1,翌朝の職員室は、コーヒーの苦い匂いと、印刷機が吐き出す熱気、そしていくつもの事務的な書類の山に囲まれて、相変わらず規則正しく機能していた。
外は昨日の豪雨が嘘のようにすっきりと晴れ渡り、窓からは眩しいほどの青空が覗いている。けれど、その健康的な太陽の光さえも、今の遥の肌には冷たく刺さるだけだった。
「本当に、この度は申し訳ありませんでした。娘がとんだご迷惑をおかけしてしまって……」
遥の隣で、母親が何度も、何度も頭を下げていた。
その背中はいつもより小さく見えて、だけど遥を縛り付ける力は、昨日よりもずっと強固になっているように感じられた。
教卓を挟んで向かい側に座る担任の男は、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、いかにも「分かればいいんだ」という風に寛大な笑みを浮かべてみせる。
「いいえ、お母様。宮園さんも、普段は本当に優秀で模範的な生徒ですから。今回は、あの瀬尾に無理やり連れ回されて、判断を誤ってしまっただけでしょう。多感な時期ですから、そういう悪い誘惑に一瞬流されてしまうことは、誰にでもあることです。……ねぇ、宮園さん?」
担任の、憐れむような、同時にすべてを見透かしたような視線が遥に注がれる。
悪い誘惑。落ちこぼれ。
彼らの世界では、あの地下スタジオで過ごした、心臓が爆発するほど愛おしかった音楽の時間は、ただの『間違い』として処理されていた。
遥は膝の上でスカートの生地を強く握りしめ、喉の奥にせり上がってくる熱い塊を必死に飲み込んだ。ここで反論してはいけない。昨日の夜、泣きながら自分を探し回ってくれた母親の、あの疲れ切った顔をこれ以上裏切るわけにはいかないのだ。
「……はい。すみませんでした。私の、悪ふざけです」
カサカサに乾いた声が、自分の口から零れ落ちる。
その言葉を発した瞬間、胸の奥で、大切な何かがピシッと音を立ててひび割れた気がした。
「分かってくれればいいんだ。じゃあ、これ、新しい進路希望調査票だ。今度は間違えずに、お母様としっかり話し合った『正しい進路』を書き込んで、今日の放課後までに提出しなさい」
教卓の上に滑り出された、真っ白な新しい藁半紙。
昨日、漣に目の前でビリビリに破り捨てられたはずの、あの檻が、何食わぬ顔をして再び遥の前に現れたのだ。
遥はそれを両手で受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……失礼します」
職員室を出て、母親と二人で静かな廊下を歩く。
校門まで見送る道すがら、母親は遥の肩にそっと手を置き、本当に安心したような優しい声で囁いた。
「よかったわ、遥。先生も分かってくださって。お母さんね、あなたが変な事件に巻き込まれたんじゃないかって、昨日は本当に生きた心地がしなかったのよ。……あの瀬尾くんという子とは、もう二度と関わっちゃダメよ。あの子は、あなたとは住む世界が違うの。あなたはちゃんと、綺麗なレールの上を歩いていけばいいの。それがあなたのための、一番の正解なんだから」
あなたのための、一番の正解。
その言葉が、遥の耳の奥で、昨日聴いた歪んだギターの爆音と重なってぐちゃぐちゃに混ざり合う。
遥は何も言えず、ただ「うん」とだけ答えて、母親の背中が校門の向こうへ消えていくのをじっと見つめていた。
――それからの数日間、学校での日常は驚くほど平穏に、そして退屈に過ぎていった。
遥は教室の自分の席に座り、黒板の文字をノートに綺麗に書き写し、休み時間はクラスメイトたちの他愛のない流行りの会話に適当に相槌を打つ。
スマートフォンは母親に没収され、夜は塾の自習室に遅くまでこもる日々。
すべてが、1年前の「音楽を捨てた優等生」のルーティンに戻っただけだった。
けれど、決定的に違うことが一つだけあった。
遥の耳が、頭が、完全にあの「地下世界の音」に汚染されてしまっていたのだ。
シャープペンの芯が走る音は、巧の刻むタイトなハイハットのリズムに聞こえた。
廊下を通り過ぎるトラックの重低音は、徹の唸るようなベースラインに翻訳された。
そして、ふとした瞬間に窓の外の青空を見上げるたび、あの旧音楽室で、雨を背に受けて狂ったようにギターを掻き鳴らしていた、漣のあの燃えるような瞳がフラッシュバックする。
(ごめんなさい、瀬尾くん……。私には、やっぱりあっち側に行く勇気はなかったよ……)
胸の中で何度謝っても、耳の奥のディストーションノイズは消えてくれなかった。
学校の廊下や中庭で、何度か漣の姿を見かけることはあった。けれど、遥はそのたびに視線を逸らし、逃げるようにして足早に通り過ぎた。漣もまた、無理に遥を追いかけてくるようなことはしなかった。ただ、すれ違いざまに、あの冷たい、けれど何かを値踏みするような鋭い視線が、遥の背中に突き刺さるのを感じるだけだった。
そして、運命の金曜日がやってくる。
その日の昼休み。
いつも通り、教室で味のしない購買のパンを口に運んでいた遥の耳に、校舎の窓の外から、妙なざわめきが聞こえてきた。
「え、何あれ? 中庭に変な機材運んでる奴らがいるんだけど」
「軽音部? いや、あいつら部室以外での演奏禁止されてるはずじゃん」
クラスメイトたちが次々と窓際に群がり、外を覗き込み始める。
胸に嫌な、だけど強烈に熱い予感を覚えた遥は、椅子をガタンと鳴らして立ち上がり、人混みをかき分けて窓の外を見下ろした。
学校の中心にある、四方を校舎に囲まれた全面コンクリートの中庭。
そこに、大型のアンプやドラムセットが、学校側の許可を一切無視したような手際の良さで次々とセッティングされていくのが見えた。
ドラムの前にドカッと座り、スティックを回しているのは、他校の制服を着た巧だ。その隣で、長髪を揺らしながらワイヤレスのシールドをベースに突き刺しているのは、徹だった。
そして、中庭の真ん中。
燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて、あのボロボロの、ステッカーだらけの黒いエレキギターを肩にかけた少年が、不敵な笑みを浮かべて立っていた。
瀬尾漣。
彼は、校舎のすべての窓から自分を見下ろしている無数の生徒たちの視線を一身に浴びながら、マイクスタンドを掴み、ゆっくりと顔を上げた。その鋭い瞳は、真っ直ぐに、遥がいる3階の教室の窓へと向けられていた。
「おい、全校生徒諸君。それから職員室のクソセンコーども」
アンプを通して校舎全体に響き渡る、漣の低く掠れた声。
その声がスピーカーから放たれた瞬間、学校中の空気がビリビリと震え出した。
「今から、俺たちのバンドの『新曲』を披露する。……おい、宮園遥! 聴いてるか! お前がいないとこの曲の心臓が足りねぇんだよ! 大人の引いた五線譜の中で死んでる暇があるなら、今すぐそこから飛び降りて、俺たちの正解を一緒に鳴らしに来い!!」
その叫びと同時に、巧のドラムが地響きのような激しいビートを叩き出し、徹のベースが空間を激しく歪ませた。
そして、漣の指先から、あの五線譜をズタズタに引き裂くような、最高に汚くて、最高に美しいギターの咆哮が、青空に向かって炸裂した。
2,鼓膜が破裂するかと思った。
校舎に囲まれた四角い中庭から激しく突き上げてくる音の塊は、3階の教室の窓ガラスを激しくガタガタと震わせ、遥の胸の骨の奥まで直接ビリビリと振動を伝えていた。
「おい、何だよこれ……! 瀬尾の奴、マジで宮園の名前呼んだぞ!?」
「何それ、二人の間に何があったわけ!?」
周囲のクラスメイトたちの驚愕と好奇の視線が一斉に遥へと突き刺さる。だけど、今の遥にはそんな他人の目なんてどうでもよかった。
視界の真ん中で、黒いギターを構えた漣が、太陽の光を浴びてギラギラと輝いている。その姿は、まるで檻の中に閉じ込められた世界を解放しに来た、乱暴な救世主のようだった。
(また、あんたはそうやって、私の正解をめちゃくちゃにする……っ)
アンプから吐き出される徹のベースが地を這い、巧のドラムが空気を切り裂く。そして漣のギターが、青空に向かってむき出しの悲鳴を上げている。
その音が、遥の耳の中で、昨日から頭の中にこびりついて離れなかった『新曲』のラストピースと完璧に合致した。
あの時、地下スタジオで4人で鳴らした音。あの途中で途切れてしまった未完成のメロディ。
それがいま、中庭で、遥のシンセサイザーの「心臓」を待っている。
「宮園! お前、何をしているんだ! 席に戻りなさい!」
ガラリと教室の扉を開けて飛び込んできたのは、隣のクラスの学年主任の教師だった。彼は顔を真っ赤にして中庭を見下ろし、それから遥の腕を掴もうと手をおそるおそる伸ばしてきた。
大人の手。私を正しいレールに引き戻そうとする、安全で、退屈な手。
「……触らないで」
遥は、自分でも驚くほど冷たく、鋭い声で拒絶した。
教師が驚いて動きを止めたその一瞬の隙を見逃さず、遥は椅子を思いきり蹴り飛ばすようにして、教室の出口へと走り出した。
「おい、待て! 宮園、戻れ!」
後ろから上がる怒号を、遥は完全に脳内から締め出した。
走って、走って、灰色の廊下を猛スピードで駆け抜ける。
カバンも、教科書も、あの新しく渡された真っ白な進路希望調査票も、すべて教室の机の上に置いてきた。今の遥の手元には、本当に何も無い。母親の期待も、先生の評価も、世間の言う安全な未来も、すべてをその場に脱ぎ捨ててきた。
階段を3段飛ばしで駆け下りる。
冷たい空気の代わりに、中庭から漏れ出てくる圧倒的なバンドの熱量が、1階に近づくにつれてどんどん色濃くなっていく。廊下の窓から覗く生徒たちの顔、ざわざわとした興奮、すべてがスローモーションのように遥の横を通り過ぎていった。
(私は、もう嘘はつかない。誰かに決められた綺麗な五線譜なんて、いらない……っ!)
1階の昇降口の重い扉を、遥は両手で力任せにぶち開けた。
バタン……!
一歩踏み出した中庭は、まるで異世界の戦場だった。
校舎の窓という窓から顔を出している何百人もの生徒たちの歓声とどよめき。その中心で、3人の音が爆音で渦巻いている。
「――待たせるんじゃねぇよ、遥」
弾きながら昇降口を見た徹が、嬉しそうにベースのネックを大きく掲げて叫んだ。
巧も、遥の姿を捉えた瞬間に、待ってましたと言わんばかりの激しいスネアの連打を叩き込む。
そして、ドラムセットの脇にセッティングされていた、あの地下スタジオと同じプロ仕様の多機能シンセサイザー。漣たちが、遥が来ることを信じて、わざわざあらかじめ用意してくれていたのだ。
遥はなりふり構わずその鍵盤の前に飛び込み、まだ激しく波打つ呼吸のまま、両手を鍵盤の上に力強く叩きつけた。
――キィィィィン!!
澄み切った、だけどどこか切ないデジタルの和音が、重低音の渦を切り裂いて青空へと突き抜けた。
その瞬間、漣の目が、前髪の隙間から遥を真っ直ぐに捉えた。
彼は狂ったように歓喜の笑みを浮かべ、遥のシンセの旋律に絡みつくようにして、最も凶暴で美しいフレーズを弾き始める。
4人の音が、太陽の光の下で、完全に一つに融合した。
それは学校のルールを無視した、最低で、最悪の不協和音だ。
遠くの校舎の入り口からは、拡声器を持った担任や指導部の先生たちが、顔を真っ赤にしてこちらへ走ってくるのが見えた。ライブが止められるまで、あと数分もないだろう。
だけど、そんなことはどうでもよかった。
全校生徒の視線を浴びながら、遥は涙で視界を滲ませ、鍵盤の上を狂ったように指を走らせた。
1年間、閉じ込めていた本当の自分が、このバンドの音の中で、今、確かに世界に向かって叫んでいる。
大人の言う正解なんて、どこにもない。
五線譜からはみ出した、この泥だらけの、だけど泣きたくなるほど愛おしい音が、17歳の私たちの、唯一無二の『正解』だ。 遮るもののない青空の下、4人の奏でる圧倒的な新曲のメロディが、学校全体を激しく揺らしながら、どこまでも、どこまでも響き渡っていった。
外は昨日の豪雨が嘘のようにすっきりと晴れ渡り、窓からは眩しいほどの青空が覗いている。けれど、その健康的な太陽の光さえも、今の遥の肌には冷たく刺さるだけだった。
「本当に、この度は申し訳ありませんでした。娘がとんだご迷惑をおかけしてしまって……」
遥の隣で、母親が何度も、何度も頭を下げていた。
その背中はいつもより小さく見えて、だけど遥を縛り付ける力は、昨日よりもずっと強固になっているように感じられた。
教卓を挟んで向かい側に座る担任の男は、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、いかにも「分かればいいんだ」という風に寛大な笑みを浮かべてみせる。
「いいえ、お母様。宮園さんも、普段は本当に優秀で模範的な生徒ですから。今回は、あの瀬尾に無理やり連れ回されて、判断を誤ってしまっただけでしょう。多感な時期ですから、そういう悪い誘惑に一瞬流されてしまうことは、誰にでもあることです。……ねぇ、宮園さん?」
担任の、憐れむような、同時にすべてを見透かしたような視線が遥に注がれる。
悪い誘惑。落ちこぼれ。
彼らの世界では、あの地下スタジオで過ごした、心臓が爆発するほど愛おしかった音楽の時間は、ただの『間違い』として処理されていた。
遥は膝の上でスカートの生地を強く握りしめ、喉の奥にせり上がってくる熱い塊を必死に飲み込んだ。ここで反論してはいけない。昨日の夜、泣きながら自分を探し回ってくれた母親の、あの疲れ切った顔をこれ以上裏切るわけにはいかないのだ。
「……はい。すみませんでした。私の、悪ふざけです」
カサカサに乾いた声が、自分の口から零れ落ちる。
その言葉を発した瞬間、胸の奥で、大切な何かがピシッと音を立ててひび割れた気がした。
「分かってくれればいいんだ。じゃあ、これ、新しい進路希望調査票だ。今度は間違えずに、お母様としっかり話し合った『正しい進路』を書き込んで、今日の放課後までに提出しなさい」
教卓の上に滑り出された、真っ白な新しい藁半紙。
昨日、漣に目の前でビリビリに破り捨てられたはずの、あの檻が、何食わぬ顔をして再び遥の前に現れたのだ。
遥はそれを両手で受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……失礼します」
職員室を出て、母親と二人で静かな廊下を歩く。
校門まで見送る道すがら、母親は遥の肩にそっと手を置き、本当に安心したような優しい声で囁いた。
「よかったわ、遥。先生も分かってくださって。お母さんね、あなたが変な事件に巻き込まれたんじゃないかって、昨日は本当に生きた心地がしなかったのよ。……あの瀬尾くんという子とは、もう二度と関わっちゃダメよ。あの子は、あなたとは住む世界が違うの。あなたはちゃんと、綺麗なレールの上を歩いていけばいいの。それがあなたのための、一番の正解なんだから」
あなたのための、一番の正解。
その言葉が、遥の耳の奥で、昨日聴いた歪んだギターの爆音と重なってぐちゃぐちゃに混ざり合う。
遥は何も言えず、ただ「うん」とだけ答えて、母親の背中が校門の向こうへ消えていくのをじっと見つめていた。
――それからの数日間、学校での日常は驚くほど平穏に、そして退屈に過ぎていった。
遥は教室の自分の席に座り、黒板の文字をノートに綺麗に書き写し、休み時間はクラスメイトたちの他愛のない流行りの会話に適当に相槌を打つ。
スマートフォンは母親に没収され、夜は塾の自習室に遅くまでこもる日々。
すべてが、1年前の「音楽を捨てた優等生」のルーティンに戻っただけだった。
けれど、決定的に違うことが一つだけあった。
遥の耳が、頭が、完全にあの「地下世界の音」に汚染されてしまっていたのだ。
シャープペンの芯が走る音は、巧の刻むタイトなハイハットのリズムに聞こえた。
廊下を通り過ぎるトラックの重低音は、徹の唸るようなベースラインに翻訳された。
そして、ふとした瞬間に窓の外の青空を見上げるたび、あの旧音楽室で、雨を背に受けて狂ったようにギターを掻き鳴らしていた、漣のあの燃えるような瞳がフラッシュバックする。
(ごめんなさい、瀬尾くん……。私には、やっぱりあっち側に行く勇気はなかったよ……)
胸の中で何度謝っても、耳の奥のディストーションノイズは消えてくれなかった。
学校の廊下や中庭で、何度か漣の姿を見かけることはあった。けれど、遥はそのたびに視線を逸らし、逃げるようにして足早に通り過ぎた。漣もまた、無理に遥を追いかけてくるようなことはしなかった。ただ、すれ違いざまに、あの冷たい、けれど何かを値踏みするような鋭い視線が、遥の背中に突き刺さるのを感じるだけだった。
そして、運命の金曜日がやってくる。
その日の昼休み。
いつも通り、教室で味のしない購買のパンを口に運んでいた遥の耳に、校舎の窓の外から、妙なざわめきが聞こえてきた。
「え、何あれ? 中庭に変な機材運んでる奴らがいるんだけど」
「軽音部? いや、あいつら部室以外での演奏禁止されてるはずじゃん」
クラスメイトたちが次々と窓際に群がり、外を覗き込み始める。
胸に嫌な、だけど強烈に熱い予感を覚えた遥は、椅子をガタンと鳴らして立ち上がり、人混みをかき分けて窓の外を見下ろした。
学校の中心にある、四方を校舎に囲まれた全面コンクリートの中庭。
そこに、大型のアンプやドラムセットが、学校側の許可を一切無視したような手際の良さで次々とセッティングされていくのが見えた。
ドラムの前にドカッと座り、スティックを回しているのは、他校の制服を着た巧だ。その隣で、長髪を揺らしながらワイヤレスのシールドをベースに突き刺しているのは、徹だった。
そして、中庭の真ん中。
燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて、あのボロボロの、ステッカーだらけの黒いエレキギターを肩にかけた少年が、不敵な笑みを浮かべて立っていた。
瀬尾漣。
彼は、校舎のすべての窓から自分を見下ろしている無数の生徒たちの視線を一身に浴びながら、マイクスタンドを掴み、ゆっくりと顔を上げた。その鋭い瞳は、真っ直ぐに、遥がいる3階の教室の窓へと向けられていた。
「おい、全校生徒諸君。それから職員室のクソセンコーども」
アンプを通して校舎全体に響き渡る、漣の低く掠れた声。
その声がスピーカーから放たれた瞬間、学校中の空気がビリビリと震え出した。
「今から、俺たちのバンドの『新曲』を披露する。……おい、宮園遥! 聴いてるか! お前がいないとこの曲の心臓が足りねぇんだよ! 大人の引いた五線譜の中で死んでる暇があるなら、今すぐそこから飛び降りて、俺たちの正解を一緒に鳴らしに来い!!」
その叫びと同時に、巧のドラムが地響きのような激しいビートを叩き出し、徹のベースが空間を激しく歪ませた。
そして、漣の指先から、あの五線譜をズタズタに引き裂くような、最高に汚くて、最高に美しいギターの咆哮が、青空に向かって炸裂した。
2,鼓膜が破裂するかと思った。
校舎に囲まれた四角い中庭から激しく突き上げてくる音の塊は、3階の教室の窓ガラスを激しくガタガタと震わせ、遥の胸の骨の奥まで直接ビリビリと振動を伝えていた。
「おい、何だよこれ……! 瀬尾の奴、マジで宮園の名前呼んだぞ!?」
「何それ、二人の間に何があったわけ!?」
周囲のクラスメイトたちの驚愕と好奇の視線が一斉に遥へと突き刺さる。だけど、今の遥にはそんな他人の目なんてどうでもよかった。
視界の真ん中で、黒いギターを構えた漣が、太陽の光を浴びてギラギラと輝いている。その姿は、まるで檻の中に閉じ込められた世界を解放しに来た、乱暴な救世主のようだった。
(また、あんたはそうやって、私の正解をめちゃくちゃにする……っ)
アンプから吐き出される徹のベースが地を這い、巧のドラムが空気を切り裂く。そして漣のギターが、青空に向かってむき出しの悲鳴を上げている。
その音が、遥の耳の中で、昨日から頭の中にこびりついて離れなかった『新曲』のラストピースと完璧に合致した。
あの時、地下スタジオで4人で鳴らした音。あの途中で途切れてしまった未完成のメロディ。
それがいま、中庭で、遥のシンセサイザーの「心臓」を待っている。
「宮園! お前、何をしているんだ! 席に戻りなさい!」
ガラリと教室の扉を開けて飛び込んできたのは、隣のクラスの学年主任の教師だった。彼は顔を真っ赤にして中庭を見下ろし、それから遥の腕を掴もうと手をおそるおそる伸ばしてきた。
大人の手。私を正しいレールに引き戻そうとする、安全で、退屈な手。
「……触らないで」
遥は、自分でも驚くほど冷たく、鋭い声で拒絶した。
教師が驚いて動きを止めたその一瞬の隙を見逃さず、遥は椅子を思いきり蹴り飛ばすようにして、教室の出口へと走り出した。
「おい、待て! 宮園、戻れ!」
後ろから上がる怒号を、遥は完全に脳内から締め出した。
走って、走って、灰色の廊下を猛スピードで駆け抜ける。
カバンも、教科書も、あの新しく渡された真っ白な進路希望調査票も、すべて教室の机の上に置いてきた。今の遥の手元には、本当に何も無い。母親の期待も、先生の評価も、世間の言う安全な未来も、すべてをその場に脱ぎ捨ててきた。
階段を3段飛ばしで駆け下りる。
冷たい空気の代わりに、中庭から漏れ出てくる圧倒的なバンドの熱量が、1階に近づくにつれてどんどん色濃くなっていく。廊下の窓から覗く生徒たちの顔、ざわざわとした興奮、すべてがスローモーションのように遥の横を通り過ぎていった。
(私は、もう嘘はつかない。誰かに決められた綺麗な五線譜なんて、いらない……っ!)
1階の昇降口の重い扉を、遥は両手で力任せにぶち開けた。
バタン……!
一歩踏み出した中庭は、まるで異世界の戦場だった。
校舎の窓という窓から顔を出している何百人もの生徒たちの歓声とどよめき。その中心で、3人の音が爆音で渦巻いている。
「――待たせるんじゃねぇよ、遥」
弾きながら昇降口を見た徹が、嬉しそうにベースのネックを大きく掲げて叫んだ。
巧も、遥の姿を捉えた瞬間に、待ってましたと言わんばかりの激しいスネアの連打を叩き込む。
そして、ドラムセットの脇にセッティングされていた、あの地下スタジオと同じプロ仕様の多機能シンセサイザー。漣たちが、遥が来ることを信じて、わざわざあらかじめ用意してくれていたのだ。
遥はなりふり構わずその鍵盤の前に飛び込み、まだ激しく波打つ呼吸のまま、両手を鍵盤の上に力強く叩きつけた。
――キィィィィン!!
澄み切った、だけどどこか切ないデジタルの和音が、重低音の渦を切り裂いて青空へと突き抜けた。
その瞬間、漣の目が、前髪の隙間から遥を真っ直ぐに捉えた。
彼は狂ったように歓喜の笑みを浮かべ、遥のシンセの旋律に絡みつくようにして、最も凶暴で美しいフレーズを弾き始める。
4人の音が、太陽の光の下で、完全に一つに融合した。
それは学校のルールを無視した、最低で、最悪の不協和音だ。
遠くの校舎の入り口からは、拡声器を持った担任や指導部の先生たちが、顔を真っ赤にしてこちらへ走ってくるのが見えた。ライブが止められるまで、あと数分もないだろう。
だけど、そんなことはどうでもよかった。
全校生徒の視線を浴びながら、遥は涙で視界を滲ませ、鍵盤の上を狂ったように指を走らせた。
1年間、閉じ込めていた本当の自分が、このバンドの音の中で、今、確かに世界に向かって叫んでいる。
大人の言う正解なんて、どこにもない。
五線譜からはみ出した、この泥だらけの、だけど泣きたくなるほど愛おしい音が、17歳の私たちの、唯一無二の『正解』だ。 遮るもののない青空の下、4人の奏でる圧倒的な新曲のメロディが、学校全体を激しく揺らしながら、どこまでも、どこまでも響き渡っていった。



