五線譜からはみ出した、17歳の正解

1,叩きつけるような豪雨の住宅街を抜け、漣に手を引かれるままにたどり着いたのは、駅裏の寂れた雑居ビルの前だった。 
一階に入っている古着屋の看板はとうに明かりが消え、コンクリートの壁は雨水を吸ってどす黒く変色している。漣はその建物の脇にある、地下へと続く狭くて薄暗い階段を、迷うことなく下りていった。  

一段下りるごとに、外の激しい雨音が遠ざかり、代わりにドクドクと地鳴りのような重低音が足の裏から伝わってくる。 
階段の突き当たりにある、何枚もの防音シートが雑に貼られた鉄製の重い扉。漣がそれを乱暴に押し開けると、むっとするような熱気と、特有の匂いが遥の鼻腔を突いた。  

汗と、機材の焦げたような機械油の匂い。それから、ほんの少しのタバコの煙の残り香。 

「おー、やっと戻ったか漣。つーかお前、何そのずぶ濡れ……って、え? 誰、その子」  

部屋の奥から、ベースの生音をベキベキと鳴らしていた人影が顔を上げた。 
少し長めの髪を後ろで雑に縛り、耳にいくつもピアスを開けた青年――このバンドのベーシスト、新堂徹だ。制服ではなく、着古したバンドTシャツを着ている彼は、遥たちの尋常ではない濡れ方に目を丸くしている。 

「おいおい、漣。まさかお前、またセンコーとやり合って女子高生誘拐してきたんじゃねぇだろうな」  

奥のスネアドラムの前に座り、スティックを器用に指で回していた大柄な男子生徒が、呆れたように笑う。ドラムの佐藤巧。学校は違うが、漣が街のセッションで見つけてきた無口だが腕の確かな男だ。 

「誘拐じゃねぇよ。……今日からうちのバンドのキーボード兼、編曲(アレンジ)担当だ。名前は遥」  

漣は濡れた黒髪をバサリと振り払いながら、当然のような口調で言い放った。 

「……ちょっと、勝手に決めないでよ!」 

遥は思わず声を上げた。制服のブラウスは雨で肌に張り付き、寒さで身体が震え始めている。

「私はただ、あんたのギターに少し合わせただけで、バンドに入るなんて一言も――」
「合わせただけ、ねぇ」 

徹がベースをソファに置き、興味深そうに歩み寄ってきた。彼の鋭い、けれどどこか人懐っこい目が、遥を上から下まで観察する。

「漣がわざわざここに人間を連れてくるなんて、いつぶりの珍事だよ。なぁお嬢ちゃん、キーボード弾けるの? うちの曲、漣のギターが暴走するから並の奴じゃ付いてこられないよ?」 
「……調律の狂ったピアノでも、あの人の4度マイナーの不協和音には合わせられたわ」 

遥は寒さに震える唇を噛み締めながら、徹の視線を真っ直ぐに跳ね返した。ここで怯んだら、学校から逃げ出してきた自分の覚悟まで嘘になってしまう気がした。 

「お、言うねぇ」 

徹が面白そうに口元を歪め、奥の巧と視線を交わした。 

「だったら、口じゃなくて音で聴かせてよ。ちょうど新曲のサビの繋ぎで、俺と漣の音がどうしても噛み合わなくて揉めてたんだわ。お嬢ちゃんのその『耳』とやらで、俺たちの音を正解に導いてみてよ」  

巧がドラムセットの脇から、ビニールに包まれた予備のバスタオルを遥に放り投げた。

「とりあえずそれ使って。風邪ひかれたら、漣がうるさいから」
「……ありがとう、ございます」 

遥はタオルを受け取り、濡れた髪を強く拭いた。タオルの奥から、少しだけ柔軟剤の匂いがして、凍えかけていた身体がじんわりと熱を取り戻していく。  

スタジオの壁際にセッティングされているのは、学校のボロボロのアップライトとは違う、プロ仕様の多機能シンセサイザー。 遥はタオルを肩にかけたまま、その鍵盤の前に立った。電源を入れると、液晶画面が青白く光り、地下スタジオの薄暗い空間に近未来的な光を落とす。 

「曲のキーはE。テンポは百四十。サビの前のコード進行、俺がこう弾くと、漣の歪みとぶつかってグチャグチャになるんだよ」 

徹がベースを抱え、重低音のフレーズを弾き始めた。 
ドッドッドッ、と腹の底に響くようなベースの脈動。そこに巧のドラムが正確なハイハットのリズムを刻み込む。  

学校の音楽室で聴く音楽とは、全く違う。 
これが、生のバンドの、ベースとドラムという『心臓』の音。  
遥の絶対音感が、即座にそのベースラインを脳内の五線譜へと書き写していく。 

確かに、徹のベースはドライブ感が強すぎて、漣の鋭いギタースクラッチの帯域を完全に殺してしまっている。お互いが主役になろうとして、音がケンカしているのだ。 

「……ベースのルート音、3拍目で半音下げて」 

遥は鍵盤に冷たい指を乗せ、いくつかのコードを鳴らしながら言った。

「漣のギターが5度で鳴ってるから、ベースがそこで居座ると濁るの。そこを半音下げて、私がシンセでその間の音を埋める。そうすれば、ぶつからずに、逆にエモい浮遊感が出る」 
「は? 半音下げる?」 

徹が怪訝そうな顔をしながらも、遥の言った通りに指を動かした。  
ドラムのリズムが走り出す。 
ベースが走り、そしてサビの直前――遥の指示通り、徹がベースのルートを半音下げた瞬間、遥の指がシンセサイザーの鍵盤を鋭く叩いた。  

――キィィン、と、透明感のあるデジタルシンセの和音が、重低音の隙間を完璧に縫うようにして鳴り響いた。  
その瞬間、スタジオの空気が、目に見えて『変わった』。  
今まで濁ってバラバラだったベースとドラムの音が、遥の一音によって、まるで一本の巨大な濁流へと美しく統合されたのだ。 

「――っ、これだ!!」  

それまで壁に寄りかかって黙って見ていた漣が、飢えた獣のように目を輝かせて飛び出してきた。 
彼は自分の黒いギターのボリュームを最大まで引き上げると、遥が作ったその完璧な音の隙間に、一滴の容赦もない、最も凶暴で美しいギターソロを突き刺してきた。  

地下の壁が、ガラスが、アンプが、二人の音が混ざり合う衝撃でビリビリと悲鳴を上げる。  
徹が、弾きながら狂ったように笑い出した。

「マジかよお嬢ちゃん……! 一瞬でこれ見抜いたのかよ! 最高じゃねぇか!」  

巧のドラムが、興奮を煽るように激しいフィルインを叩き込む。  
雨の夜。誰も知らない地下世界で、五線譜からはみ出した4人の音が、今、確かに一つに重なり合おうとしていた。


2,音が、生き物のように地下スタジオの狭い空間をのたうち回っていた。 
徹のベースが地を這う重低音を刻み、巧のドラムが心臓の鼓動を狂わせるような正確なビートで空気を破裂させる。そして何より、漣のギター。彼の指先から放たれる歪んだディストーションノイズは、鋭利な刃物そのもので、スタジオの防音壁を激しく切り裂き続けていた。 

その三つの圧倒的な音の奔流の真ん中に、遥は自分のシンセサイザーの音を、細い糸を針の穴に通すような精密さで滑り込ませていく。 

「サビに入る4拍前、ドラムのハイハットをオープンにして。 そこに私がピアノのバッキングで16分のフレーズを入れるから、徹先輩は思いきりグリッサンドで弦を引っ掻いて」  

髪をバスタオルで拭いたばかりの遥は、湿気で少し波打つ前髪の隙間から、3人の顔を鋭く見据えて言葉を発した。 
いつの間にか、寒さなんて完全に忘れていた。制服のブラウスは乾ききっていないはずなのに、体の中から湧き上がる沸騰したような熱気が、皮膚の表面をじりじりと焦がしている。 

「おうよ、任せろッ!」  

徹が白い歯を見せて笑い、予告通りのタイミングでベースの指板を激しく滑り降りた。ブゥゥゥンという地響きのような金属音がスタジオの床を激しく揺らす。 
直後、遥の指先が鍵盤の上を狂ったように跳ねた。学校の古いアップライトピアノでは絶対に不可能だった、デジタルシンセサイザー特有の、クリスタルのように澄んだ超高速のアルペジオ。それが重低音の隙間を完璧に満たし、音楽の気圧を急上昇させていく。 

「ここだ、漣……っ」  

遥の声に応じるように、漣がエフェクターのスイッチを思いきり踏み込んだ。 

キィィィィン――!! 

アンプから火花が散るかと思うほどのハウリングノイズが炸裂し、次の瞬間、彼は狂ったようにギターソロを掻き鳴らし始めた。 
それは、遥がこれまで聴いてきたどんなクラシック音楽よりも、どんなテレビから流れる流行りのポップスよりも、圧倒的に不自由で、だからこそ、泣きたくなるほど自由なメロディだった。  

4人の音が、完全に噛み合った。 
誰の音も死んでいない。誰の音も他人の奴隷になっていない。それぞれが五線譜という檻を自らの力でぶち破り、むき出しのソウルをぶつけ合っている。 

「ははっ、すげぇ……なんだこれ、マジで気持ちよすぎるだろ……っ!」  

徹が演奏しながら獣のような声を上げる。 
いつもは無口な巧も、ドラムスティックが目に見えないほどの速さでスネアとタムを叩き込み、全身から大粒の汗を飛び散らせながら、狂気的な笑みを浮かべていた。  

ネットの海で「量産型」だと切り捨てられ、自分の才能の死体を見つめることしかできなかった遥の脳内で、凍りついていた作曲の細胞が、次から次へと新しい旋律を産み落としていく。 

(私は、まだ死んでない。私の音楽は、この人たちの間で、確かに生きている……!)  

最後の音が、巧の力強いクラッシュシンバルの炸裂とともに、スタジオの空気を激しく震わせて静止した。  

――シーン、と静まり返る地下世界。  
4人全員が、肩を激しく上下させながら、言葉もなくお互いを見つめ合っていた。 
スタジオの壁の時計は、いつの間にか夜の八時半を回っている。外の世界の雨の音はここには届かない。けれど、彼らの額から床へと滴り落ちる汗が、その時間の密度の濃さを物語っていた。 

「……決まりだな」  

漣がギターを抱えたまま、床にペタンと座り込んだ。濡れた黒髪から滴る雫が、ステッカーだらけのギターのボディを濡らしている。彼は息を切らしながら、だけど今までで一番綺麗な、濁りのない瞳で遥を見上げた。 

「お前がいないと、このバンドの音は完成しない。いや、お前が俺たちの『心臓』だ、遥」
「漣の言う通りだわ。お嬢ちゃん、いや、遥。お前マジで何者だよ。鳥肌止まんねぇんだけど」  

徹が自分の腕を差し出して見せる。そこには本当に、無数の鳥肌が立っていた。 

「宮園さん、だっけ。……良い音だった。叩いてて、迷わなかった」  

巧がスティックを置き、ぶっきらぼうに、だけど確かな敬意を込めてボトルのお茶を差し出してくれた。 

「……ありがとう、ございます」  

遥はそれを受け取り、一口含む。乾ききった喉に、冷たい液体が染み渡っていく。 
胸の奥が、温かい何かで満たされていた。誰かに認められることの、自分の作った音が誰かの心を震わせることの、本当の喜びを、17歳の遥は今、生まれて初めて本当の意味で理解したのかもしれない。  

その、最高に満たされた幸福の瞬間の、まさにその隙間を突くようにして。  

ブーーー、ブーーー、ブーーー。  

スタジオの片隅、遥が置いておいた制服のカバンの奥から、機械的で冷酷な振動音が響いた。 
その不快な音が防音室の静寂を破った瞬間、遥の身体は、まるで冷水を浴びせられたように硬直した。  

さっきまでの熱気が、嘘のように急速に引いていく。 
遥は恐る恐るカバンの元へ歩み寄り、チャックを開けてスマートフォンを取り出した。 
青白く光る液晶画面。そこに表示されていたのは、遥の理性を一瞬で現実へと引き戻す、最悪の文字列だった。 

『着信履歴:お母さん(14件)』
『メッセージ:今どこにいるの? 学校から連絡がありました。進路票のことで先生と何かあったの? 警察に連絡します。すぐに応答しなさい。あなたのためを思って言っています』  

あなたのためを思って。 

その、画面いっぱいに並んだ優しい呪いの言葉を見た瞬間、遥の指先はガタガタと激しく震え出した。 

「……あ」  

喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れる。 
そうだ。私は、学校から、あの進路指導の現実から、ただ逃げ出してきただけだ。 
ここにいる時間は、まるで魔法のように輝いていたけれど、一歩外に出れば、そこには母親の敷いた「正しいレール」が、そして私を縛り付ける「大人の五線譜」が、何一つ変わらずに私を待ち構えている。 

「遥? どうした」  

漣が異変に気づき、立ち上がって歩み寄ってくる。 

「……帰らなきゃ」  

遥はスマホをカバンに押し込み、まだ生乾きの制服の上着をひったくるようにして抱えた。 

「帰らなきゃ……お母さんが、学校が、私を……」
「おい、待てよ! こんな雨の中、今から帰ったらまたあのセンコーどもの言いなりになるだけだぞ!」 

漣が遥の肩を掴もうと手を伸ばす。 
だけど、今の遥の目には、その漣の差し出した熱い手さえも、自分をさらに深い泥沼へと引きずり込む危険な誘惑に見えてしまっていた。 

「……ごめんなさい、瀬尾くん」  

遥は震える声で、絞り出すように呟いた。 

「ごめんなさい……。あなたみたいに、私は強くないの。はみ出す勇気なんて、本当は一ミリも持っていないのよ……っ」  

差し出された漣の右手を視線で追う。その硬いタコで覆われた手のひらに、もう一度すがりついてしまいたい衝動を、必死で抑え込んだ。 

「あなたのギター、本当に凄かった。私の暗い音を、全部光に変えてくれるみたいで、本当に……嬉しかった。でも、私の家は違うの。お母さんを裏切って、悲しませてまで、自分のワガママを通すことなんてできない……。普通の大学に行って、普通の会社に就職して、お母さんを安心させてあげるのが、それが私の……私の選ばなきゃいけない、正解なのよ……っ!」  

これ以上ここにいたら、本当に戻れなくなってしまう。 
漣に泣き顔を見られたくなくて、遥は背を向け、地下スタジオの重い鉄の扉を力任せに押し開けた。 
後ろから徹や巧の驚く声と、漣が自分の名前を叫ぶ声が聞こえたが、振り返る余裕なんてなかった。  

階段を駆け上がり、再び飛び出した地上世界。
夜の帳が降りた街には、相変わらず激しい豪雨が降り注ぎ、ネオンの光を冷たく反射していた。遥は傘も差さず、ただスマートフォンを握りしめたまま、自分の「息の詰まる現実」が待つ我が家へ向かって、涙を雨で薄めながら、ひたすら走り続けた。