1,都会の喧騒と、あの狂ったように跳ね上がり続けるスマートフォンの数字の海から逃れるようにして、4人がたどり着いたのは、県境を越えた山奥にある古い貸しスタジオだった。
かつては企業の保養所か何かに使われていたという木造二階建ての建物は、周囲を深い杉の木立に囲まれ、湿った土と青々とした葉の匂いに満ちている。携帯電話の電波すら満足に入らないその場所は、ネットのバズに翻弄されかけていた17歳の彼らにとって、これ以上ない完璧な「隔離部屋」だった。
「おっしゃ! 荷物下ろすぞ! 巧、そっちのアンプ重いから気をつけろよ!」
ハイエースのバックドアを跳ね上げ、ベースの徹先輩が真っ先に声を張り上げた。いつも通りの色褪せたバンドTシャツの袖を捲り上げ、首にタオルを巻いた姿は、学校で見せるチャラついた先輩の姿ではなく、完全にこのバンドの頼れるリーダーのそれだった。
「徹さん、声が大きい。……ここは山の中。響く」
ドラムの巧くんが、重いスネアケースを両手に抱えながら、ぶっきらぼうに、だけど器用に荷物を運び出していく。彼の無駄のない動きを見ているだけで、あのタイトで狂いのない正確なドラムビートが、日々の地道な積み重ねから生まれているのだということがよく分かった。
遥は、自分の小さなカバンと、母親からようやく返してもらった大切なキーボードのケースを両手で抱え、まだ少し湿り気のある山の空気を深く吸い込んだ。
家を出るとき、母親は何も言わなかった。
ただ、玄関で見送るその瞳には、あの日激しくぶつかり合った時の怒りは消え、代わりに「この子が自分の足で歩き始めてしまった」という、諦めと、ほんの少しの寂しさが混ざった複雑な光が宿っていた。母親を悲しませてしまったという罪悪感は、今でも遥の胸の底に小さな澱のように沈んでいる。けれど、その澱を抱えたままでも、自分はもうこの指先を止めることはできないと、遥の耳が、心臓が、確信していた。
「おい、何ボサッとしてんだよ、遥」
後ろから、低く掠れた声が聞こえた。
振り返ると、ステッカーだらけの黒いギターケースを背負った漣が、すぐ目の前に立っていた。濡れたような黒髪の隙間から覗くその鋭い瞳が、遥の顔をじっと覗き込んでくる。
「……別に、ボサッとしてないよ。山の空気って、冷たくて気持ちいいなと思って」
「ハッ、そうかよ。……まぁ、家でのこととか、まだ色々考えてんだろ。お前のその少し曇った音階、耳を澄まさなくても分かるわ」
漣はフッと鼻で笑うと、遥の両手から、重いキーボードのケースをひょいと奪い取った。
「あ、ちょっと……自分で持てるわよ!」
「うるせぇな。お前はうちのバンドの『心臓』だろ。本番前に指の筋肉痛められたら、新曲のサビの転調が台無しになる。大人しくアンプのケーブルでも運んどけ」
漣はそう言い残すと、長い足を大股に動かして、建物の奥へと消えていった。
相変わらず乱暴で、はみ出し者で、だけど誰よりも真っ直ぐに遥の「音」を気遣ってくれる。彼のその不器用な優しさに触れるたび、遥の胸の奥が、甘い感情とは違う、もっと強固なバディとしての熱量で満たされていくのを感じた。
建物の1階にある、かつては食堂だったという広いスペース。
そこに、徹先輩のベースアンプ、巧さんのドラムセット、そして漣の巨大なマーシャルのアンプがセッティングされ、部屋の片隅には遥の多機能シンセサイザーが青白い液晶の光を灯していた。
古い木造の床は、アンプの電源を入れた瞬間に発生する微かな電子のハミングで、ビリビリと小さく震え始めている。窓の外では、夕暮れのひぐらしの声がカナカナと響き、静かに夜の帳が降りようとしていた。
「よし、それじゃあまずは、新曲のBメロからサビへの繋ぎ、もう一回確認させて。今のままだと、ネットの動画で上がってる演奏と何も変わらない。渋谷のフェスで、プロの耳を持った審査員や、本物の音楽を求めてる観客を黙らせるには、あと一歩、何か圧倒的なピースが足りないの」
遥は鍵盤に指を乗せ、3人の顔を真っ直ぐに見据えた。
あの中庭のライブ動画がバズったことは、確かに奇跡だった。けれど、遥は知っている。ネットの熱狂なんて、波が引くように一瞬で消え去るものだということを。中学のとき、たった一行の批判コメントで自分の世界が崩壊したように、数字の海の向こうにいる人間たちは、無責任に持ち上げ、そして無責任に飽きていく。
だからこそ、一過性の「バズ」で終わらせるわけにはいかない。あの日、中庭で鳴らした自分たちの初期衝動が、決して量産型のお遊びなんかじゃないということを、本物のステージで証明しなければならないのだ。
「分かってるよ。俺のベースも、もっと荒々しく、だけど遥のピアノを殺さないギリギリのラインを攻めるわ」
徹先輩がベースの弦をベキッと鳴らした。
「テンポは百四十二で固定する。……それ以上速くなると、漣のギターのピッチが崩れるから、俺が後ろから手綱を握る」
巧さんが静かにスティックを構える。
「いくぞ」
漣がエフェクターを踏み込んだ瞬間、旧食堂の木造の壁が、一瞬にして爆音の渦に飲み込まれた。
キィィィィン――!!
アンプから放たれる歪みきったディストーションノイズ。それは、都会の地下スタジオで聴いたときよりも、遮るもののない山の中で、より一層獰猛に、剥き出しの牙を剥いて遥の鼓膜へと突き刺さってきた。
巧くんのドラムが地響きのようなビートを刻み、徹先輩のベースが腹の底を激しく揺さぶる。
4人の音が、夜の山小屋の中で激しく衝突し、絡み合っていく。
遥の絶対音感が、彼らの鳴らす音の一音一音を正確に分解し、再構築していく。
「漣くん、そこ。3拍目のチョーキング、あと半音高く。その狂ったピッチの中に、本物の感情を込めて」
「徹先輩。ベースのルート、マイナーじゃなくてあえてメジャーで受けて。 その方が、サビに入ったときの切なさが何倍も跳ね上がるから」
言葉を交わす暇もない。音が言葉の代わりだった。
遥の脳内からは、いつの間にか「母親の泣き顔」や「ネットの冷酷な言葉」といった、自分を縛り付けていたすべての雑音はすべて完全に消え去っていた。ただ、目の前で狂ったようにギターをかき鳴らす漣の音に、徹先輩の重低音に、巧さんの確実なビートに、自分のすべての魂をシンクロさせることだけに、全神経を集中させていた。
何度も、何度も、同じフレーズを繰り返す。
指先が熱を持ち、鍵盤を叩く手のひらが汗で滑りそうになる。アンプの熱気で、広い食堂の空気は真夏のように熱く淀んでいた。気がつけば、時計の針は夜の十一時を回っている。
「……よし、一旦ストップ!」
遥が両手を鍵盤から離すと、ライブハウスのような爆音の残響が、ゆっくりと木造の天井へと吸い込まれて消えた。
「はぁ、っ……、ふぅ……」
4人全員が、言葉もなく、激しい呼吸の音だけを部屋の中に響かせる。
徹先輩は床に大の字に寝転がり、「指が死ぬ……」とうめき声を上げていた。巧さんも、額から流れる大量の汗をタオルで乱暴に拭いながら、だけどその瞳には、今までに見たこともないような充実した光が宿っている。
「なぁ、遥。今のアレ……マジでヤバくなかったか?」
漣が、ギターを抱えたまま、遥の目の前まで歩み寄ってきた。彼の濡れた黒髪から、一滴の汗が床へと落ちる。
「……うん。凄かった。徹先輩のベースがメジャーで受けてくれたおかげで、あんたの汚いギターソロが、まるで夜空の星みたいに綺麗に聴こえたわ」
「汚いは余計だろ。……でも、これならいける」
漣は不敵に笑い、自分の右手のひらを見つめた。
弦に痛めつけられて硬くなったそのタコが、太陽の光とは違う、夜の蛍光灯の下で白く光っている。
「渋谷のフェス、俺たちの『はみ出した正解』で、世界を完全にひっくり返そうぜ」
窓の外では、いつの間にか雨上がりの美しい星空が広がり、雲の隙間から、鋭く尖った三日月が山々を静かに照らし出していた。
17歳の彼らの合宿は、まだ始まったばかり。渋谷のフェスという未知のステージへ向けて、4人の絆と音階は、今、これ以上ないほど強固に、そして美しく調律されようとしていた。
2,耳がキーンとするほどの静寂が、夜の山小屋を完全に包み込んでいた。
さっきまで旧食堂の床や壁を激しく震わせていたあの暴力的な爆音は、もうどこにもない。アンプの真空管が冷えていく際に立てる、かすかな『チチチ……』という金属のきしみだけが、薄暗い部屋の片隅で寂しげに響いていた。
徹先輩と巧さんは、二階の雑魚寝部屋に上がってから10分もしないうちに、泥のように深い眠りに落ちてしまったようだった。天井の隙間から、二人の規則正しく重い寝息がかすかに漏れ聞こえてくる。
けれど、遥の脳内は、まだあの凄まじいセッションの残熱でパチパチと火花を散らしたままで、到底ベッドに入る気にはなれなかった。
冷えたお茶のペットボトルを手に持ち、遥はおそるおそる建物の勝手口から外へと一歩を踏み出した。
「……つめた」
思わず声が漏れるほど、山の夜気は鋭く張り詰めていた。
都会のコンクリートが溜め込むじっとりとした暑さとは全く違う、氷の刃で撫でられたような清涼な冷気が、湿った制服のブラウス越しに肌へと染み渡っていく。
見上げれば、遮るもののない夜空には、息を呑むほどに無数の星が散らばっていた。都会のネオンに消されていた光の粒子たちが、ここではまるで、自分たちの鳴らした音の火花がそのまま天に昇って固定されたかのように、冷たく、だけど激しくまたたいている。
「眠れねぇの」
突然、すぐ近くの闇から低く掠れた声が飛んできた。
驚いて遥が視線を動かすと、勝手口の古びた木製の階段に腰掛け、長い足を投げ出している影があった。
漣だった。
制服のシャツの上から、どこかで見つけてきたような薄手の古い黒いパーカーを羽織り、膝の上に愛用の黒いエレキギターを載せている。アンプには繋がれていない。彼はピックを持たず、右手の親指の腹で、静かに、優しく、生音の弦を弾いていた。 ポロン、ポロン、と。アンプを通さない生のエレキギターの音は、驚くほど小さくて、どこか寂しくて、だけど虫の音に混ざってひどく心地よく遥の鼓膜に届いた。
「……うん。瀬尾くんも、まだ起きてたんだ」
「俺はいつもこんなもんだよ。音が頭の中で鳴り始めると、朝まで止まんねぇんだわ」
漣はギターのネックにそっと手を置き、隣のスペースを顎で示した。
「座れば。そこ、冷てぇけど」
遥は少しだけ躊躇った。けれど、山の冷気に身体が震え始めていたこともあって、吸い寄せられるように彼の隣へと歩み寄り、1段下の階段に腰を下ろした。
コンクリートの冷たさがスカート越しにじわりと伝わってくる。けれど、それ以上に、隣にいる漣の身体から放たれる圧倒的な体温の熱さが、遥の右肩をじりじりと焦がすように伝わってきた。
「……まだ、手のひらがジンジンしてる」
遥はペットボトルを両手で挟みながら、星空を見上げた。
「あんなに長い時間、本気で鍵盤を叩いたのなんて、本当に1年ぶりだった。中学のとき、コンクールとかのために1日何時間も練習してた頃のことを思い出しちゃった」
「その頃のお前って、どんな音鳴らしてたの」
漣が親指で、ふっと低い「E」の弦を鳴らした。
「どんな音、って……。ただ、完璧な音。楽譜の通りに、強弱もテンポも寸分の狂いもなく、審査員の先生たちが100点満点をつけてくれるような、綺麗な音。そう弾くことだけが、私の『正解』だったのよ。……でもね、ある日気づいちゃったの。私の弾いてるピアノは、誰の心にも傷をつけてないって。ただ通り過ぎていくだけの、綺麗な量産型のBGMなんだって」
遥は膝を抱え、自分のローファーの爪先を見つめた。
「だから、自分で曲を書き始めた。私の、私だけの本物の言葉を、音を世界にぶつけたくて。動画サイトに投稿したときは、本気で世界がひっくり返ると思ってた。でも……結果はあんな数字で。誰かも分からない人に『量産型』って言われて、お母さんにも『普通の幸せが一番だ』って泣かれて……。その瞬間に、私の17年間が、全部間違っていたんだって思い知らされたの」
夜風が、ざわざわと周囲の杉の木立を揺らす。その葉の擦れ合う音が、まるで遥の過去の傷を優しくなだめるように静かに響いた。
「量産型か。……ふざけんなよ」
漣の声は、地を這うように低かった。けれど、そこには明確な、激しい怒りの熱が宿っていた。
「さっきの合宿のセッションでも、お前のピアノは、俺の歪んだギターの真ん中を完璧にぶち抜いてきたじゃねぇか。お前の一音があるから、俺はどれだけ汚く歪ませても、どこまでも高く飛べる。お前の音は、量産型なんかじゃない。俺の、俺たちの、たった一つの『心臓』だ。……あのネットのクソみたいなコメントを書き込んだ奴も、お前の母親も、お前の本物の音を、一拍も聴いちゃいねぇんだよ」
漣が、ギターを床にそっと置くと、今度は遥の顔を真っ直ぐに見つめてきた。
前髪の隙間から覗くその瞳は、星の光を反射して、まるで冷酷な刃物のように鋭く、同時に泣きたくなるほど綺麗だった。
「遥。お前、お母さんのこと、まだ引きずってんだろ」
「……裏切っちゃったから」
遥の声が、かすかに震えた。
「お母さんはね、本当に私のことを心配してくれてるの。私が音楽で傷つくのを見たくないから、安全なレールを用意してくれた。それを、私は自分のワガママで、ぶち壊して逃げてきちゃった。……フェスが終わったら、私、どんな顔をして家に帰ればいいのか、本当は、すごく怖い」
母親の泣き顔が、脳裏をよぎる。それは、遥の足を引っ張る重りであると同時に、どうしても完全に切り離すことのできない、血の通った温かい家族の絆だった。
すると、漣が静かに右手を伸ばし、遥の頭にぽんと手を置いた。
「わがままでいいんだよ、17歳なんだから」
「え……?」
「誰かのために用意された正解のレールなんて、ただの退屈な檻だろ。親を安心させるために、自分の心臓の音を殺して生きるのが正解だなんて、俺は絶対に認めねぇ。……失敗したっていいじゃん。傷ついたっていいじゃん。泥だらけになっても、俺が、徹さんが、巧が、お前の音を全部拾い上げてやるよ」
漣の手のひらから、彼のゴツゴツとした指先から、強固な、圧倒的な連帯感の熱が、遥の脳へと直接流れ込んでくる。
「お前のお母さんが間違ってたってことを、俺たちの音楽で証明しようぜ。渋谷のフェス、何千人もの観客の前で、お前の一番はみ出した、一番汚くて美しい音を鳴らしきってみせろよ。その時、お前のお母さんは、絶対に自分の間違いに気づく。お前の音が、誰の心にも届く『本物の正解』だってことを、認めざるを得なくなる」
漣の言葉は、まるで魔法のようだった。
優しくて、乱暴で、だけど遥の胸の奥の一番冷え切っていた場所に、消えない本物の炎を灯してくれる。
「……瀬尾くん、本当に最悪のはみ出し者ね」
遥は涙で滲む視界の中で、小さく笑った。
「でも……信じてみようかな。あなたのその、調律の狂った、最低で最高の言葉を」
「ハッ、それでこそ俺のバディだ」
漣は嬉しそうに手を頭から離すと、再びギターを抱え直し、夜空に向かって、静かに一音、最も切ないコードを鳴らした。 五線譜からはみ出した二人の影が、山の静寂の中で、どこまでも静かに、だけど熱く重なり合っていた。彼らの17歳の本当の戦いは、明日の朝から、そして渋谷のステージへ向けて、さらに激しく加速していく。
かつては企業の保養所か何かに使われていたという木造二階建ての建物は、周囲を深い杉の木立に囲まれ、湿った土と青々とした葉の匂いに満ちている。携帯電話の電波すら満足に入らないその場所は、ネットのバズに翻弄されかけていた17歳の彼らにとって、これ以上ない完璧な「隔離部屋」だった。
「おっしゃ! 荷物下ろすぞ! 巧、そっちのアンプ重いから気をつけろよ!」
ハイエースのバックドアを跳ね上げ、ベースの徹先輩が真っ先に声を張り上げた。いつも通りの色褪せたバンドTシャツの袖を捲り上げ、首にタオルを巻いた姿は、学校で見せるチャラついた先輩の姿ではなく、完全にこのバンドの頼れるリーダーのそれだった。
「徹さん、声が大きい。……ここは山の中。響く」
ドラムの巧くんが、重いスネアケースを両手に抱えながら、ぶっきらぼうに、だけど器用に荷物を運び出していく。彼の無駄のない動きを見ているだけで、あのタイトで狂いのない正確なドラムビートが、日々の地道な積み重ねから生まれているのだということがよく分かった。
遥は、自分の小さなカバンと、母親からようやく返してもらった大切なキーボードのケースを両手で抱え、まだ少し湿り気のある山の空気を深く吸い込んだ。
家を出るとき、母親は何も言わなかった。
ただ、玄関で見送るその瞳には、あの日激しくぶつかり合った時の怒りは消え、代わりに「この子が自分の足で歩き始めてしまった」という、諦めと、ほんの少しの寂しさが混ざった複雑な光が宿っていた。母親を悲しませてしまったという罪悪感は、今でも遥の胸の底に小さな澱のように沈んでいる。けれど、その澱を抱えたままでも、自分はもうこの指先を止めることはできないと、遥の耳が、心臓が、確信していた。
「おい、何ボサッとしてんだよ、遥」
後ろから、低く掠れた声が聞こえた。
振り返ると、ステッカーだらけの黒いギターケースを背負った漣が、すぐ目の前に立っていた。濡れたような黒髪の隙間から覗くその鋭い瞳が、遥の顔をじっと覗き込んでくる。
「……別に、ボサッとしてないよ。山の空気って、冷たくて気持ちいいなと思って」
「ハッ、そうかよ。……まぁ、家でのこととか、まだ色々考えてんだろ。お前のその少し曇った音階、耳を澄まさなくても分かるわ」
漣はフッと鼻で笑うと、遥の両手から、重いキーボードのケースをひょいと奪い取った。
「あ、ちょっと……自分で持てるわよ!」
「うるせぇな。お前はうちのバンドの『心臓』だろ。本番前に指の筋肉痛められたら、新曲のサビの転調が台無しになる。大人しくアンプのケーブルでも運んどけ」
漣はそう言い残すと、長い足を大股に動かして、建物の奥へと消えていった。
相変わらず乱暴で、はみ出し者で、だけど誰よりも真っ直ぐに遥の「音」を気遣ってくれる。彼のその不器用な優しさに触れるたび、遥の胸の奥が、甘い感情とは違う、もっと強固なバディとしての熱量で満たされていくのを感じた。
建物の1階にある、かつては食堂だったという広いスペース。
そこに、徹先輩のベースアンプ、巧さんのドラムセット、そして漣の巨大なマーシャルのアンプがセッティングされ、部屋の片隅には遥の多機能シンセサイザーが青白い液晶の光を灯していた。
古い木造の床は、アンプの電源を入れた瞬間に発生する微かな電子のハミングで、ビリビリと小さく震え始めている。窓の外では、夕暮れのひぐらしの声がカナカナと響き、静かに夜の帳が降りようとしていた。
「よし、それじゃあまずは、新曲のBメロからサビへの繋ぎ、もう一回確認させて。今のままだと、ネットの動画で上がってる演奏と何も変わらない。渋谷のフェスで、プロの耳を持った審査員や、本物の音楽を求めてる観客を黙らせるには、あと一歩、何か圧倒的なピースが足りないの」
遥は鍵盤に指を乗せ、3人の顔を真っ直ぐに見据えた。
あの中庭のライブ動画がバズったことは、確かに奇跡だった。けれど、遥は知っている。ネットの熱狂なんて、波が引くように一瞬で消え去るものだということを。中学のとき、たった一行の批判コメントで自分の世界が崩壊したように、数字の海の向こうにいる人間たちは、無責任に持ち上げ、そして無責任に飽きていく。
だからこそ、一過性の「バズ」で終わらせるわけにはいかない。あの日、中庭で鳴らした自分たちの初期衝動が、決して量産型のお遊びなんかじゃないということを、本物のステージで証明しなければならないのだ。
「分かってるよ。俺のベースも、もっと荒々しく、だけど遥のピアノを殺さないギリギリのラインを攻めるわ」
徹先輩がベースの弦をベキッと鳴らした。
「テンポは百四十二で固定する。……それ以上速くなると、漣のギターのピッチが崩れるから、俺が後ろから手綱を握る」
巧さんが静かにスティックを構える。
「いくぞ」
漣がエフェクターを踏み込んだ瞬間、旧食堂の木造の壁が、一瞬にして爆音の渦に飲み込まれた。
キィィィィン――!!
アンプから放たれる歪みきったディストーションノイズ。それは、都会の地下スタジオで聴いたときよりも、遮るもののない山の中で、より一層獰猛に、剥き出しの牙を剥いて遥の鼓膜へと突き刺さってきた。
巧くんのドラムが地響きのようなビートを刻み、徹先輩のベースが腹の底を激しく揺さぶる。
4人の音が、夜の山小屋の中で激しく衝突し、絡み合っていく。
遥の絶対音感が、彼らの鳴らす音の一音一音を正確に分解し、再構築していく。
「漣くん、そこ。3拍目のチョーキング、あと半音高く。その狂ったピッチの中に、本物の感情を込めて」
「徹先輩。ベースのルート、マイナーじゃなくてあえてメジャーで受けて。 その方が、サビに入ったときの切なさが何倍も跳ね上がるから」
言葉を交わす暇もない。音が言葉の代わりだった。
遥の脳内からは、いつの間にか「母親の泣き顔」や「ネットの冷酷な言葉」といった、自分を縛り付けていたすべての雑音はすべて完全に消え去っていた。ただ、目の前で狂ったようにギターをかき鳴らす漣の音に、徹先輩の重低音に、巧さんの確実なビートに、自分のすべての魂をシンクロさせることだけに、全神経を集中させていた。
何度も、何度も、同じフレーズを繰り返す。
指先が熱を持ち、鍵盤を叩く手のひらが汗で滑りそうになる。アンプの熱気で、広い食堂の空気は真夏のように熱く淀んでいた。気がつけば、時計の針は夜の十一時を回っている。
「……よし、一旦ストップ!」
遥が両手を鍵盤から離すと、ライブハウスのような爆音の残響が、ゆっくりと木造の天井へと吸い込まれて消えた。
「はぁ、っ……、ふぅ……」
4人全員が、言葉もなく、激しい呼吸の音だけを部屋の中に響かせる。
徹先輩は床に大の字に寝転がり、「指が死ぬ……」とうめき声を上げていた。巧さんも、額から流れる大量の汗をタオルで乱暴に拭いながら、だけどその瞳には、今までに見たこともないような充実した光が宿っている。
「なぁ、遥。今のアレ……マジでヤバくなかったか?」
漣が、ギターを抱えたまま、遥の目の前まで歩み寄ってきた。彼の濡れた黒髪から、一滴の汗が床へと落ちる。
「……うん。凄かった。徹先輩のベースがメジャーで受けてくれたおかげで、あんたの汚いギターソロが、まるで夜空の星みたいに綺麗に聴こえたわ」
「汚いは余計だろ。……でも、これならいける」
漣は不敵に笑い、自分の右手のひらを見つめた。
弦に痛めつけられて硬くなったそのタコが、太陽の光とは違う、夜の蛍光灯の下で白く光っている。
「渋谷のフェス、俺たちの『はみ出した正解』で、世界を完全にひっくり返そうぜ」
窓の外では、いつの間にか雨上がりの美しい星空が広がり、雲の隙間から、鋭く尖った三日月が山々を静かに照らし出していた。
17歳の彼らの合宿は、まだ始まったばかり。渋谷のフェスという未知のステージへ向けて、4人の絆と音階は、今、これ以上ないほど強固に、そして美しく調律されようとしていた。
2,耳がキーンとするほどの静寂が、夜の山小屋を完全に包み込んでいた。
さっきまで旧食堂の床や壁を激しく震わせていたあの暴力的な爆音は、もうどこにもない。アンプの真空管が冷えていく際に立てる、かすかな『チチチ……』という金属のきしみだけが、薄暗い部屋の片隅で寂しげに響いていた。
徹先輩と巧さんは、二階の雑魚寝部屋に上がってから10分もしないうちに、泥のように深い眠りに落ちてしまったようだった。天井の隙間から、二人の規則正しく重い寝息がかすかに漏れ聞こえてくる。
けれど、遥の脳内は、まだあの凄まじいセッションの残熱でパチパチと火花を散らしたままで、到底ベッドに入る気にはなれなかった。
冷えたお茶のペットボトルを手に持ち、遥はおそるおそる建物の勝手口から外へと一歩を踏み出した。
「……つめた」
思わず声が漏れるほど、山の夜気は鋭く張り詰めていた。
都会のコンクリートが溜め込むじっとりとした暑さとは全く違う、氷の刃で撫でられたような清涼な冷気が、湿った制服のブラウス越しに肌へと染み渡っていく。
見上げれば、遮るもののない夜空には、息を呑むほどに無数の星が散らばっていた。都会のネオンに消されていた光の粒子たちが、ここではまるで、自分たちの鳴らした音の火花がそのまま天に昇って固定されたかのように、冷たく、だけど激しくまたたいている。
「眠れねぇの」
突然、すぐ近くの闇から低く掠れた声が飛んできた。
驚いて遥が視線を動かすと、勝手口の古びた木製の階段に腰掛け、長い足を投げ出している影があった。
漣だった。
制服のシャツの上から、どこかで見つけてきたような薄手の古い黒いパーカーを羽織り、膝の上に愛用の黒いエレキギターを載せている。アンプには繋がれていない。彼はピックを持たず、右手の親指の腹で、静かに、優しく、生音の弦を弾いていた。 ポロン、ポロン、と。アンプを通さない生のエレキギターの音は、驚くほど小さくて、どこか寂しくて、だけど虫の音に混ざってひどく心地よく遥の鼓膜に届いた。
「……うん。瀬尾くんも、まだ起きてたんだ」
「俺はいつもこんなもんだよ。音が頭の中で鳴り始めると、朝まで止まんねぇんだわ」
漣はギターのネックにそっと手を置き、隣のスペースを顎で示した。
「座れば。そこ、冷てぇけど」
遥は少しだけ躊躇った。けれど、山の冷気に身体が震え始めていたこともあって、吸い寄せられるように彼の隣へと歩み寄り、1段下の階段に腰を下ろした。
コンクリートの冷たさがスカート越しにじわりと伝わってくる。けれど、それ以上に、隣にいる漣の身体から放たれる圧倒的な体温の熱さが、遥の右肩をじりじりと焦がすように伝わってきた。
「……まだ、手のひらがジンジンしてる」
遥はペットボトルを両手で挟みながら、星空を見上げた。
「あんなに長い時間、本気で鍵盤を叩いたのなんて、本当に1年ぶりだった。中学のとき、コンクールとかのために1日何時間も練習してた頃のことを思い出しちゃった」
「その頃のお前って、どんな音鳴らしてたの」
漣が親指で、ふっと低い「E」の弦を鳴らした。
「どんな音、って……。ただ、完璧な音。楽譜の通りに、強弱もテンポも寸分の狂いもなく、審査員の先生たちが100点満点をつけてくれるような、綺麗な音。そう弾くことだけが、私の『正解』だったのよ。……でもね、ある日気づいちゃったの。私の弾いてるピアノは、誰の心にも傷をつけてないって。ただ通り過ぎていくだけの、綺麗な量産型のBGMなんだって」
遥は膝を抱え、自分のローファーの爪先を見つめた。
「だから、自分で曲を書き始めた。私の、私だけの本物の言葉を、音を世界にぶつけたくて。動画サイトに投稿したときは、本気で世界がひっくり返ると思ってた。でも……結果はあんな数字で。誰かも分からない人に『量産型』って言われて、お母さんにも『普通の幸せが一番だ』って泣かれて……。その瞬間に、私の17年間が、全部間違っていたんだって思い知らされたの」
夜風が、ざわざわと周囲の杉の木立を揺らす。その葉の擦れ合う音が、まるで遥の過去の傷を優しくなだめるように静かに響いた。
「量産型か。……ふざけんなよ」
漣の声は、地を這うように低かった。けれど、そこには明確な、激しい怒りの熱が宿っていた。
「さっきの合宿のセッションでも、お前のピアノは、俺の歪んだギターの真ん中を完璧にぶち抜いてきたじゃねぇか。お前の一音があるから、俺はどれだけ汚く歪ませても、どこまでも高く飛べる。お前の音は、量産型なんかじゃない。俺の、俺たちの、たった一つの『心臓』だ。……あのネットのクソみたいなコメントを書き込んだ奴も、お前の母親も、お前の本物の音を、一拍も聴いちゃいねぇんだよ」
漣が、ギターを床にそっと置くと、今度は遥の顔を真っ直ぐに見つめてきた。
前髪の隙間から覗くその瞳は、星の光を反射して、まるで冷酷な刃物のように鋭く、同時に泣きたくなるほど綺麗だった。
「遥。お前、お母さんのこと、まだ引きずってんだろ」
「……裏切っちゃったから」
遥の声が、かすかに震えた。
「お母さんはね、本当に私のことを心配してくれてるの。私が音楽で傷つくのを見たくないから、安全なレールを用意してくれた。それを、私は自分のワガママで、ぶち壊して逃げてきちゃった。……フェスが終わったら、私、どんな顔をして家に帰ればいいのか、本当は、すごく怖い」
母親の泣き顔が、脳裏をよぎる。それは、遥の足を引っ張る重りであると同時に、どうしても完全に切り離すことのできない、血の通った温かい家族の絆だった。
すると、漣が静かに右手を伸ばし、遥の頭にぽんと手を置いた。
「わがままでいいんだよ、17歳なんだから」
「え……?」
「誰かのために用意された正解のレールなんて、ただの退屈な檻だろ。親を安心させるために、自分の心臓の音を殺して生きるのが正解だなんて、俺は絶対に認めねぇ。……失敗したっていいじゃん。傷ついたっていいじゃん。泥だらけになっても、俺が、徹さんが、巧が、お前の音を全部拾い上げてやるよ」
漣の手のひらから、彼のゴツゴツとした指先から、強固な、圧倒的な連帯感の熱が、遥の脳へと直接流れ込んでくる。
「お前のお母さんが間違ってたってことを、俺たちの音楽で証明しようぜ。渋谷のフェス、何千人もの観客の前で、お前の一番はみ出した、一番汚くて美しい音を鳴らしきってみせろよ。その時、お前のお母さんは、絶対に自分の間違いに気づく。お前の音が、誰の心にも届く『本物の正解』だってことを、認めざるを得なくなる」
漣の言葉は、まるで魔法のようだった。
優しくて、乱暴で、だけど遥の胸の奥の一番冷え切っていた場所に、消えない本物の炎を灯してくれる。
「……瀬尾くん、本当に最悪のはみ出し者ね」
遥は涙で滲む視界の中で、小さく笑った。
「でも……信じてみようかな。あなたのその、調律の狂った、最低で最高の言葉を」
「ハッ、それでこそ俺のバディだ」
漣は嬉しそうに手を頭から離すと、再びギターを抱え直し、夜空に向かって、静かに一音、最も切ないコードを鳴らした。 五線譜からはみ出した二人の影が、山の静寂の中で、どこまでも静かに、だけど熱く重なり合っていた。彼らの17歳の本当の戦いは、明日の朝から、そして渋谷のステージへ向けて、さらに激しく加速していく。



