五線譜からはみ出した、17歳の正解

1,お祭りの後のような静寂が、翌朝の我が家を完全に支配していた。 
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、いつもと変わらない薄黄色でフローリングの床を照らしている。けれど、あの渋谷O-EASTのまばゆいスポットライトの残光と、何千人もの観客が放った熱狂の地鳴りの余韻は、未だに遥の脳内の五線譜を激しく揺らし続けていた。  

遥は、自分の部屋のベッドの上で、静かに自分の手のひらを見つめていた。 
鍵盤を全力で叩き続けてきた指先は、まだかすかにジンジンと心地よい熱を持って拍動している。スマホを開けば、バンドのグループチャットには、徹先輩が送ってきた『審査員特別賞』のトロフィーの画像と、深夜まで続いた興奮のメッセージがそのまま残っていた。ネットの海の向こう側でも、あの日のはみ出した不協和音に対する絶賛の声が、今も狂ったように増え続けている。 

(でも、私の本当の戦いは……これからだわ)  

遥は深く息を吸い込み、カバンの奥から、あのセロハンテープで不器用に繋ぎ合わされた『進路希望調査票』を取り出した。それを右手にしっかりと握り締め、部屋のドアを開けて、階段を一段ずつゆっくりと下りていく。  

リビングのドアを開けると、そこにはいつも通りのエプロン姿の母親が立っていた。 
キッチンからは、小気味よい包丁の音と、出汁の優しい匂いが漂ってくる。どこにでもある、絵に描いたような平穏な我が家の風景。けれど、キッチンに立つ母親の背中は、数日前よりもどこか小さく、だけどどこか穏やかで、いつもとは違う不思議な空気をまとっていた。 

「あ、遥。おかえりなさい。……ううん、お疲れ様」  

振り返った母親の顔を見た瞬間、遥の胸の奥が一瞬にしてギュッと締め付けられた。 
母親の目は、昨日ライブハウスの最後列で誰よりも激しく涙を流していたせいか、少しだけ赤く腫れていた。けれど、その瞳の奥には、あの日リビングで激しくぶつかり合った時の怒りや恐怖は、もう一ミリも残っていなかった。 

「お母さん……、昨日は、本当に来てくれたんだね」 

遥はリビングのテーブルの前に立ち、絞り出すような声で呟いた。 

「ええ。あなたの言っていた『渋谷のフェス』っていうのが、どんな場所なのか、この目でちゃんと見届けておきたくてね」 

母親はお茶のピッチャーを机に置くと、少し照れくさそうに、だけど愛おしそうにフッと笑ってみせた。 

「正直に言うとね、お母さん、あんなに大きなライブハウスに入ったのは生まれて初めてだったから、音が大きくて、頭がどうにかなりそうだったわ。周りの若い子たちがみんな飛び跳ねていて、なんだか別の世界に来てしまったみたいで、最初はすごく怖かったの。……でもね、遥」  

母親が一歩、遥の目の前へと歩み寄ってきた。彼女の手が、そっと遥の汗ばむ右手を包み込む。 

「あなたのシンセサイザーの音が鳴り響いた瞬間、お母さん、涙が止まらなくなっちゃった。……あんなに汚くて、歪みきった激しいロックなのに、どうしてあんなに泣きたくなるほど綺麗に聴こえたのかしらね。お母さんには、音楽の専門的なことはよく分からないけれど、あの日あなたが言っていた『本気で生きている』っていう言葉の意味が、あのステージの上のあなたの姿を見て、本当に、痛いほどよく分かったのよ」  

母親の目から、再び大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、遥の手のひらを温かく濡らしていった。 

「お母さんね、あなたが中学のときにネットで酷評されて傷ついているのを見て、本当に苦しかったの。あんな不安定な世界に行かせて、またあなたがボロボロになるくらいなら、お母さんの敷いた安全なレールの中に閉じ込めておくほうが、それが母親としての『正解』なんだって、ずっと自分に言い聞かせてきたわ。……でも、それはあなたのための正解じゃなくて、お母さんが安心したいためだけの、ただのワガママだったのね。ごめんなさい、遥。あなたの本当の音を、ずっと窒息しそうだったという苦しみを、何一つ分かってあげられなくて」  

あなたのためを思って。 

何度も何度も繰り返されてきたその優しい支配の檻が、今、母親自身の涙によって、完全に優しく溶かされていくのが分かった。 

「お母さん……」 

遥の目からも、一気に熱い涙が溢れ出た。 

「お母さんは悪くないよ。私を心配してくれてたこと、本当は、ずっと分かってた。……でもね、私、やっぱりあのはみ出した場所でしか、本気で息ができないの。瀬尾くんや、徹先輩や、巧さんと一緒に、自分たちの不協和音を鳴らしているときが、私の一番の、17歳の正解なんだよ」 
「ええ。分かってるわ。……あなたの人生だもの。これからは、誰かの用意した綺麗なレールなんかじゃなくて、自分の選んだ泥だらけの道を、思いきり胸を張って歩いていきなさい」  

母親はそう言うと、遥の小さな身体を、壊れものを抱きしめるような強さで、ぎゅっと優しく抱きしめてくれた。 
母親の体温の温かさが、遥の全身の血の巡りを急激に加速させていく。もう、胸の奥に刺さっていたあの小さな棘は、どこにも残っていなかった。家族の本当の和解と祝福を手に入れた遥の覚悟は、今、100%の純度を超えて、無限の未来の音階へと完全に調律されたのだ。  

遥は、母親の腕の中からそっと離れると、右手に握りしめていたあのクシャクシャの進路希望調査票を、テーブルの上に静かに置いた。 

「お母さん。……私、この紙、やっぱり本当にゴミ箱に捨ててくるね。大人の用意した経済学部じゃなくて、私の本当の未来を、新しく書き直すために」 
「ええ。行ってきなさい。あなたの最高の仲間たちが、きっとあの放課後の音楽室で、あなたの音を待っているわよ」  

母親は涙を袖で手荒に拭うと、いつも通りの優しい笑顔で、遥の背中をポンと強く叩いて送り出してくれた。 
窓の外では、夜明けの美しい青空がどこまでも広がっており、雲の隙間から差し込む鋭い太陽の光が、これから遥たちが挑む新しい音楽の旅路を、白く、鮮烈に照らし出していた。



2,家を飛び出し、初夏の爽やかな風が吹き抜ける住宅街を全速力で駆け抜けた遥がたどり着いたのは、やはりあの駅裏の寂れた雑居ビルだった。 
地下へと続く狭くて薄暗い階段を下りる。一段進むごとに、外のまばゆい太陽の光が遠ざかり、代わりに防音シートの貼られた重い鉄扉の向こうから、聞き覚えのあるバラバラな生音が耳に届いた。 

徹先輩のベースがベキベキと跳ねるようなスラップを刻み、巧さんがそれに合わせるように正確なハイハットのリズムを刻んでいる。フェスの熱狂が冷めやらないまま、彼らもまた、じっとしていられずにこの地下室へと吸い寄せられていたのだ。  

遥が扉を思いきり押し開けると、むっとするような熱気と、特有の機械油の匂いが一気に鼻腔を突いた。 

「お、遥! 早かったじゃん! お前んち、お母さんとの修羅場は大丈夫だったわけ?」 

徹先輩がベースを抱えたままソファから身を乗り出し、長髪を揺らしながらニカッと笑った。 

「……うん。修羅場なんかじゃなかったよ。お母さん、昨日のフェス、本当に客席の後ろで見届けてくれてたの。私の作った不協和音を聴いて、泣きながら『あなたの選んだ道を胸を張って歩きなさい』って、そう言ってくれた」 

遥はカバンを床に置き、まだ少し震える声で微笑んでみせた。 

「マジかよ、最高じゃん! お嬢ちゃんのお母さん、俺たちの騒音の良さが分かるなんて、センス抜群だな!」 

徹先輩が我がことのように喜び、ベースのネックを大きく掲げた。 
ドラムセットの奥に座る巧さんも、無言のまま、だけどその瞳に温かい安堵の光を宿して、スティックをカチリと鳴らしてくれた。 

「で、漣くんは?」 

遥がスタジオ内を見渡すと、一番大きなマーシャルのアンプの前が、ぽっかりと空いていた。 

「漣なら、さっきから機材の調整だか何だかで、ロビーの自動販売機の前にいるぜ。あいつ、昨日のフェスの後からずっと、魂がどっかに飛んでったみたいな魚の目をしてさ」 

徹先輩が呆れたように笑う。  
遥はスタジオを出て、薄暗いロビーへと向かった。 
蛍光灯がチカチカと明滅する自販機の前、古びたパイプ椅子に深く腰掛け、愛用の黒いギターを膝の上に載せている少年がいた。 

漣だった。 

彼はピックを持たず、右手の親指の腹で、静かに、優しく生音の弦を弾いていた。ポロン、ポロンと響くその小さな音階は、驚くほど澄んでいて、だけどどこか孤独そうで、周囲のコンクリート壁に反射して遥の鼓膜へと届いた。 

「……瀬尾くん」 

遥が声をかけると、漣は濡れたような黒髪の隙間から、ゆっくりと顔を上げた。 
その鋭い、けれどどこか退屈そうな切れ刃のような瞳が、遥の顔を見た瞬間に、じわじわといつもの不敵な光を取り戻していく。 

「よぉ、遥。お前、家は大丈夫だったのかよ。お前のその少し晴れ晴れとした音階、聴かなくても分かるわ」
「うん。お母さんと、ちゃんと話してきた。私の選んだはみ出した道を、最後に見届けてくれるって約束してくれたよ。……ほら」 

遥はカバンの奥から、あのセロハンテープで繋ぎ合わされた『進路希望調査票』を取り出し、漣の目の前に突き付けた。 

 「あの日、音楽室であんたにこれを破られた時は、本当に頭がどうにかなりそうだったけど……。今なら分かるよ。この大人の引いたレールを、あんたが力任せにぶち破ってくれたから、私は私の本物の音を見つけることができたんだって。……だから私、この紙に、私の本当の進路を自分の手で書き直すつもり」

漣は差し出されたクシャクシャの藁半紙をじっと見つめ、それからフッと口元を歪めて笑った。

「ハッ、俺の不器用な調律が、ちゃんと届いたみたいで何よりだわ」 

漣は床から立ち上がり、ギターのストラップを肩にかけ直した。その立ち姿は、巨大な都会のノイズさえもいつでも掻き消せる、と言わんばかりの圧倒的な自由さに満ちあふれていた。 

「おい、遥。フェスは終わったけど、俺たちのアンコールはまだ鳴り止んじゃいねぇぞ。大人の作った採点表の中じゃ、俺たちは一番の正解にはなれなかった。でもな、この街の何千人もの人間の心臓には、俺たちの音が一番深い傷跡を残したんだ。……ここから、もっと広い五線譜の外側へ、俺たちの本当の正解を鳴らしに行こうぜ」  

漣の言葉に、遥は涙を袖で手荒に拭うと、顔を上げて強く頷いた。

「ええ。あんたのその調律の狂った最低のギターに、どこまでも綺麗な不協和音を重ねてあげるわ、私の最高のバディ」  

二人は並んで、再び熱気の渦巻く地下スタジオの扉へと手をかけた。17歳の彼らの本当のはみ出した戦いは、この狭い地下室から、さらに激しく、どこまでも狂おしく加速を始めようとしていた。



3,4人がスタジオに戻り、ふたたび新曲のイントロの音合わせを始めようとした、まさにその時だった。  

ブーーー、ブーーー、ブーーー。  

スタジオの片隅、徹先輩が置いておいたスマートフォンのバイブレーション音が、防音室の静寂を鋭く引き裂いた。 

「お、誰だ? こんな時に無粋な電話かけてくる奴は……」 

徹先輩がベースを机に立てかけ、怪訝そうな顔をしながら画面を覗き込んだ。その瞬間、先輩の顔からいつものチャラついた余裕が完全に消え去り、目が点になった。 

「……おい、お前ら。ちょっと静かにしろ。これ、マジでヤバい奴からだわ」 

徹先輩の声が、驚くほど低く、そして張り詰めたトーンに変わる。巧さんが静かにスティックを置き、遥と漣も演奏の手を止めて先輩の手元に視線を集めた。 

「……もしもし、新堂です。……え? はい。昨日の、渋谷O-EASTの……。はい、オルタナティブ・ライトのベースです。……えっ、本当ですか!?」  

徹先輩の口から、驚愕の悲鳴に近い声が漏れる。 
電話の向こうから聞こえる大人の声を必死に拾おうと、先輩の耳がスマートフォンのスピーカーに強く押し付けられていた。 

「はい! メンバー全員、ここに揃ってます! スケジュールですか? はい、いつでも空いてます! よろしくお願いします、失礼します!」  

通話が切れ、徹先輩がスマートフォンを握りしめたまま、しばらくの間、幽霊でも見たかのように呆然と立ち尽くしていた。 

「徹さん、誰から。……声が、震えてる」 

巧さんがドラムセットの奥から、低くぶっきらぼうに問いかける。 

「おい……、お前ら、信じられるかよ」 

徹先輩がゆっくりと顔を上げ、その瞳をこれまでにないほど激しく見開いて遥たちを見つめた。 

「さっきの電話……昨日、審査員席の真ん中に座ってた、国内最大手のインディーズレーベルのチーフプロデューサーからだわ。『グランプリは規律の都合上、神代玲央にしたが、僕が本当に本物だと確信したのは君たちの不協和音だ』って。……来週、オフィシャルのスタジオで、私たちの新曲を本物のレコーディング機材で、プロのエンジニアを入れて一曲、正式にシングルとして録音(レコーディング)しないかってさ」 
「な……っ」 

遥は息を呑み、自分の両手を強く握りしめた。 
本物のレコーディング。プロのレーベルからの、正式なオファー。 
それは、中学のときに動画サイトの海の底で独りぼっちで溺れていた遥にとっては、テレビの向こう側にある遠い夢の世界の話だった。それが今、あの中庭でのバズ、そして渋谷のステージで4人で鳴らしきったあのはみ出した一曲によって、自分たちの目の前に本物の『現実』として、圧倒的な質量を持って転がり込んできたのだ。 

「メジャーへの切符、ね。……ハッ、あいつら大人の審査員も、少しはまともな耳を持ってる奴がいたみたいじゃん」 

漣がギターのネックを強く握り締め、濡れた黒髪の隙間から、不敵な猛獣のような光を宿した瞳でフロアを見据えた。 

「どうする、遥。……大人の用意した安全なレールに戻るか? それとも、俺たちと一緒に、この本物のプロの世界へ、俺たちの不協和音を『本当の正解』として書き殴りに行くか?」  

漣の問いかけは、もう数日前のような挑発では断じてなかった。 

同じ高さのステージに立ち、同じ傷を背負って世界と戦う、対等な「戦友(バディ)」としての、絶対的な信頼がこもった瞳だった。  
遥は、テーブルの上のクシャクシャの進路希望調査票をじっと見つめた後、それを両手で強く、破れるほどの力でぎゅっと握りしめた。 
お母さんは、自分の選んだ道を見届けてくれると言ってくれた。もう、私を縛り付ける檻は、世界のどこを探したって、どこにも残っていない。 

「……やるに決まってるでしょ」  

遥はシンセサイザーの前に歩み寄り、メインスイッチをカチリと押し込んだ。青白い液晶の光が、彼女の決意に満ちた瞳を鮮烈に照らし出す。 

「プロのレコーディングなら、今のままだとサビの転調の1音のピッチのズレも、あえてノイズとして綺麗に残さなきゃいけないわ。徹先輩、ベースのドライブ感をもう一段上げて。巧くん、Bメロの裏打ちの4つ打ち、あと1打だけ手数を増やして。……世界中を本当の熱狂で殴り倒すための、私たちの『はみ出した正解』を、今ここで完璧に調律しましょう」 
「ハッ、言うようになったじゃん、俺たちの心臓」  

漣が嬉しそうに白い歯を見せ、ギターのボリュームノブを思いきり引き上げた。 
夜の帳が降りた街の雑踏のノイズを完全に掻き消すように、地下世界の暗闇の中で、今度は世界を揺るがすための、4人の新しい不協和音の産声が狂ったように走り出した。