五線譜からはみ出した、17歳の正解

1,ステージから一歩、暗い舞台袖の搬入通路へと足を踏み入れた瞬間、遥の膝は、まるで糸の切れた人形のようにカクンと砕け散りそうになった。 

「おっと……、危ねぇな。大丈夫かよ、遥」  

すぐ隣を歩いていた漣が、とっさに長い腕を伸ばし、遥の濡れた肩をガシッと力強く支えてくれた。 
掴まれた制服のブラウス越しに、彼のギターの弦で固くなった手のひらの熱さが、じんわりと遥の冷え切った皮膚へと伝わってくる。アンプの熱気とスポットライトの光の海から解放された搬入通路は、ひんやりとしたコンクリートの冷気に満ちていて、それが激しく沸騰していた遥の脳内を、ゆっくりと、だけど冷酷に現実へと引き戻していくようだった。 

「……うん。ありがとう。ちょっと、急に全身の力が抜けちゃって」 

遥は肩で激しく息をしながら、なんとか自分の両足で床を踏み締めた。  
耳の中が、キーンと高音の電子音で鳴り響いている。 
さっきまで体感していた何千人もの観客の歓声の残響が、未だに鼓膜の奥でパチパチと音を立てて爆発を繰り返していた。鍵盤を狂ったように叩き続けてきた手のひらは、指の関節の感覚が完全に麻痺していて、自分の指なのに、まるで他人の冷たい肉の塊をぶら下げているかのような異常な皮膚感覚だった。 

「ははっ、マジで死ぬかと思ったわ! 遥、お前ラストのサビでテンポさらに上げたろ! 指が千切れるかと思ったじゃねぇか!」 

後ろから、ベースの徹先輩が愛用のベースを抱えたまま、床にドカッと座り込んで声を上げて笑った。長髪は汗でベタベタに額に張り付き、制服のシャツは色が変わるほど濡れている。だけどその顔は、これまでに見たこともないほど晴れやかで、剥き出しの達成感に満ちあふれていた。 

「宮園さんの編曲通り。……ドラム、最後の1打まで狂わずに叩けた。最高に、気持ちよかった」 

巧さんも、無骨にスティックをケースに仕舞いながら、ぶっきらぼうに、だけどその瞳の奥には、確かな熱い誇りの光が宿っていた。  
4人全員が、言葉もなく、しばらくの間薄暗いコンクリートの通路で、激しい呼吸の音だけを響かせ合っていた。 
学校からはみ出し、大人の用意した安全な檻をぶち壊して、泥だらけになりながらたどり着いた、渋谷のステージ。そこで自分たちの不協和音をすべて解き放った満足感は、何物にも代えがたい、17歳の彼らだけの、絶対的な勲章だった。 

「――素晴らしい演奏だったよ。正直、脳みそを直接殴られたような衝撃だった」  

冷徹で、だけど完璧に調律された、聞き覚えのある低めの声が、通路の暗闇の奥から響いた。  
4人が一斉に視線を動かすと、搬入用の鉄扉に背中を預けて腕を組んでいる少年がいた。  

神代玲央だった。  

端正な顔立ち、1音の狂いも許さない圧倒的なエレクトロ・ポップで今回のフェスの優勝大本命とされる天才。彼はステージの衣装のまま、遥たちの帰りをここでずっと待ち構えていたようだった。その冷ややかな切れ刃のような瞳が、ずぶ濡れでボロボロの遥たちの姿を、真っ直ぐに射抜いてくる。 

「神代……。お前、まだハケずにそんなところで何してんだよ。俺たちの騒音の苦情でも言いに来たのか?」 

漣が一歩、遥を背中に隠すようにして前に踏み出し、玲央を鋭い猛獣のような光を宿した瞳で睨み返した。 

「苦情なんて言うわけないだろ。僕は、音楽に対しては常に誠実でありたいと思っているからね」 

玲央はゆっくりと腕を解き、遥たちの目の前まで足音を響かせながら歩み寄ってきた。

「前言を撤回するよ。君たちの音楽は、ただの若気の至りの騒音なんかじゃなかった。特に……キーボードの君」  

玲央の視線が、漣の肩越しに、遥の青ざめた顔へと注がれた。 

「大サビの前の一拍の空白。あそこに君がぶち込んだ、4度マイナーの不協和音。……あれは、僕の計算し尽くしたDTMの理論じゃ、絶対に導き出せない。泥だらけで、狂っていて、なのに、泣きたくなるほど完璧な音階だった。君の耳は、量産型なんかじゃない。……僕の、本物のライバルだ」  

量産型なんかじゃない。本物のライバル。  
その言葉が玲央の口から放たれた瞬間、遥の胸の奥で、中学のときからずっと自分を縛り付けていた、あの恐怖の暗闇が、一瞬にして光に照らされて綺麗に消え去っていくような衝撃を覚えた。 

ネットの海の底でたった一行のコメントに殺され、お母さんの優しい支配に怯えていた日々。それらすべての葛藤が、この目の前の「本物の天才」に認められたという事実によって、完璧に救われたのだ。 

「……ありがとう、神代くん。あなたの完璧な調律された音楽があったから、私は、自分の本当のはみ出した音を見つけることができたの」 

遥は漣の背中から一歩前に出ると、玲央の冷たい瞳を、今度は一ミリも怯むことなく真っ直ぐに見つめ返した。 

「……次は負けないからね。今回のオーディションフェスの採点表がどうなるかは大人の審査員が決めることだけど、僕の心には、君たちの音が一番深い傷跡を残していったよ」  

玲央はフッと、初めて年相応の、どこか悪戯っぽい綺麗な笑みを口元に浮かべると、それ以上何も言わずに暗い通路の奥へと去っていった。  

ガラガラと鉄の扉が閉まり、再び訪れた静寂。 

けれど、さっきまでの重苦しい焦燥感は、もうこの通路のどこにも残っていなかった。現実は冷酷で、世界の壁はどこまでも高い。けれど、17歳の彼らの鳴らした不協和音の産声は、間違いなく、その完璧な世界の境界線を、力任せにぶち壊してみせたのだ。 

「ハッ、あいつ、言うようになったじゃん」 

漣が嬉しそうに黒髪をバサリと振り払い、遥の顔を見てニカッと笑った。 

「さぁ、お前ら! 楽屋に戻って服乾かすぞ! あとは大人の出す『採点表』の結果を待つだけだわ!」 

徹先輩がベースを掲げて走り出し、巧さんもそれに静かに続く。 
遥はカバンの奥にある、あのクシャクシャに繋ぎ合わされた進路希望調査票の感触を確かめながら、漣と並んで、自分たちの本当の未来へ向かって、力強く歩き出した。



2,すべての出演者の演奏が終了したステージの上は、目眩がするほど強烈なマルチカラーのレーザーライトと、フロアを埋め尽くす何千人もの観客たちの、息の詰まるような緊張感で満たされていた。 

「――これより、本日のインディーズオーディションフェス、最終結果発表を行います」  

MCの男の声が、巨大なスピーカーを通じて重低音の地鳴りのように会場全体へと響き渡る。 
ステージの上には、今日のフェスを盛り上げたすべての高校生バンドやアーティストたちが横一列に整列させられていた。眩しいスポットライトの光に晒されながら、誰もが言葉を失い、ただ教卓のような発表台の前に立つ審査員たちの手元を、血走った目で見つめている。  

遥は、メンバー3人と並んで上手側の端に立っていた。 
楽器を持たない両手は、行き場をなくしたようにぶら下がり、寒さとは違う緊張で指先がガタガタと目に見えて震え出している。 
すぐ隣には、長髪の汗を乱暴に拭った徹先輩が、これまでに見たこともないほど神妙な面持ちで腕を組んで立っていた。その隣では、巧さんがいつものように無口なまま、だけど自分の胸の前に置いた両手の拳を、爪が手のひらに食い込むほどの強さでぎゅっと握りしめている。  

そして、真ん中。 
漣は、ポケットに両手を突っ込んだまま、退屈そうに天井の照明機材を見上げていた。けれど、緩められたネクタイの隙間から覗く彼の首筋には、激しいセッションの残熱を物語るように、ドクドクと力強い脈動が、生々しく波打ち続けていた。  
遥は、自分の心臓の音が、まるでライブハウスのドラムビートのように激しく肋骨の内側を叩いているのを感じていた。 
少し視線を動かすと、ステージの中央には、あの神代玲央が立っていた。彼は相変わらず洗練されたブレザー姿のまま、1ミリの狂いもない完璧な立ち姿で、審査員席を見据えている。彼の鳴らした『究極の正解』の音楽。そして、自分たちが鳴らした『五線譜からはみ出した不協和音』。 

大人の用意した「採点表」という冷酷な数字の世界が、今まさに、自分たちの17歳の覚悟に点数をつけようとしていた。 

『――それでは、本日のオーディションフェス、栄えあるグランプリの発表です』  

ドラムロールの音が、スピーカーから重々しく鳴り響く。 
その瞬間、ライブハウス全体の空気がピタッと凍りつき、何千人もの観客たちが一斉に息を呑んだ。遥は無意識のうちに、隣に立つ漣の、古い黒いパーカーの袖を強く、破れるほどの力でぎゅっと握りしめていた。 
掴まれた漣の身体が一瞬ピクリと動いたが、彼は逃げることなく、逆に遥の手の上から、自分のギターの弦で固くなった熱い手のひらを、そっと重ねて、力強く包み込んでくれた。  

その体温の熱さに触れた瞬間、遥の胸の奥の冷え切っていた場所に、一滴の淀みもない青白い炎が再び激しく燃え上がり始める。彼と手を繋いでいるだけで、世界の出すどんな点数も、もう怖くないと思えた。 

『グランプリは――。エントリーナンバー4番、神代玲央!!!』  

パンッ!!!と派手なキャノン砲の音が響き渡り、ステージの上から色鮮やかな金テープがキラキラと舞い降りた。 
フロア全体から、地崩れのような、凄まじい拍手と歓声が湧き上がる。中央に立つ神代玲央が、まばゆい光を一身に浴びながら、深く、気高く頭を下げていた。メジャーデビューの内定を意味するその栄冠。やはり、大人の出す採点表の頂点に立ったのは、計算し尽くされた彼の『完璧な正解』の音楽だったのだ。 

「……ちっ、やっぱりあいつかよ。強ぇなぁ、天才サマは」 

徹先輩が、悔しそうに口元を歪めながらも、中央の玲央に向かって誰よりも大きな拍手を送り始めた。巧さんも、無言で、だけど確かな敬意を込めて強く手を叩いている。  

自分たちの名前は、呼ばれなかった。 

大人の引いた五線譜の外側へと走り出した自分たちの音は、コンテストという枠組みの中では、一番の正解にはなれなかったのだ。その冷酷な現実に、遥の胸の奥が一瞬だけ、ちくりと寂しそうに痛んだ。  
けれど、MCの男の声は、まだ終わっていなかった。 

『――しかし、本日はもう一つ、審査員一同の強い要望により、急遽設けられた特別な賞があります。……本日の全出演者の中で、最も観客の心を揺さぶり、最も強烈な傷跡を残していったバンドに贈られる、審査員特別賞!』  

MCの目が、真っ直ぐに上手側の端、遥たちの立ち位置へと向けられた。 

『審査員特別賞は――。エントリーナンバー5番、『オルタナティブ・ライト』!!!』  

――え?  

遥の思考が、一瞬にして停止した。 
直後、グランプリの時を遥かに凌駕するような、ライブハウスの建物全体が激しく崩壊するかと思うほどの、凄まじい拍手と怒号のような「アンコール」の叫びが、4人の頭上から豪雨のように降り注いだ。 

「う、うおおおおおおおおお!! 呼ばれた! 呼ばれたぞお前ら!!!」 

徹先輩が、今度は理性を完全に失ったように跳び上がり、巧さんの肩を激しく揺さぶった。巧さんも、驚いたように目を見開いた後、生まれて初めて見るような眩しい笑みを浮かべて、スティックを天へと高く掲げた。  
遥は涙で視界を完全に滲ませながら、隣の漣の顔を見上げた。 
漣は、相変わらずネクタイを緩めたルーズな姿のまま、だけど雨に濡れたような汗だくの顔をくしゃくしゃにして、遥に向かって最高の、嘘のない笑顔を向けていた。 

「見たかよ、遥。大人の採点表の点数なんてどうでもいいんだよ」 

漣が、遥の手首を再び、あの放課後の音楽室の時と同じ力強さでガシッと掴んだ。 

「あいつらの規律の中じゃ、俺たちは100点満点じゃねぇよ。でもな、この何千人もの人間の心臓には、俺たちの『はみ出した不協和音』が、間違いなく世界で一番深く刺さったんだ。これがお前の、俺たちの、唯一無二の17歳の『正解』だろ」 
「……うん。本当に、最低で最高のはみ出し者ね、私たちは」  

遥は袖で涙を手荒に拭うと、客席の最後列を見つめた。 
暗闇の中、お母さんが、両手で顔を覆いながら、何度も激しく頭を振って、遥に向かって誰よりも強く拍手を送り続けてくれているのが見えた。  

大人の言う正解なんて、世界のどこを探したって無い。 
だけど、自分たちで選んではみ出したこの道の先に、私たちの本物の未来の音が、今、確かに、渋谷の街全体を激しく揺らしながら鳴り響いていた。