1,決戦の朝、渋谷の街は、視界が焼け付くほどの強烈な太陽の光と、目眩がするような無数の人間の熱気に満ちていた。
駅の改札を一歩抜けた瞬間から、重苦しい排気ガスの匂いと、いくつもの巨大なビル壁面ビジョンから流れる大音量の広告の音が、遥の鼓膜を容赦なく叩きつけてくる。交差点を埋め尽くす見ず知らずの大人たちの波。すれ違う人々が発する他愛のない雑音のすべてが、今の遥には、自分たちの行く手を阻む強固な壁のように感じられた。
遥は、大切なシンセサイザーの入った重いソフトケースを両肩に背負い、押し潰されそうな群衆の真ん中で立ち尽くしていた。
昨晩、母親からのあの温かいメッセージを読んで、覚悟は100%に達したはずだった。もう迷わないと、心に強く誓ったはずだった。けれど、いざ本物のステージが待つ『渋谷O-EAST』のすぐ近くまでやってくると、地面の底から這い上がってくるような圧倒的なプレッシャーが、遥の足首を再び冷たく縛り付けてくる。
(本当に、大丈夫かな……。私たちの鳴らす不協和音は、この巨大な街に、本物の大人たちに、届くのかな……)
カバンのストラップを握りしめる手のひらが、夏の暑さとは違う嫌な汗でじっとりと湿っていく。
周囲を見渡せば、同じフェスに出場するであろう他の高校生バンドのメンバーたちが、お揃いのTシャツを着て楽しそうに笑い合っている姿が目に入った。みんな、輝いて見える。自分のように、学校からはみ出し、母親を泣かせ、泥だらけの道をもがくようにして歩いてきた人間なんて、ここには一人もいないのではないか。そんな都合の良い被害妄想が、脳内の五線譜をじわじわと濁らせていく。
その時だった。
背後から、何の遠慮もない力強い手のひらが、遥の右肩を『ポン』と勢いよく叩いた。
「お前、そんなところで生気のない顔して突っ立ってると、渋谷のハチ公に間違えられて観光客に写真撮られるぞ」
耳元に届いたのは、低く、どこか眠たげで、だけど驚くほど飄々とした掠れ声だった。
驚いて遥が振り返ると、そこには黒い大きめのギグバッグを背負い、片手を制服のズボンのポケットに突っ込んだ漣が立っていた。
制服のネクタイはいつも通りルーズに緩められ、濡れたような黒髪の隙間から覗く鋭い瞳は、街の狂ったような喧騒を退屈そうに見下ろしている。その立ち姿は、まるでこの巨大な都会のノイズさえも、自分のギターのボリューム一つでいつでも掻き消せる、と言わんばかりの圧倒的な自由さに満ちていた。
「……瀬尾くん」
遥の喉の奥から、張り詰めていた空気が一気に漏れ出た。
「バカなこと言わないでよ。ハチ公に間違えられるわけないでしょ。……っていうか、来るならもっと静かに来てよね。心臓が止まるかと思ったじゃない」
「ハッ、止まるかと思ったのはお前のその歪んだ音階だろ」
漣はフッと口元を歪めて笑うと、遥の背負っている重いシンセサイザーのケースの底を、ひょいと下から支えるようにして持ち上げた。それだけで、遥の肩にかかっていた重みが劇的に軽くなる。
「お前、さっきから呼吸が浅いんだよ。あいつの……神代玲央の言ったこと、まだ耳の奥で鳴ってんのか?」
「それは……」
遥は言葉に詰まり、視線を落とした。
確かに、玲央の「量産型のお遊び」という冷酷な言葉は、今も遥の胸の奥で、消えない小さな傷痕として疼いていた。
「関係ねぇって言っただろ」
漣は歩き出しながら、遥の顔を見ずに、だけど拒絶を許さない強いトーンで言葉を紡いだ。
「あいつの鳴らす音楽は、綺麗に調律された100点満点のお手本だよ。でもな、お手本なんてものは、教科書を開けばどこにでも載ってるんだわ。……俺たちが中庭で、あの地下室で鳴らしたのは、どこを探したって世界にたった一つしか無い、俺たちの『生きた悲鳴』だ。どっちが観客の心に深い傷を残せるか、試すまでもねぇよ」
漣の言葉は、相変わらず乱暴で、はみ出しすぎている。
けれど、彼のその言葉を耳が拾うたびに、遥の胸の奥の冷え切っていた場所に、一滴の淀みもない青白い炎が再び激しく燃え上がり始める。彼と並んで歩いているだけで、渋谷の巨大な雑踏のノイズが、まるで自分たちの新曲のイントロのノイズのように心地よく脳内で翻訳されていくのが分かった。
「……そうね。あんな天才サマに、私たちの不協和音を量産型なんて言わせたままにしておいたら、夜も眠れないわ」
遥は小さく笑い、漣の長い足の歩幅に合わせて、しっかりとアスファルトを踏み締めた。
「おう、その意気だわ。おい、徹さんと巧が、もうライブハウスの楽屋口の裏で待ってる。早く行こうぜ、俺たちの心臓」
漣が遥の手首を、あの放課後の音楽室の時と同じ、少しゴツゴツとした熱い指先で強く掴んだ。
その手のひらの熱さが、遥の全身の血の巡りを急激に加速させていく。
渋谷O-EASTの、薄暗いコンクリート剥き出しの楽屋裏。
重い鉄の扉の向こうからは、すでにステージでのリハーサルを始めている他のアーティストたちの、耳を裂くようなドラムやギターの生音が響き渡っていた。壁には無数の過去のロックフェスのポスターが貼られ、特有の汗とタバコの煙の残り香、そして張り詰めた緊張感が充満している。
「おー! やっと来たか、お前ら! 遅いっつーの!」
楽屋の片隅で、徹先輩が愛用のベースの弦をベキベキと鳴らしながら、待ちきれないといった様子で叫んだ。長髪をきつく縛り、鋭い闘志を瞳に宿したその姿は、もう学校のチャラい先輩ではなかった。
「宮園さん、おはよう。……ドラムのセッティング、終わった。いつでもいける」
巧さんも、無骨にスティックを回しながら、だけど遥の顔を見て、安心させるように小さく頷いてくれた。
4人が揃った。
それぞれの楽器が、アンプの電源が入るのを待つようにして、静かに、だけど激しく呼吸を始めている。
遥はシンセサイザーをスタンドにセットし、液晶画面に青白い光を灯した。
クシャクシャに繋ぎ合わされた進路希望調査票は、カバンの奥で静かに眠っている。客席の最後列には、自分の本物の音を見届けるために、お母さんが来てくれているはずだ。
「……よし、みんな。本当のステージへあ1,決戦の朝、渋谷の街は、視界が焼け付くほどの強烈な太陽の光と、目眩がするような無数の人間の熱気に満ちていた。
駅の改札を一歩抜けた瞬間から、重苦しい排気ガスの匂いと、いくつもの巨大なビル壁面ビジョンから流れる大音量の広告の音が、遥の鼓膜を容赦なく叩きつけてくる。交差点を埋め尽くす見ず知らずの大人たちの波。すれ違う人々が発する他愛のない雑音のすべてが、今の遥には、自分たちの行く手を阻む強固な壁のように感じられた。
遥は、大切なシンセサイザーの入った重いソフトケースを両肩に背負い、押し潰されそうな群衆の真ん中で立ち尽くしていた。
昨晩、母親からのあの温かいメッセージを読んで、覚悟は100%に達したはずだった。もう迷わないと、心に強く誓ったはずだった。けれど、いざ本物のステージが待つ『渋谷O-EAST』のすぐ近くまでやってくると、地面の底から這い上がってくるような圧倒的なプレッシャーが、遥の足首を再び冷たく縛り付けてくる。
(本当に、大丈夫かな……。私たちの鳴らす不協和音は、この巨大な街に、本物の大人たちに、届くのかな……)
カバンのストラップを握りしめる手のひらが、夏の暑さとは違う嫌な汗でじっとりと湿っていく。
周囲を見渡せば、同じフェスに出場するであろう他の高校生バンドのメンバーたちが、お揃いのTシャツを着て楽しそうに笑い合っている姿が目に入った。みんな、輝いて見える。自分のように、学校からはみ出し、母親を泣かせ、泥だらけの道をもがくようにして歩いてきた人間なんて、ここには一人もいないのではないか。そんな都合の良い被害妄想が、脳内の五線譜をじわじわと濁らせていく。
その時だった。
背後から、何の遠慮もない力強い手のひらが、遥の右肩を『ポン』と勢いよく叩いた。
「お前、そんなところで生気のない顔して突っ立ってると、渋谷のハチ公に間違えられて観光客に写真撮られるぞ」
耳元に届いたのは、低く、どこか眠たげで、だけど驚くほど飄々とした掠れ声だった。
驚いて遥が振り返ると、そこには黒い大きめのギグバッグを背負い、片手を制服のズボンのポケットに突っ込んだ漣が立っていた。
制服のネクタイはいつも通りルーズに緩められ、濡れたような黒髪の隙間から覗く鋭い瞳は、街の狂ったような喧騒を退屈そうに見下ろしている。その立ち姿は、まるでこの巨大な都会のノイズさえも、自分のギターのボリューム一つでいつでも掻き消せる、と言わんばかりの圧倒的な自由さに満ちていた。
「……瀬尾くん」
遥の喉の奥から、張り詰めていた空気が一気に漏れ出た。
「バカなこと言わないでよ。ハチ公に間違えられるわけないでしょ。……っていうか、来るならもっと静かに来てよね。心臓が止まるかと思ったじゃない」
「ハッ、止まるかと思ったのはお前のその歪んだ音階だろ」
漣はフッと口元を歪めて笑うと、遥の背負っている重いシンセサイザーのケースの底を、ひょいと下から支えるようにして持ち上げた。それだけで、遥の肩にかかっていた重みが劇的に軽くなる。
「お前、さっきから呼吸が浅いんだよ。あいつの……神代玲央の言ったこと、まだ耳の奥で鳴ってんのか?」
「それは……」
遥は言葉に詰まり、視線を落とした。
確かに、玲央の「量産型のお遊び」という冷酷な言葉は、今も遥の胸の奥で、消えない小さな傷痕として疼いていた。
「関係ねぇって言っただろ」
漣は歩き出しながら、遥の顔を見ずに、だけど拒絶を許さない強いトーンで言葉を紡いだ。
「あいつの鳴らす音楽は、綺麗に調律された100点満点のお手本だよ。でもな、お手本なんてものは、教科書を開けばどこにでも載ってるんだわ。……俺たちが中庭で、あの地下室で鳴らしたのは、どこを探したって世界にたった一つしか無い、俺たちの『生きた悲鳴』だ。どっちが観客の心に深い傷を残せるか、試すまでもねぇよ」
漣の言葉は、相変わらず乱暴で、はみ出しすぎている。
けれど、彼のその言葉を耳が拾うたびに、遥の胸の奥の冷え切っていた場所に、一滴の淀みもない青白い炎が再び激しく燃え上がり始める。彼と並んで歩いているだけで、渋谷の巨大な雑踏のノイズが、まるで自分たちの新曲のイントロのノイズのように心地よく脳内で翻訳されていくのが分かった。
「……そうね。あんな天才サマに、私たちの不協和音を量産型なんて言わせたままにしておいたら、夜も眠れないわ」
遥は小さく笑い、漣の長い足の歩幅に合わせて、しっかりとアスファルトを踏み締めた。
「おう、その意気だわ。おい、徹さんと巧が、もうライブハウスの楽屋口の裏で待ってる。早く行こうぜ、俺たちの心臓」
漣が遥の手首を、あの放課後の音楽室の時と同じ、少しゴツゴツとした熱い指先で強く掴んだ。
その手のひらの熱さが、遥の全身の血の巡りを急激に加速させていく。
渋谷O-EASTの、薄暗いコンクリート剥き出しの楽屋裏。
重い鉄の扉の向こうからは、すでにステージでのリハーサルを始めている他のアーティストたちの、耳を裂くようなドラムやギターの生音が響き渡っていた。壁には無数の過去のロックフェスのポスターが貼られ、特有の汗とタバコの煙の残り香、そして張り詰めた緊張感が充満している。
「おー! やっと来たか、お前ら! 遅いっつーの!」
楽屋の片隅で、徹先輩が愛用のベースの弦をベキベキと鳴らしながら、待ちきれないといった様子で叫んだ。長髪をきつく縛り、鋭い闘志を瞳に宿したその姿は、もう学校のチャラい先輩ではなかった。
「宮園さん、おはよう。……ドラムのセッティング、終わった。いつでもいける」
巧さんも、無骨にスティックを回しながら、だけど遥の顔を見て、安心させるように小さく頷いてくれた。
4人が揃った。
それぞれの楽器が、アンプの電源が入るのを待つようにして、静かに、だけど激しく呼吸を始めている。
遥はシンセサイザーをスタンドにセットし、液晶画面に青白い光を灯した。
クシャクシャに繋ぎ合わされた進路希望調査票は、カバンの奥で静かに眠っている。客席の最後列には、自分の本物の音を見届けるために、お母さんが来てくれているはずだ。
「……よし、みんな。本当のステージへ上がる前に、最後のチューニングをしましょう。世界で一番汚くて、世界で一番美しい、私たちの『正解』を鳴らすために」
遥の言葉に、漣がギターを低く構え、徹先輩が不敵に笑い、巧くんが正確なカウントを刻み始める。
大人の引いた五線譜を完全に飛び越えた4人の、世界への最大の反撃の幕が、この渋谷の薄暗い楽屋裏から、今まさに上がろうとしていた。
2,楽屋の壁に設置された小さなモニター画面から、鼓膜を激しく震わせるような洗練された電子音が漏れ聞こえていた。
ステージでのリハーサルがすべて終了し、オーディションフェスの本番が始まってからすでに2時間が経過している。ライブハウス『O-EAST』の地下に響く重低音は、コンクリートの床を伝って楽屋のパイプ椅子をビリビリと小さく揺らし続けていた。
「――次はエントリーナンバー4番。神代玲央」
スピーカーから流れるMCのコールとともに、モニター画面の向こうのステージが、鮮烈な青と白のレーザーライトで埋め尽くされた。
割れんばかりの歓声の中、神代玲央が静かにステージの中央へ歩み出る。彼は楽器を持たない。ただ、フロントにセッティングされた何台もの最新の機材とノートパソコンの前に立ち、長い指先を鍵盤とコントローラーの上に滑らせた。
直後、ライブハウスの空間全体が、目眩がするほど完璧なエレクトロ・ポップの旋律によって支配された。
ズクズクと脈打つ、1ミリの狂いもない完璧なハイハットのリズム。計算し尽くされた帯域で鳴り響く、心臓を直接掴むようなベースシンセの重低音。そして、玲央の紡ぐ、どこまでも澄み切った量産型とは一線を画す圧倒的なメロディライン。
それは、ノイズも、ピッチのズレも、感情の暴走も一切許さない、冷徹なまでに調律された『究極の正解』の音楽だった。
「……すげぇな、あいつ。一人でこれだけの音圧の壁、作ってんのかよ」
ソファの端で腕を組んでいた徹先輩が、小さく息を吐き出しながら呟いた。いつもなら不敵に笑っているはずの先輩の横顔が、モニターの青い光に照らされて、ひどく真剣に、そして硬く強張っている。
巧さんもスティックを回す手を止め、画面の中の玲央の指先の動きを、一瞬たりとも見逃さないというように鋭い瞳で見つめていた。彼の呼吸の音が、いつもより少しだけ、重くなっているのが分かった。
遥は、自分の膝の上で冷え切っていくペットボトルを強く握りしめていた。
玲央の鳴らす音楽は、あまりにも完璧だった。五線譜という檻を壊すのではなく、その檻の限界を究極まで突き詰め、その内側で完璧な神殿を築き上げたような音楽。
あの日、会議室で彼に言われた言葉が、再び遥の胸の奥で鋭い爪を立てる。
『本物のステージっていうのはね、君たちみたいなお遊びの延長線上にいる量産型バンドが、思い出作りに立っていい場所じゃないんだよ』
画面の向こうの観客たちは、玲央の鳴らすその完璧な正解の音に、狂ったように熱狂し、波のように揺れている。
もし、この後に自分たちがステージに上がって、あの汚くて、歪みきった不協和音を鳴らしたら。観客たちはそれを、ただの不器用な騒音として笑うのではないか。お母さんはそれを見て、やっぱり音楽なんて間違いだったのだと、悲しそうな顔をするのではないか。
急激に湧き上がってきた不安の冷気が、遥の全身の血の巡りを止めていくようだった。
「……遥」
突然、すぐ隣から、低く掠れた声が遥の耳元に届いた。
振り返ると、ギターケースに背中を預けて床に座り込んでいた漣が、濡れたような黒髪の隙間から、冷徹なまでに真っ直ぐな瞳で遥を見つめていた。
「お前、またあいつの綺麗なお手本に当てられて、自分の音階を濁らせてんのか」
「……だって、本当に完璧だもの。1音の狂いも、ノイズも無い。あんなものを聴かされた後に、私たちのあの荒削りな新曲を演奏して、本当に誰も笑わないって、どうして言い切れるのよ」
遥の声が、かすかに震えた。
すると、漣はフッと鼻で笑い、ゆっくりと床から立ち上がった。彼は愛用の黒いギターを低い位置に構えると、ピックも持たず、右手の親指で、静かに、優しく弦を鳴らした。
ポロン、と。
モニターから流れる完璧な電子音の隙間を縫うようにして、漣の鳴らした生のギターの音が、少しだけピッチの狂った、だけど不器用なほどに温かい音が、楽屋のコンクリートの壁に反射して遥の鼓膜へと届いた。
「完璧だから何なんだよ」
漣はギターのネックを強く握り締め、玲央が映るモニター画面を冷たく一瞥した。
「あいつの鳴らしてる音はさ、計算機が叩き出したデータだろ。傷もつかなきゃ、血も流れてねぇんだよ。……そんな100点満点の綺麗な音なんて、CDを再生すればいつでも聴けるんだわ」
漣が一歩、遥の目の前へと踏み込んできた。
「でも、俺たちが鳴らすのは違うだろ。お前が学校からはみ出して、お母さんを裏切ってまで、ここに持ってきてくれたのは、そんなお利口な音じゃねぇはずだ。俺たちの音には、17歳の俺たちの、息が詰まりそうな焦燥感も、悔し涙も、全部むき出しのまま詰め込まれてんだよ。どっちが観客の心臓に、消えない深い傷を残せるか、教えてやるよ」
漣の言葉は、相変わらず乱暴で、独りよがりで、はみ出しすぎている。
けれど、彼のその掠れた声を耳が拾うたびに、遥の胸の奥の一番冷え切っていた場所に、一滴の淀みもない青白い炎が、再び激しく、狂おしいほどの熱量を持って灯っていくのが分かった。
「……そうね。あんな綺麗なだけの音楽に、私たちの不協和音を騒音なんて言わせたままにしておいたら、私のプライドが許さないわ」
遥は涙を袖で手荒に拭うと、顔を上げて小さく笑ってみせた。
「おう、それでこそ俺のバディだ」
漣が嬉しそうに白い歯を見せた、その瞬間。
楽屋の重い鉄の扉が、バタンと開いた。
「エントリーナンバー5番。――『オルタナティブ・ライト』の皆さん、ステージ袖へ移動お願いします」
スタッフの事務的な声が、楽屋の静寂を鋭く引き裂いた。
ついに、その時刻がやってきたのだ。
徹先輩がベースを強く抱え、不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。巧さんも、無言でスティックを強く握り締め、鋭い闘志をその瞳に宿して歩き出した。
遥は、自分のシンセサイザーの入ったケースを両手で強く抱え、漣と並んで暗いステージの袖へと足を踏み出した。
大人の引いた五線譜を完全に飛び越えた4人の、世界への最大の反撃が、今まさに、この渋谷の眩い光の海の中で始まろうとしていた。
駅の改札を一歩抜けた瞬間から、重苦しい排気ガスの匂いと、いくつもの巨大なビル壁面ビジョンから流れる大音量の広告の音が、遥の鼓膜を容赦なく叩きつけてくる。交差点を埋め尽くす見ず知らずの大人たちの波。すれ違う人々が発する他愛のない雑音のすべてが、今の遥には、自分たちの行く手を阻む強固な壁のように感じられた。
遥は、大切なシンセサイザーの入った重いソフトケースを両肩に背負い、押し潰されそうな群衆の真ん中で立ち尽くしていた。
昨晩、母親からのあの温かいメッセージを読んで、覚悟は100%に達したはずだった。もう迷わないと、心に強く誓ったはずだった。けれど、いざ本物のステージが待つ『渋谷O-EAST』のすぐ近くまでやってくると、地面の底から這い上がってくるような圧倒的なプレッシャーが、遥の足首を再び冷たく縛り付けてくる。
(本当に、大丈夫かな……。私たちの鳴らす不協和音は、この巨大な街に、本物の大人たちに、届くのかな……)
カバンのストラップを握りしめる手のひらが、夏の暑さとは違う嫌な汗でじっとりと湿っていく。
周囲を見渡せば、同じフェスに出場するであろう他の高校生バンドのメンバーたちが、お揃いのTシャツを着て楽しそうに笑い合っている姿が目に入った。みんな、輝いて見える。自分のように、学校からはみ出し、母親を泣かせ、泥だらけの道をもがくようにして歩いてきた人間なんて、ここには一人もいないのではないか。そんな都合の良い被害妄想が、脳内の五線譜をじわじわと濁らせていく。
その時だった。
背後から、何の遠慮もない力強い手のひらが、遥の右肩を『ポン』と勢いよく叩いた。
「お前、そんなところで生気のない顔して突っ立ってると、渋谷のハチ公に間違えられて観光客に写真撮られるぞ」
耳元に届いたのは、低く、どこか眠たげで、だけど驚くほど飄々とした掠れ声だった。
驚いて遥が振り返ると、そこには黒い大きめのギグバッグを背負い、片手を制服のズボンのポケットに突っ込んだ漣が立っていた。
制服のネクタイはいつも通りルーズに緩められ、濡れたような黒髪の隙間から覗く鋭い瞳は、街の狂ったような喧騒を退屈そうに見下ろしている。その立ち姿は、まるでこの巨大な都会のノイズさえも、自分のギターのボリューム一つでいつでも掻き消せる、と言わんばかりの圧倒的な自由さに満ちていた。
「……瀬尾くん」
遥の喉の奥から、張り詰めていた空気が一気に漏れ出た。
「バカなこと言わないでよ。ハチ公に間違えられるわけないでしょ。……っていうか、来るならもっと静かに来てよね。心臓が止まるかと思ったじゃない」
「ハッ、止まるかと思ったのはお前のその歪んだ音階だろ」
漣はフッと口元を歪めて笑うと、遥の背負っている重いシンセサイザーのケースの底を、ひょいと下から支えるようにして持ち上げた。それだけで、遥の肩にかかっていた重みが劇的に軽くなる。
「お前、さっきから呼吸が浅いんだよ。あいつの……神代玲央の言ったこと、まだ耳の奥で鳴ってんのか?」
「それは……」
遥は言葉に詰まり、視線を落とした。
確かに、玲央の「量産型のお遊び」という冷酷な言葉は、今も遥の胸の奥で、消えない小さな傷痕として疼いていた。
「関係ねぇって言っただろ」
漣は歩き出しながら、遥の顔を見ずに、だけど拒絶を許さない強いトーンで言葉を紡いだ。
「あいつの鳴らす音楽は、綺麗に調律された100点満点のお手本だよ。でもな、お手本なんてものは、教科書を開けばどこにでも載ってるんだわ。……俺たちが中庭で、あの地下室で鳴らしたのは、どこを探したって世界にたった一つしか無い、俺たちの『生きた悲鳴』だ。どっちが観客の心に深い傷を残せるか、試すまでもねぇよ」
漣の言葉は、相変わらず乱暴で、はみ出しすぎている。
けれど、彼のその言葉を耳が拾うたびに、遥の胸の奥の冷え切っていた場所に、一滴の淀みもない青白い炎が再び激しく燃え上がり始める。彼と並んで歩いているだけで、渋谷の巨大な雑踏のノイズが、まるで自分たちの新曲のイントロのノイズのように心地よく脳内で翻訳されていくのが分かった。
「……そうね。あんな天才サマに、私たちの不協和音を量産型なんて言わせたままにしておいたら、夜も眠れないわ」
遥は小さく笑い、漣の長い足の歩幅に合わせて、しっかりとアスファルトを踏み締めた。
「おう、その意気だわ。おい、徹さんと巧が、もうライブハウスの楽屋口の裏で待ってる。早く行こうぜ、俺たちの心臓」
漣が遥の手首を、あの放課後の音楽室の時と同じ、少しゴツゴツとした熱い指先で強く掴んだ。
その手のひらの熱さが、遥の全身の血の巡りを急激に加速させていく。
渋谷O-EASTの、薄暗いコンクリート剥き出しの楽屋裏。
重い鉄の扉の向こうからは、すでにステージでのリハーサルを始めている他のアーティストたちの、耳を裂くようなドラムやギターの生音が響き渡っていた。壁には無数の過去のロックフェスのポスターが貼られ、特有の汗とタバコの煙の残り香、そして張り詰めた緊張感が充満している。
「おー! やっと来たか、お前ら! 遅いっつーの!」
楽屋の片隅で、徹先輩が愛用のベースの弦をベキベキと鳴らしながら、待ちきれないといった様子で叫んだ。長髪をきつく縛り、鋭い闘志を瞳に宿したその姿は、もう学校のチャラい先輩ではなかった。
「宮園さん、おはよう。……ドラムのセッティング、終わった。いつでもいける」
巧さんも、無骨にスティックを回しながら、だけど遥の顔を見て、安心させるように小さく頷いてくれた。
4人が揃った。
それぞれの楽器が、アンプの電源が入るのを待つようにして、静かに、だけど激しく呼吸を始めている。
遥はシンセサイザーをスタンドにセットし、液晶画面に青白い光を灯した。
クシャクシャに繋ぎ合わされた進路希望調査票は、カバンの奥で静かに眠っている。客席の最後列には、自分の本物の音を見届けるために、お母さんが来てくれているはずだ。
「……よし、みんな。本当のステージへあ1,決戦の朝、渋谷の街は、視界が焼け付くほどの強烈な太陽の光と、目眩がするような無数の人間の熱気に満ちていた。
駅の改札を一歩抜けた瞬間から、重苦しい排気ガスの匂いと、いくつもの巨大なビル壁面ビジョンから流れる大音量の広告の音が、遥の鼓膜を容赦なく叩きつけてくる。交差点を埋め尽くす見ず知らずの大人たちの波。すれ違う人々が発する他愛のない雑音のすべてが、今の遥には、自分たちの行く手を阻む強固な壁のように感じられた。
遥は、大切なシンセサイザーの入った重いソフトケースを両肩に背負い、押し潰されそうな群衆の真ん中で立ち尽くしていた。
昨晩、母親からのあの温かいメッセージを読んで、覚悟は100%に達したはずだった。もう迷わないと、心に強く誓ったはずだった。けれど、いざ本物のステージが待つ『渋谷O-EAST』のすぐ近くまでやってくると、地面の底から這い上がってくるような圧倒的なプレッシャーが、遥の足首を再び冷たく縛り付けてくる。
(本当に、大丈夫かな……。私たちの鳴らす不協和音は、この巨大な街に、本物の大人たちに、届くのかな……)
カバンのストラップを握りしめる手のひらが、夏の暑さとは違う嫌な汗でじっとりと湿っていく。
周囲を見渡せば、同じフェスに出場するであろう他の高校生バンドのメンバーたちが、お揃いのTシャツを着て楽しそうに笑い合っている姿が目に入った。みんな、輝いて見える。自分のように、学校からはみ出し、母親を泣かせ、泥だらけの道をもがくようにして歩いてきた人間なんて、ここには一人もいないのではないか。そんな都合の良い被害妄想が、脳内の五線譜をじわじわと濁らせていく。
その時だった。
背後から、何の遠慮もない力強い手のひらが、遥の右肩を『ポン』と勢いよく叩いた。
「お前、そんなところで生気のない顔して突っ立ってると、渋谷のハチ公に間違えられて観光客に写真撮られるぞ」
耳元に届いたのは、低く、どこか眠たげで、だけど驚くほど飄々とした掠れ声だった。
驚いて遥が振り返ると、そこには黒い大きめのギグバッグを背負い、片手を制服のズボンのポケットに突っ込んだ漣が立っていた。
制服のネクタイはいつも通りルーズに緩められ、濡れたような黒髪の隙間から覗く鋭い瞳は、街の狂ったような喧騒を退屈そうに見下ろしている。その立ち姿は、まるでこの巨大な都会のノイズさえも、自分のギターのボリューム一つでいつでも掻き消せる、と言わんばかりの圧倒的な自由さに満ちていた。
「……瀬尾くん」
遥の喉の奥から、張り詰めていた空気が一気に漏れ出た。
「バカなこと言わないでよ。ハチ公に間違えられるわけないでしょ。……っていうか、来るならもっと静かに来てよね。心臓が止まるかと思ったじゃない」
「ハッ、止まるかと思ったのはお前のその歪んだ音階だろ」
漣はフッと口元を歪めて笑うと、遥の背負っている重いシンセサイザーのケースの底を、ひょいと下から支えるようにして持ち上げた。それだけで、遥の肩にかかっていた重みが劇的に軽くなる。
「お前、さっきから呼吸が浅いんだよ。あいつの……神代玲央の言ったこと、まだ耳の奥で鳴ってんのか?」
「それは……」
遥は言葉に詰まり、視線を落とした。
確かに、玲央の「量産型のお遊び」という冷酷な言葉は、今も遥の胸の奥で、消えない小さな傷痕として疼いていた。
「関係ねぇって言っただろ」
漣は歩き出しながら、遥の顔を見ずに、だけど拒絶を許さない強いトーンで言葉を紡いだ。
「あいつの鳴らす音楽は、綺麗に調律された100点満点のお手本だよ。でもな、お手本なんてものは、教科書を開けばどこにでも載ってるんだわ。……俺たちが中庭で、あの地下室で鳴らしたのは、どこを探したって世界にたった一つしか無い、俺たちの『生きた悲鳴』だ。どっちが観客の心に深い傷を残せるか、試すまでもねぇよ」
漣の言葉は、相変わらず乱暴で、はみ出しすぎている。
けれど、彼のその言葉を耳が拾うたびに、遥の胸の奥の冷え切っていた場所に、一滴の淀みもない青白い炎が再び激しく燃え上がり始める。彼と並んで歩いているだけで、渋谷の巨大な雑踏のノイズが、まるで自分たちの新曲のイントロのノイズのように心地よく脳内で翻訳されていくのが分かった。
「……そうね。あんな天才サマに、私たちの不協和音を量産型なんて言わせたままにしておいたら、夜も眠れないわ」
遥は小さく笑い、漣の長い足の歩幅に合わせて、しっかりとアスファルトを踏み締めた。
「おう、その意気だわ。おい、徹さんと巧が、もうライブハウスの楽屋口の裏で待ってる。早く行こうぜ、俺たちの心臓」
漣が遥の手首を、あの放課後の音楽室の時と同じ、少しゴツゴツとした熱い指先で強く掴んだ。
その手のひらの熱さが、遥の全身の血の巡りを急激に加速させていく。
渋谷O-EASTの、薄暗いコンクリート剥き出しの楽屋裏。
重い鉄の扉の向こうからは、すでにステージでのリハーサルを始めている他のアーティストたちの、耳を裂くようなドラムやギターの生音が響き渡っていた。壁には無数の過去のロックフェスのポスターが貼られ、特有の汗とタバコの煙の残り香、そして張り詰めた緊張感が充満している。
「おー! やっと来たか、お前ら! 遅いっつーの!」
楽屋の片隅で、徹先輩が愛用のベースの弦をベキベキと鳴らしながら、待ちきれないといった様子で叫んだ。長髪をきつく縛り、鋭い闘志を瞳に宿したその姿は、もう学校のチャラい先輩ではなかった。
「宮園さん、おはよう。……ドラムのセッティング、終わった。いつでもいける」
巧さんも、無骨にスティックを回しながら、だけど遥の顔を見て、安心させるように小さく頷いてくれた。
4人が揃った。
それぞれの楽器が、アンプの電源が入るのを待つようにして、静かに、だけど激しく呼吸を始めている。
遥はシンセサイザーをスタンドにセットし、液晶画面に青白い光を灯した。
クシャクシャに繋ぎ合わされた進路希望調査票は、カバンの奥で静かに眠っている。客席の最後列には、自分の本物の音を見届けるために、お母さんが来てくれているはずだ。
「……よし、みんな。本当のステージへ上がる前に、最後のチューニングをしましょう。世界で一番汚くて、世界で一番美しい、私たちの『正解』を鳴らすために」
遥の言葉に、漣がギターを低く構え、徹先輩が不敵に笑い、巧くんが正確なカウントを刻み始める。
大人の引いた五線譜を完全に飛び越えた4人の、世界への最大の反撃の幕が、この渋谷の薄暗い楽屋裏から、今まさに上がろうとしていた。
2,楽屋の壁に設置された小さなモニター画面から、鼓膜を激しく震わせるような洗練された電子音が漏れ聞こえていた。
ステージでのリハーサルがすべて終了し、オーディションフェスの本番が始まってからすでに2時間が経過している。ライブハウス『O-EAST』の地下に響く重低音は、コンクリートの床を伝って楽屋のパイプ椅子をビリビリと小さく揺らし続けていた。
「――次はエントリーナンバー4番。神代玲央」
スピーカーから流れるMCのコールとともに、モニター画面の向こうのステージが、鮮烈な青と白のレーザーライトで埋め尽くされた。
割れんばかりの歓声の中、神代玲央が静かにステージの中央へ歩み出る。彼は楽器を持たない。ただ、フロントにセッティングされた何台もの最新の機材とノートパソコンの前に立ち、長い指先を鍵盤とコントローラーの上に滑らせた。
直後、ライブハウスの空間全体が、目眩がするほど完璧なエレクトロ・ポップの旋律によって支配された。
ズクズクと脈打つ、1ミリの狂いもない完璧なハイハットのリズム。計算し尽くされた帯域で鳴り響く、心臓を直接掴むようなベースシンセの重低音。そして、玲央の紡ぐ、どこまでも澄み切った量産型とは一線を画す圧倒的なメロディライン。
それは、ノイズも、ピッチのズレも、感情の暴走も一切許さない、冷徹なまでに調律された『究極の正解』の音楽だった。
「……すげぇな、あいつ。一人でこれだけの音圧の壁、作ってんのかよ」
ソファの端で腕を組んでいた徹先輩が、小さく息を吐き出しながら呟いた。いつもなら不敵に笑っているはずの先輩の横顔が、モニターの青い光に照らされて、ひどく真剣に、そして硬く強張っている。
巧さんもスティックを回す手を止め、画面の中の玲央の指先の動きを、一瞬たりとも見逃さないというように鋭い瞳で見つめていた。彼の呼吸の音が、いつもより少しだけ、重くなっているのが分かった。
遥は、自分の膝の上で冷え切っていくペットボトルを強く握りしめていた。
玲央の鳴らす音楽は、あまりにも完璧だった。五線譜という檻を壊すのではなく、その檻の限界を究極まで突き詰め、その内側で完璧な神殿を築き上げたような音楽。
あの日、会議室で彼に言われた言葉が、再び遥の胸の奥で鋭い爪を立てる。
『本物のステージっていうのはね、君たちみたいなお遊びの延長線上にいる量産型バンドが、思い出作りに立っていい場所じゃないんだよ』
画面の向こうの観客たちは、玲央の鳴らすその完璧な正解の音に、狂ったように熱狂し、波のように揺れている。
もし、この後に自分たちがステージに上がって、あの汚くて、歪みきった不協和音を鳴らしたら。観客たちはそれを、ただの不器用な騒音として笑うのではないか。お母さんはそれを見て、やっぱり音楽なんて間違いだったのだと、悲しそうな顔をするのではないか。
急激に湧き上がってきた不安の冷気が、遥の全身の血の巡りを止めていくようだった。
「……遥」
突然、すぐ隣から、低く掠れた声が遥の耳元に届いた。
振り返ると、ギターケースに背中を預けて床に座り込んでいた漣が、濡れたような黒髪の隙間から、冷徹なまでに真っ直ぐな瞳で遥を見つめていた。
「お前、またあいつの綺麗なお手本に当てられて、自分の音階を濁らせてんのか」
「……だって、本当に完璧だもの。1音の狂いも、ノイズも無い。あんなものを聴かされた後に、私たちのあの荒削りな新曲を演奏して、本当に誰も笑わないって、どうして言い切れるのよ」
遥の声が、かすかに震えた。
すると、漣はフッと鼻で笑い、ゆっくりと床から立ち上がった。彼は愛用の黒いギターを低い位置に構えると、ピックも持たず、右手の親指で、静かに、優しく弦を鳴らした。
ポロン、と。
モニターから流れる完璧な電子音の隙間を縫うようにして、漣の鳴らした生のギターの音が、少しだけピッチの狂った、だけど不器用なほどに温かい音が、楽屋のコンクリートの壁に反射して遥の鼓膜へと届いた。
「完璧だから何なんだよ」
漣はギターのネックを強く握り締め、玲央が映るモニター画面を冷たく一瞥した。
「あいつの鳴らしてる音はさ、計算機が叩き出したデータだろ。傷もつかなきゃ、血も流れてねぇんだよ。……そんな100点満点の綺麗な音なんて、CDを再生すればいつでも聴けるんだわ」
漣が一歩、遥の目の前へと踏み込んできた。
「でも、俺たちが鳴らすのは違うだろ。お前が学校からはみ出して、お母さんを裏切ってまで、ここに持ってきてくれたのは、そんなお利口な音じゃねぇはずだ。俺たちの音には、17歳の俺たちの、息が詰まりそうな焦燥感も、悔し涙も、全部むき出しのまま詰め込まれてんだよ。どっちが観客の心臓に、消えない深い傷を残せるか、教えてやるよ」
漣の言葉は、相変わらず乱暴で、独りよがりで、はみ出しすぎている。
けれど、彼のその掠れた声を耳が拾うたびに、遥の胸の奥の一番冷え切っていた場所に、一滴の淀みもない青白い炎が、再び激しく、狂おしいほどの熱量を持って灯っていくのが分かった。
「……そうね。あんな綺麗なだけの音楽に、私たちの不協和音を騒音なんて言わせたままにしておいたら、私のプライドが許さないわ」
遥は涙を袖で手荒に拭うと、顔を上げて小さく笑ってみせた。
「おう、それでこそ俺のバディだ」
漣が嬉しそうに白い歯を見せた、その瞬間。
楽屋の重い鉄の扉が、バタンと開いた。
「エントリーナンバー5番。――『オルタナティブ・ライト』の皆さん、ステージ袖へ移動お願いします」
スタッフの事務的な声が、楽屋の静寂を鋭く引き裂いた。
ついに、その時刻がやってきたのだ。
徹先輩がベースを強く抱え、不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。巧さんも、無言でスティックを強く握り締め、鋭い闘志をその瞳に宿して歩き出した。
遥は、自分のシンセサイザーの入ったケースを両手で強く抱え、漣と並んで暗いステージの袖へと足を踏み出した。
大人の引いた五線譜を完全に飛び越えた4人の、世界への最大の反撃が、今まさに、この渋谷の眩い光の海の中で始まろうとしていた。



