1,眩い白と青のスポットライトの残光が、遥の網膜の裏側に焼き付いて離れなかった。
MCの叫びが巨大なスピーカーを通じてフロアの隅々まで行き渡り、地鳴りのような拍手と歓声が津波となってステージに押し寄せてくる。けれど、その人間の熱狂の渦の中心で、遥が自分のシンセサイザーの鍵盤の上に両手を静かに載せたその瞬間、世界から一切の雑音が、奇妙なほど完璧に消え去った。
遥の絶対音感が、ステージの気圧を、冷房の微かな稼働音を、そして何千人もの観客が次の音を求めて息を呑むその『静寂の予感』を、冷徹なまでに正確に聴き取っていた。
指先が、鍵盤のプラスチックの冷たい質感にそっと触れる。その皮膚の1ミリの狂いすら許されない緊張感の中で、遥はゆっくりと、最初の1音を押し込んだ。
――ポロン。
ライブハウス『O-EAST』の巨大な空間に放たれたのは、濁りの一切ない、クリスタルのように澄み切ったデジタルシンセサイザーのソロアルペジオだった。
それは、激しいロックを期待して腕を組んでいた観客たちの鼓膜を、静かに、だけど深くノックするような繊細な旋律だった。 1拍。2拍。3拍。遥の指先が鍵盤の上を流れるように滑るたびに、どこか切なくて、どこか胸を締め付けるような変拍子の美しいメロディが、幾重にも重なってスピーカーから溢れ出ていく。
さっきまで騒がしかった何千人もの観客たちが、その冷たく澄んだピアノの旋律に魅了されたように、一人、また一人と静まり返っていくのが肌で分かった。ざわめきが急速に引き、ライブハウス全体が、まるで一つの巨大な氷の神殿に変わっていくかのような、息の詰まる静寂がフロアを支配していく。
完璧な調律。非の打ち所がない美しいコード進行。
客席の最後列にいるお母さんにも、この音が届いているだろうか。中学のとき、誰にも見向きもされずに部屋の海の底で溺れていた私の音が、今、これだけの人間の呼吸を止めている。
けれど、遥の鳴らす音は、ただ綺麗なだけの量産型の音楽では終わらない。
4小節目。メロディの終わり際。
遥はあの日、地下スタジオで3人の戦友たちと見つけた、大人の引いた五線譜を力任せに引きちぎるための『4度マイナー(Dm)』のコードを、あえてその静寂の真ん中に、冷酷なまでに鋭く突き刺した。
――ゴォォォォン……ッ。
美しく整えられていた世界が、一瞬にして歪み、切ない不協和音の波紋がフロア全体へと広がっていく。
観客たちの間に、微かな、だけど強烈な『動揺』の空気が走る。こいつらは何を鳴らそうとしているんだ、と。
その、世界が完全に調律を失い、次の展開を求めて飢え始めた、まさにその一瞬の隙を突くようにして。
ガガガガガガガッ――!!!
遥のすぐ隣から、世界を木っ端微塵に打ち砕くような、最高に汚くて、最高に獰猛なエレキギターのピッキングスクラッチの悲鳴が炸裂した。
漣だった。
彼は、遥が作ったその切ない不協和音の和音の波頭に飛び乗るようにして、アンプの真空管が火花を散らすほどの爆音で、歪みきったディストーションノイズを撒き散らした。
濡れた黒髪を激しく振り乱し、ボロボロの黒いギターを低い位置で構えた彼の指先から放たれるフレーズは、神代玲央の言う「100点満点のお手本」を、文字通り力任せに引きちぎり、真っ黒なインクをぶちまけたような、圧倒的な初期衝動そのものだった。
ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ!
直後、巧さんが静かに掲げていたスティックを振り下ろし、裏打ちの激しい高速4つ打ちのドラムビートを叩き出した。空気を物理的に破裂させるようなタイトなスネアの音が、遥の背中を強く押し立てる。
間髪入れずに、徹先輩が「っしゃあ! 行くぞお前ら!!」と野獣のような声を張り上げ、1オクターブ上でギターと全く同じメロディをユニゾンで弾きながら、地を這う重低音を激しく唸らせた。
遥のシンセソロから始まった静かな世界は、一瞬にして、4人の奏でる圧倒的な不協和音の濁流へと飲み込まれ、限界を超えたスピードで急激に加速を始めた。
キィィィィン――!!
アンプとスピーカーが激しくハウリングを起こし、ライブハウス全体の空気がビリビリと悲鳴を上げる。
その瞬間、光の海の向こう側で、腕を組んで値踏みしていた観客たちが、まるで頭を後ろから殴られたかのような衝撃を受け、一斉に拳を突き上げ、狂ったように飛び跳ね始めるのが見えた。フロア全体が、4人の放つ圧倒的な音圧によって、一瞬にして巨大な熱狂の渦へと変貌を遂げていく。
遥の指先が、その加速していくスピードに負けないよう、鍵盤の上を光の速さで走り出した。
もう、冷たさなんてどこにもなかった。体の中から湧き上がる沸騰したような熱気が、皮膚の表面をじりじりと焦がし、流れる汗がシンセの鍵盤を濡らしていく。
これだ。これが、私たちの音楽だ。
誰かに用意された綺麗なレールの白線の内側で安全に死んでいくくらいなら、この調律の狂った最高のバディと共に、五線譜からはみ出した場所で叫び続けるほうが、何万倍も生きてる実感がする。
まばゆい光の海の下、4人の鳴らす不協和音の産声が、渋谷の街を、世界を激しく揺らしながら、どこまでも、どこまでも狂おしく響き渡っていった。
2,新曲は、AメロからBメロへと移行するにつれて、まるで巨大な質量を持った生き物のようにライブハウスの空間をのたうち回り、その気圧を急激に上昇させていた。
巧さんの放つ裏打ちの高速4つ打ちビートが、フロアの何千人もの観客たちの心臓の鼓動を完全にハックし、徹先輩の歪んだベースラインが床を激しく震わせる。そして真ん中。漣のギターが、青空を引きちぎるような獰猛なディストーションノイズを撒き散らしながら、フロントで牙を剥き続けている。
その三つの圧倒的な音の奔流の隙間を完璧に縫いながら、遥は自分のシンセサイザーの鍵盤の上を、光の速さで指を走らせていた。
――そして、曲は2番のサビを終え、この曲の最大の山場である『間奏(ソロバトル)』へと突入した。
巧さんがスネアとクラッシュシンバルを狂気的な速度で連打し、一瞬、ギターとベースの音がピタッと止まる。ライブハウスのすべての照明が、上手側にいる遥のシンセサイザーの前へと一斉に集まり、世界が真っ白な光の檻に変わった。
(ここからは、私の時間――!)
遥は深く息を吸い込み、固まった指先を弾くようにして、デジタルシンセ特有の、クリスタルのように澄み切った超高速のアルペジオを炸裂させた。
クラシックのコンクールで培ってきた完璧な運指のテクニック。だけど、今鳴らしているのは誰かに褒められるための綺麗な音なんかじゃない。中学のとき、動画サイトの海の底でたった一行のコメントに殺され、この1年間、優しい母親の檻の中で窒息しそうになっていた、17歳の遥のむき出しの悲鳴そのものだった。
――キィィィン、と響き渡る高音の旋律。
その遥のソロを後ろから支えながら、ドラムセットの奥で全身から大粒の汗を飛び散らせていた巧さんの脳内で、古い記憶のフィルムが激しく逆再生を始めていた。
『佐藤くん、君のドラムは正確だけど、それだけだね。メトロノームみたいで、聴いててちっとも面白くないんだよ』
他校の軽音部の連中や、かつて組んでいたバンドの奴らに何度も言われてきた言葉。無口で、感情を表に出すのが苦手な巧にとって、ドラムのテンポを寸分の狂いもなくキープすることだけが、唯一の存在証明だった。だけど、誰もその「正確さ」を本気で評価してはくれなかった。ただの器用な機械(メトロノーム)だと笑われ、バンドを追い出され、独りぼっちでスティックを握りしめていたあの退屈な放課後。
そんな巧の前に、ある日突然、あのボロボロの黒いギターを担いだ漣が現れたのだ。
『お前のドラム、狂いがなくて最高じゃん。その完璧な手綱でさ、俺の狂ったギターの首輪、後ろから思いきり引っ張ってみせてよ』
初めて、自分の音が機械ではなく「必要不可欠な心臓」だと認められた瞬間だった。
(俺は、メトロノームじゃない。この4人の音をどこまでも加速させる、オルタナティブ・ライトの心臓だ……!)
巧さんの瞳に鋭い狂気的な光が宿り、ドラムスティックの速度がさらに一段階、跳ね上がった。重いスネアの音がライブハウスの壁を物理的に殴りつける。
そのビートに呼応するようにして、今度は徹先輩がベースを思いきり抱え込み、フロントへと一歩踏み出した。
「っしゃあああ! 遥! 漣! 巧! 気持ちよすぎるだろお前ら!!」
徹先輩が弾きながら獣のような声を張り上げる。彼の指先が、ベースの太い弦を千切れんばかりの力で激しく引っ掻いた。
徹先輩の脳裏にも、かつて学校の職員室で、軽音部の顧問から何度も浴びせられた言葉が響いていた。
『新堂、お前はいつも部室でアンプのボリュームを上げすぎる。そんな汚い不協和音ばかり鳴らして、将来どうするつもりだ。もっと周りの音に合わせる協調性を持ちなさい』
合わせろ、綺麗に弾け、枠からはみ出すな。大人の言うその『正解』に従おうとするたびに、徹のベースは死んだように色褪せていった。
けれど、このバンドは違った。漣は「もっと歪ませろ」と笑い、巧はどれだけ暴走しても完璧なビートで後ろから支えてくれ、そして新しく入った遥は、自分のうるさい重低音を殺すどころか、最もエモい浮遊感を持った和音で完璧にその隙間を埋めてみせた。
(大人の言う協調性なんて、知るかよ! 俺たちのこの、お互いのエゴをぶつけ合う不協和音こそが、最高の音楽なんだよ!)
徹先輩が指板の上を狂ったように滑り降り、地を這う重低音のグリッサンドをフロア全体へと叩きつける。観客たちがその重低音の衝撃波を浴びて、狂ったように頭を振り乱すのが見えた。
そして、遥のシンセソロとリズム隊の熱量が最高潮に達した、まさにその瞬間。
「――待たせたな、遥!」
ステージの真ん中で、漣がギターのネックを天へと高く掲げ、ボリュームノブを力任せに回しきった。
キィィィィィィン――!!!
アンプから火花が散るかと思うほどの凄まじいハウリングノイズ。次の瞬間、彼は遥のシンセサイザーの旋律に真っ正面から切り込むようにして、この世で最も激しく、最も切ないギターソロを掻き鳴らし始めた。
漣の脳内を、実家のあの冷え切った、息の詰まる防音室の光景が通り過ぎていく。
天才ピアニストである父親、瀬尾彰一。家の中はいつも、完璧に調律された、1音のミスタッチも許されないクラシックの音しか存在していなかった。
『漣、お前の弾くギターは音楽ではない。ただの騒音だ。五線譜の通りに、寸分の狂いもなく完璧に弾けない人間に、音を鳴らす資格は無い』
父親の冷たい目が、大人の用意した強固な檻が、ずっと漣の魂を絞め殺し続けていた。だからギターを始めた。歪ませて、ノイズを撒き散らして、父親の言う完璧な五線譜をズタズタに引き裂いてやるために。
だけど、どれだけ爆音を鳴らしても、自分の音はただの孤独な悲鳴に過ぎないのではないかと、心のどこかでずっと寂しさを抱えていた。
あの日、放課後の古い音楽室の扉が、壊れるような勢いでぶち開けられるまでは。
理性を失って、クシャクシャの進路票を握りしめて飛び込んできた遥。彼女は漣の汚いギターを聴いて、「泣きたくなるくらい綺麗だった」と言ってくれた。自分の孤独な悲鳴を、初めて『本物だ』と認めてくれた。
(親父……見てるか。俺の横には今、俺の鳴らす歪んだノイズに、世界で一番綺麗な不協和音を重ねてくれる、最高のバディがいるんだよ……!)
漣の指先から、最も鋭い高音のチョーキングが炸裂した。
ギターの悲鳴が、遥のシンセサイザーの旋律と激しく空中で殴り合い、そして完璧に一つに融合していく。
それは、神代玲央の鳴らすような、機械で計算し尽くされた完璧なエレクトロ・ポップでは断じてなかった。
4人の、17歳のやり場のない焦燥感と、悔し涙と、剥き出しのソウルが真っ正面からぶつかり合う、最低で最高の不協和音。 けれど、その泥だらけの音がライブハウスの空間を支配した瞬間、光の海の向こう側にいる何千人もの観客たちは、まるで頭を後ろからハンマーで殴られたかのような衝撃を受け、一斉に涙を流しながら、狂ったように拳を突き上げていた。
遥は、鍵盤を叩きながら、客席の最後列を見つめた。
暗闇の中、母親が、両手で顔を覆いながら、何度も、何度も激しく頭を振って、遥に向かって誰よりも大きな拍手を送ろうとしてくれているのが見えた。
大人の言う正解なんて、どこにもない。
五線譜からはみ出した、この泥だらけの、だけど泣きたくなるほど愛おしい音が、17歳の私たちの、唯一無二の『正解』だ――!
4人の奏でる圧倒的な新曲のメロディが、渋谷の街を、世界を激しく揺らしながら、間奏を抜けて最後のサビへと向かって、全速力で突っ走っていった。
MCの叫びが巨大なスピーカーを通じてフロアの隅々まで行き渡り、地鳴りのような拍手と歓声が津波となってステージに押し寄せてくる。けれど、その人間の熱狂の渦の中心で、遥が自分のシンセサイザーの鍵盤の上に両手を静かに載せたその瞬間、世界から一切の雑音が、奇妙なほど完璧に消え去った。
遥の絶対音感が、ステージの気圧を、冷房の微かな稼働音を、そして何千人もの観客が次の音を求めて息を呑むその『静寂の予感』を、冷徹なまでに正確に聴き取っていた。
指先が、鍵盤のプラスチックの冷たい質感にそっと触れる。その皮膚の1ミリの狂いすら許されない緊張感の中で、遥はゆっくりと、最初の1音を押し込んだ。
――ポロン。
ライブハウス『O-EAST』の巨大な空間に放たれたのは、濁りの一切ない、クリスタルのように澄み切ったデジタルシンセサイザーのソロアルペジオだった。
それは、激しいロックを期待して腕を組んでいた観客たちの鼓膜を、静かに、だけど深くノックするような繊細な旋律だった。 1拍。2拍。3拍。遥の指先が鍵盤の上を流れるように滑るたびに、どこか切なくて、どこか胸を締め付けるような変拍子の美しいメロディが、幾重にも重なってスピーカーから溢れ出ていく。
さっきまで騒がしかった何千人もの観客たちが、その冷たく澄んだピアノの旋律に魅了されたように、一人、また一人と静まり返っていくのが肌で分かった。ざわめきが急速に引き、ライブハウス全体が、まるで一つの巨大な氷の神殿に変わっていくかのような、息の詰まる静寂がフロアを支配していく。
完璧な調律。非の打ち所がない美しいコード進行。
客席の最後列にいるお母さんにも、この音が届いているだろうか。中学のとき、誰にも見向きもされずに部屋の海の底で溺れていた私の音が、今、これだけの人間の呼吸を止めている。
けれど、遥の鳴らす音は、ただ綺麗なだけの量産型の音楽では終わらない。
4小節目。メロディの終わり際。
遥はあの日、地下スタジオで3人の戦友たちと見つけた、大人の引いた五線譜を力任せに引きちぎるための『4度マイナー(Dm)』のコードを、あえてその静寂の真ん中に、冷酷なまでに鋭く突き刺した。
――ゴォォォォン……ッ。
美しく整えられていた世界が、一瞬にして歪み、切ない不協和音の波紋がフロア全体へと広がっていく。
観客たちの間に、微かな、だけど強烈な『動揺』の空気が走る。こいつらは何を鳴らそうとしているんだ、と。
その、世界が完全に調律を失い、次の展開を求めて飢え始めた、まさにその一瞬の隙を突くようにして。
ガガガガガガガッ――!!!
遥のすぐ隣から、世界を木っ端微塵に打ち砕くような、最高に汚くて、最高に獰猛なエレキギターのピッキングスクラッチの悲鳴が炸裂した。
漣だった。
彼は、遥が作ったその切ない不協和音の和音の波頭に飛び乗るようにして、アンプの真空管が火花を散らすほどの爆音で、歪みきったディストーションノイズを撒き散らした。
濡れた黒髪を激しく振り乱し、ボロボロの黒いギターを低い位置で構えた彼の指先から放たれるフレーズは、神代玲央の言う「100点満点のお手本」を、文字通り力任せに引きちぎり、真っ黒なインクをぶちまけたような、圧倒的な初期衝動そのものだった。
ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ!
直後、巧さんが静かに掲げていたスティックを振り下ろし、裏打ちの激しい高速4つ打ちのドラムビートを叩き出した。空気を物理的に破裂させるようなタイトなスネアの音が、遥の背中を強く押し立てる。
間髪入れずに、徹先輩が「っしゃあ! 行くぞお前ら!!」と野獣のような声を張り上げ、1オクターブ上でギターと全く同じメロディをユニゾンで弾きながら、地を這う重低音を激しく唸らせた。
遥のシンセソロから始まった静かな世界は、一瞬にして、4人の奏でる圧倒的な不協和音の濁流へと飲み込まれ、限界を超えたスピードで急激に加速を始めた。
キィィィィン――!!
アンプとスピーカーが激しくハウリングを起こし、ライブハウス全体の空気がビリビリと悲鳴を上げる。
その瞬間、光の海の向こう側で、腕を組んで値踏みしていた観客たちが、まるで頭を後ろから殴られたかのような衝撃を受け、一斉に拳を突き上げ、狂ったように飛び跳ね始めるのが見えた。フロア全体が、4人の放つ圧倒的な音圧によって、一瞬にして巨大な熱狂の渦へと変貌を遂げていく。
遥の指先が、その加速していくスピードに負けないよう、鍵盤の上を光の速さで走り出した。
もう、冷たさなんてどこにもなかった。体の中から湧き上がる沸騰したような熱気が、皮膚の表面をじりじりと焦がし、流れる汗がシンセの鍵盤を濡らしていく。
これだ。これが、私たちの音楽だ。
誰かに用意された綺麗なレールの白線の内側で安全に死んでいくくらいなら、この調律の狂った最高のバディと共に、五線譜からはみ出した場所で叫び続けるほうが、何万倍も生きてる実感がする。
まばゆい光の海の下、4人の鳴らす不協和音の産声が、渋谷の街を、世界を激しく揺らしながら、どこまでも、どこまでも狂おしく響き渡っていった。
2,新曲は、AメロからBメロへと移行するにつれて、まるで巨大な質量を持った生き物のようにライブハウスの空間をのたうち回り、その気圧を急激に上昇させていた。
巧さんの放つ裏打ちの高速4つ打ちビートが、フロアの何千人もの観客たちの心臓の鼓動を完全にハックし、徹先輩の歪んだベースラインが床を激しく震わせる。そして真ん中。漣のギターが、青空を引きちぎるような獰猛なディストーションノイズを撒き散らしながら、フロントで牙を剥き続けている。
その三つの圧倒的な音の奔流の隙間を完璧に縫いながら、遥は自分のシンセサイザーの鍵盤の上を、光の速さで指を走らせていた。
――そして、曲は2番のサビを終え、この曲の最大の山場である『間奏(ソロバトル)』へと突入した。
巧さんがスネアとクラッシュシンバルを狂気的な速度で連打し、一瞬、ギターとベースの音がピタッと止まる。ライブハウスのすべての照明が、上手側にいる遥のシンセサイザーの前へと一斉に集まり、世界が真っ白な光の檻に変わった。
(ここからは、私の時間――!)
遥は深く息を吸い込み、固まった指先を弾くようにして、デジタルシンセ特有の、クリスタルのように澄み切った超高速のアルペジオを炸裂させた。
クラシックのコンクールで培ってきた完璧な運指のテクニック。だけど、今鳴らしているのは誰かに褒められるための綺麗な音なんかじゃない。中学のとき、動画サイトの海の底でたった一行のコメントに殺され、この1年間、優しい母親の檻の中で窒息しそうになっていた、17歳の遥のむき出しの悲鳴そのものだった。
――キィィィン、と響き渡る高音の旋律。
その遥のソロを後ろから支えながら、ドラムセットの奥で全身から大粒の汗を飛び散らせていた巧さんの脳内で、古い記憶のフィルムが激しく逆再生を始めていた。
『佐藤くん、君のドラムは正確だけど、それだけだね。メトロノームみたいで、聴いててちっとも面白くないんだよ』
他校の軽音部の連中や、かつて組んでいたバンドの奴らに何度も言われてきた言葉。無口で、感情を表に出すのが苦手な巧にとって、ドラムのテンポを寸分の狂いもなくキープすることだけが、唯一の存在証明だった。だけど、誰もその「正確さ」を本気で評価してはくれなかった。ただの器用な機械(メトロノーム)だと笑われ、バンドを追い出され、独りぼっちでスティックを握りしめていたあの退屈な放課後。
そんな巧の前に、ある日突然、あのボロボロの黒いギターを担いだ漣が現れたのだ。
『お前のドラム、狂いがなくて最高じゃん。その完璧な手綱でさ、俺の狂ったギターの首輪、後ろから思いきり引っ張ってみせてよ』
初めて、自分の音が機械ではなく「必要不可欠な心臓」だと認められた瞬間だった。
(俺は、メトロノームじゃない。この4人の音をどこまでも加速させる、オルタナティブ・ライトの心臓だ……!)
巧さんの瞳に鋭い狂気的な光が宿り、ドラムスティックの速度がさらに一段階、跳ね上がった。重いスネアの音がライブハウスの壁を物理的に殴りつける。
そのビートに呼応するようにして、今度は徹先輩がベースを思いきり抱え込み、フロントへと一歩踏み出した。
「っしゃあああ! 遥! 漣! 巧! 気持ちよすぎるだろお前ら!!」
徹先輩が弾きながら獣のような声を張り上げる。彼の指先が、ベースの太い弦を千切れんばかりの力で激しく引っ掻いた。
徹先輩の脳裏にも、かつて学校の職員室で、軽音部の顧問から何度も浴びせられた言葉が響いていた。
『新堂、お前はいつも部室でアンプのボリュームを上げすぎる。そんな汚い不協和音ばかり鳴らして、将来どうするつもりだ。もっと周りの音に合わせる協調性を持ちなさい』
合わせろ、綺麗に弾け、枠からはみ出すな。大人の言うその『正解』に従おうとするたびに、徹のベースは死んだように色褪せていった。
けれど、このバンドは違った。漣は「もっと歪ませろ」と笑い、巧はどれだけ暴走しても完璧なビートで後ろから支えてくれ、そして新しく入った遥は、自分のうるさい重低音を殺すどころか、最もエモい浮遊感を持った和音で完璧にその隙間を埋めてみせた。
(大人の言う協調性なんて、知るかよ! 俺たちのこの、お互いのエゴをぶつけ合う不協和音こそが、最高の音楽なんだよ!)
徹先輩が指板の上を狂ったように滑り降り、地を這う重低音のグリッサンドをフロア全体へと叩きつける。観客たちがその重低音の衝撃波を浴びて、狂ったように頭を振り乱すのが見えた。
そして、遥のシンセソロとリズム隊の熱量が最高潮に達した、まさにその瞬間。
「――待たせたな、遥!」
ステージの真ん中で、漣がギターのネックを天へと高く掲げ、ボリュームノブを力任せに回しきった。
キィィィィィィン――!!!
アンプから火花が散るかと思うほどの凄まじいハウリングノイズ。次の瞬間、彼は遥のシンセサイザーの旋律に真っ正面から切り込むようにして、この世で最も激しく、最も切ないギターソロを掻き鳴らし始めた。
漣の脳内を、実家のあの冷え切った、息の詰まる防音室の光景が通り過ぎていく。
天才ピアニストである父親、瀬尾彰一。家の中はいつも、完璧に調律された、1音のミスタッチも許されないクラシックの音しか存在していなかった。
『漣、お前の弾くギターは音楽ではない。ただの騒音だ。五線譜の通りに、寸分の狂いもなく完璧に弾けない人間に、音を鳴らす資格は無い』
父親の冷たい目が、大人の用意した強固な檻が、ずっと漣の魂を絞め殺し続けていた。だからギターを始めた。歪ませて、ノイズを撒き散らして、父親の言う完璧な五線譜をズタズタに引き裂いてやるために。
だけど、どれだけ爆音を鳴らしても、自分の音はただの孤独な悲鳴に過ぎないのではないかと、心のどこかでずっと寂しさを抱えていた。
あの日、放課後の古い音楽室の扉が、壊れるような勢いでぶち開けられるまでは。
理性を失って、クシャクシャの進路票を握りしめて飛び込んできた遥。彼女は漣の汚いギターを聴いて、「泣きたくなるくらい綺麗だった」と言ってくれた。自分の孤独な悲鳴を、初めて『本物だ』と認めてくれた。
(親父……見てるか。俺の横には今、俺の鳴らす歪んだノイズに、世界で一番綺麗な不協和音を重ねてくれる、最高のバディがいるんだよ……!)
漣の指先から、最も鋭い高音のチョーキングが炸裂した。
ギターの悲鳴が、遥のシンセサイザーの旋律と激しく空中で殴り合い、そして完璧に一つに融合していく。
それは、神代玲央の鳴らすような、機械で計算し尽くされた完璧なエレクトロ・ポップでは断じてなかった。
4人の、17歳のやり場のない焦燥感と、悔し涙と、剥き出しのソウルが真っ正面からぶつかり合う、最低で最高の不協和音。 けれど、その泥だらけの音がライブハウスの空間を支配した瞬間、光の海の向こう側にいる何千人もの観客たちは、まるで頭を後ろからハンマーで殴られたかのような衝撃を受け、一斉に涙を流しながら、狂ったように拳を突き上げていた。
遥は、鍵盤を叩きながら、客席の最後列を見つめた。
暗闇の中、母親が、両手で顔を覆いながら、何度も、何度も激しく頭を振って、遥に向かって誰よりも大きな拍手を送ろうとしてくれているのが見えた。
大人の言う正解なんて、どこにもない。
五線譜からはみ出した、この泥だらけの、だけど泣きたくなるほど愛おしい音が、17歳の私たちの、唯一無二の『正解』だ――!
4人の奏でる圧倒的な新曲のメロディが、渋谷の街を、世界を激しく揺らしながら、間奏を抜けて最後のサビへと向かって、全速力で突っ走っていった。



