遥のローファーの底に、ライブハウス独特の、何重もの滑り止めが施された硬い床の感触が伝わってくる。頭上からは何十台もの巨大な照明機材が放つ熱が、まるで真夏の太陽のようにじりじりと肌を焼き、空気は数千人もの観客が吐き出す熱い息で飽和していた。  

神代玲央の演奏が終わった直後の、どこか冷徹で完璧な余韻が残るステージ。 
スタッフたちが慌ただしく動き回り、玲央の機材を片付け、代わりに遥たちの楽器をセッティングしていく。制限時間は転換込みでわずか15分。その一切の猶予を許さない大人の時間の流れの中で、遥は上手側に用意された専用のシンセサイザースタンドの前へと滑り込んだ。  

カバンから取り出した、自分の愛用の多機能シンセサイザー。 
それをスタンドの上に慎重に載せ、両手でネジを締め、固定する。指先は寒さとは違う緊張で驚くほど冷え切っており、金属のネジに触れるたびに、指の腹から体温が急速に奪われていくような錯覚に陥った。 

太い電源ケーブルを本体の背面に突き刺し、足元のサスティンペダルをセッティングする。そして、本体のメインスイッチをカチリと押し込んだ。  

液晶画面が、薄暗い足元で青白く光を灯す。 
その直後、アンプに繋がれたシールドを通じて、スピーカーから『シャー……』という、微かな、だけど強烈に生々しい電子のノイズ(ハミング)が立ち上がってきた。 

絶対音感を持つ遥の耳は、そのノイズの中に、これから始まる爆発のためのエネルギーがふつふつと蓄えられていくのを、正確に聴き取っていた。 

「おい、お前ら! チャンネルチェック急げよ! ドラム、スネア一発くれ!」  

ステージの端、PAと呼ばれる音響席の大人たちの怒号に近い声が、インカムを通じて響く。 
直後、遥のすぐ後ろで、巧さんが静かに、だけど容赦のない力でスネアドラムの真ん中を叩き抜いた。  

――ドンッ!!!  

爆音という言葉すら生ぬるい、空気を力任せに破裂させるような生ドラムの衝撃波が、遥の背中を物理的な質量を持って突き抜けた。ライブハウスという本物の戦場のために調律されたドラムの音圧は、学校の中庭の比ではなかった。 

続いて、徹先輩が「おうよ!」と白い歯を見せ、愛用のベースの弦を低音域で激しく掻きむしった。 

ズゥゥゥゥン……と、地底のマグマが震えるような歪んだ重低音が、ステージの硬い床を通じて遥の足の裏から骨の髄までビリビリと駆け上がってくる。  

そして、真ん中。 
一番巨大なアンプの前に立った漣が、ステッカーだらけの黒いエレキギターに、太いシールドのプラグをガシッと突き刺した。 

キィィィィン――!! 

その瞬間、アンプから放たれたのは、神代玲央の洗練された電子音を跡形もなく引きちぎるような、最高に汚くて、最高に獰猛なディストーションの悲鳴だった。  

3人の音が、本番前のサウンドチェックという短い時間の中で、すでに圧倒的な野生の牙を剥いて暴れ回っている。 

遥は、冷え切った自分の指先を鍵盤の上に載せ、いくつかの和音を静かに鳴らした。 
デジタルシンセサイザーのクリスタルのように澄んだ一音が、3人の放つ暴力的な音の渦の隙間を完璧に縫うようにして、スピーカーから放たれる。その化学反応の手応えに、遥の心臓はさらに激しく、壊れた時計のように脈打ち始めた。  

ふと、遥は鍵盤から目を離し、ステージの真向かいに広がる「観客席」へと視線を動かした。 

まだ客電(客席の照明)が落とされていないフロアには、地平線まで続いているかのような、見ず知らずの何千人もの人間の海が広がっていた。誰もがスマートフォンを片手に、あるいは腕を組んで、次に現れる『オルタナティブ・ライト』という、ネットでちょっとバズっただけの無名バンドを、値踏みするような冷たい目で待っている。  

その、人間の放つ巨大なプレッシャーの渦の、さらに奥。 
ライブハウスの最後列、関係者席の薄暗い影の中に、遥の目は「一人の女性」の姿を、ハッキリと捉えていた。  

母親だった。  

いつも優しくて、穏やかで、だけど遥を安全な檻の中に閉じ込めようとしていた、あの母親。 
あの日、激しくぶつかり合ってからずっと口をきいていなかった彼女が、ステージを見上げるようにして、静かにそこに立っていた。その胸の前で強く握りしめられた両手が、彼女自身も、娘の選んだはみ出した道を前にして、張り裂けそうなほど緊張しているのだということを物語っていた。 

(お母さん……、見てて。これが、私の本物の音だよ。誰の奴隷でもない、私の17歳の正解だよ)  

遥は胸の中で静かにそう呟くと、溢れそうになる涙を必死に堪え、鍵盤の上で両手を強く握り直した。 

『――転換終了しました。ナンバー5、オルタナティブ・ライト、いつでもいけます』  

PA席からの無線が響いた、その直後だった。  
パッと、ライブハウス全体の客席の照明が一瞬にして落とされ、世界は深い暗闇へと沈み込んだ。 

直後、ステージの真ん中に設置された巨大なスピーカーから、フェスのMCの男の声が、地鳴りのような音圧を伴ってフロア全体へと響き渡った。 

「お待たせしました。オーディションフェス、前半戦の最後を締めくくるのは、エントリーナンバー5番。――学校のルールをぶち破り、ネットの海を震え上がらせた、現役高校生4人組。……『オルタナティブ・ライト』!!!」  

MCのコールが響き渡った瞬間。  

ドォォォォン!!!  

遥たちの頭上から、網膜が焼け付くほどの強烈な、青と白のスポットライトが一気に降り注いだ。 
まばゆい光の壁に視界が真っ白に染まり、直後、光の向こう側から、何千人もの観客が放った人間の地鳴りのような歓声と拍手が、津波となってステージの上へと押し寄せてきた。  

全校生徒の前で演奏したあの中庭とは、全く違う。 
ここにいるのは、本物の音楽を求め、本物の初期衝動に飢えている、厳しい目を持った大人の観客たちだ。  

遥は、眩しい光の中で、すぐ隣に立つ漣の姿を見た。 
彼は、何千人もの人間の視線を一身に浴びながら、ボロボロの黒いギターのボリュームノブを、躊躇なく最大まで引き上げていた。濡れた黒髪の隙間から覗くその鋭い瞳は、目の前の巨大な観客の海を、今から自分たちの音で跡形もなくぶち壊し、支配しに行くのだという、狂気的なまでの自信に満ちあふれていた。  

漣がゆっくりとギターのネックを掲げ、後ろの巧さんへと合図を送る。 
巧さんが静かに、だけど強固な覚悟を込めてドラムスティックを頭上へと掲げ、徹先輩が不敵な笑みを浮かべてベースの弦に指をかけた。  

4人の呼吸が、一瞬の真空の中で、完全に一つに調律される。  
大人の決めた五線譜の檻なんて、どこにもない。 
世界で一番汚くて、世界で一番美しい、17歳の私たちの本当の反撃の幕が、今、この渋谷の眩い光の海の中で、最高潮の熱量を持って切って落とされた。