1, 鳴り響いた放課後のチャイムは、まるで私に下された有罪判決のようだった。
早く帰らなきゃいけない。カバンに教科書を詰め込み、進路調査票を奥深くに押し込む。
あんな風に私の心を見透かしてくる漣の傍にいたら、私はきっと、自分に懸けているブレーキを壊されてしまう。安全な大学に行って、堅実に生きる。それが私の、17歳の正解なんだから。
「よし、帰ろう。まっすぐ帰る」
声に出して自分に言い聞かせ、教室のドアを開けた。
下校の生徒たちで賑わう廊下を、私は早足で歩く。階段を下り、昇降口へ向かえば、それで今日の危機は去るはずだった。
――放課後、また音楽室で待ってる。俺のベース、お前の歌に合わせて準備しとくから。
脳裏に、今朝の漣の言葉がリフレインする。
あの真っ直ぐな瞳。私の歌詞を、まるで宝物みたいに扱っていた大きな手。
「……っ」
気がつけば、私は階段の前で立ち尽くしていた。
昇降口へ続く下り階段ではない。特別棟の、音楽室へと続く上り階段の前に。
(バカじゃないの、私。行くわけないじゃん。時間の無駄だし、プロになれるわけでもないのに)
頭の中の冷徹な理性が、必死に警報を鳴らしている。
なのに、私の足は、まるで目に見えない糸で引っ張られるように、一歩、また一歩と階段を上り始めていた。
心臓が耳の奥でうるさく脈打つ。
長い廊下の突き当たり。放課後の静まり返った学校に、重低音の響きがかすかに届いていた。
――ドゥン、ドゥドゥン、ドゥン……。
地を這うような、だけど確かに心臓を揺さぶる、ベースの音。
それは、私が家で一人で打ち込んだ、あの新曲のベースラインだった。私の作った、拙い、誰にも見せるつもりのなかったメロディが、本物の楽器の音になって呼吸している。
気づいたときには、私は音楽室の重いドアを押し開けていた。
西日の差し込む室内。中央でベースを構えていた漣が、ドアの音に気づいて顔を上げる。
彼は驚いた風でもなく、ただ「やっぱり来たな」と言わんばかりに、悪戯っぽく口元を緩めた。
「遅い。待ちくたびれたぜ、遥」
「……なんで、ベース弾けるの。私、楽譜なんて渡してない」
「今朝、お前のスマホの画面にコード進行が映ってただろ。それと、昨日聴いた耳コピ。これくらい、一発で合わせられなきゃスターは名乗れないからな」
漣は不敵に笑うと、アンプのボリュームを少しだけ上げた。
空気がビリビリと震える。
「さあ、歌えよ、遥。お前の『本気』を、俺の音に乗せてみせろ」
挑発するような、だけどこれ以上ないほど甘い誘惑。
私はカバンを床に落とした。もう、言い訳を探すのはやめだ。安全な未来なんて、今はどうでもいい。
私はスマホの録音スイッチを押し、マイクの代わりに胸の前に両手を握りしめた。
漣のベースが、一際強く、深く唸る。
それに導かれるように、私はゆっくりと口を開いた。
「――っ」
最初の一音が出た瞬間、全身に鳥肌が立った。
いつも自室で、ヘッドホンの狭い世界の中で歌っていた私の声が、漣のベースの重低音と混ざり合い、音楽室の広い空間に爆発するように広がっていく。
楽しい。
頭のてっぺんから爪先まで、痺れるような快感が駆け抜ける。
漣が私を見て、さらに激しくベースを弾く。私の歌声に合わせて、彼の音が細かく踊るように変化していく。言葉なんて交わしていないのに、音だけでお互いの感情がダイレクトにぶつかり合っているのが分かった。
これが、一人じゃない音楽。これが、本物のアンサンブル。
安全なレールの上を走っているだけでは、絶対に味わえなかった、17歳のきらめきがここにある。
私はもう、この熱を知る前の自分には、戻れない。
2, 音楽室のドアを閉めてからも、私の指先はまだ微かに震えていた。
耳の奥で、漣のベースの重低音がずっと残響のように鳴り響いている。信じられないくらい楽しかった。あんなに胸が震えたのは、生まれて初めてだった。
『お前の歌、やっぱり最高。これ、文化祭のステージで絶対にやろうな』
別れ際に見せてくれた、漣の屈託のない笑顔が頭から離れない。
自転車を漕ぐ足取りは信じられないほど軽くて、夕暮れの街並みが、いつもより少しだけ鮮やかに見えた。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、いつもの我が家の匂いがした。
台所から、トントンと小気味よい包丁の音が聞こえてくる。
「あ、遥、お帰り。遅かったじゃない。学校で何かあったの?」
リビングから顔を出したのは、エプロン姿の母親だった。
その穏やかな笑顔を見た瞬間、私の胸の奥で、冷たい風がヒュッと吹き抜けた。学校でのあの熱狂が、まるで遠い国の出来事のように色褪せていく。
「ううん、ちょっと……図書室で調べ物してて」
「そう、お疲れ様。あ、そうだ、遥。リビングの机の上に、お父さんと相談して取り寄せた大学のパンフレット置いてあるから。後で部屋に持っていってね」
母親は鍋に視線を戻しながら、パートのシフトの話をするような軽いトーンで続けた。
「経済学部なら、地元で一番就職に強いんですって。今の時代、女の子もちゃんと資格を取るか、手堅い学部に進まないと将来苦労するからね。お父さんも、あそこの大学なら学費はいくらでも出すって言ってるわよ」
――手堅い学部。将来苦労するから。
その言葉が、私の頭の上から冷水を浴びせかけるように突き刺さる。
親の言うことは、いつだって正しい。私を心配して、私が傷つかないように、一番安全な「正解のルート」を用意してくれている。
音楽なんて博打みたいなものに、親の大切なお金や、自分の将来を賭けるなんて、絶対に間違っている。
「……うん、ありがとう。後で見てみる」
私は絞り出すようにそう言って、リビングの机から厚みのあるパンフレットを手に取った。表紙には『輝く未来への確かな一歩』と書かれている。
自分の部屋に入り、ベッドにカバンを放り出す。
机に向かってパンフレットを開くけれど、並んでいる文字が全く頭に入ってこない。
スマホが震えた。
画面を見ると、漣からのメッセージが表示されていた。
『さっきの録音、ベースの音量調整して送るわ。マジで何回聴いてもヤバい』
スマホの画面から溢れる「本気の熱」と、机の上に広がる「現実の正解」。
私はスマホを裏返し、机の上に突っ伏した。
安全なレールの上を歩くのが正しい。分かっているのに、一度知ってしまったあのアンサンブルの快感が、私の心をどうしても引き留めて離してくれない。
(どうしたらいいの、私……)
夕闇が迫る部屋の中で、私はどちらの未来も選べないまま、ただ小さく息を吐き出した。
3, 夕食の後、私は部屋にこもり、母から渡された大学のパンフレットを机に広げた。シャープペンシルを握り、推薦入試の要項に目を通す。評定平均、志望理由書、小論文。
一つ一つの文字が、まるで私を安全な檻の中に閉じ込めるための杭のように見えた。
(勉強しなきゃ。次の定期テストで順位を落としたら、推薦枠が危なくなる)
自分に強く言い聞かせ、参考書を開く。
世界史の教科書に書かれた年号をノートに書き写そうとした――その時だった。
『マジで何回聴いてもヤバい』
さっき裏返したスマホの画面が、頭の裏側でチカチカと明滅するような錯覚に襲われる。
一度気になり始めると、もう駄目だった。誘惑に負けてスマホをひっくり返し、漣から送られてきた音声ファイル(mp3)を再生してしまう。
音漏れを気にして、大急ぎでイヤホンを耳に押し込んだ。
――ドゥン、ドゥドゥン……。
イヤホンから流れてきたのは、今日の放課後、音楽室で合わせた私たちの音だった。
驚いた。漣はただ音量を調整しただけじゃない。私の歌声が一番きれいに聴こえるように、ベースのトーンを少し落とし、まるでプロがミキシングしたかのように綺麗に仕上げてくれていた。
音の中で、私の声が、私のメロディが、まるで生き物みたいに生き生きと跳ね回っている。
「……あ」
不意に、そのアンサンブルの続きのメロディが、脳内に溢れ出してきた。
世界史のノート。文字を書き連ねるはずの青い罫線の上に、私の指先は勝手にト音記号を描き始めていた。
『堅実な学部に進まないと将来苦労するからね』
リビングでの母の言葉が、脳内でノイズのように激しく割り込んでくる。
頭を振って、イヤホンを耳から引き抜いた。静まり返った部屋。机の上には、世界史の参考書と、大学のパンフレットと、殴り書きされた拙い音符のメモ。
「何やってるんだろう、私……」
涙がじわりと滲んで、ノートの文字が滲んだ。
音楽を本気でやりたい。あの音が忘れられない。でも、そんなのただの現実逃避だ。絶対に稼げないし、失敗したら「あのとき大人しく大学に行っておけばよかった」って一生後悔するに決まっている。
どっちを選んでも、私は何かを失って、傷つく。
17歳の私にとっての「正解」は、一体どこにあるのだろう。
翌朝、重い瞼のまま登校した私は、教室の自分の席に座ってからも、ずっと机に突っ伏していた。
一晩中悩んでも、答えなんて出るはずがなかった。
「よ。寝不足か?」
頭上から降ってきた声に、私は弾かれたように顔を上げた。
前の席の椅子を反対向きにして、漣が座っていた。彼の端正な顔が、すぐ近くにある。
「せ、瀬尾くん……なんで私のクラスに」
「これ、渡しにきた」
漣は周りの目を気にする様子もなく、私の机の上に、一枚のプリントをコンと置いた。
そこには大きな文字で、こう書かれていた。
――『秋の文化祭・有志ステージ出演申込書』
「エントリーの締め切り、今日の放課後なんだわ」
漣は悪戯っぽく笑いながら、私を真っ直ぐに見つめた。
「名前、もう俺の分は書いた。あとはお前だけ。……一緒に、次のステップに行こうぜ、遥」
親の用意してくれた「確実な未来」と、漣が突きつけてきた「不確実な、だけど最高に輝く未来」。
私の17歳の選択が、いよいよカウントダウンを始めていた。
早く帰らなきゃいけない。カバンに教科書を詰め込み、進路調査票を奥深くに押し込む。
あんな風に私の心を見透かしてくる漣の傍にいたら、私はきっと、自分に懸けているブレーキを壊されてしまう。安全な大学に行って、堅実に生きる。それが私の、17歳の正解なんだから。
「よし、帰ろう。まっすぐ帰る」
声に出して自分に言い聞かせ、教室のドアを開けた。
下校の生徒たちで賑わう廊下を、私は早足で歩く。階段を下り、昇降口へ向かえば、それで今日の危機は去るはずだった。
――放課後、また音楽室で待ってる。俺のベース、お前の歌に合わせて準備しとくから。
脳裏に、今朝の漣の言葉がリフレインする。
あの真っ直ぐな瞳。私の歌詞を、まるで宝物みたいに扱っていた大きな手。
「……っ」
気がつけば、私は階段の前で立ち尽くしていた。
昇降口へ続く下り階段ではない。特別棟の、音楽室へと続く上り階段の前に。
(バカじゃないの、私。行くわけないじゃん。時間の無駄だし、プロになれるわけでもないのに)
頭の中の冷徹な理性が、必死に警報を鳴らしている。
なのに、私の足は、まるで目に見えない糸で引っ張られるように、一歩、また一歩と階段を上り始めていた。
心臓が耳の奥でうるさく脈打つ。
長い廊下の突き当たり。放課後の静まり返った学校に、重低音の響きがかすかに届いていた。
――ドゥン、ドゥドゥン、ドゥン……。
地を這うような、だけど確かに心臓を揺さぶる、ベースの音。
それは、私が家で一人で打ち込んだ、あの新曲のベースラインだった。私の作った、拙い、誰にも見せるつもりのなかったメロディが、本物の楽器の音になって呼吸している。
気づいたときには、私は音楽室の重いドアを押し開けていた。
西日の差し込む室内。中央でベースを構えていた漣が、ドアの音に気づいて顔を上げる。
彼は驚いた風でもなく、ただ「やっぱり来たな」と言わんばかりに、悪戯っぽく口元を緩めた。
「遅い。待ちくたびれたぜ、遥」
「……なんで、ベース弾けるの。私、楽譜なんて渡してない」
「今朝、お前のスマホの画面にコード進行が映ってただろ。それと、昨日聴いた耳コピ。これくらい、一発で合わせられなきゃスターは名乗れないからな」
漣は不敵に笑うと、アンプのボリュームを少しだけ上げた。
空気がビリビリと震える。
「さあ、歌えよ、遥。お前の『本気』を、俺の音に乗せてみせろ」
挑発するような、だけどこれ以上ないほど甘い誘惑。
私はカバンを床に落とした。もう、言い訳を探すのはやめだ。安全な未来なんて、今はどうでもいい。
私はスマホの録音スイッチを押し、マイクの代わりに胸の前に両手を握りしめた。
漣のベースが、一際強く、深く唸る。
それに導かれるように、私はゆっくりと口を開いた。
「――っ」
最初の一音が出た瞬間、全身に鳥肌が立った。
いつも自室で、ヘッドホンの狭い世界の中で歌っていた私の声が、漣のベースの重低音と混ざり合い、音楽室の広い空間に爆発するように広がっていく。
楽しい。
頭のてっぺんから爪先まで、痺れるような快感が駆け抜ける。
漣が私を見て、さらに激しくベースを弾く。私の歌声に合わせて、彼の音が細かく踊るように変化していく。言葉なんて交わしていないのに、音だけでお互いの感情がダイレクトにぶつかり合っているのが分かった。
これが、一人じゃない音楽。これが、本物のアンサンブル。
安全なレールの上を走っているだけでは、絶対に味わえなかった、17歳のきらめきがここにある。
私はもう、この熱を知る前の自分には、戻れない。
2, 音楽室のドアを閉めてからも、私の指先はまだ微かに震えていた。
耳の奥で、漣のベースの重低音がずっと残響のように鳴り響いている。信じられないくらい楽しかった。あんなに胸が震えたのは、生まれて初めてだった。
『お前の歌、やっぱり最高。これ、文化祭のステージで絶対にやろうな』
別れ際に見せてくれた、漣の屈託のない笑顔が頭から離れない。
自転車を漕ぐ足取りは信じられないほど軽くて、夕暮れの街並みが、いつもより少しだけ鮮やかに見えた。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、いつもの我が家の匂いがした。
台所から、トントンと小気味よい包丁の音が聞こえてくる。
「あ、遥、お帰り。遅かったじゃない。学校で何かあったの?」
リビングから顔を出したのは、エプロン姿の母親だった。
その穏やかな笑顔を見た瞬間、私の胸の奥で、冷たい風がヒュッと吹き抜けた。学校でのあの熱狂が、まるで遠い国の出来事のように色褪せていく。
「ううん、ちょっと……図書室で調べ物してて」
「そう、お疲れ様。あ、そうだ、遥。リビングの机の上に、お父さんと相談して取り寄せた大学のパンフレット置いてあるから。後で部屋に持っていってね」
母親は鍋に視線を戻しながら、パートのシフトの話をするような軽いトーンで続けた。
「経済学部なら、地元で一番就職に強いんですって。今の時代、女の子もちゃんと資格を取るか、手堅い学部に進まないと将来苦労するからね。お父さんも、あそこの大学なら学費はいくらでも出すって言ってるわよ」
――手堅い学部。将来苦労するから。
その言葉が、私の頭の上から冷水を浴びせかけるように突き刺さる。
親の言うことは、いつだって正しい。私を心配して、私が傷つかないように、一番安全な「正解のルート」を用意してくれている。
音楽なんて博打みたいなものに、親の大切なお金や、自分の将来を賭けるなんて、絶対に間違っている。
「……うん、ありがとう。後で見てみる」
私は絞り出すようにそう言って、リビングの机から厚みのあるパンフレットを手に取った。表紙には『輝く未来への確かな一歩』と書かれている。
自分の部屋に入り、ベッドにカバンを放り出す。
机に向かってパンフレットを開くけれど、並んでいる文字が全く頭に入ってこない。
スマホが震えた。
画面を見ると、漣からのメッセージが表示されていた。
『さっきの録音、ベースの音量調整して送るわ。マジで何回聴いてもヤバい』
スマホの画面から溢れる「本気の熱」と、机の上に広がる「現実の正解」。
私はスマホを裏返し、机の上に突っ伏した。
安全なレールの上を歩くのが正しい。分かっているのに、一度知ってしまったあのアンサンブルの快感が、私の心をどうしても引き留めて離してくれない。
(どうしたらいいの、私……)
夕闇が迫る部屋の中で、私はどちらの未来も選べないまま、ただ小さく息を吐き出した。
3, 夕食の後、私は部屋にこもり、母から渡された大学のパンフレットを机に広げた。シャープペンシルを握り、推薦入試の要項に目を通す。評定平均、志望理由書、小論文。
一つ一つの文字が、まるで私を安全な檻の中に閉じ込めるための杭のように見えた。
(勉強しなきゃ。次の定期テストで順位を落としたら、推薦枠が危なくなる)
自分に強く言い聞かせ、参考書を開く。
世界史の教科書に書かれた年号をノートに書き写そうとした――その時だった。
『マジで何回聴いてもヤバい』
さっき裏返したスマホの画面が、頭の裏側でチカチカと明滅するような錯覚に襲われる。
一度気になり始めると、もう駄目だった。誘惑に負けてスマホをひっくり返し、漣から送られてきた音声ファイル(mp3)を再生してしまう。
音漏れを気にして、大急ぎでイヤホンを耳に押し込んだ。
――ドゥン、ドゥドゥン……。
イヤホンから流れてきたのは、今日の放課後、音楽室で合わせた私たちの音だった。
驚いた。漣はただ音量を調整しただけじゃない。私の歌声が一番きれいに聴こえるように、ベースのトーンを少し落とし、まるでプロがミキシングしたかのように綺麗に仕上げてくれていた。
音の中で、私の声が、私のメロディが、まるで生き物みたいに生き生きと跳ね回っている。
「……あ」
不意に、そのアンサンブルの続きのメロディが、脳内に溢れ出してきた。
世界史のノート。文字を書き連ねるはずの青い罫線の上に、私の指先は勝手にト音記号を描き始めていた。
『堅実な学部に進まないと将来苦労するからね』
リビングでの母の言葉が、脳内でノイズのように激しく割り込んでくる。
頭を振って、イヤホンを耳から引き抜いた。静まり返った部屋。机の上には、世界史の参考書と、大学のパンフレットと、殴り書きされた拙い音符のメモ。
「何やってるんだろう、私……」
涙がじわりと滲んで、ノートの文字が滲んだ。
音楽を本気でやりたい。あの音が忘れられない。でも、そんなのただの現実逃避だ。絶対に稼げないし、失敗したら「あのとき大人しく大学に行っておけばよかった」って一生後悔するに決まっている。
どっちを選んでも、私は何かを失って、傷つく。
17歳の私にとっての「正解」は、一体どこにあるのだろう。
翌朝、重い瞼のまま登校した私は、教室の自分の席に座ってからも、ずっと机に突っ伏していた。
一晩中悩んでも、答えなんて出るはずがなかった。
「よ。寝不足か?」
頭上から降ってきた声に、私は弾かれたように顔を上げた。
前の席の椅子を反対向きにして、漣が座っていた。彼の端正な顔が、すぐ近くにある。
「せ、瀬尾くん……なんで私のクラスに」
「これ、渡しにきた」
漣は周りの目を気にする様子もなく、私の机の上に、一枚のプリントをコンと置いた。
そこには大きな文字で、こう書かれていた。
――『秋の文化祭・有志ステージ出演申込書』
「エントリーの締め切り、今日の放課後なんだわ」
漣は悪戯っぽく笑いながら、私を真っ直ぐに見つめた。
「名前、もう俺の分は書いた。あとはお前だけ。……一緒に、次のステップに行こうぜ、遥」
親の用意してくれた「確実な未来」と、漣が突きつけてきた「不確実な、だけど最高に輝く未来」。
私の17歳の選択が、いよいよカウントダウンを始めていた。



