1, 翌日の放課後、私の足は迷うことなく特別棟の階段を上っていた。
カバンの中には、黒岩先生に突きつけられた指定校推薦の重い書類が入っている。それを考えると今でも足がすくみそうになるけれど、昨夜、イヤホン越しに聴いた瀬尾くんのベースの音が、私の背中を強く、強く押し続けていた。
(周りから見たら、間違った道かもしれない。でも、私は私の正解を選びたい)
深く息を吸い込み、音楽室の重いドアを開ける。
西日の差し込む室内には、すでにベースを肩にかけた瀬尾くんが待っていた。私の姿を見た瞬間、彼の端正な顔に、パッと眩しい笑みが浮かぶ。
「遅い。待ちくたびれたぞ、遥」
「……まだチャイムが鳴ってから十分しか経ってないよ」
ぶっきらぼうに返しつつ、私はカバンを床に下ろした。
瀬尾くんは私の様子をじっと見つめると、少しだけ真面目なトーンで口を開いた。
「黒岩のジジイに言われたこと、気にしてねえか?」
「気にしてるよ。めちゃくちゃ怖い。……でもね」
私は瀬尾くんの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「瀬尾くんのあのベースを聴いちゃったら、もう逃げられなくなっちゃった。私、文化祭、本気でやる。だから、私の歌、ちゃんと引っ張ってね」
私の言葉に、瀬尾くんは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。それから、嬉しさを噛みしめるように不敵に笑う。
「当たり前だろ。お前がその気なら、俺はどこまででも付き合うぜ」
瀬尾くんがアンプのスイッチを入れる。
低く、唸るような起動音が室内に響き渡る。
「よし、じゃあ早速始めよう。まずは昨日合わせた曲の、Aメロのテンポ感から擦り合わせていくぞ」
その日から、私たちの放課後は一変した。
普段は軽音部のスターとしてバンドのメンバーと派手な曲を演奏している瀬尾くんが、音楽室ではただ私の歌声のためだけに、一本のベースで繊細なリズムを刻んでくれる。
「遥、今のサビへの繋ぎ、もうちょっと声を張れるか? 俺のベースを突き破るくらい、お前の感情を乗せてみろ」
「こう……? でも、それだと息が続かなくなっちゃう」
「じゃあ、俺がそこだけ少し音を引く。お前の声が一番綺麗に響く隙間を作るから、思い切り飛び込んできな」
一音、一音を丁寧にチューニングしていくような時間。
一人でパソコンに向かって音楽を作っていたときには知らなかった、誰かと息を合わせる楽しさが、私の身体をどんどん満たしていく。
親の言う「堅実な未来」のパンフレットは、机の奥に仕舞い込んだままだ。
大人の言う正解からはどんどん遠ざかっている。それでも、瀬尾くんと合わせるこの音楽の中にいるときだけは、自分が世界のどこよりも正しい場所にいるような気がしていた。
「よし、今のテイク、最高。……じゃあ、次はちょっと新しいアレンジ、試してみるか?」
汗を拭いながら笑う瀬尾くんの横顔を見ながら、私は自分の胸の奥の熱が、もう誰にも止められないところまで膨らんでいるのを確信していた。
2, 文化祭まで、あと二週間。
音楽室のカレンダーに書き込まれた赤丸が、日に日に存在感を増していく。
瀬尾くんとの練習は、驚くほど順調だった。私が家で作ってくる新しいアレンジに、彼はいつも最高のベースラインで応えてくれる。
だけど、本気になればなるほど、私の胸の奥には別の『黒い感情』がじわりと広がり始めていた。
(本当に、私の歌で大丈夫なのかな……)
ある日の放課後、いつものように音楽室へ向かう途中、私は体育館から響く大歓声を耳にした。
覗いてみると、そこでは瀬尾くんが所属する軽音部のバンドが、文化祭のメインステージに向けたリハーサルを行っていた。 ステージ中央、スポットライトを浴びてベースを掻き鳴らす瀬尾くん。その姿に、集まった生徒たちが黄色い声を上げ、地を揺らすような手拍子を送っている。
圧倒的なスター。それが、私の知っている『瀬尾漣』の本物の姿だった。
体育館の片隅で、私は自分の両手を見つめた。
私はただの宅録女子だ。人前で歌ったことなんて一度もない。そんな私が、学校中の期待を背負った彼の隣に立って、同じステージに上がる。
もし、私の歌が下手で、瀬尾くんの足を引っ張ってしまったら?
もし、観客から「あいつ誰だよ」って冷たい目を向けられたら?「趣味」と言い訳していた頃は、下手でも「別にプロを目指してるわけじゃないし」と逃げることができた。
だけど、申し込み用紙に名前を書き、本気でやると決めてしまった今の私には、もう逃げ道がない。本気だからこそ、失敗したときの恐怖が、以前の何倍も大きく膨れ上がって私を押しつぶそうとしていた。
「おい、遥。どうした? 今日、なんか声が硬いぞ」
放課後の音楽室。瀬尾くんがベースを弾く手を止め、心配そうに私を見た。
マイク代わりの手を握りしめたまま、私は次のメロディへ進むことができなくなっていた。喉の奥がカラカラに渇いて、声がかすれてしまう。
「ごめん……。なんか、上手く歌えなくて」
「疲れてんのか? 進路のことでまた何か言われた?」
「違うの!」
思わず、強い声が出てしまった。瀬尾くんが小さく目を見開く。
「違うの……。進路のせいじゃない。私、怖いの」
「怖い?」
「瀬尾くんのバンドのリハ、見たよ。凄かった。みんな瀬尾くんを見て熱狂してた。……あんなステージに、私みたいな素人が隣に立っていいわけないよ。本気でやればやるほど、自分がちっぽけに思えて、本番で声が出なくなったらどうしようって……」
一度溢れ出した弱音は、もう止められなかった。
本気を選ぶということは、こんなにも苦しくて、傷つくリスクを背負うことだったんだ。大人の言う通り、安全な大学へのレールに乗っていれば、こんな惨めな恐怖を味わう必要なんてなかったのに。
俯く私を見つめ、瀬尾くんはゆっくりとベースを床に置いた。
そして、私の前に歩み寄ると、私の震える肩に手を置いた。
「遥、俺を見ろ」
彼の低い、だけど不思議と安心する声に、私はゆっくりと顔を上げた。
瀬尾くんの瞳は、体育館のステージで輝いていたときと同じ、真っ直ぐな熱を宿していた。
3, 「遥、俺を見ろ」
瀬尾くんの大きな手が、私の震える肩をしっかりと包み込んでいた。
恐る恐る顔を上げると、すぐ近くにある彼の瞳は、冷めることのない熱を宿したまま私を真っ直ぐに射抜いていた。
「怖いのは、お前がこの音楽に『本気』になった証拠だろ。だったらその恐怖から逃げるな。まるごとステージに持ってけ」「でも、私は瀬尾くんみたいに、最初から完璧なスターじゃないもん……!」
悔しさと情けなさで涙がボロボロと溢れ出す。そんな私を見て、瀬尾くんは困ったように眉を下げ、それからフッと小さく笑った。
「勘違いすんな。俺だって完璧じゃねえよ。……あとさ」
瀬尾くんは少しだけ照れくさそうに頭を掻くと、私の目をじっと見つめた。
「それ、もうやめろ」
「え……何が?」
「『瀬尾くん』って呼ぶの。軽音部の連中と同じだし、なんか他人行儀で調子狂う。俺は最初から『遥』って呼んでんだから、お前も俺のこと、名前で呼べよ」
「軽音部のバンドでやってるとき、俺、いつもどこか退屈だったんだわ。周りの奴らは俺のベースに合わせるだけで必死だし、観客は『スターの瀬尾漣』を見て騒いでるだけ。……でもさ、遥。お前と音を合わせたときは、全然違った」
思わぬ要求に、涙がピタッと止まった。
心臓がドクリと大きな音を立てる。
「名前って……れ、漣、ってこと?」
「おう。次『瀬尾くん』って呼んだら、ベースの音量めちゃくちゃデカくして嫌がらせするからな」
悪戯っぽく笑う彼の顔を見ていたら、なんだか急に緊張の糸が切れてしまった。
学校中の女子が憧れるスターを、私だけが『漣』と呼ぶ。その特別な響きが、私の胸の奥をじんわりと温めていく。
「……わかったよ、漣」
初めて口にしたその名前に、彼は満足そうにニカッと白い歯を見せた。
「よし。じゃあ本題だけどさ、軽音部のバンドでやってるとき、俺、いつもどこか退屈だったんだわ。周りの奴らは俺のベースに合わせるだけで必死だし、観客は『スターの瀬尾漣』を見て騒いでるだけ。……でもさ、遥。お前と音を合わせたときは、全然違った」
漣くんは肩の手をそっと離し、床に置いた自分のベースを見つめた。
「お前の歌は、俺のベースを無理やり引っ張り出してくる。もっと速く、もっと深く弾けって、お前の声が俺の背中を殴ってくるんだよ。あんなにゾクゾクして、自分の演奏に必死になったのは初めてだ。お前の隣にいるとき、俺はただの『軽音部の瀬尾』じゃなくて、本当のベーシストになれる」
漣はもう一度私に向き直ると、私の目元に溜まった涙を、彼の親指で優しく拭った。
「俺がステージのスターに見えるなら、そのスターを動かしてるのはお前の音楽だ。自信持てよ。俺がお前を選んだんじゃない。お前の作った歌が、俺をここに引きずり込んだんだ」
――お前の作った歌が、俺を引きずり込んだ。
その言葉が、私の胸の奥にたまっていた黒い霧を、一瞬で吹き飛ばしていくようだった。
恐怖が消えたわけじゃない。でも、学校中の誰よりも音楽に本気な漣が、私の歌をこれほどまでに必要としてくれている。その事実が、私の足元に、大人の正論よりもずっと強固な『新しい床』を作ってくれた。
「……ずるいよ、漣。そんなこと言われたら、もう、言い訳も逃げ道も完全に無くなっちゃうじゃん」
私は涙を袖でゴシゴシと拭い、小さく笑った。
「無くていいだろ。一緒に間違った道へ突っ走ろうぜ、遥」
漣がニカッと白い歯を見せて笑い、床からベースを拾い上げた。
アンプから響く重低音が、今度は私を怯えさせるノイズではなく、心強い相棒の鼓動のように聴こえた。
「よし、もう一回頭からいくぞ。今度は手加減なしだ」
「望むところだよ」
私は胸の前で強く拳を握りしめ、音楽室の壁を突き破るくらいの勢いで、思い切り声を張り上げた。 私たちの音が、本当の意味で一つに重なり合った瞬間だった。
カバンの中には、黒岩先生に突きつけられた指定校推薦の重い書類が入っている。それを考えると今でも足がすくみそうになるけれど、昨夜、イヤホン越しに聴いた瀬尾くんのベースの音が、私の背中を強く、強く押し続けていた。
(周りから見たら、間違った道かもしれない。でも、私は私の正解を選びたい)
深く息を吸い込み、音楽室の重いドアを開ける。
西日の差し込む室内には、すでにベースを肩にかけた瀬尾くんが待っていた。私の姿を見た瞬間、彼の端正な顔に、パッと眩しい笑みが浮かぶ。
「遅い。待ちくたびれたぞ、遥」
「……まだチャイムが鳴ってから十分しか経ってないよ」
ぶっきらぼうに返しつつ、私はカバンを床に下ろした。
瀬尾くんは私の様子をじっと見つめると、少しだけ真面目なトーンで口を開いた。
「黒岩のジジイに言われたこと、気にしてねえか?」
「気にしてるよ。めちゃくちゃ怖い。……でもね」
私は瀬尾くんの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「瀬尾くんのあのベースを聴いちゃったら、もう逃げられなくなっちゃった。私、文化祭、本気でやる。だから、私の歌、ちゃんと引っ張ってね」
私の言葉に、瀬尾くんは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。それから、嬉しさを噛みしめるように不敵に笑う。
「当たり前だろ。お前がその気なら、俺はどこまででも付き合うぜ」
瀬尾くんがアンプのスイッチを入れる。
低く、唸るような起動音が室内に響き渡る。
「よし、じゃあ早速始めよう。まずは昨日合わせた曲の、Aメロのテンポ感から擦り合わせていくぞ」
その日から、私たちの放課後は一変した。
普段は軽音部のスターとしてバンドのメンバーと派手な曲を演奏している瀬尾くんが、音楽室ではただ私の歌声のためだけに、一本のベースで繊細なリズムを刻んでくれる。
「遥、今のサビへの繋ぎ、もうちょっと声を張れるか? 俺のベースを突き破るくらい、お前の感情を乗せてみろ」
「こう……? でも、それだと息が続かなくなっちゃう」
「じゃあ、俺がそこだけ少し音を引く。お前の声が一番綺麗に響く隙間を作るから、思い切り飛び込んできな」
一音、一音を丁寧にチューニングしていくような時間。
一人でパソコンに向かって音楽を作っていたときには知らなかった、誰かと息を合わせる楽しさが、私の身体をどんどん満たしていく。
親の言う「堅実な未来」のパンフレットは、机の奥に仕舞い込んだままだ。
大人の言う正解からはどんどん遠ざかっている。それでも、瀬尾くんと合わせるこの音楽の中にいるときだけは、自分が世界のどこよりも正しい場所にいるような気がしていた。
「よし、今のテイク、最高。……じゃあ、次はちょっと新しいアレンジ、試してみるか?」
汗を拭いながら笑う瀬尾くんの横顔を見ながら、私は自分の胸の奥の熱が、もう誰にも止められないところまで膨らんでいるのを確信していた。
2, 文化祭まで、あと二週間。
音楽室のカレンダーに書き込まれた赤丸が、日に日に存在感を増していく。
瀬尾くんとの練習は、驚くほど順調だった。私が家で作ってくる新しいアレンジに、彼はいつも最高のベースラインで応えてくれる。
だけど、本気になればなるほど、私の胸の奥には別の『黒い感情』がじわりと広がり始めていた。
(本当に、私の歌で大丈夫なのかな……)
ある日の放課後、いつものように音楽室へ向かう途中、私は体育館から響く大歓声を耳にした。
覗いてみると、そこでは瀬尾くんが所属する軽音部のバンドが、文化祭のメインステージに向けたリハーサルを行っていた。 ステージ中央、スポットライトを浴びてベースを掻き鳴らす瀬尾くん。その姿に、集まった生徒たちが黄色い声を上げ、地を揺らすような手拍子を送っている。
圧倒的なスター。それが、私の知っている『瀬尾漣』の本物の姿だった。
体育館の片隅で、私は自分の両手を見つめた。
私はただの宅録女子だ。人前で歌ったことなんて一度もない。そんな私が、学校中の期待を背負った彼の隣に立って、同じステージに上がる。
もし、私の歌が下手で、瀬尾くんの足を引っ張ってしまったら?
もし、観客から「あいつ誰だよ」って冷たい目を向けられたら?「趣味」と言い訳していた頃は、下手でも「別にプロを目指してるわけじゃないし」と逃げることができた。
だけど、申し込み用紙に名前を書き、本気でやると決めてしまった今の私には、もう逃げ道がない。本気だからこそ、失敗したときの恐怖が、以前の何倍も大きく膨れ上がって私を押しつぶそうとしていた。
「おい、遥。どうした? 今日、なんか声が硬いぞ」
放課後の音楽室。瀬尾くんがベースを弾く手を止め、心配そうに私を見た。
マイク代わりの手を握りしめたまま、私は次のメロディへ進むことができなくなっていた。喉の奥がカラカラに渇いて、声がかすれてしまう。
「ごめん……。なんか、上手く歌えなくて」
「疲れてんのか? 進路のことでまた何か言われた?」
「違うの!」
思わず、強い声が出てしまった。瀬尾くんが小さく目を見開く。
「違うの……。進路のせいじゃない。私、怖いの」
「怖い?」
「瀬尾くんのバンドのリハ、見たよ。凄かった。みんな瀬尾くんを見て熱狂してた。……あんなステージに、私みたいな素人が隣に立っていいわけないよ。本気でやればやるほど、自分がちっぽけに思えて、本番で声が出なくなったらどうしようって……」
一度溢れ出した弱音は、もう止められなかった。
本気を選ぶということは、こんなにも苦しくて、傷つくリスクを背負うことだったんだ。大人の言う通り、安全な大学へのレールに乗っていれば、こんな惨めな恐怖を味わう必要なんてなかったのに。
俯く私を見つめ、瀬尾くんはゆっくりとベースを床に置いた。
そして、私の前に歩み寄ると、私の震える肩に手を置いた。
「遥、俺を見ろ」
彼の低い、だけど不思議と安心する声に、私はゆっくりと顔を上げた。
瀬尾くんの瞳は、体育館のステージで輝いていたときと同じ、真っ直ぐな熱を宿していた。
3, 「遥、俺を見ろ」
瀬尾くんの大きな手が、私の震える肩をしっかりと包み込んでいた。
恐る恐る顔を上げると、すぐ近くにある彼の瞳は、冷めることのない熱を宿したまま私を真っ直ぐに射抜いていた。
「怖いのは、お前がこの音楽に『本気』になった証拠だろ。だったらその恐怖から逃げるな。まるごとステージに持ってけ」「でも、私は瀬尾くんみたいに、最初から完璧なスターじゃないもん……!」
悔しさと情けなさで涙がボロボロと溢れ出す。そんな私を見て、瀬尾くんは困ったように眉を下げ、それからフッと小さく笑った。
「勘違いすんな。俺だって完璧じゃねえよ。……あとさ」
瀬尾くんは少しだけ照れくさそうに頭を掻くと、私の目をじっと見つめた。
「それ、もうやめろ」
「え……何が?」
「『瀬尾くん』って呼ぶの。軽音部の連中と同じだし、なんか他人行儀で調子狂う。俺は最初から『遥』って呼んでんだから、お前も俺のこと、名前で呼べよ」
「軽音部のバンドでやってるとき、俺、いつもどこか退屈だったんだわ。周りの奴らは俺のベースに合わせるだけで必死だし、観客は『スターの瀬尾漣』を見て騒いでるだけ。……でもさ、遥。お前と音を合わせたときは、全然違った」
思わぬ要求に、涙がピタッと止まった。
心臓がドクリと大きな音を立てる。
「名前って……れ、漣、ってこと?」
「おう。次『瀬尾くん』って呼んだら、ベースの音量めちゃくちゃデカくして嫌がらせするからな」
悪戯っぽく笑う彼の顔を見ていたら、なんだか急に緊張の糸が切れてしまった。
学校中の女子が憧れるスターを、私だけが『漣』と呼ぶ。その特別な響きが、私の胸の奥をじんわりと温めていく。
「……わかったよ、漣」
初めて口にしたその名前に、彼は満足そうにニカッと白い歯を見せた。
「よし。じゃあ本題だけどさ、軽音部のバンドでやってるとき、俺、いつもどこか退屈だったんだわ。周りの奴らは俺のベースに合わせるだけで必死だし、観客は『スターの瀬尾漣』を見て騒いでるだけ。……でもさ、遥。お前と音を合わせたときは、全然違った」
漣くんは肩の手をそっと離し、床に置いた自分のベースを見つめた。
「お前の歌は、俺のベースを無理やり引っ張り出してくる。もっと速く、もっと深く弾けって、お前の声が俺の背中を殴ってくるんだよ。あんなにゾクゾクして、自分の演奏に必死になったのは初めてだ。お前の隣にいるとき、俺はただの『軽音部の瀬尾』じゃなくて、本当のベーシストになれる」
漣はもう一度私に向き直ると、私の目元に溜まった涙を、彼の親指で優しく拭った。
「俺がステージのスターに見えるなら、そのスターを動かしてるのはお前の音楽だ。自信持てよ。俺がお前を選んだんじゃない。お前の作った歌が、俺をここに引きずり込んだんだ」
――お前の作った歌が、俺を引きずり込んだ。
その言葉が、私の胸の奥にたまっていた黒い霧を、一瞬で吹き飛ばしていくようだった。
恐怖が消えたわけじゃない。でも、学校中の誰よりも音楽に本気な漣が、私の歌をこれほどまでに必要としてくれている。その事実が、私の足元に、大人の正論よりもずっと強固な『新しい床』を作ってくれた。
「……ずるいよ、漣。そんなこと言われたら、もう、言い訳も逃げ道も完全に無くなっちゃうじゃん」
私は涙を袖でゴシゴシと拭い、小さく笑った。
「無くていいだろ。一緒に間違った道へ突っ走ろうぜ、遥」
漣がニカッと白い歯を見せて笑い、床からベースを拾い上げた。
アンプから響く重低音が、今度は私を怯えさせるノイズではなく、心強い相棒の鼓動のように聴こえた。
「よし、もう一回頭からいくぞ。今度は手加減なしだ」
「望むところだよ」
私は胸の前で強く拳を握りしめ、音楽室の壁を突き破るくらいの勢いで、思い切り声を張り上げた。 私たちの音が、本当の意味で一つに重なり合った瞬間だった。



