1,放課後、午後四時半の教室は、あの日と全く同じように、まるで黄色い琥珀の中に閉じ込められたかのように静まり返っていた。
斜めに差し込む西日が、使い古された木製の机の表面に刻まれた無数の傷や、誰かが消しゴムで落書きを消した跡を白々と浮かび上がらせ、窓から差し込む光の帯の中を、どこからともなく現れた浮遊する埃の粒が、意思を持たない小さな生き物のように頼りなく宙を舞っている。
ガタガタと、遠くの廊下を駆けていく運動部の誰かの足音が響き、そしてコンクリートの壁の向こうへと遠ざかっていく。その賑やかな残響が完全に消え去った後の静寂は、あの日と同じように冷たく、そして重く、遥の剥き出しの肌にまとわりつくようだった。けれど、その見慣れた静寂の中に座る遥の胸の奥は、あの日とは全く違う、沸騰したような本物の熱量で満たされていた。
机の上には、学校独特の、少しざらついた手触りの藁半紙がぽつんと置かれている。
上部には『進路希望調査票(第二次)』と冷淡に印刷され、その下には定規で厳密に引かれた黒い境界線で区切られた四角い枠が、いくつも綺麗に、規則正しく並んでいた。あの日、漣に目の前でビリビリに破り捨てられ、遥が自分の部屋で、泣きながらセロハンテープを使って不器用に繋ぎ合わせた、あのクシャクシャの紙きれだった。
第一志望。第二志望。第三志望。
その寸分の狂いもない罫線を見つめていても、今の遥の目には、それが自分を閉じ込める鉄格子の五線譜にはもう見えなかった。音を閉じ込め、旋律を支配し、決められた枠の中でしか生きることを許さない、強固な檻。かつてはその線の上に、自分の未来の音符をいくらでも並べられると信じていた。けれど今の遥にとって、それは自分を世間一般の「正解」という型にはめるための、息苦しい格子ではなく、自らの手で引きちぎるための、ただの脆い紙きれに過ぎなかった。
右手につまんだシャーペンが、手のひらの熱で微かに汗ばんでいく。
芯を一本出すために親指でノックすると、静寂を切り裂くように『カチリ』と尖った金属音が響いた。その小さな音さえも、遥の耳は無意識のうちに「ベースの音がBに近いな」と脳内で翻訳してしまう。自分の意思とは関係なく働いてしまうこの『絶対音感』という呪いのような能力が作動しても、もう胸の奥を錆びた針で引っ掻かれたような、鈍い痛みが走ることはなかった。自分のこの異常な耳を、呪うのではなく、世界と戦うための最大の武器だと信じられるようになったからだ。
(私は、もう逃げない。傷つくことから逃げるために音楽を捨て、大人の言う安全なレールを歩こうとしていた、あの息の詰まりそうだった日々には、もう二度と戻らない)
遥は深く息を吸い込み、シャーペンの先を紙面に近づけた。
昨日の朝、リビングで母親と正面から向き合い、涙を流して『あなたの選んだ道を胸を張って歩きなさい』と強く抱きしめられたあの体温の暖かさが、今の遥の指先に、決して折れない強固な意志を宿してくれている。母親を裏切り、悲しませてしまったという罪悪感は、今でも遥の胸の奥に小さな澱のように沈んでいる。けれど、その澱を抱えたままでも、自分はもうこの指先を止めることはできないと、遥の耳が、心臓が、確信していた。
第一志望の枠。大人の喜びそうな『○○大学 経済学部 経営学科』の文字列は、もうどこにも無い。遥は白紙のその四角い枠の中に、自らの指で、一画ずつ力強く、自分の本当の未来の言葉を刻み始めた。
『――オルタナティブ・ライト。この4人で音楽の道へ進む』
ただそれだけの文字を書き終えた瞬間、胸の奥のダムが完全に決壊したかのように、これまでにない清々しい風が、遥の心を吹き抜けていった。
2,ガラガラガラッ――!!
突然、教室の重い木製の引き戸が、それこそ壊れんばかりの勢いで激しく開け放たれた。
鼓膜に突き刺さる耳障りな突風のような音に、遥の肩がビクリと跳ねる。けれど、入り口から降ってきたのは、いつもの大人の怒号ではなく、最高に愛おしい戦友たちの、剥き出しの叫びだった。
「おい、遥! 遅いっつーの! メンバー全員、特別棟の古い音楽室で首を長くして待ってんだよ!」
入り口から顔を出したのは、長髪を後ろできつき縛り、ベースを肩に抱えた徹先輩だった。いつも通りの色褪せたバンドTシャツを着た彼の顔には、これまでに見たこともないほど晴れやかな、剥き出しの笑みが浮かんでいた。
「徹さん、声が大きい。……ここは学校。先生にバレる。……宮園さん、早く行こう。ドラムのセッティング、いつでもいける」
その後ろから、無骨にスティックをケースに仕舞いながら、ぶっきらぼうに巧さんが続く。彼の瞳の奥にも、昨日プロのインディーズレーベルからのレコーディングオファーを掴み取った、確かな熱い誇りの光が宿っていた。
「……バカ、待たせる方が悪いんだろ」
低い、どこか眠たげで、だけど驚くほど飄々とした掠れ声が届いた。
廊下の暗闇からゆっくりと歩み出てきたのは、制服のネクタイを乱暴に緩め、ステッカーだらけの黒いギターケースを背負った漣だった。濡れたような黒髪の隙間から覗くその鋭い瞳が、机の上のクシャクシャの進路票と、そこに刻まれた遥の本当の進路の文字を、真っ直ぐに捉えた。
漣はフッと口元を歪めて笑うと、遥の目の前まで歩み寄ってきた。
「ハッ、いいじゃん。お前のその、完璧にはみ出した最高の音階、やっぱり世界で一番好きだわ」
「あんたのその調律の狂った最低のギターがあったから、私は私の本物の音を見つけることができたのよ、私の最高のバディ」
遥は進路票を両手で強く握り締め、3人の顔を見渡して小さく笑ってみせた。
遥は椅子を引いて立ち上がると、その繋ぎ合わされた、枠線を無視して自分の本当の進路を書き殴った進路希望調査票をカバンに詰め、3人と一緒に、静まり返った職員室へと向かって廊下を歩き出した。
「失礼します」
教卓の前に座る担任の男の前に、遥はそのクシャクシャの紙を両手で堂々と差し出した。
担任の男は、眼鏡の奥の目を丸くし、枠線からはみ出した『音楽の道へ進む』という文字を見て顔を真っ赤に膨らませた。
「宮園! お前、あれほど母親とも話し合って堅実な学部を選ぶと――」
「これが私の、私にとってのの正解です」
遥は担任の言葉を笑顔で遮ると、深く、だけどこの1年間で一番美しい姿勢で一礼し、呆然とする教師の目の前から背を向けて、3人の待つ教室の出口へと力強く歩き去っていった。大人の用意した安全なレールを、自分の言葉で完全に拒絶して手渡した、最高のタイトルの完全な回収だった。
3,「あばよ、大人の五線譜! 俺たちのアンコールは、ここから一生鳴り止まねぇんだよ!」
廊下で待っていた漣が叫び、遥の手首を再び、あの放課後の音楽室の時と同じ力強さでガシッと掴んだ。
触れた彼の手のひらは驚くほど熱く、ギターの弦に痛めつけられてきたその指先の感触が、手のひらを通じて遥の心臓へと直接突き刺さる。それは甘い感情なんかじゃ断じてなかった。檻を壊して外へ飛び出し、新しい世界へと戦いに行くための、共犯者の血の通った、絶対的な信頼の熱量だった。
遥は自分のシンセサイザーのケースを両肩に背負い、3人と肩を並べて、まばゆい西日の射す校門へと向かって歩き出した。
学校の中心にある、四方を校舎に囲まれた全面コンクリートの中庭を通り抜ける。あの日、ゲリラライブを仕掛けて全校生徒を熱狂の渦に巻き込んだあの場所。アンプの電源プラグを力任せに引き抜いた大人の理不尽な制止なんて、もう今の4人を縛り付けることはできない。
窓の外から、吹奏楽部が放課後の練習を始める音が微かに風に乗って届いた。パァーというトランペットの、まだピッチの安定しないチューニングの音。それに続いて、木管楽器のたどたどしい音階練習が重なっていく。決して上手な演奏ではない。むしろ、まだ音がひっくり返っているような発展途上の演奏だ。
だけど、その不器用な音が鼓膜を震わせても、今の遥の心臓はもう惨めに高鳴ることはなかった。音楽という刺激に対して、自分の魂の輪郭が、これからの新しい旅路へ向けて心地よく脈打っているのを感じていた。
校門を通り抜け、夕闇の迫る渋谷の街へ、そしてプロの本物の世界へと向かって、4人の影が、どこまでも、どこまでも真っ直ぐに駆けていく。
ネットの冷酷な言葉も、神代玲央の天才的な壁も、もう今の4人を縛り付けることはできない。自分たちの作った音楽が、指先から溢れ出る旋律が、今度は世界中を本当の熱狂で殴り倒すための本当の輝きを放ち始めていた。
私たちが選ぶのは、誰かに用意された綺麗なお手本なんかじゃない。
五線譜からはみ出した、泥だらけの、私たちの、唯一無二の『正解』だ。
遮るもののない美しい青空の向こう側、4人の奏でる新しい不協和音の未来の旋律が、世界全体を激しく揺らしながら、どこまでも、どこまでも、狂おしく響き渡っていった。
斜めに差し込む西日が、使い古された木製の机の表面に刻まれた無数の傷や、誰かが消しゴムで落書きを消した跡を白々と浮かび上がらせ、窓から差し込む光の帯の中を、どこからともなく現れた浮遊する埃の粒が、意思を持たない小さな生き物のように頼りなく宙を舞っている。
ガタガタと、遠くの廊下を駆けていく運動部の誰かの足音が響き、そしてコンクリートの壁の向こうへと遠ざかっていく。その賑やかな残響が完全に消え去った後の静寂は、あの日と同じように冷たく、そして重く、遥の剥き出しの肌にまとわりつくようだった。けれど、その見慣れた静寂の中に座る遥の胸の奥は、あの日とは全く違う、沸騰したような本物の熱量で満たされていた。
机の上には、学校独特の、少しざらついた手触りの藁半紙がぽつんと置かれている。
上部には『進路希望調査票(第二次)』と冷淡に印刷され、その下には定規で厳密に引かれた黒い境界線で区切られた四角い枠が、いくつも綺麗に、規則正しく並んでいた。あの日、漣に目の前でビリビリに破り捨てられ、遥が自分の部屋で、泣きながらセロハンテープを使って不器用に繋ぎ合わせた、あのクシャクシャの紙きれだった。
第一志望。第二志望。第三志望。
その寸分の狂いもない罫線を見つめていても、今の遥の目には、それが自分を閉じ込める鉄格子の五線譜にはもう見えなかった。音を閉じ込め、旋律を支配し、決められた枠の中でしか生きることを許さない、強固な檻。かつてはその線の上に、自分の未来の音符をいくらでも並べられると信じていた。けれど今の遥にとって、それは自分を世間一般の「正解」という型にはめるための、息苦しい格子ではなく、自らの手で引きちぎるための、ただの脆い紙きれに過ぎなかった。
右手につまんだシャーペンが、手のひらの熱で微かに汗ばんでいく。
芯を一本出すために親指でノックすると、静寂を切り裂くように『カチリ』と尖った金属音が響いた。その小さな音さえも、遥の耳は無意識のうちに「ベースの音がBに近いな」と脳内で翻訳してしまう。自分の意思とは関係なく働いてしまうこの『絶対音感』という呪いのような能力が作動しても、もう胸の奥を錆びた針で引っ掻かれたような、鈍い痛みが走ることはなかった。自分のこの異常な耳を、呪うのではなく、世界と戦うための最大の武器だと信じられるようになったからだ。
(私は、もう逃げない。傷つくことから逃げるために音楽を捨て、大人の言う安全なレールを歩こうとしていた、あの息の詰まりそうだった日々には、もう二度と戻らない)
遥は深く息を吸い込み、シャーペンの先を紙面に近づけた。
昨日の朝、リビングで母親と正面から向き合い、涙を流して『あなたの選んだ道を胸を張って歩きなさい』と強く抱きしめられたあの体温の暖かさが、今の遥の指先に、決して折れない強固な意志を宿してくれている。母親を裏切り、悲しませてしまったという罪悪感は、今でも遥の胸の奥に小さな澱のように沈んでいる。けれど、その澱を抱えたままでも、自分はもうこの指先を止めることはできないと、遥の耳が、心臓が、確信していた。
第一志望の枠。大人の喜びそうな『○○大学 経済学部 経営学科』の文字列は、もうどこにも無い。遥は白紙のその四角い枠の中に、自らの指で、一画ずつ力強く、自分の本当の未来の言葉を刻み始めた。
『――オルタナティブ・ライト。この4人で音楽の道へ進む』
ただそれだけの文字を書き終えた瞬間、胸の奥のダムが完全に決壊したかのように、これまでにない清々しい風が、遥の心を吹き抜けていった。
2,ガラガラガラッ――!!
突然、教室の重い木製の引き戸が、それこそ壊れんばかりの勢いで激しく開け放たれた。
鼓膜に突き刺さる耳障りな突風のような音に、遥の肩がビクリと跳ねる。けれど、入り口から降ってきたのは、いつもの大人の怒号ではなく、最高に愛おしい戦友たちの、剥き出しの叫びだった。
「おい、遥! 遅いっつーの! メンバー全員、特別棟の古い音楽室で首を長くして待ってんだよ!」
入り口から顔を出したのは、長髪を後ろできつき縛り、ベースを肩に抱えた徹先輩だった。いつも通りの色褪せたバンドTシャツを着た彼の顔には、これまでに見たこともないほど晴れやかな、剥き出しの笑みが浮かんでいた。
「徹さん、声が大きい。……ここは学校。先生にバレる。……宮園さん、早く行こう。ドラムのセッティング、いつでもいける」
その後ろから、無骨にスティックをケースに仕舞いながら、ぶっきらぼうに巧さんが続く。彼の瞳の奥にも、昨日プロのインディーズレーベルからのレコーディングオファーを掴み取った、確かな熱い誇りの光が宿っていた。
「……バカ、待たせる方が悪いんだろ」
低い、どこか眠たげで、だけど驚くほど飄々とした掠れ声が届いた。
廊下の暗闇からゆっくりと歩み出てきたのは、制服のネクタイを乱暴に緩め、ステッカーだらけの黒いギターケースを背負った漣だった。濡れたような黒髪の隙間から覗くその鋭い瞳が、机の上のクシャクシャの進路票と、そこに刻まれた遥の本当の進路の文字を、真っ直ぐに捉えた。
漣はフッと口元を歪めて笑うと、遥の目の前まで歩み寄ってきた。
「ハッ、いいじゃん。お前のその、完璧にはみ出した最高の音階、やっぱり世界で一番好きだわ」
「あんたのその調律の狂った最低のギターがあったから、私は私の本物の音を見つけることができたのよ、私の最高のバディ」
遥は進路票を両手で強く握り締め、3人の顔を見渡して小さく笑ってみせた。
遥は椅子を引いて立ち上がると、その繋ぎ合わされた、枠線を無視して自分の本当の進路を書き殴った進路希望調査票をカバンに詰め、3人と一緒に、静まり返った職員室へと向かって廊下を歩き出した。
「失礼します」
教卓の前に座る担任の男の前に、遥はそのクシャクシャの紙を両手で堂々と差し出した。
担任の男は、眼鏡の奥の目を丸くし、枠線からはみ出した『音楽の道へ進む』という文字を見て顔を真っ赤に膨らませた。
「宮園! お前、あれほど母親とも話し合って堅実な学部を選ぶと――」
「これが私の、私にとってのの正解です」
遥は担任の言葉を笑顔で遮ると、深く、だけどこの1年間で一番美しい姿勢で一礼し、呆然とする教師の目の前から背を向けて、3人の待つ教室の出口へと力強く歩き去っていった。大人の用意した安全なレールを、自分の言葉で完全に拒絶して手渡した、最高のタイトルの完全な回収だった。
3,「あばよ、大人の五線譜! 俺たちのアンコールは、ここから一生鳴り止まねぇんだよ!」
廊下で待っていた漣が叫び、遥の手首を再び、あの放課後の音楽室の時と同じ力強さでガシッと掴んだ。
触れた彼の手のひらは驚くほど熱く、ギターの弦に痛めつけられてきたその指先の感触が、手のひらを通じて遥の心臓へと直接突き刺さる。それは甘い感情なんかじゃ断じてなかった。檻を壊して外へ飛び出し、新しい世界へと戦いに行くための、共犯者の血の通った、絶対的な信頼の熱量だった。
遥は自分のシンセサイザーのケースを両肩に背負い、3人と肩を並べて、まばゆい西日の射す校門へと向かって歩き出した。
学校の中心にある、四方を校舎に囲まれた全面コンクリートの中庭を通り抜ける。あの日、ゲリラライブを仕掛けて全校生徒を熱狂の渦に巻き込んだあの場所。アンプの電源プラグを力任せに引き抜いた大人の理不尽な制止なんて、もう今の4人を縛り付けることはできない。
窓の外から、吹奏楽部が放課後の練習を始める音が微かに風に乗って届いた。パァーというトランペットの、まだピッチの安定しないチューニングの音。それに続いて、木管楽器のたどたどしい音階練習が重なっていく。決して上手な演奏ではない。むしろ、まだ音がひっくり返っているような発展途上の演奏だ。
だけど、その不器用な音が鼓膜を震わせても、今の遥の心臓はもう惨めに高鳴ることはなかった。音楽という刺激に対して、自分の魂の輪郭が、これからの新しい旅路へ向けて心地よく脈打っているのを感じていた。
校門を通り抜け、夕闇の迫る渋谷の街へ、そしてプロの本物の世界へと向かって、4人の影が、どこまでも、どこまでも真っ直ぐに駆けていく。
ネットの冷酷な言葉も、神代玲央の天才的な壁も、もう今の4人を縛り付けることはできない。自分たちの作った音楽が、指先から溢れ出る旋律が、今度は世界中を本当の熱狂で殴り倒すための本当の輝きを放ち始めていた。
私たちが選ぶのは、誰かに用意された綺麗なお手本なんかじゃない。
五線譜からはみ出した、泥だらけの、私たちの、唯一無二の『正解』だ。
遮るもののない美しい青空の向こう側、4人の奏でる新しい不協和音の未来の旋律が、世界全体を激しく揺らしながら、どこまでも、どこまでも、狂おしく響き渡っていった。



