1,床に散らばった、真っ白な藁半紙の破片。
自分の未来の『正解』だったはずの文字列が、無残に引き裂かれて埃っぽい床に転がっているのを、遥はただ呆然と見つめることしかできなかった。
「……な、に、するのよ……っ!」
ようやく喉の奥から絞り出した声は、怒りと困惑でひどく震えていた。
手首を掴む漣の指先は、驚くほど熱い。まるで、アンプから直に伝わる電気信号がそのまま彼の体温になっているかのようだった。その熱さに火傷しそうな恐怖を覚えて、遥は必死に手を振り払った。
「あんた、狂ってるんじゃないの!? それ、私がどれだけの思いで書いたと思って――」
「どれだけの思い? ハッ、嘘つけよ」
漣は冷めた笑みを浮かべ、机に立てかけたギターのネックにぽんと手を置いた。
「そんな死んだ魚の目をして書いた紙きれが、お前の本気なわけねぇだろ。経済学部? お前、数字の計算がしたくてこの部屋の扉をあんな勢いでぶち開けたのか?」
「それは……っ」
「お前の耳は、さっき俺のコード進行が『4度マイナーに落ちた』って言った。不協和音ギリギリだって見抜いた。ただの堅実なガリ勉高校生が、爆音で鳴らしたギターの一瞬のコード進行を、そんな風に正確に言語化できるかよ」
漣の言葉は、鋭い刃物のように遥の隠したかった本質を正確に抉り出してくる。 逃げ場をなくした遥は、ただ唇を噛み締めて彼を睨み返すことしかできなかった。旧音楽室の窓ガラスを、外の激しい雨音が激しく叩き続けている。その冷たい音が、部屋の中の異常な熱気と対比されて、妙に耳に障った。
「お前、音楽やってただろ。それも、ただ楽器を習ってたってレベルじゃねぇ。自分で『作って』た側の人間だ」
確信に満ちた漣の瞳が、遥を真っ直ぐに射抜く。
なぜ、初対面の、しかもこんなはみ出し者の不良少年に、すべてを見透かされてしまうのだろう。母親ですら気づかなかった、遥が心の奥底に封印したはずのドロドロとした未練を、彼は素手で掴み上げようとしていた。
「……関係ないでしょ。私はもう、やめたの。才能がなかったから、自分で見切りをつけたのよ」
「才能があるかないか決めるのは、お前の頭じゃなくて、その耳だろ」
漣は顎で、音楽室の隅に置かれた古びたアップライトピアノを指し示した。
学校の備品であるそのピアノは、長年調律もされず、天板には薄っすらと埃が積もっている。
「一曲、合わせてみろ。それで本当につまんねぇ音しか鳴らせないなら、俺がお前の進路票を百枚でも千枚でもコピーして、担任のところに土下座して持ってってやるよ」
「な、によそれ……横暴すぎる……」
「いいから来いよ、元・音楽家」
漣はそれだけ言うと、再びギターのボリュームノブを回し、歪んだ音を軽く鳴らした。
挑発的なその態度に、遥の胸の奥で、1年間必死に抑え込んできた「プライド」が、小さな火花を散らした。
量産型、才能がない、受験勉強をしろ――あのネットの書き込みが頭の中でフラッシュバックする。ここで逃げたら、私は本当に、あの言葉通りの無価値な人間になってしまう。
「……不協和音になっても、知らないから」
遥は呪うように呟き、吸い寄せられるようにピアノの椅子に腰掛けた。
何ヶ月ぶりだろう、鍵盤の前に座るのは。
おそるおそる、黒ずんだ白鍵に指を載せる。指先から伝わる鍵盤の冷たさが、体内の熱を急速に奪っていくようで、急に怖気づきそうになった。
「キーはAマイナー。テンポはこれくらいだ」
漣が、足でトントンと床を鳴らしながら、ギターの低音弦を静かに刻み始めた。
ズン、ズン、ズン、ズン――。
雨の音に混ざる、重く規則正しいリズム。
遥は深く息を吸い込み、固まった指を震わせながら、最初のコードを押し込んだ。
――ジャン。
調律の狂った古いピアノからは、少し平べったくて、くすんだ音が鳴った。
だけど、その音が漣のギターの低音と重なった瞬間、不思議な化学反応が起きた。冷たく死んでいたはずの音楽室の空気が、一瞬で「生きた音の空間」へと変貌したのだ。
「いいじゃん。そのまま付いてこいよ」
漣が不敵に笑い、ギターの旋律を激しく動かし始める。
彼の弾くメロディは、お世辞にも丁寧とは言えなかった。荒削りで、ピッチも危うい。けれど、そこには「俺はここにいる」という、強烈な生の叫びが込められていた。
遥の指が、無意識のうちに次のコードを探し、動いていた。
頭で考えるより先に、身体が、耳が、漣の音に最も美しく絡み合う『正解の音』を選択していく。
マイナーの暗い旋律の中に、遥はあえて、昨日漣が鳴らした『4度マイナー(Dm)』のコードをぶち込んだ。
――ゴォン、と重く、切ない和音が響く。
「っ……!」
漣のギターが一瞬、驚いたように跳ねた。
だが、彼はすぐに歓喜したような笑声を漏らし、その切ない和音の波頭に飛び乗るようにして、さらに高く、さらに鋭い高音のチョーキングを炸裂させた。
キィィィンと鳴り響くギターの悲鳴が、ピアノの重低音と完全に融合する。
それは、教科書に載っているような綺麗な音楽ではなかった。
お互いのエゴと、叫びと、やり場のない衝動がぶつかり合う、歪んだ不協和音。
なのに――どうしてこんなにも、胸が苦しいほどに気持ちがいいのだろう。
遥の視界が、じわじわと涙で滲んでいく。
鍵盤を叩く指が止まらない。1年間、誰にも見せなかった本当の自分が、このボロボロのピアノを通じて、漣のギターを通じて、今、確かに世界に向かって呼吸をしている。
(私は、まだ、弾ける。私は、ここにいる……!)
二人の即興のセッションは、外の雷鳴と混ざり合いながら、夕闇の音楽室をどこまでも、どこまでも狂おしく満たしていった。
2,――静寂が、一瞬にして音楽室を支配した。
最後の和音が空気中に溶けて消えた瞬間、遥の耳に残ったのは、ハウリングの微かな残響と、自分の激しい呼吸の音だけだった。 心臓が肋骨の内側を激しく叩き続けている。鍵盤の上に置いたままの指先が、自分のものとは思えないほど熱く、小さく震えていた。
雨音。ガラス窓を叩く不規則な水の音が、再び部屋の主役に躍り出る。さっきまであんなに激しくぶつかり合っていたギターとピアノの音が嘘のように、世界は急にその色彩を失い、灰色の静けさへと戻っていった。
「……はぁ、っ……、ふぅ……」
遥は鍵盤を見つめたまま、乱れた息を整えようと必死に空気を吸い込んだ。
涙で滲んだ視界の中で、古い白鍵と黒鍵の境界線がぼやけて見える。弾いてしまった。音楽を捨てると誓ったはずなのに、このはみ出し者の少年の音に誘われるまま、自分の一番醜くて、一番美しい本音を鍵盤にぶつけてしまった。
ガサリ、と後ろで音がした。
振り返ると、漣がアンプの電源スイッチを足でパチリと切るところだった。赤いインジケーターの光が消え、アンプが『ブツッ』と小さな電子の断末魔を上げて眠りにつく。
漣はギターをそっと壁に立てかけると、ポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと窓の方へと歩いていった。
「お前、やっぱりただのガリ勉じゃねぇな」
漣の背中越しに、低く、どこかかすれた声が届く。
彼はガラス窓に額を押し付けるようにして、外の土砂降りの景色を見つめていた。その横顔は、さっきまで狂ったようにギターをかき鳴らしていた猛獣のような危うさは消え失せ、ひどく大人びて、同時にひどく孤独そうに見えた。
「4度マイナー。……あれをあのタイミングで入れてくるなんて、普通の高校生にはできねぇよ。お前、どんな生き方したら、あんなに胸が痛くなるようなコードが弾けるんだ?」
「……ただの、嫌がらせよ」
遥は椅子の背もたれに寄りかかり、自分の熱を持った手のひらを見つめた。
「あんたのギターが、あんまりにも乱暴ではみ出しすぎているから。少しは枠の中に引き戻してやろうと思って、意地悪で入れただけ。……それなのに、あんたがさらにその上を飛び越えていくから、わけが分からなくなった」
「ハッ、そりゃ褒め言葉として受け取っておくわ」
漣は小さく笑った。だが、その笑い声にはいつもの挑発的な色はなく、どこか自嘲的な響きが含まれていた。
「俺のギター、汚いだろ。センコーたちにはいつも言われるよ。『お前の弾く音は音楽じゃない。ただの騒音だ』ってさ。軽音部の顧問の奴なんて、俺が部室でアンプのボリュームを上げるたびに、顔を真っ赤にして飛んでくる」
「……汚くは、ないわ」
遥の口から、無意識に言葉が零れ落ちていた。
「ピッチはボロボロだし、チューニングも少し狂ってる。でも、あなたの音には『嘘』がなかった。楽譜の通りに、誰かに褒められるために綺麗に並べられた音なんかより、ずっと……ずっと本物だった」
漣は意外そうに眉を動かし、ゆっくりと遥の方を振り返った。
夕闇の光が彼の黒髪の輪郭を淡く縁取っている。
「本物、か。……お前にそう言われると、なんか救われるな」
漣は窓枠に腰を掛け、長い足をぶらつかせた。
「俺さ、親父がクラシックのピアニストなんだよ。めちゃくちゃ有名な奴」
「え……?」
遥は息を呑んだ。「瀬尾」という名字と、クラシックのピアニスト。頭の中で、いくつかの音楽雑誌の記憶が急速に結びついていく。
「まさか、瀬尾彰一……?」
「あぁ、その大先生だよ。家の中はさ、いつも完璧な『正解』の音しか許されなかった。一音でもミスタッチをすれば、親父の冷たい目が飛んでくる。五線譜の通りに、完璧に、寸分の狂いもなく弾くことだけが正当化される家。俺にとって、クラシックのピアノは息の詰まる拷問でしかなかった」
漣は自分の右手のひらを見つめ、苦笑した。
「だから、ギターを始めた。歪ませて、ノイズを撒き散らして、親父の言う『完璧な五線譜』をズタズタに引き裂いてやるためにさ。でも、どれだけ爆音を鳴らしても、家に戻ればあの息苦しい空気がある。学校に来れば、大人の言う『将来のための正解』を押し付けられる。……なぁ、宮園。お前も同じだろ?」
漣の言葉が、遥の胸の最も柔らかい場所に、そっと触れた。
「あのクシャクシャになった進路票。お前、本当はあんな大学、行きたくねぇんだろ。あそこにお前の『音』は一拍も存在してなかった」
「……私には、才能がないの」
遥は膝の上のスカートを、破れるほどの力でギュッと握りしめた。
「中学のとき、動画サイトに自分で作った曲を投稿してた。世界を変えられるって本気で信じてた。でも、再生数はたったの百二十四。それだけじゃない。コメントで『量産型のメロディ、才能ないから受験勉強しろ』って書かれたの。……母親にも言われたわ。不安定な世界に行かずに、普通の幸せを選びなさいって。私は、これ以上傷つきたくなかった。だから、音楽を捨てて、大人の言う『正解』を選ぼうとしたの。それの何が悪いのよ……っ」
抑えきれなくなった感情が、涙となってポロポロと遥の頬を伝い、床に落ちた。
破られた進路票の紙吹雪が、その涙を吸って静かに滲んでいく。
漣は静かに窓枠から下りると、遥の目の前まで歩いてきて、その場に屈み込んだ。
彼は床に散らばった進路票の破片を、一つずつ丁寧に拾い集め始める。
「量産型って言った奴、どこのどいつだ。耳が腐ってんじゃねぇの」
漣は破片を遥の机の上に置くと、彼女の顔を真っ直ぐに見上げた。
「百万人につまらないって言われても関係ねぇよ。さっきの演奏、俺の心には、間違いなく世界で一番深く刺さった。お前の音は量産型なんかじゃない。俺の歪んだギターに、あんなに綺麗に寄り添って、あんなに鋭い傷をつけてみせたんだ。……才能がないなんて、二度と口にするな」
漣は拾い集めた紙きれを教卓の上に無造作に放り出すと、今度は遥の涙を拭う代わりに、彼女の目の前にゴツゴツとした右手を差し出した。
手のひらや指先には、狂ったように弦を縛り付け、かき鳴らし続けてきた者だけが持つ、硬く黄色いタコがいくつも刻まれている。
「おい、宮園。いや、遥」
漣は、まるで闇の中で唯一の味方を見つけたような、剥き出しの笑みを浮かべた。
「もう一度、はみ出そうぜ。大人の決めた五線譜の外側に、俺たちの本当の正解を書き殴りに行こう。……俺の横で、ピアノを弾け」
遥はその差し出された手を見つめた。
ここに触れたら、もう二度とあの安全な優等生のレールには戻れない。母親の期待を裏切り、先生を失望させ、またいつかあの数字の暴力に殴られる日が来るかもしれない。
だけど――。
「……あんたのギター、本当に調律がめちゃくちゃなんだから」
遥は涙を袖で手荒に拭うと、差し出されたその手を、壊れものを掴むような強さで、ぎゅっと握り返した。
触れた漣の手のひらは、驚くほど熱く、そして硬かった。ギターの弦に痛めつけられてきたその指先の感触が、手のひらを通じて遥の心臓へと直接突き刺さる。それは甘い感情なんかじゃ断じてなかった。檻を壊して外へ飛び出すための、共犯者の血の通った、確かな熱量だった。
私たちが選ぶのは、誰かに用意された綺麗なお手本なんかじゃない。
五線譜からはみ出した、泥だらけの、私たちの正解だ。
外の雷鳴が、二人の静かな契約を証明するように、一瞬だけ旧音楽室を白く、鮮烈に照らし出した。
3,二人の指先が繋いだ熱が、冷めやらないうちに。
ガラガラガラッ――!!
旧音楽室の重い木製の引き戸が、それこそ壊れんばかりの勢いで激しく開け放たれた。
鼓膜に突き刺さる耳障りな突風のような音に、遥の肩がビクリと跳ねる。繋いでいた漣の手のひらが、するりと離れていく。その瞬間の喪失感に胸が締め付けられる暇もなく、入り口から容赦ない大人の怒号が降ってきた。
「瀬尾!! お前、またこんなところで勝手にアンプを鳴らして――ッ!」
立っていたのは、ずぶ濡れの雨傘を握りしめた、遥の担任の男だった。
眼鏡の奥の目を血走らせ、怒りで顔を真っ赤に膨らませている。その視線が、床に散らばった真っ白な藁半紙の破片――遥がさっきまで持っていたはずの、真っ二つに裂かれた進路希望調査票へと落ちた。
「……宮園? お前、どうしてここにいる」
担任の目が、驚愕と、それから明らかな嫌悪の色へと変わる。
「放課後に職員室へ持ってこいと言った進路票が、どうしてそんな風に破れて床に落ちているんだ。……まさか、瀬尾。お前が宮園を脅して破らせたのか!?」
「ハッ、相変わらず想像力が貧困だな、センコー」
漣は少しも怯むことなく、むしろ退屈そうに首の骨を鳴らした。
「俺が破ったんだよ。こんなクソみたいな紙きれ、宮園には必要ねぇからな」
「何だと……っ! お前はいつもそうだ! 自分が学校の落ちこぼれだからと、これから真面目に受験を控えている優秀な生徒を巻き込むな! 宮園、お前もだ。こんな奴の言うことを真に受けてどうする。そいつの父親がどれだけ立派な音楽家だろうが、こいつ自身はただの問題児だ。関わるだけお前の将来の損になる!」
将来の損。落ちこぼれ。
大人の都合の良い言葉が、雨の湿気まじりの空気の中に溢れかえっていく。
遥は何も言えなかった。
いつもの自分なら、ここで「すみません、すぐに拾って職員室へ行きます」と、綺麗に作り込まれた優等生の笑みを浮かべて、この場をやり過ごしていただろう。それが傷つかないための、大人の言う『正解』だったから。
けれど、今の遥の胸の奥は、怒りと、そして激しい拒絶で燃え上がっていた。
さっきの漣のギターを騒音だと切り捨てるこの大人が、私の音楽を量産型だと笑ったネットの書き込みと、全く同じものに見えたのだ。
「宮園、行くぞ。職員室で進路票をもう一度書き直させる。お前の母親からも、しっかりお前の進路については頼まれているんだからな」
担任が、泥で汚れた革靴で一歩、音楽室の中へと踏み込んできた。
その瞬間、遥の呼吸が止まりそうになった。
「――誰が、あんたらの言いなりになるかっての」
不敵な声が、静寂を切り裂いた。
次の瞬間、遥の右視界が大きくブレた。
漣が、遥の手首を再び、さっきよりもずっと強い力で、ガシッと掴んだのだ。
「おい、遥。逃げるぞ」
「え――?」
「瀬尾! お前、何を――!」
「あばよ、センコー! 俺たちの正解は、お前の職員室には置いてねぇんだよ!」
漣はそう叫ぶと、驚く担任の身体の横をすり抜け、遥の手を引いて旧音楽室を飛び出した。
「待て! 止まれ、二人とも!」
後ろから担任の怒鳴り声と、激しい足音が追いかけてくる。
だけど、遥の耳にはもう、その声は届かなかった。
灰色の、薄暗い放課後の廊下を、二人のローファーの音が激しく響き渡る。
漣の背中が、目の前を猛スピードで遠ざかっていく。掴まれた手首から伝わる彼の体温だけが、驚くほど鮮明に遥の脳を焦がしていた。
走って、走って、階段を転げ落ちるようにして下りていく。
もうカバンも、教科書も、ぐちゃぐちゃになった進路票も、すべてあの古い音楽室に置いてきてしまった。今の遥の手元には、何も残っていない。文字通り、からっぽだった。
なのに、どうしてこんなにも、心が軽くて、笑いだしたくなるほど自由なのだろう。
一階の昇降口を通り抜け、二人はそのまま、土砂降りの雨が激しく叩きつける外の世界へと飛び出した。
「冷たっ……!」
一瞬にして、大粒の雨が遥の制服のシャツを濡らし、髪の毛を額に張り付かせる。
視界が真っ白に煙るほどの豪雨の中、漣は一度も足を止めることなく、学校の校門を突き抜けて、夕闇の住宅街へと遥を引っ張っていった。
雨水がローファーの中に浸入し、足元が重くなる。だけど、繋いだ手のひらの熱だけは、雨の冷たさに負けることなく、ずっとパチパチと火花を散らし続けていた。
振り返ると、もう追ってくる担任の姿は見えなかった。
ただ、遠くで学校の白い校舎が、雨のカーテンの向こうにぼんやりと霞んでいるだけだった。
「ははっ、あいつの顔、見たかよ!? 傑作だな!」
走りながら、漣が雨に濡れた顔をくしゃくしゃにして笑った。
その少年のような、けれど信じられないほど自由な笑顔を見た瞬間、遥の胸の奥のダムが、完全に崩壊した。
「ふふっ……、本当に、最悪の、はみ出し者ね……!」
遥も、雨に打たれながら声を上げて笑っていた。
泣きながら走った昨日とは違う。今は、自分の意志で、この最悪で最高な調律の狂ったバディと共に、五線譜の外側へと走り出しているのだ。
雨の叩きつけるアスファルトの上を、二人のずぶ濡れの影が、どこまでも、どこまでも駆けていった。
自分の未来の『正解』だったはずの文字列が、無残に引き裂かれて埃っぽい床に転がっているのを、遥はただ呆然と見つめることしかできなかった。
「……な、に、するのよ……っ!」
ようやく喉の奥から絞り出した声は、怒りと困惑でひどく震えていた。
手首を掴む漣の指先は、驚くほど熱い。まるで、アンプから直に伝わる電気信号がそのまま彼の体温になっているかのようだった。その熱さに火傷しそうな恐怖を覚えて、遥は必死に手を振り払った。
「あんた、狂ってるんじゃないの!? それ、私がどれだけの思いで書いたと思って――」
「どれだけの思い? ハッ、嘘つけよ」
漣は冷めた笑みを浮かべ、机に立てかけたギターのネックにぽんと手を置いた。
「そんな死んだ魚の目をして書いた紙きれが、お前の本気なわけねぇだろ。経済学部? お前、数字の計算がしたくてこの部屋の扉をあんな勢いでぶち開けたのか?」
「それは……っ」
「お前の耳は、さっき俺のコード進行が『4度マイナーに落ちた』って言った。不協和音ギリギリだって見抜いた。ただの堅実なガリ勉高校生が、爆音で鳴らしたギターの一瞬のコード進行を、そんな風に正確に言語化できるかよ」
漣の言葉は、鋭い刃物のように遥の隠したかった本質を正確に抉り出してくる。 逃げ場をなくした遥は、ただ唇を噛み締めて彼を睨み返すことしかできなかった。旧音楽室の窓ガラスを、外の激しい雨音が激しく叩き続けている。その冷たい音が、部屋の中の異常な熱気と対比されて、妙に耳に障った。
「お前、音楽やってただろ。それも、ただ楽器を習ってたってレベルじゃねぇ。自分で『作って』た側の人間だ」
確信に満ちた漣の瞳が、遥を真っ直ぐに射抜く。
なぜ、初対面の、しかもこんなはみ出し者の不良少年に、すべてを見透かされてしまうのだろう。母親ですら気づかなかった、遥が心の奥底に封印したはずのドロドロとした未練を、彼は素手で掴み上げようとしていた。
「……関係ないでしょ。私はもう、やめたの。才能がなかったから、自分で見切りをつけたのよ」
「才能があるかないか決めるのは、お前の頭じゃなくて、その耳だろ」
漣は顎で、音楽室の隅に置かれた古びたアップライトピアノを指し示した。
学校の備品であるそのピアノは、長年調律もされず、天板には薄っすらと埃が積もっている。
「一曲、合わせてみろ。それで本当につまんねぇ音しか鳴らせないなら、俺がお前の進路票を百枚でも千枚でもコピーして、担任のところに土下座して持ってってやるよ」
「な、によそれ……横暴すぎる……」
「いいから来いよ、元・音楽家」
漣はそれだけ言うと、再びギターのボリュームノブを回し、歪んだ音を軽く鳴らした。
挑発的なその態度に、遥の胸の奥で、1年間必死に抑え込んできた「プライド」が、小さな火花を散らした。
量産型、才能がない、受験勉強をしろ――あのネットの書き込みが頭の中でフラッシュバックする。ここで逃げたら、私は本当に、あの言葉通りの無価値な人間になってしまう。
「……不協和音になっても、知らないから」
遥は呪うように呟き、吸い寄せられるようにピアノの椅子に腰掛けた。
何ヶ月ぶりだろう、鍵盤の前に座るのは。
おそるおそる、黒ずんだ白鍵に指を載せる。指先から伝わる鍵盤の冷たさが、体内の熱を急速に奪っていくようで、急に怖気づきそうになった。
「キーはAマイナー。テンポはこれくらいだ」
漣が、足でトントンと床を鳴らしながら、ギターの低音弦を静かに刻み始めた。
ズン、ズン、ズン、ズン――。
雨の音に混ざる、重く規則正しいリズム。
遥は深く息を吸い込み、固まった指を震わせながら、最初のコードを押し込んだ。
――ジャン。
調律の狂った古いピアノからは、少し平べったくて、くすんだ音が鳴った。
だけど、その音が漣のギターの低音と重なった瞬間、不思議な化学反応が起きた。冷たく死んでいたはずの音楽室の空気が、一瞬で「生きた音の空間」へと変貌したのだ。
「いいじゃん。そのまま付いてこいよ」
漣が不敵に笑い、ギターの旋律を激しく動かし始める。
彼の弾くメロディは、お世辞にも丁寧とは言えなかった。荒削りで、ピッチも危うい。けれど、そこには「俺はここにいる」という、強烈な生の叫びが込められていた。
遥の指が、無意識のうちに次のコードを探し、動いていた。
頭で考えるより先に、身体が、耳が、漣の音に最も美しく絡み合う『正解の音』を選択していく。
マイナーの暗い旋律の中に、遥はあえて、昨日漣が鳴らした『4度マイナー(Dm)』のコードをぶち込んだ。
――ゴォン、と重く、切ない和音が響く。
「っ……!」
漣のギターが一瞬、驚いたように跳ねた。
だが、彼はすぐに歓喜したような笑声を漏らし、その切ない和音の波頭に飛び乗るようにして、さらに高く、さらに鋭い高音のチョーキングを炸裂させた。
キィィィンと鳴り響くギターの悲鳴が、ピアノの重低音と完全に融合する。
それは、教科書に載っているような綺麗な音楽ではなかった。
お互いのエゴと、叫びと、やり場のない衝動がぶつかり合う、歪んだ不協和音。
なのに――どうしてこんなにも、胸が苦しいほどに気持ちがいいのだろう。
遥の視界が、じわじわと涙で滲んでいく。
鍵盤を叩く指が止まらない。1年間、誰にも見せなかった本当の自分が、このボロボロのピアノを通じて、漣のギターを通じて、今、確かに世界に向かって呼吸をしている。
(私は、まだ、弾ける。私は、ここにいる……!)
二人の即興のセッションは、外の雷鳴と混ざり合いながら、夕闇の音楽室をどこまでも、どこまでも狂おしく満たしていった。
2,――静寂が、一瞬にして音楽室を支配した。
最後の和音が空気中に溶けて消えた瞬間、遥の耳に残ったのは、ハウリングの微かな残響と、自分の激しい呼吸の音だけだった。 心臓が肋骨の内側を激しく叩き続けている。鍵盤の上に置いたままの指先が、自分のものとは思えないほど熱く、小さく震えていた。
雨音。ガラス窓を叩く不規則な水の音が、再び部屋の主役に躍り出る。さっきまであんなに激しくぶつかり合っていたギターとピアノの音が嘘のように、世界は急にその色彩を失い、灰色の静けさへと戻っていった。
「……はぁ、っ……、ふぅ……」
遥は鍵盤を見つめたまま、乱れた息を整えようと必死に空気を吸い込んだ。
涙で滲んだ視界の中で、古い白鍵と黒鍵の境界線がぼやけて見える。弾いてしまった。音楽を捨てると誓ったはずなのに、このはみ出し者の少年の音に誘われるまま、自分の一番醜くて、一番美しい本音を鍵盤にぶつけてしまった。
ガサリ、と後ろで音がした。
振り返ると、漣がアンプの電源スイッチを足でパチリと切るところだった。赤いインジケーターの光が消え、アンプが『ブツッ』と小さな電子の断末魔を上げて眠りにつく。
漣はギターをそっと壁に立てかけると、ポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと窓の方へと歩いていった。
「お前、やっぱりただのガリ勉じゃねぇな」
漣の背中越しに、低く、どこかかすれた声が届く。
彼はガラス窓に額を押し付けるようにして、外の土砂降りの景色を見つめていた。その横顔は、さっきまで狂ったようにギターをかき鳴らしていた猛獣のような危うさは消え失せ、ひどく大人びて、同時にひどく孤独そうに見えた。
「4度マイナー。……あれをあのタイミングで入れてくるなんて、普通の高校生にはできねぇよ。お前、どんな生き方したら、あんなに胸が痛くなるようなコードが弾けるんだ?」
「……ただの、嫌がらせよ」
遥は椅子の背もたれに寄りかかり、自分の熱を持った手のひらを見つめた。
「あんたのギターが、あんまりにも乱暴ではみ出しすぎているから。少しは枠の中に引き戻してやろうと思って、意地悪で入れただけ。……それなのに、あんたがさらにその上を飛び越えていくから、わけが分からなくなった」
「ハッ、そりゃ褒め言葉として受け取っておくわ」
漣は小さく笑った。だが、その笑い声にはいつもの挑発的な色はなく、どこか自嘲的な響きが含まれていた。
「俺のギター、汚いだろ。センコーたちにはいつも言われるよ。『お前の弾く音は音楽じゃない。ただの騒音だ』ってさ。軽音部の顧問の奴なんて、俺が部室でアンプのボリュームを上げるたびに、顔を真っ赤にして飛んでくる」
「……汚くは、ないわ」
遥の口から、無意識に言葉が零れ落ちていた。
「ピッチはボロボロだし、チューニングも少し狂ってる。でも、あなたの音には『嘘』がなかった。楽譜の通りに、誰かに褒められるために綺麗に並べられた音なんかより、ずっと……ずっと本物だった」
漣は意外そうに眉を動かし、ゆっくりと遥の方を振り返った。
夕闇の光が彼の黒髪の輪郭を淡く縁取っている。
「本物、か。……お前にそう言われると、なんか救われるな」
漣は窓枠に腰を掛け、長い足をぶらつかせた。
「俺さ、親父がクラシックのピアニストなんだよ。めちゃくちゃ有名な奴」
「え……?」
遥は息を呑んだ。「瀬尾」という名字と、クラシックのピアニスト。頭の中で、いくつかの音楽雑誌の記憶が急速に結びついていく。
「まさか、瀬尾彰一……?」
「あぁ、その大先生だよ。家の中はさ、いつも完璧な『正解』の音しか許されなかった。一音でもミスタッチをすれば、親父の冷たい目が飛んでくる。五線譜の通りに、完璧に、寸分の狂いもなく弾くことだけが正当化される家。俺にとって、クラシックのピアノは息の詰まる拷問でしかなかった」
漣は自分の右手のひらを見つめ、苦笑した。
「だから、ギターを始めた。歪ませて、ノイズを撒き散らして、親父の言う『完璧な五線譜』をズタズタに引き裂いてやるためにさ。でも、どれだけ爆音を鳴らしても、家に戻ればあの息苦しい空気がある。学校に来れば、大人の言う『将来のための正解』を押し付けられる。……なぁ、宮園。お前も同じだろ?」
漣の言葉が、遥の胸の最も柔らかい場所に、そっと触れた。
「あのクシャクシャになった進路票。お前、本当はあんな大学、行きたくねぇんだろ。あそこにお前の『音』は一拍も存在してなかった」
「……私には、才能がないの」
遥は膝の上のスカートを、破れるほどの力でギュッと握りしめた。
「中学のとき、動画サイトに自分で作った曲を投稿してた。世界を変えられるって本気で信じてた。でも、再生数はたったの百二十四。それだけじゃない。コメントで『量産型のメロディ、才能ないから受験勉強しろ』って書かれたの。……母親にも言われたわ。不安定な世界に行かずに、普通の幸せを選びなさいって。私は、これ以上傷つきたくなかった。だから、音楽を捨てて、大人の言う『正解』を選ぼうとしたの。それの何が悪いのよ……っ」
抑えきれなくなった感情が、涙となってポロポロと遥の頬を伝い、床に落ちた。
破られた進路票の紙吹雪が、その涙を吸って静かに滲んでいく。
漣は静かに窓枠から下りると、遥の目の前まで歩いてきて、その場に屈み込んだ。
彼は床に散らばった進路票の破片を、一つずつ丁寧に拾い集め始める。
「量産型って言った奴、どこのどいつだ。耳が腐ってんじゃねぇの」
漣は破片を遥の机の上に置くと、彼女の顔を真っ直ぐに見上げた。
「百万人につまらないって言われても関係ねぇよ。さっきの演奏、俺の心には、間違いなく世界で一番深く刺さった。お前の音は量産型なんかじゃない。俺の歪んだギターに、あんなに綺麗に寄り添って、あんなに鋭い傷をつけてみせたんだ。……才能がないなんて、二度と口にするな」
漣は拾い集めた紙きれを教卓の上に無造作に放り出すと、今度は遥の涙を拭う代わりに、彼女の目の前にゴツゴツとした右手を差し出した。
手のひらや指先には、狂ったように弦を縛り付け、かき鳴らし続けてきた者だけが持つ、硬く黄色いタコがいくつも刻まれている。
「おい、宮園。いや、遥」
漣は、まるで闇の中で唯一の味方を見つけたような、剥き出しの笑みを浮かべた。
「もう一度、はみ出そうぜ。大人の決めた五線譜の外側に、俺たちの本当の正解を書き殴りに行こう。……俺の横で、ピアノを弾け」
遥はその差し出された手を見つめた。
ここに触れたら、もう二度とあの安全な優等生のレールには戻れない。母親の期待を裏切り、先生を失望させ、またいつかあの数字の暴力に殴られる日が来るかもしれない。
だけど――。
「……あんたのギター、本当に調律がめちゃくちゃなんだから」
遥は涙を袖で手荒に拭うと、差し出されたその手を、壊れものを掴むような強さで、ぎゅっと握り返した。
触れた漣の手のひらは、驚くほど熱く、そして硬かった。ギターの弦に痛めつけられてきたその指先の感触が、手のひらを通じて遥の心臓へと直接突き刺さる。それは甘い感情なんかじゃ断じてなかった。檻を壊して外へ飛び出すための、共犯者の血の通った、確かな熱量だった。
私たちが選ぶのは、誰かに用意された綺麗なお手本なんかじゃない。
五線譜からはみ出した、泥だらけの、私たちの正解だ。
外の雷鳴が、二人の静かな契約を証明するように、一瞬だけ旧音楽室を白く、鮮烈に照らし出した。
3,二人の指先が繋いだ熱が、冷めやらないうちに。
ガラガラガラッ――!!
旧音楽室の重い木製の引き戸が、それこそ壊れんばかりの勢いで激しく開け放たれた。
鼓膜に突き刺さる耳障りな突風のような音に、遥の肩がビクリと跳ねる。繋いでいた漣の手のひらが、するりと離れていく。その瞬間の喪失感に胸が締め付けられる暇もなく、入り口から容赦ない大人の怒号が降ってきた。
「瀬尾!! お前、またこんなところで勝手にアンプを鳴らして――ッ!」
立っていたのは、ずぶ濡れの雨傘を握りしめた、遥の担任の男だった。
眼鏡の奥の目を血走らせ、怒りで顔を真っ赤に膨らませている。その視線が、床に散らばった真っ白な藁半紙の破片――遥がさっきまで持っていたはずの、真っ二つに裂かれた進路希望調査票へと落ちた。
「……宮園? お前、どうしてここにいる」
担任の目が、驚愕と、それから明らかな嫌悪の色へと変わる。
「放課後に職員室へ持ってこいと言った進路票が、どうしてそんな風に破れて床に落ちているんだ。……まさか、瀬尾。お前が宮園を脅して破らせたのか!?」
「ハッ、相変わらず想像力が貧困だな、センコー」
漣は少しも怯むことなく、むしろ退屈そうに首の骨を鳴らした。
「俺が破ったんだよ。こんなクソみたいな紙きれ、宮園には必要ねぇからな」
「何だと……っ! お前はいつもそうだ! 自分が学校の落ちこぼれだからと、これから真面目に受験を控えている優秀な生徒を巻き込むな! 宮園、お前もだ。こんな奴の言うことを真に受けてどうする。そいつの父親がどれだけ立派な音楽家だろうが、こいつ自身はただの問題児だ。関わるだけお前の将来の損になる!」
将来の損。落ちこぼれ。
大人の都合の良い言葉が、雨の湿気まじりの空気の中に溢れかえっていく。
遥は何も言えなかった。
いつもの自分なら、ここで「すみません、すぐに拾って職員室へ行きます」と、綺麗に作り込まれた優等生の笑みを浮かべて、この場をやり過ごしていただろう。それが傷つかないための、大人の言う『正解』だったから。
けれど、今の遥の胸の奥は、怒りと、そして激しい拒絶で燃え上がっていた。
さっきの漣のギターを騒音だと切り捨てるこの大人が、私の音楽を量産型だと笑ったネットの書き込みと、全く同じものに見えたのだ。
「宮園、行くぞ。職員室で進路票をもう一度書き直させる。お前の母親からも、しっかりお前の進路については頼まれているんだからな」
担任が、泥で汚れた革靴で一歩、音楽室の中へと踏み込んできた。
その瞬間、遥の呼吸が止まりそうになった。
「――誰が、あんたらの言いなりになるかっての」
不敵な声が、静寂を切り裂いた。
次の瞬間、遥の右視界が大きくブレた。
漣が、遥の手首を再び、さっきよりもずっと強い力で、ガシッと掴んだのだ。
「おい、遥。逃げるぞ」
「え――?」
「瀬尾! お前、何を――!」
「あばよ、センコー! 俺たちの正解は、お前の職員室には置いてねぇんだよ!」
漣はそう叫ぶと、驚く担任の身体の横をすり抜け、遥の手を引いて旧音楽室を飛び出した。
「待て! 止まれ、二人とも!」
後ろから担任の怒鳴り声と、激しい足音が追いかけてくる。
だけど、遥の耳にはもう、その声は届かなかった。
灰色の、薄暗い放課後の廊下を、二人のローファーの音が激しく響き渡る。
漣の背中が、目の前を猛スピードで遠ざかっていく。掴まれた手首から伝わる彼の体温だけが、驚くほど鮮明に遥の脳を焦がしていた。
走って、走って、階段を転げ落ちるようにして下りていく。
もうカバンも、教科書も、ぐちゃぐちゃになった進路票も、すべてあの古い音楽室に置いてきてしまった。今の遥の手元には、何も残っていない。文字通り、からっぽだった。
なのに、どうしてこんなにも、心が軽くて、笑いだしたくなるほど自由なのだろう。
一階の昇降口を通り抜け、二人はそのまま、土砂降りの雨が激しく叩きつける外の世界へと飛び出した。
「冷たっ……!」
一瞬にして、大粒の雨が遥の制服のシャツを濡らし、髪の毛を額に張り付かせる。
視界が真っ白に煙るほどの豪雨の中、漣は一度も足を止めることなく、学校の校門を突き抜けて、夕闇の住宅街へと遥を引っ張っていった。
雨水がローファーの中に浸入し、足元が重くなる。だけど、繋いだ手のひらの熱だけは、雨の冷たさに負けることなく、ずっとパチパチと火花を散らし続けていた。
振り返ると、もう追ってくる担任の姿は見えなかった。
ただ、遠くで学校の白い校舎が、雨のカーテンの向こうにぼんやりと霞んでいるだけだった。
「ははっ、あいつの顔、見たかよ!? 傑作だな!」
走りながら、漣が雨に濡れた顔をくしゃくしゃにして笑った。
その少年のような、けれど信じられないほど自由な笑顔を見た瞬間、遥の胸の奥のダムが、完全に崩壊した。
「ふふっ……、本当に、最悪の、はみ出し者ね……!」
遥も、雨に打たれながら声を上げて笑っていた。
泣きながら走った昨日とは違う。今は、自分の意志で、この最悪で最高な調律の狂ったバディと共に、五線譜の外側へと走り出しているのだ。
雨の叩きつけるアスファルトの上を、二人のずぶ濡れの影が、どこまでも、どこまでも駆けていった。



