五線譜からはみ出した、17歳の正解

1,   体育館の舞台裏は、ひんやりとした空気と、表から漏れてくる地鳴りりのような大歓声で満ちていた。
秋の文化祭、最終日。有志ステージのトリ。
薄暗い幕の袖で、私は自分の衣装の裾を何度も握りしめていた。心臓が耳の奥で、警報みたいに激しく警鐘を鳴らしている。喉がカラカラに渇いて、今声を出そうとしたら掠れてしまいそうだった。

(ついに、ここまで来ちゃったんだ……)

カバンの中には、結局白紙のまま提出期限を延ばしてもらった、指定校推薦の書類が入っている。両親は今、この体育館の客席のどこかにいるはずだ。
大人の言う「安全な正解」をすべて保留にして、私は今、一番不確実で、一番傷つくかもしれない場所に立っている。

「おい、遥。顔が引き攣ってるぞ」

隣から、いつもの低い声が降ってきた。
振り返ると、肩に黒いベースを背負った漣が、いつもと変わらない不敵な笑みを浮かべて立っていた。ステージの照明を浴びる前だというのに、彼の周りだけ、もう光が踊っているように見える。

「緊張、しないわけないじゃん……。学校中の人がいるんだよ? お父さんもお母さんも、黒岩先生も見てるんだよ?」
「関係ねえよ、そんなの」

漣は一歩近づくと、ベースを持たない方の手で、私の頭を少し乱暴に小突いた。

「客席にいる奴らが何を考えてようが、大人がどんな『正解』を押しつけてこようが、今からこのステージの上を支配するのは俺とお前だ」

漣の瞳が、薄暗い舞台裏でギラリと強い光を放つ。その熱が、私の冷え切っていた指先にじわりと伝わってきた。

「いいか、遥。お前が家で一人で、泣きながら作ったあの曲は、俺のベースを狂わせるくらいの力があるんだ。自信持て。お前の歌声で、あの客席にいる全員の『正解』をぶち壊してこい」

――全員の正解をぶち壊してこい。
その言葉が、私の胸の奥にたまっていた最後の恐怖を、スコーンと突き抜けるような強い衝撃に変えた。

そうだ。私はもう、言い訳のプレイリストの中に閉じこもっていた、あの頃の私じゃない。漣という最高の相棒と一緒に、泥臭く足掻いて、この場所を掴み取ったんだ。

「宮園さん、瀬尾くん、準備お願いします! 幕、上がります!」

インカムをつけた生徒会のスタッフが、鋭い声で私たちを促した。
ステージの向こうで、ザーッと波のような拍手が沸き起こる。

「いくぞ、遥」
「うん、いこう、漣」

私は深く息を吸い込み、胸の前で強く拳を握りしめた。
暗転したステージへと一歩を踏み出す。眩いスポットライトが私たちの全身を真白に照らし出した瞬間、体育館の空気が一気に跳ね上がるのが分かった。



2,   眩しいライトの渦に飛び込んだ瞬間、視界が真っ白に染まった。
体育館を埋め尽くす数百人の生徒たちの視線が、一斉にステージの私たちへと突き刺さる。ざわざわとした私語の中に、「え、宮園?」「瀬尾くん、バンドじゃなくて二人でやるの?」という戸惑いの声が混ざっているのが分かった。
客席の真ん中あたりに、腕を組んで厳しい目を向けている黒岩先生の姿が見えた。その後ろには、心配そうに私を見つめるお父さんとお母さんの姿も。
一瞬、足がすくみそうになる。――客席にいる奴らが何を考えてようが、今からこのステージの上を支配するのは俺とお前だ。 舞台袖での漣の言葉が、私の鼓膜の奥でリフレインした。
隣を見ると、漣はベースのネックを低く構え、客席を睨みつけるように不敵に笑っていた。彼が右手を大きく振り下ろす。

――ドゥ、ズズズン……ッ!

地を這うような、強烈な重低音がアンプから爆発した。
体育館の床が、壁が、そして観客の心臓が物理的に揺れる。ただの伴奏じゃない。それは「遥、思いきりこい!」という、漣くんからの剥き出しの合図だった。

「――っ」

私はマイクを両手で強く握りしめ、喉の奥を開いた。
最初の一音が、私の唇から飛び出す。
いつも自室のヘッドホンの中で、誰にも聞かれないように細々と歌っていた私の歌声。それが、漣のベースのトーンに導かれ、
体育館の天井を突き破るほどの圧倒的な音圧となって広がっていった。

客席の空気が、一瞬で変わったのが分かった。
ざわめきが消え、全員が息を呑んでステージを見つめている。
サビに入った瞬間、漣のベースがさらに激しく踊り始めた。私の声の動きに合わせて、彼の指先が狂ったように弦を弾く。言葉なんていらない。音を合わせるたびに、お互いの感情がダイレクトにぶつかり合い、火花を散らす。

楽しい。死にそうなくらい、楽しい。

将来稼げるかどうかなんて知らない。これが大人たちの言う『不正解』だとしても、今、この瞬間、漣の音の隣で歌っている私は、間違いなく、自分の人生の中で一番輝いている。

「……おおおおっ!」

曲の終盤、間奏のベースソロで漣が前に飛び出す。学校中の女子を虜にするスターの演奏に、客席から地鳴りのような大歓声が沸き起こった。
そしてラストのサビ、漣が私を見て、さらに音を歪ませた。

「っ、あぁぁぁ……っ!」

私は自分の限界を超えるように、胸の奥のすべての葛藤を、大人の正論への反抗を、その一音にすべて乗せて吐き出した。
私の声と、漣のベースのラストノートが混ざり合い、体育館の空間を完全に支配する。

最後の音が静かに消え去った、その瞬間。
一瞬の静寂のあと、体育館が割れんばかりの拍手と、割れんばかりの歓声に包まれた。
ステージの前に押し寄せる生徒たちの熱気。
客席の黒岩先生が、驚いたように目を見開いたまま静かに拍手をしているのが見えた。お母さんは、ハンカチで目を押さえている。

「やったな、遥」

汗だくの漣が、私を見てニカッと最高の笑顔を浮かべた。 私は胸がいっぱいで、ただ何度も、何度も大きく頷いた。



3,  文化祭が幕を閉じてから、一週間が経った。
あの日の体育館の熱狂は嘘みたいに静まり返り、学校はまた、いつもの退屈で平穏な日常を取り戻している。
だけど、私の世界は、あの日を境に確実に変わっていた。

「宮園、ちょっといいか」

放課後の教室で荷物をまとめていると、担任の先生から一枚のプリントを渡された。それは、あの黒岩先生から返却された、私の指定校推薦の書類だった。

「黒岩先生から伝言だ。『君の覚悟は十分に伝わった。だが、大人の用意したレールに乗るにしても、自分で新しいレールを敷くにしても、学ぶことは一生の武器になる。どちらを選んでもいいように、今は勉強の手を抜くな』だそうだ」

先生の言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
あの日、私の歌を聴いてくれたお父さんもお母さんも、何も言わずに「あなたのやりたいようにしなさい」と、静かに私の背中を見守ってくれるようになった。
音楽の道が厳しいなんて、今でも十分に分かっている。絶対に稼げる保証なんてどこにもない。それでも、一度本気の熱を知ってしまった私は、もう自分の心に嘘をつくことはできなかった。

「おーい、遥! 待たせただろ」

校舎の裏手、いつもの自転車置き場へ向かうと、黒いベースケースを背負った漣が走ってきた。制服のネクタイを少し緩めた彼は、あの日ステージの上で輝いていたときと同じ、眩しい笑顔を私に向けてくる。

「全然待ってないよ。……はい、これ」

私はカバンから、新しく書き直した進路調査票を取り出した。

「お、ついに書いたか?」

漣が覗き込んできた進路調査票の第一志望欄には、母の勧めてくれた『手堅い経済学部』の文字が並んでいる。
だけど、その下にある自由記入欄には、黒いペンで、ハッキリと力強い文字が書き加えられていた。

――『大学進学と並行し、プロのアーティストを目指して本気で音楽活動を続ける。』

「手堅く大学にも行くけど、音楽も絶対に辞めない。これが、私の17歳の正解」

私が胸を張って言うと、漣は一瞬だけきょとんとして、それから「お前らしいわ」と、嬉しそうに私の頭をぽんぽんと叩いた。

「じゃあ、俺の正解も見せてやるよ」

漣がポケットからくしゃくしゃの進路調査票を取り出す。彼の第一志望欄には、ただ一言、『遥のバンドの、専属ベーシスト』とだけ書かれていた。

「ちょっと! 何これ、先生に怒られるよ!?」
「いいんだよ。俺のベースはお前の歌のためにあるって、あの日決めたからな」

漣は不敵に笑うと、自転車を押して歩き出した。
夕暮れの坂道。私たちの影が、オレンジ色の地面に長く伸びていく。

大人の言う通りの安全な道だけが正解じゃない。
傷つくのが怖くて、趣味だと言い訳して逃げていたあの頃の私は、もうどこにもいない。
不確実で、泥臭くて、周りから見れば不正解かもしれない。だけど、私はこの隣にいる最高の相棒と一緒に、自分たちだけの正解をどこまでも鳴らし続けていく。

「いくぞ、遥。今日の練習、新しい曲のベースライン考えてきたからさ」
「うん。私の歌、ちゃんと置いていかないでね、漣」

私たちは顔を見合わせて笑い、夕日の中へと一歩を踏み出した。耳の奥で、私たちの新しい始まりを告げるアンサンブルが、いつまでも心地よく鳴り響いていた。