1,中庭のゲリラライブは、指導部の教師たちが拡声器を片手に乱入し、アンプの電源プラグを力任せに引き抜いたことで、文字通りの強制終了を迎えた。
急激に訪れた静寂。だが、校舎の窓から見下ろす何百人もの生徒たちが放った地鳴りのような歓声と拍手は、大人たちの理不尽な制止をかき消すほどに熱く、いつまでも中庭のコンクリートに反響していた。
当然、遥と漣はその後、放課後まで生徒指導室に缶詰めにされ、壊れたテープレコーダーのように同じ説教を繰り返す教師たちから、延々と頭を下げさせられる羽目になった。
けれど、叱責される遥の胸の奥には、数日前のような惨めさや焦燥感は一ミリも残っていなかった。鍵盤を叩いた指先には、まだあの激しいビートの残熱が、確かな脈動として残り続けていたからだ。
「今回は厳重注意処分とする。宮園、お前はもう二度と瀬尾と関わるな。分かったな」
そんな担任の言葉に、遥は小さく「はい」とだけ答えて、夕方に解放された。
スマートフォンはまだ母親に没収されたままだ。外部との連絡手段を絶たれた遥は、自分の周囲でどれほど巨大な地殻変動が起き始めているのか、その時の段階ではまだ、知る由もなかった。
異変に気がついたのは、翌週の月曜日の朝だった。
登校中の電車の中、そして校門をくぐった瞬間から、周囲の生徒たちの視線が、明らかにこれまでとは違っていた。遠巻きに自分を見ては、スマートフォンの画面と遥の顔を交互に見比べ、ひそひそと囁き合っている。
(なにか、おかしい……)
胸を騒がせながら教室に入ると、親しいクラスメイトの1人が、血相を変えて遥の元へ駆け寄ってきた。
「ちょっと、遥! これ、これ見て!!」
目の前に突きつけられた、スマートフォンの液晶画面。
そこに映し出されていたのは、あの日、誰かが校舎の3階から隠れて撮影していた、あの中庭のゲリラライブの動画だった。
画面の中で、青空の下、ボロボロの黒いギターをかき鳴らす漣と、理性を捨ててシンセサイザーの前に飛び込む遥の姿が、生々しい臨場感とともに映し出されている。
何より遥の目を釘付けにしたのは、動画の下に表示されている『数字』だった。
再生回数、六十七万回。いいね、八万。リポスト、三万。
その数字は、今この瞬間も、ブラウザを更新するたびに数百、数千という単位で狂ったように跳ね上がり続けていた。
「週末にX(旧Twitter)とTikTokで一気に拡散されて、今、トレンドに入ってるんだよ! 『この天才高校生バンドは何者だ』って、めちゃくちゃ大騒ぎになってて……!」
クラスメイトの興奮した声が、どこか遠くの出来事のように聞こえる。
遥は震える指先で、画面を下にスクロールした。かつて自分の心を木っ端微塵に打ち砕いた、あの恐怖の「コメント欄」が視界に入ってくる。
『イントロのシンセのアルペジオが鳥肌モノ。このキーボードのセンスやばすぎる』
『ギターの暴走をベースとピアノが完璧にコントロールしてる。神構成だろこれ』
『量産型じゃない。今の邦ロック界に一番足りない、むき出しの初期衝動がここにある』
『このバンドの新曲がもっと聴きたい。サブスク解禁はいつですか?』
画面を埋め尽くす、無数の、圧倒的な『絶賛』の言葉たち。
かつて遥を傷つけたのは、たった一行の「才能ない」という言葉だった。けれど今、ネットの海から押し寄せてきたのは、遥たちの音楽を肯定し、熱狂し、求めてやまない、何万人もの生々しい人間の声だった。
(量産型なんかじゃない……。私の音が、みんなに、届いてる……?)
視界が急激に熱くなるのを覚え、遥は慌てて顔を伏せた。
1年間、自分が必死に鍵をかけて閉じ込めてきた過去のすべての努力と、あの日流した悔し涙が、この圧倒的な数字の濁流によって、一瞬にして洗い流されていくような衝撃。心臓が痛いほどの歓喜で鳴り響いていた。
「よぉ、有名人」
その日の放課後、人目を盗んで向かった駅裏の地下スタジオ。
扉を開けると、そこにはすでにギターを抱えた漣、ベースの徹、ドラムの巧の3人が揃っていた。徹がスマートフォンを片手に、ニカッと悪戯っぽい笑みを浮かべて遥を迎える。
「見たかよ、遥。大変なことになってんぞ。俺のSNSのアカウント、通知が壊れてさっきからずっとバイブレーションが止まんねぇんだわ」
「宮園さんの編曲のおかげ。……動画、音質は悪いけど、フレーズの良さは完全に伝わってる」
巧も、いつもより少しだけ興奮した面持ちでスティックを握り直している。
「これだけじゃないぜ」
漣が床から立ち上がり、アンプの前に置かれていた数枚のメモ用紙を遥に手渡した。そこには、いくつかのメールアドレスと、見覚えのある「ライブハウス」や「インディーズレーベル」の名前が書き殴られていた。
「動画を見たレーベルの人間から、徹のところに直接連絡が来た。……来月、渋谷の有名なライブハウスで開催される、若手バンドのオーディションフェスに、ゲスト枠で出演しないかってさ」
「え……渋谷の、フェス……?」
遥はメモを持つ手を震わせた。
それは、音楽をやっていた頃の遥にとっては、夢のまた夢、テレビの向こう側にある遠い世界の話だった。それが今、あの中庭のはみ出した一曲によって、自分たちの目の前に本物の『現実』として転がり込んできたのだ。
「どうする、遥。……大人の用意した経済学部に行くための勉強に戻るか? それとも、俺たちと一緒に、この数字の海の向こう側へ、本物のはみ出した正解を証明しに行くか?」
漣の問いかけは、もう数日前のような挑発ではなかった。
同じ高さのステージに立つ、対等な「戦友」としての、絶対的な信頼がこもった瞳だった。
遥は手渡されたメモをぎゅっと握りしめ、地下スタジオの湿った空気を深く吸い込んだ。
スマートフォンはない。家に帰れば、またあの動画を見た母親との激しい衝突が待っているだろう。学校の教師たちだって、今度は厳重注意だけでは済ませてくれないかもしれない。
けれど、もう逃げるつもりはなかった。
「……やるに決まってるでしょ」
遥はシンセサイザーの前に歩み寄り、電源スイッチをカチリと入れた。青白い光が、彼女の決意に満ちた瞳を鮮烈に照らし出す。
「渋谷のフェス、今のままだとサビの転調がまだ甘いわ。徹先輩、ベースの歪みをもう一段上げて。巧先輩、Bメロのテンポをあと『2』だけ引き上げて……世界中を驚かせる、本物の不協和音を創りましょう」
「ハッ、言うようになったじゃん、俺たちの心臓」
漣が嬉しそうに白い歯を見せ、ギターのボリュームを思いきり引き上げた。
地下の暗闇の中で、今度は世界を揺るがすための、4人の新しい旋律が狂ったように走り出した。
2,地下スタジオの熱狂から一転して、夜九時を回った我が家は、まるですべての音が凍りついたかのような静寂に包まれていた。
玄関のドアを開けた瞬間から、空気の重さが違っていた。いつもなら漂ってくるはずの夕食の温かい匂いはなく、リビングの照明だけが、どこか冷徹な白さで廊下を照らしている。
「……ただいま」
遥が声をかけると、リビングのソファに深く腰掛けていた母親が、ゆっくりと顔を上げた。
その手元には、数日前に没収されたはずの遥のスマートフォンが握られていた。画面の青白い光が、母親の酷くやつれ、そして怒りと悲しみで歪んだ輪郭を不気味に浮かび上がらせている。
「遥。……これ、何」
母親がスマートフォンをガラステーブルの上にカチャリと置いた。画面に表示されていたのは、ネットの動画共有サイト――あの中庭のゲリラライブの映像と、狂ったように増え続ける再生数の数字だった。
「学校の、学年主任の先生からお電話があったわ。あなたがまたあの瀬尾くんという子と一緒になって、学校でとんでもない騒ぎを起こしたって。……この動画、何万人もの人が見ているのよね? あなたの名前も、学校名も、ネットに書かれているわ」
母親の声は、激昂しているわけではなかった。むしろ、低く、震えていて、今にも壊れてしまいそうなほど脆かった。それが逆に、遥の胸を締め付ける。
「お母さん、あなたのために、必死で先生に頭を下げたのよ? 遥は悪くない、あの男の子に強引に巻き込まれただけだって、泣きながら弁解したの。……それなのに、あなた、今日の放課後もまたあの人たちのところに行っていたのね。徹夜で塾の自習室にいるって嘘をついて、こんな……こんな暗い地下室で、まだ音楽なんてやっていたのね」
「嘘をついたのは、悪かったと思ってる。……でも」
遥はカバンの紐を強く握りしめ、リビングの床を踏み締めた。
「巻き込まれたんじゃないの。私は、自分の意志で、あの中庭に走って行ったの。瀬尾くんに呼ばれて、私の心臓が、私の耳が、あの場所に行かなきゃ一生後悔するって叫んだから、だから私は自分で選んで、あの鍵盤を叩いたのよ」
「どうしてそんなバカなことを言うの!?」
母親が突然、ソファから立ち上がり、激しい声を上げた。その瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。
「音楽なんて、一握りの才能がある人しか生きていけない世界だって、一番よく分かっているのはあなたでしょう!? 中学のとき、あんなに傷ついて、泣いて、もうやめるって自分でお母さんに言ったじゃない! お母さんはね、あなたがまたあの時みたいにボロボロになって、誰かも分からない人にネットで叩かれて、人生を台無しにするのを見たくないのよ! 普通の大学に行って、普通の幸せを掴むのが、あなたにとって一番の『正解』なの!」
あなたにとって一番の正解。あなたのためを思って。
何度も何度も繰り返されてきた、優しい優等生の檻。
いつもなら、この母親の涙を見た瞬間に、遥の心は罪悪感で押し潰され、「ごめんなさい」とロボットのように謝っていただろう。
けれど、今の遥の胸の奥には、何万人もの歓声と、そして何より、あの地下スタジオで自分の音を「最高だ」と震わせてくれた3人の戦友たちの熱が、消えない業火となって燃え盛っていた。
「……お母さんの言う『普通の幸せ』って、何?」
遥の声は、驚くほど静かだった。けれど、その芯には、決して折れない強固な意志が宿っていた。
「お母さんの言う通りに、自分の好きなものを全部クローゼットに隠して、味のしないご飯を食べて、誰かに褒められるためだけに真っ白な進路票を埋めること? それが、お母さんの言う、私のための『正解』なの?」
「遥……?」
「私はね、この1年間、お母さんの言う正解の中で、窒息しそうだったの。息の仕方も忘れるくらい、毎日が灰色で、死んでるみたいだった! でもね、あの日、瀬尾くんの調律の狂ったギターを聴いたとき、私の心臓が動いたの。地下スタジオでみんなと新曲を作っているとき、私は、生まれて初めて、自分が生きているって本気で思えたの……っ!」
遥の目からも、一気に涙が溢れ出た。だけど、それは絶望の涙ではなかった。自分の本音を、17歳のむき出しのソウルを世界に解き放つための、熱い涙だった。
「来月、渋谷のフェスに出る。インディーズのレーベルの人から、私たちの新曲をステージで演奏してほしいって言われたの。中学のときの私とは違う。今は、私の音を信じてくれる、最高の仲間がいる。量産型なんて言わせない。私が、私たちの音が、五線譜からはみ出した場所で本物の正解だってことを、私はステージの上から証明しに行きたいの!」
「そんなの……ただの子供のワガママよ! 失敗したらどうするの!? 誰も責任を取ってくれないのよ!?」
「失敗したっていい! 誰かに用意された綺麗なレールの白線の内側で安全に死んでいくくらいなら、私は自分で選んだ泥だらけの道で、思いきり傷ついたほうが何倍もマシ!!」
遥の叫びが、リビングの壁に激しく反響し、そして消えた。
母親は、まるで生まれて初めて見る怪物を目の当たりにしたかのように、呆然と口を開けたまま、涙に濡れた顔で遥を見つめていた。娘が、自分の敷いた檻の鉄格子を、その小さな両手で力任せにぶち破ったことを、母親は今、直感的に理解したのだ。 遥は、テーブルの上のスマートフォンをひったくるようにしてカバンに詰めると、深く、深く母親に向かって頭を下げた。
「……勝手なことを言って、ごめんなさい。でも、これが私の、私にとっての正解なの」
それだけを言い残し、遥は自分の部屋へと駆け上がった。
ドアを閉め、鍵をかける。暗闇の部屋の中で、遥はクローゼットの奥から、1年間埃を被っていた小型のキーボードと、五線譜のノートを力強く引きずり出した。
窓の外では、いつの間にか雨が完全に上がり、雲の隙間から、鋭く尖った三日月が夜空にその光を放ち始めていた。
スマホを開き、バンドのグループチャットにメッセージを打ち込む。
『お待たせ。フェスの新曲、サビの編曲(アレンジ)の続きを始めましょう』
送信ボタンを押した瞬間、漣から、まるで待っていたかのように、一言だけの力強い返信が届いた。
『おう。お前の音を聴かせてくれ、遥』
もう、迷いはなかった。17歳の少女は今、大人たちの引いた五線譜を完全に飛び越え、自分たちの未来の旋律を、自らの指で激しく紡ぎ始めていた。
急激に訪れた静寂。だが、校舎の窓から見下ろす何百人もの生徒たちが放った地鳴りのような歓声と拍手は、大人たちの理不尽な制止をかき消すほどに熱く、いつまでも中庭のコンクリートに反響していた。
当然、遥と漣はその後、放課後まで生徒指導室に缶詰めにされ、壊れたテープレコーダーのように同じ説教を繰り返す教師たちから、延々と頭を下げさせられる羽目になった。
けれど、叱責される遥の胸の奥には、数日前のような惨めさや焦燥感は一ミリも残っていなかった。鍵盤を叩いた指先には、まだあの激しいビートの残熱が、確かな脈動として残り続けていたからだ。
「今回は厳重注意処分とする。宮園、お前はもう二度と瀬尾と関わるな。分かったな」
そんな担任の言葉に、遥は小さく「はい」とだけ答えて、夕方に解放された。
スマートフォンはまだ母親に没収されたままだ。外部との連絡手段を絶たれた遥は、自分の周囲でどれほど巨大な地殻変動が起き始めているのか、その時の段階ではまだ、知る由もなかった。
異変に気がついたのは、翌週の月曜日の朝だった。
登校中の電車の中、そして校門をくぐった瞬間から、周囲の生徒たちの視線が、明らかにこれまでとは違っていた。遠巻きに自分を見ては、スマートフォンの画面と遥の顔を交互に見比べ、ひそひそと囁き合っている。
(なにか、おかしい……)
胸を騒がせながら教室に入ると、親しいクラスメイトの1人が、血相を変えて遥の元へ駆け寄ってきた。
「ちょっと、遥! これ、これ見て!!」
目の前に突きつけられた、スマートフォンの液晶画面。
そこに映し出されていたのは、あの日、誰かが校舎の3階から隠れて撮影していた、あの中庭のゲリラライブの動画だった。
画面の中で、青空の下、ボロボロの黒いギターをかき鳴らす漣と、理性を捨ててシンセサイザーの前に飛び込む遥の姿が、生々しい臨場感とともに映し出されている。
何より遥の目を釘付けにしたのは、動画の下に表示されている『数字』だった。
再生回数、六十七万回。いいね、八万。リポスト、三万。
その数字は、今この瞬間も、ブラウザを更新するたびに数百、数千という単位で狂ったように跳ね上がり続けていた。
「週末にX(旧Twitter)とTikTokで一気に拡散されて、今、トレンドに入ってるんだよ! 『この天才高校生バンドは何者だ』って、めちゃくちゃ大騒ぎになってて……!」
クラスメイトの興奮した声が、どこか遠くの出来事のように聞こえる。
遥は震える指先で、画面を下にスクロールした。かつて自分の心を木っ端微塵に打ち砕いた、あの恐怖の「コメント欄」が視界に入ってくる。
『イントロのシンセのアルペジオが鳥肌モノ。このキーボードのセンスやばすぎる』
『ギターの暴走をベースとピアノが完璧にコントロールしてる。神構成だろこれ』
『量産型じゃない。今の邦ロック界に一番足りない、むき出しの初期衝動がここにある』
『このバンドの新曲がもっと聴きたい。サブスク解禁はいつですか?』
画面を埋め尽くす、無数の、圧倒的な『絶賛』の言葉たち。
かつて遥を傷つけたのは、たった一行の「才能ない」という言葉だった。けれど今、ネットの海から押し寄せてきたのは、遥たちの音楽を肯定し、熱狂し、求めてやまない、何万人もの生々しい人間の声だった。
(量産型なんかじゃない……。私の音が、みんなに、届いてる……?)
視界が急激に熱くなるのを覚え、遥は慌てて顔を伏せた。
1年間、自分が必死に鍵をかけて閉じ込めてきた過去のすべての努力と、あの日流した悔し涙が、この圧倒的な数字の濁流によって、一瞬にして洗い流されていくような衝撃。心臓が痛いほどの歓喜で鳴り響いていた。
「よぉ、有名人」
その日の放課後、人目を盗んで向かった駅裏の地下スタジオ。
扉を開けると、そこにはすでにギターを抱えた漣、ベースの徹、ドラムの巧の3人が揃っていた。徹がスマートフォンを片手に、ニカッと悪戯っぽい笑みを浮かべて遥を迎える。
「見たかよ、遥。大変なことになってんぞ。俺のSNSのアカウント、通知が壊れてさっきからずっとバイブレーションが止まんねぇんだわ」
「宮園さんの編曲のおかげ。……動画、音質は悪いけど、フレーズの良さは完全に伝わってる」
巧も、いつもより少しだけ興奮した面持ちでスティックを握り直している。
「これだけじゃないぜ」
漣が床から立ち上がり、アンプの前に置かれていた数枚のメモ用紙を遥に手渡した。そこには、いくつかのメールアドレスと、見覚えのある「ライブハウス」や「インディーズレーベル」の名前が書き殴られていた。
「動画を見たレーベルの人間から、徹のところに直接連絡が来た。……来月、渋谷の有名なライブハウスで開催される、若手バンドのオーディションフェスに、ゲスト枠で出演しないかってさ」
「え……渋谷の、フェス……?」
遥はメモを持つ手を震わせた。
それは、音楽をやっていた頃の遥にとっては、夢のまた夢、テレビの向こう側にある遠い世界の話だった。それが今、あの中庭のはみ出した一曲によって、自分たちの目の前に本物の『現実』として転がり込んできたのだ。
「どうする、遥。……大人の用意した経済学部に行くための勉強に戻るか? それとも、俺たちと一緒に、この数字の海の向こう側へ、本物のはみ出した正解を証明しに行くか?」
漣の問いかけは、もう数日前のような挑発ではなかった。
同じ高さのステージに立つ、対等な「戦友」としての、絶対的な信頼がこもった瞳だった。
遥は手渡されたメモをぎゅっと握りしめ、地下スタジオの湿った空気を深く吸い込んだ。
スマートフォンはない。家に帰れば、またあの動画を見た母親との激しい衝突が待っているだろう。学校の教師たちだって、今度は厳重注意だけでは済ませてくれないかもしれない。
けれど、もう逃げるつもりはなかった。
「……やるに決まってるでしょ」
遥はシンセサイザーの前に歩み寄り、電源スイッチをカチリと入れた。青白い光が、彼女の決意に満ちた瞳を鮮烈に照らし出す。
「渋谷のフェス、今のままだとサビの転調がまだ甘いわ。徹先輩、ベースの歪みをもう一段上げて。巧先輩、Bメロのテンポをあと『2』だけ引き上げて……世界中を驚かせる、本物の不協和音を創りましょう」
「ハッ、言うようになったじゃん、俺たちの心臓」
漣が嬉しそうに白い歯を見せ、ギターのボリュームを思いきり引き上げた。
地下の暗闇の中で、今度は世界を揺るがすための、4人の新しい旋律が狂ったように走り出した。
2,地下スタジオの熱狂から一転して、夜九時を回った我が家は、まるですべての音が凍りついたかのような静寂に包まれていた。
玄関のドアを開けた瞬間から、空気の重さが違っていた。いつもなら漂ってくるはずの夕食の温かい匂いはなく、リビングの照明だけが、どこか冷徹な白さで廊下を照らしている。
「……ただいま」
遥が声をかけると、リビングのソファに深く腰掛けていた母親が、ゆっくりと顔を上げた。
その手元には、数日前に没収されたはずの遥のスマートフォンが握られていた。画面の青白い光が、母親の酷くやつれ、そして怒りと悲しみで歪んだ輪郭を不気味に浮かび上がらせている。
「遥。……これ、何」
母親がスマートフォンをガラステーブルの上にカチャリと置いた。画面に表示されていたのは、ネットの動画共有サイト――あの中庭のゲリラライブの映像と、狂ったように増え続ける再生数の数字だった。
「学校の、学年主任の先生からお電話があったわ。あなたがまたあの瀬尾くんという子と一緒になって、学校でとんでもない騒ぎを起こしたって。……この動画、何万人もの人が見ているのよね? あなたの名前も、学校名も、ネットに書かれているわ」
母親の声は、激昂しているわけではなかった。むしろ、低く、震えていて、今にも壊れてしまいそうなほど脆かった。それが逆に、遥の胸を締め付ける。
「お母さん、あなたのために、必死で先生に頭を下げたのよ? 遥は悪くない、あの男の子に強引に巻き込まれただけだって、泣きながら弁解したの。……それなのに、あなた、今日の放課後もまたあの人たちのところに行っていたのね。徹夜で塾の自習室にいるって嘘をついて、こんな……こんな暗い地下室で、まだ音楽なんてやっていたのね」
「嘘をついたのは、悪かったと思ってる。……でも」
遥はカバンの紐を強く握りしめ、リビングの床を踏み締めた。
「巻き込まれたんじゃないの。私は、自分の意志で、あの中庭に走って行ったの。瀬尾くんに呼ばれて、私の心臓が、私の耳が、あの場所に行かなきゃ一生後悔するって叫んだから、だから私は自分で選んで、あの鍵盤を叩いたのよ」
「どうしてそんなバカなことを言うの!?」
母親が突然、ソファから立ち上がり、激しい声を上げた。その瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。
「音楽なんて、一握りの才能がある人しか生きていけない世界だって、一番よく分かっているのはあなたでしょう!? 中学のとき、あんなに傷ついて、泣いて、もうやめるって自分でお母さんに言ったじゃない! お母さんはね、あなたがまたあの時みたいにボロボロになって、誰かも分からない人にネットで叩かれて、人生を台無しにするのを見たくないのよ! 普通の大学に行って、普通の幸せを掴むのが、あなたにとって一番の『正解』なの!」
あなたにとって一番の正解。あなたのためを思って。
何度も何度も繰り返されてきた、優しい優等生の檻。
いつもなら、この母親の涙を見た瞬間に、遥の心は罪悪感で押し潰され、「ごめんなさい」とロボットのように謝っていただろう。
けれど、今の遥の胸の奥には、何万人もの歓声と、そして何より、あの地下スタジオで自分の音を「最高だ」と震わせてくれた3人の戦友たちの熱が、消えない業火となって燃え盛っていた。
「……お母さんの言う『普通の幸せ』って、何?」
遥の声は、驚くほど静かだった。けれど、その芯には、決して折れない強固な意志が宿っていた。
「お母さんの言う通りに、自分の好きなものを全部クローゼットに隠して、味のしないご飯を食べて、誰かに褒められるためだけに真っ白な進路票を埋めること? それが、お母さんの言う、私のための『正解』なの?」
「遥……?」
「私はね、この1年間、お母さんの言う正解の中で、窒息しそうだったの。息の仕方も忘れるくらい、毎日が灰色で、死んでるみたいだった! でもね、あの日、瀬尾くんの調律の狂ったギターを聴いたとき、私の心臓が動いたの。地下スタジオでみんなと新曲を作っているとき、私は、生まれて初めて、自分が生きているって本気で思えたの……っ!」
遥の目からも、一気に涙が溢れ出た。だけど、それは絶望の涙ではなかった。自分の本音を、17歳のむき出しのソウルを世界に解き放つための、熱い涙だった。
「来月、渋谷のフェスに出る。インディーズのレーベルの人から、私たちの新曲をステージで演奏してほしいって言われたの。中学のときの私とは違う。今は、私の音を信じてくれる、最高の仲間がいる。量産型なんて言わせない。私が、私たちの音が、五線譜からはみ出した場所で本物の正解だってことを、私はステージの上から証明しに行きたいの!」
「そんなの……ただの子供のワガママよ! 失敗したらどうするの!? 誰も責任を取ってくれないのよ!?」
「失敗したっていい! 誰かに用意された綺麗なレールの白線の内側で安全に死んでいくくらいなら、私は自分で選んだ泥だらけの道で、思いきり傷ついたほうが何倍もマシ!!」
遥の叫びが、リビングの壁に激しく反響し、そして消えた。
母親は、まるで生まれて初めて見る怪物を目の当たりにしたかのように、呆然と口を開けたまま、涙に濡れた顔で遥を見つめていた。娘が、自分の敷いた檻の鉄格子を、その小さな両手で力任せにぶち破ったことを、母親は今、直感的に理解したのだ。 遥は、テーブルの上のスマートフォンをひったくるようにしてカバンに詰めると、深く、深く母親に向かって頭を下げた。
「……勝手なことを言って、ごめんなさい。でも、これが私の、私にとっての正解なの」
それだけを言い残し、遥は自分の部屋へと駆け上がった。
ドアを閉め、鍵をかける。暗闇の部屋の中で、遥はクローゼットの奥から、1年間埃を被っていた小型のキーボードと、五線譜のノートを力強く引きずり出した。
窓の外では、いつの間にか雨が完全に上がり、雲の隙間から、鋭く尖った三日月が夜空にその光を放ち始めていた。
スマホを開き、バンドのグループチャットにメッセージを打ち込む。
『お待たせ。フェスの新曲、サビの編曲(アレンジ)の続きを始めましょう』
送信ボタンを押した瞬間、漣から、まるで待っていたかのように、一言だけの力強い返信が届いた。
『おう。お前の音を聴かせてくれ、遥』
もう、迷いはなかった。17歳の少女は今、大人たちの引いた五線譜を完全に飛び越え、自分たちの未来の旋律を、自らの指で激しく紡ぎ始めていた。



