五線譜からはみ出した、17歳の正解

1,  放課後を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、クラスの空気が一斉に弛緩した。
部活へ向かう人、友達と予定を合わせる人。そんな賑やかな教室の中で、私だけが、机の上に広げられた一枚の紙を見つめたまま硬直していた。

――『秋の文化祭・有志ステージ出演申込書』

左側のメンバー欄には、すでに『2年3組 瀬尾 漣』と、乱暴だけど力強い文字が躍っている。その右側の空白が、まるで私を試すようにポッカリと空いていた。

(締め切りは、今日の放課後五時まで。あと、四十七分しかない……)

カバンの中から、昨日持ち帰った大学のパンフレットが少しだけ覗いている。
『手堅い学部に進まないと将来苦労するからね』という母の優しい声が、呪いのように耳の奥でリフレインした。

「おい、瀬尾。今日部活だろ? 早く来いよ」

教室の入り口から、軽音部の男子が瀬尾くんを呼びにきた。
瀬尾くんは荷物をまとめながら、私の席の横を通り過ぎる。すれ違いざま、彼は私にだけ聞こえるような低い声で呟いた。

「生徒会室の提出箱の前で、五時まで待ってる」

それだけ言い残して、彼は教室を出て行った。
残された私は、震える手でシャープペンシルを握りしめた。

名前を書けばいい。ただそれだけのことなのに、ペン先が紙に触れる直前で止まってしまう。
もしこれを提出したら、私は本当に『ただの趣味』という言い訳を失ってしまう。本気でやって、もし誰にも評価されなかったら?

大学の推薦を棒に振って、将来路頭に迷ったら?
大人たちの言う「正解」を捨ててまで、私は傷つく覚悟があるのだろうか。

「……無理だよ。私なんか、ただの宅録女子なんだから」

時計の針は、四時四十分を回った。
私は逃げるように申込書を半分に折り、カバンの奥へと押し込んだ。そのまま上履きを脱ぎ捨てて、昇降口へと走る。
早く学校を出て、あの夕暮れの境界線を越えて、安全な我が家へ帰らなければいけない。

だけど、自転車置き場に向かう途中で、私の足はまたしても動かなくなった。
中庭の向こう、部室棟からかすかに聞こえてくる音。アンプを通したベースの重低音が、ズン、ズンと地面を伝って私の足の裏を揺さぶる。
瀬尾くんの音だ。私を見つけて、私の歌を引きずり出してくれた、あの熱い手の感触が、一気に蘇ってくる。

(嫌だ、諦めたくない……っ!)

胸の奥で、何かが激しく弾けた。
私はカバンからくしゃくしゃになった申込書を取り出すと、自転車置き場のベンチに広げ、狂ったように自分の名前を書き殴った。

『2年1組 一ノ瀬 遥』

時計を見る。四時五十三分。
私は申込書を胸に抱きしめ、放課後の廊下を、生徒会室に向かって全力で走り出した。



2,  廊下のデジタル時計が『16:58』を表示した瞬間、私は生徒会室の前に滑り込んだ。
息が切れて、肺が焼けるように熱い。
ドアの横に置かれた有志ステージの提出箱。その前に、壁に背を預けた瀬尾くんが立っていた。

彼は走ってきた私を見て、驚いたように目を見張った。それから、私の手にある、汗で少しふやけた申込書に視線を落とす。

「遥……お前」
「……間に合って、よかった」

私は言葉にならない声を絞り出し、瀬尾くんの目の前で、申込書を提出箱のスリットへと滑り込ませた。
ストン、と軽い音がして、紙が箱の底に落ちる。

その瞬間、胸の奥からドッと鳥肌が立つような解放感が押し寄せてきた。ついに、進路調査票の「安全なレール」から、自分の足で一歩はみ出してしまったのだ。

「ありがとな、遥。最高のステージにしようぜ」

瀬尾くんが、今日一番の眩しい笑顔を浮かべた。気恥ずかしくて、私は俯いて小さく頷いた。

「おい、宮園。そこで何をしているんだ」

背後から響いた冷徹な声に、私たちの笑顔が一瞬で凍りついた。

振り返ると、そこに立っていたのは進路指導主任の黒岩先生だった。手には、生徒たちの進路調査票の束が握られている。

「先生……」
「有志ステージの申し込みか。瀬尾、お前はいい。だが宮園、お前は指定校推薦の選考枠に入っている段階のはずだぞ」

黒岩先生は眼鏡の奥の目を細め、提出箱を見つめた。その視線だけで、自分の犯した罪を糾弾されているような気分になる。

「音楽が悪いとは言わん。だが、文化祭の有志ステージに出るとなれば、来月からの放課後はすべて練習に消える。定期テスト前の補習も出られなくなる。そんな時間があるなら、小論文の一本でも書くのが、今の君にとっての『正しい時間の使い方』じゃないのか?」

先生の言葉は、一言の狂いもなく正論だった。
怒鳴られているわけではない。ただ、淡々と「将来のためを思う大人の正解」を突きつけられている。

「瀬尾くんは悪くありません! 私が、自分で出たいって思って……!」
「宮園、君を責めているわけではない」

黒岩先生はため息をつき、私の肩にそっと手を置いた。

「今の時代、音楽で食べていける人間が何人いる? 君の両親も、君に安全な人生を歩んでほしいからこそ、高い学費を払って大学へ行かせようとしているんだ。一時の感情で、将来の確実な切符を手放すのは愚かなことだ。もう一度、よく考えなさい」 

先生はそれだけ言うと、職員室の方へと歩いていった。
廊下に、重苦しい沈黙が落ちる。
さっきまであんなに熱かった胸が、急速に冷えていく。先生の言う通りだ。私は一時のきらめきに目を眩まされて、一番大切な「現実」を投げ出そうとしてしまったのだろうか。

「……一ノ瀬」

瀬尾くんが心配そうに私の顔を覗き込んできた。

だけど、今の私には、彼のまっすぐな瞳を見るのが、どうしようもなく苦しかった。

「ごめん、瀬尾くん。私……やっぱり、間違ってたかもしれない」

私は瀬尾くんから目を背け、今度こそ、逃げるように走り出した。
名前を書いたあの数分前の自分を、もう後悔し始めている自分がいた。



3,   先生の言葉は、家に帰ってからも私の頭の中で鋭い針のように突き刺さっていた。

『一時の感情で、将来の確実な切符を手放すのは愚かなことだ』

夕食の席、楽しそうに大学の話をする両親の顔を、私はまともに見ることができなかった。「宮園遥」という私の人生は、すでにたくさんの「大人の正解」で舗装されている。そこから外れることは、親への裏切りであり、自分の未来を捨てる愚かな行為だ。先生の言う通り、私はただ、瀬尾くんというきらめく彗星に目を眩まされていただけなんだ。

「……やっぱり、明日、申し込みを取り消しに行こう」

部屋のベッドに倒れ込み、天井を見つめながら呟いた。
名前は書いてしまったけれど、まだ間に合う。瀬尾くんには怒られるかもしれない。幻滅されるかもしれない。それでも、私は安全なレールの上に戻らなきゃいけないんだ。

その時、スマホが短く震えた。
画面を見ると、瀬尾くんからの通知だった。メッセージは何も添えられておらず、ただ一本の音声ファイルだけが添付されていた。

(……何、これ)

ためらいながらも、私はイヤホンを耳に押し込み、再生ボタンをタップした。――ザザッ、というノイズのあと、アンプを通さない、生のアコースティックベースの音が静かに響いた。

それは、今日の放課後に二人で合わせた曲のメロディだった。でも、何かが違う。テンポはゆっくりで、まるで私の傷ついた心に寄り添うように、驚くほど優しくて、温かい音が紡がれていた。
ベースの弦を擦る指の音、瀬尾くんの静かな呼吸の音まで聞こえてくる。
音だけで、彼が何を伝えようとしているのかが、痛いほど伝わってきた。

『間違ってなんかいない』
『俺はお前の歌を、お前の音楽を信じてる』

言葉で言われるよりもずっと強く、彼の「本気」が私の鼓膜を、そして冷え切っていた胸の奥を激しく揺さぶる。
先生の言葉は正論だ。でも、正論がいつも人を救うわけじゃない。私の心を今こうして救ってくれているのは、間違いなく、この不確実で不真面目な音楽の音だった。

「……ずるいよ、瀬尾くん」

涙が目尻から溢れて、耳元へ流れていく。

大人の言う正解を選べば、私は傷つかないかもしれない。でも、この音を失った私は、抜け殻のようにただ生きるだけになってしまう。
私はスマホを強く握りしめ、目を閉じた。
もう、申し込みを取り消すなんて選択肢は、私の頭の中から綺麗に消え去っていた。周りから見ればどんなに不正解でも、私は瀬尾くんと一緒に、この音の先へ進みたい。
イヤホンから流れるベースのラストノートが静かに消えていく。

私の17歳の葛藤は、瀬尾くんという最高の共犯者によって、一つの小さな、だけど確かな覚悟へと変わっていた。