1,放課後、午後四時半の教室は、まるで黄色い琥珀の中に閉じ込められたかのように静まり返っていた。
西日が斜めの角度から容赦なく差し込み、使い古された木製の机の表面に刻まれた無数の傷や、誰かが落書きを消した跡を白々と浮かび上がらせている。窓から差し込む光の帯の中を、どこからともなく現れた浮遊する埃の粒が、まるで意思を持たない小さな生き物のように頼りなく宙を舞っていた。
ガタガタと、遠くの廊下を駆けていく運動部の誰かの足音が響き、そしてコンクリートの壁の向こうへと遠ざかっていく。その賑やかな残響が完全に消え去った後の静寂は、冷たく、そして重く、遥の剥き出しの肌にまとわりつくようだった。
「……はぁ」
誰もいない教室の、真ん中より少し後ろの席で、遥は本日何度目になるかも分からない深い溜息を吐き出した。
机の上にぽつんと置かれているのは、学校独特の、少しざらついた手触りの藁半紙だ。上部には、まるで太字のゴシック体で『進路希望調査票(第二次)』と冷淡に印刷されている。その下には、定規で厳密に引かれた黒い境界線で区切られた四角い枠が、いくつも綺麗に、規則正しく並んでいた。
第一志望。第二志望。第三志望。 その寸分の狂いもない罫線を見つめていると、遥の視界の隅で、その線がじわじわと形を変え、五本の横線――『五線譜』に変形していくような錯覚に囚われる。
音を閉じ込め、旋律を支配し、決められた枠の中でしか生きることを許さない、強固な鉄格子の檻。
中学の頃の自分なら、この真っ白な紙を前にして、目を輝かせながら迷わず自分の未来を書き込めたはずだった。あの頃の自分にとって、世界はもっとシンプルで、五線譜の上は自由そのものだった。
けれど、十七歳になった今の遥にとって、この紙は自分を世間一般の「正解」という型にはめるための、息苦しい通行許可証にしか見えなかった。
右手につまんだシャーペンが、手のひらの熱で微かに汗ばんでいく。
芯を一本出すために親指でノックすると、静寂を切り裂くように『カチリ』と尖った金属音が響いた。
その小さな音さえも、遥の耳は無意識のうちに「ベースの音がBに寄っているな」と、ドレミの音階に脳内で翻訳してしまう。自分の意思とは関係なく働いてしまうこの『絶対音感』という呪いのような能力が作動するたびに、胸の奥を錆びた針で深く引っ掻かれたような、鈍い痛みが走る。
(もう、やめたって決めたのに。私はもう、ただの普通の高校生なのに)
遥は奥歯を強く噛み締め、思考を強制的に現実へと引き戻した。
頭の中に浮かびそうになる、あのきらびやかで、同時に脳が破裂しそうなほどの絶望に満ちていた、去年の夏のステージの光景。自分の指先から溢れ出ていた、誰にも負けないと信じていたオリジナル曲のメロディ。
当時は、寝る間も惜しんでスマートフォンの作曲アプリに向き合っていた。お小遣いを全て叩いて購入した安物のオーディオインターフェース。ノイズまじりの宅録ボーカル。それでも、自分の作った音楽が世界を変えるかもしれないと本気で信じていた。
しかし、動画共有サイトに投稿した曲の再生数は、一週間経ってもたったの『百二十四』。そのうち半分は、自分でクオリティを確認するためにクリックした再生カウントだった。
それだけならまだ耐えられたかもしれない。致命傷となったのは、唯一ついたコメントだった。
『どこかで聞いたことあるような量産型のメロディ。才能ないから受験勉強したほうがいいよ』
匿名のアカウントから放たれた、たった一行の言葉。それは遥がそれまで積み上げてきた自信を、一瞬で木っ端微塵に打ち砕くには十分すぎる破壊力を持っていた。
プロになるなんて、一握りの、神様に選ばれた天才だけの特権で、自分にはその資格が、最初から一ミリも備わっていなかったのだ。その冷酷な現実を突きつけられるくらいなら、最初から「ただの趣味でした」という顔をして、大人の言う安全なレールの上を歩くほうが、何倍も賢くて、何倍も傷つかない。
書き込むべき言葉は、もう決まっている。
母親が喜び、担任の先生が満足そうな顔で頷き、親戚の大人たちが「さすが遥ちゃん、堅実で賢い選択だね」と太鼓判を押してくれる、極めて模範的で、平坦な文字列。
『○○大学 経済学部 経営学科』
ただそれだけの文字が、どうしても書けない。
シャーペンの先を紙面に近づけるたびに、まるで磁石の同極同士を無理やり近づけたときのような、目に見えない強い反発力が働いて、指先がピクリと拒絶反応を起こすのだ。
頭ではそれが「正解」だと理解しているのに、心臓の鼓動が、それを全力で拒絶していた。
窓の外から、校舎の裏手にある中庭で、吹奏楽部が放課後の練習を始める音が微かに風に乗って届いた。
パァー、というトランペットの、まだピッチの安定しないチューニングの音。それに続いて、木管楽器のたどたどしい音階練習が重なっていく。決して上手な演奏ではない。むしろ、まだ音がひっくり返っているような発展途上の演奏だ。
なのに、その不器用な音が窓ガラスを透過して鼓膜を震わせるたびに、遥の心臓はドクンと嫌な高鳴りを見せる。血が全身を巡り、冷え切っていた身体が勝手に熱を持とうとする。音楽という刺激に対して、細胞が勝手に喜んでしまう。その生理現象そのものが、今の遥には惨めで、仕方がなかった。
「……本当に、うるさいな」
遥は誰に言うでもなく呪詛のように呟き、椅子をガタリと鳴らして立ち上がると、開いていた窓を両手で乱暴に閉めた。
アルミのサッシが大きな音を立てて閉まると、外の音は半分以下に遮断された。それでも完全には消えない。ガラス一枚を隔ててもなお、音楽は遥の鼓膜を、そして魂の輪郭をトントンと執拗にノックし続けてくる。お前は本当にそれでいいのか、と問い詰めるように。
毎日、塾に通った。スマートフォンから作曲アプリをアンインストールし、音楽関係のSNSアカウントもすべて削除した。
それが、十七歳の私が導き出した、これ以上傷つかないための唯一無二の『正解』のはずだった。
遥は深く息を吸い込み、今度こそシャーペンを紙に強く押し当てた。
カサリ、と乾いた音がして、第一志望の枠の中に、大学名の最初の一画目が黒く刻まれる。
その瞬間だった。
バタン――!
静まり返った廊下の奥から、激しく重い扉を開け放つような、心臓に悪い破裂音が響き渡った。
驚いて遥が顔を上げた瞬間、学校のすべてを力技でねじ伏せるような、地響きに似た重苦しいエレキギターのフィードバックノイズが、閉めたはずの窓ガラスをビリビリと震わせながら、遥の鼓膜へと突き刺さってきた。
「な、に……っ?」
それは、吹奏楽部のような統率された綺麗な音では断じてなかった。
耳を塞ぎたくなるほどの爆音、歪みきった不協和音。だが、その暴力的な音の塊の中に、遥の耳は「圧倒的な、むき出しの才能」の輝きを、一瞬で聴き取ってしまっていた。
五線譜から完全にはみ出した、あまりにも凶暴なその音が、遥の偽りの正解を木っ端微塵に打ち砕くように、夕暮れの教室を満たしていった。
2,爆音の残響を背中で聞きながら、遥は逃げるようにして校門を飛び出した。
胸の奥でドクドクと不快な脈を打つ心臓をなだめるように、何度も深く呼吸を繰り返す。けれど、あの歪んだギターの残響は、耳の奥にこびりついて離れてくれなかった。
夕暮れの住宅街を通り抜け、見慣れた建売住宅のドアを開ける。
「ただいま……」
声をかけると、奥のキッチンから、小気味よい包丁の音と、出汁の優しい匂いが漂ってきた。どこにでもある、絵に描いたような平穏で温かい我が家の風景。それが今の遥には、息の詰まる無菌室のように感じられた。
「あ、遥。おかえりなさい。早かったじゃない」
エプロン姿の母親が、穏やかな笑みを浮かべてリビングから顔を出した。
母親はいつも優しい。声を荒らげることもなければ、遥の選択を頭ごなしに否定することもない。けれど、その優しさの裏側には、決して逆らうことを許さない「見えないレール」が敷かれている。
「今日の模試、どうだった? 自己採点、もうしてみた?」
お茶を淹れながら、母親が何気ない口調で尋ねる。その言葉の刃は、悪意がないからこそ、遥の胸に深く、確実に突き刺さる。
「……うん。英語と国語は、いつも通りA判定だと思う。数学が、ちょっと難しかったかな」
「そう。でも遥なら大丈夫よ。あなた、昔からコツコツ頑張る子だもの。お母さん、信じてるからね」
信じてる。
その言葉は、いつから応援ではなく『呪い』に変わってしまったのだろう。
「あ、そうだ。学校から配られた進路希望調査票、もう書いた? 提出、今週中だったでしょう」
母親が冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出しながら、背中で言った。
「……うん。一応、もう書いたよ。お母さんの言ってた、経済学部」
「よかった」
母親が振り返り、本当に安心したような、心からの笑顔を浮かべた。
「やっぱり、女の子もこれからは堅実な資格や、就職に強い学部を選んでおいた方が安心よ。ほら、あなたの中学のときの……あの、音楽の塾?あそこで一緒だった子、覚えている?確か、音楽の専門学校に進んだ子」
母親が記憶を手繰り寄せるように、眉を少しひそめる。
「ああ……美咲ちゃん?」
「そう、その子。風の噂で聞いたんだけどね、やっぱり音楽だけじゃ食べていけなくて、今はフリーターをしながら夜遅くまでバイトしてるんですって。親御さんも本当に苦労されているみたいよ。それを聞くとね、お母さん、あのとき遥が『音楽はもう趣味にする』って自分で決めてくれて、本当にホッとしたの。あなたは賢い子で、本当によかったわ」
カチャリ、と母親が机に置いたグラスの音が、妙に大きく響いた。
遥は視線を落とし、自分の膝の上で握りしめた拳を見つめた。爪が手のひらに食い込んで痛い。
「自分で決めてくれて」
――母親はそう言う。けれど、本当にそうだろうか。
ネットで自分の曲が酷評され、自分の才能の限界に絶望していたあの夜。泣きながら部屋にこもる遥のドアを叩き、母親はこう言ったのだ。
『遥、辛いならもうやめてもいいのよ。お母さんは、あなたが傷つくところを見たくないの。音楽なんて不安定な世界に行かなくても、普通の幸せが一番なんだから』
あの言葉に救われたと思った。傷つくことから逃げるための免罪符をもらったのだと、当時の自分は安堵した。
けれどそれは、遥の音楽の息の根を止める、最も優しくて、最も残酷なトドメの一撃だったのだ。
夕食のテーブルに並ぶのは、肉じゃがと、ほうれん草のお浸し、豆腐のみそ汁。どれも完璧に美味しくて、健康的な、母の愛が詰まった料理。
それを口に運ぶたび、遥の喉の奥は砂を噛むように乾いていった。
「美味しいね」と笑顔を浮かべ、母親の望む『良い娘』を演じ続ける。その一分一秒が、自分の魂を少しずつ削り取っていくような感覚だった。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
勉強机の上には、最新の赤本と、塾の分厚いテキストが綺麗に整頓されて並んでいる。
かつてその場所にあったはずの、小型のキーボードや、楽譜が書き殴られたノートは、クローゼットの暗闇の奥に押し込められたままだ。
スマホを手に取り、無意識のうちに、かつて削除したはずの動画サイトをブラウザで開く。
検索欄に、自分の古い活動名を入力しかけて、指が止まった。
どうせ検索したところで、あの『百二十四』という残酷な数字と、冷酷な批判コメントが残っているだけだ。いまさらそれを見て、何になるというのだろう。
スマホの画面を消し、天井を見つめる。
部屋を暗くすると、昼間の放課後の景色が、そしてあの『爆音』が、再び鮮明に蘇ってきた。
あの音。五線譜を、教科書を、大人の言う『正解』を、文字通り力技でねじ伏せて、粉々に破壊していくような、圧倒的なエレキギターのノイズ。
あの音を鳴らしていたのは、一体誰なのだろう。
なぜあんなにも凶暴で、なのに、泣きたくなるほど綺麗なメロディを紡ぐことができたのだろう。
「……正解なんて、どこにもないくせに」
ベッドの中で、遥はぽつりと呟いた。
母親の言う通りに生きることが正解だと自分に言い聞かせてきた。けれど、その正解を選んだ自分の胸の奥は、どうしてこんなにも冷たく、空っぽなのだろう。
明日、あの進路希望調査票を担任に提出すれば、もう後戻りはできない。私の人生は、完全にあの五本の線の内側に閉じ込められる。
窓の外では、夜の雨が静かに降り始めていた。
ガラスを叩く不規則な雨音が、まるで新しい変拍子のリズムを刻んでいるように聞こえて、遥は朝が来るのが、少しだけ怖くなった。
3,翌朝、世界は灰色に濡れていた。
天気予報の通り、夜半から降り続く雨は勢いを増し、登校する生徒たちの傘を激しく叩いている。校舎のコンクリートは湿気を吸って黒ずみ、廊下には濡れたローファーが残した足跡がいくつも点々と続いていた。
朝のホームルームが始まる直前、遥はカバンの中から、昨日必死の思いで書き上げた『進路希望調査票』を取り出した。
一晩経って乾いたインクで刻まれた『○○大学 経済学部 経営学科』の文字。それはまるで、自分の未来をきれいに屠殺して、四角いプラスチックのパックに詰め込んだかのように冷機を放っている。
「宮園、進路票、まだ出してないの、お前だけだぞ。今日の放課後までに必ず職員室に持ってこいよ」
担任の男が、出席簿で教卓を叩きながら面倒そうに言った。
「……はい。放課後、お持ちします」
遥は愛想笑いを張り付け、小さく頭を下げた。
授業中も、ノートを取る遥の指先はどこか冷え切っていた。
黒板を叩くチョークの音。教師の単調な声。それらすべての日常のノイズが、今の遥には自分をゆっくりと絞め殺していく真綿のように感じられる。
時計の針が、一歩ずつ、確実に放課後という『処刑の時刻』へ向かって進んでいく。
そして、最後のチャイムが鳴った。
放課後。クラスメイトたちが部活や塾へと散っていく中、遥は進路票を右手に持ち、誰もいない廊下を一人、職員室に向かって歩いていた。
この階段を下りて、廊下を曲がり、職員室の重いドアを開けて、これを提出する。
ただそれだけの動作で、私の17歳は終わる。音楽を諦めた、従順で賢い、大人の言う『正解』のレールの上の住人になる。
――その時だった。
ズゥン……と、校舎の底から突き上げてくるような、地響きがした。
昨日と同じだ。いや、昨日よりもさらに近く、さらに暴力的な、エレキギターの咆哮。
鼓膜を直接つかんで揺さぶるような、歪みきったディストーションノイズ。それは階段の吹き抜けを伝って、校舎全体を激しく震わせながら、遥の元へと届いた。
心臓が、跳ねる。
提出するはずの藁半紙を持つ指先が、ガタガタと震え出した。
耳が、脳が、細胞が、その音を拒絶できない。
吹奏楽の綺麗な音階ではない。楽譜通りに弾く優等生の演奏でもない。
それは、五線譜の枠を力任せに引きちぎり、インクをぶちまけたような、あまりにも不器用で、圧倒的に自由な、むき出しの悲鳴だった。
(また、あの音だ……)
気がついた時には、遥の足は職員室とは真逆の方向へ動いていた。
理性は「止めろ」と叫んでいた。今すぐ職員室に行って紙を出せば、傷つかない平穏な未来が手に入る。あの音に関われば、またあの日の挫折と絶望の泥沼に引きずり戻される。
頭では分かっているのに、ローファーの踵がコンクリートを蹴る速度は、どんどん上がっていった。
歩きが、早足になり、やがて全力の疾走に変わる。
右手に握りしめた進路希望調査票が、風圧でクシャリと歪んでいく。そんなことはどうでもよかった。
息が苦しい。胸が痛い。だけど、心臓がこんなにも熱く拍動したのは、音楽を捨ててからのこの1年間で、間違いなく初めてだった。
音の鳴る方へ。あの、自分を五線譜の檻から連れ出してくれそうな、暴力的な光の方へ。
遥は階段を駆け上がり、特別棟の最上階、普段は誰も使っていないはずの旧音楽室の前にたどり着いた。
重い木製の引き戸の隙間から、漏れ出てくる光と、破裂しそうなほどの音の塊。 遥は呼吸を整えることも忘れ、両手でその扉を、勢いよくぶち開けた。
バタン……っ!
夕闇が迫る薄暗い音楽室の中、雨の光を背に受けて、一人の少年が立っていた。
ボロボロの、ステッカーだらけの黒いエレキギターを低い位置で構え、アンプから火花が散るほどの爆音を鳴らしている。
濡れて額に張り付いた乱雑な黒髪。制服のネクタイは緩められ、シャツの袖は乱暴に捲り上げられている。
扉が開いた音に気づき、少年がギターの弦を右手でミュートした。
キィィィン……というハウリングの残響だけが、静まり返った部屋に冷たく響く。
少年が、ゆっくりと振り返った。
鋭い、けれどどこか退屈そうな、冷たい切れ刃のような瞳が、遥を真っ直ぐに射抜く。
軽音部のスター、瀬尾漣。
学校中でその名を知らない者はいない、教師たちの手を焼かせる、はみ出し者の問題児。
「……誰?」
漣は、低く掠れた声で呟いた。その視線が、遥の右手にある、クシャクシャに握りつぶされた『進路希望調査票』へと落ちる。 遥は肩で息をしながら、言葉を探した。けれど、喉がカピカピに干からびて、上手く声が出ない。
「あ、あの……あなたの、今の、ギター……」
漣はフッと鼻で笑うと、ギターのボリュームノブを雑に回した。
「うるさかった? 悪りぃな。苦情なら、職員室のセンコーに言ってくれよ。どうせ俺の出す音なんて、あいつらにとっちゃ一ミリも『正解』じゃないからさ」
その言葉を聞いた瞬間、遥の胸の奥で、何かがパチンと弾けた。
「……違う」
「あ?」
「違う。正解じゃない。あなたの今のコード進行、サビの前で4度マイナーに落ちてた。あんなの、教科書通りの綺麗なポップスじゃ、絶対に悪手だし、不協和音ギリギリの、ただのはみ出し者。……だけど」
遥は一歩、音楽室の埃っぽい床を踏み締めた。
「だけど、めちゃくちゃ綺麗だった。五線譜から、完全に、はみ出してるのに……泣きたくなるくらい、私の耳に、刺さった」
漣の瞳が、わずかに見開かれた。
退屈そうだったその瞳の奥に、初めて、鋭い猛獣のような光が宿る。
漣はゆっくりとギターを机に立てかけると、遥の目の前まで歩いてきて、その顔を覗き込んだ。
「へぇ。お前、面白い耳してんじゃん」
漣が、遥の手からクシャクシャの進路票をひょいと奪い取った。
「あ、返して……!」
「『経済学部』? ハッ、つまんね。お前、こんなクソみたいな紙の中に、自分の音、閉じ込めるつもりだったわけ?」
漣はそう言うと、遥の目の前で、その進路票を躊躇なく真っ二つに破り捨てた。
「あ――」
ビリビリと音を立てて、大人の正解が、白い紙吹雪となって床に散る。
呆然とする遥の手首を、漣の、ギターの弦で固くなった熱い指先が、強く、拒絶を許さない力で掴んだ。
「おい、お前。名前は?」
「……みや、ぞの。宮園、遥」
「よし、遥。お前のその耳、俺にくれよ。俺たちの音楽に、お前の『はみ出した正解』を混ぜてくれ」
窓の外の激しい雨音が、まるで二人の始まりを祝うオーケストラのように、旧音楽室のガラスを激しく叩き鳴らしていた。
西日が斜めの角度から容赦なく差し込み、使い古された木製の机の表面に刻まれた無数の傷や、誰かが落書きを消した跡を白々と浮かび上がらせている。窓から差し込む光の帯の中を、どこからともなく現れた浮遊する埃の粒が、まるで意思を持たない小さな生き物のように頼りなく宙を舞っていた。
ガタガタと、遠くの廊下を駆けていく運動部の誰かの足音が響き、そしてコンクリートの壁の向こうへと遠ざかっていく。その賑やかな残響が完全に消え去った後の静寂は、冷たく、そして重く、遥の剥き出しの肌にまとわりつくようだった。
「……はぁ」
誰もいない教室の、真ん中より少し後ろの席で、遥は本日何度目になるかも分からない深い溜息を吐き出した。
机の上にぽつんと置かれているのは、学校独特の、少しざらついた手触りの藁半紙だ。上部には、まるで太字のゴシック体で『進路希望調査票(第二次)』と冷淡に印刷されている。その下には、定規で厳密に引かれた黒い境界線で区切られた四角い枠が、いくつも綺麗に、規則正しく並んでいた。
第一志望。第二志望。第三志望。 その寸分の狂いもない罫線を見つめていると、遥の視界の隅で、その線がじわじわと形を変え、五本の横線――『五線譜』に変形していくような錯覚に囚われる。
音を閉じ込め、旋律を支配し、決められた枠の中でしか生きることを許さない、強固な鉄格子の檻。
中学の頃の自分なら、この真っ白な紙を前にして、目を輝かせながら迷わず自分の未来を書き込めたはずだった。あの頃の自分にとって、世界はもっとシンプルで、五線譜の上は自由そのものだった。
けれど、十七歳になった今の遥にとって、この紙は自分を世間一般の「正解」という型にはめるための、息苦しい通行許可証にしか見えなかった。
右手につまんだシャーペンが、手のひらの熱で微かに汗ばんでいく。
芯を一本出すために親指でノックすると、静寂を切り裂くように『カチリ』と尖った金属音が響いた。
その小さな音さえも、遥の耳は無意識のうちに「ベースの音がBに寄っているな」と、ドレミの音階に脳内で翻訳してしまう。自分の意思とは関係なく働いてしまうこの『絶対音感』という呪いのような能力が作動するたびに、胸の奥を錆びた針で深く引っ掻かれたような、鈍い痛みが走る。
(もう、やめたって決めたのに。私はもう、ただの普通の高校生なのに)
遥は奥歯を強く噛み締め、思考を強制的に現実へと引き戻した。
頭の中に浮かびそうになる、あのきらびやかで、同時に脳が破裂しそうなほどの絶望に満ちていた、去年の夏のステージの光景。自分の指先から溢れ出ていた、誰にも負けないと信じていたオリジナル曲のメロディ。
当時は、寝る間も惜しんでスマートフォンの作曲アプリに向き合っていた。お小遣いを全て叩いて購入した安物のオーディオインターフェース。ノイズまじりの宅録ボーカル。それでも、自分の作った音楽が世界を変えるかもしれないと本気で信じていた。
しかし、動画共有サイトに投稿した曲の再生数は、一週間経ってもたったの『百二十四』。そのうち半分は、自分でクオリティを確認するためにクリックした再生カウントだった。
それだけならまだ耐えられたかもしれない。致命傷となったのは、唯一ついたコメントだった。
『どこかで聞いたことあるような量産型のメロディ。才能ないから受験勉強したほうがいいよ』
匿名のアカウントから放たれた、たった一行の言葉。それは遥がそれまで積み上げてきた自信を、一瞬で木っ端微塵に打ち砕くには十分すぎる破壊力を持っていた。
プロになるなんて、一握りの、神様に選ばれた天才だけの特権で、自分にはその資格が、最初から一ミリも備わっていなかったのだ。その冷酷な現実を突きつけられるくらいなら、最初から「ただの趣味でした」という顔をして、大人の言う安全なレールの上を歩くほうが、何倍も賢くて、何倍も傷つかない。
書き込むべき言葉は、もう決まっている。
母親が喜び、担任の先生が満足そうな顔で頷き、親戚の大人たちが「さすが遥ちゃん、堅実で賢い選択だね」と太鼓判を押してくれる、極めて模範的で、平坦な文字列。
『○○大学 経済学部 経営学科』
ただそれだけの文字が、どうしても書けない。
シャーペンの先を紙面に近づけるたびに、まるで磁石の同極同士を無理やり近づけたときのような、目に見えない強い反発力が働いて、指先がピクリと拒絶反応を起こすのだ。
頭ではそれが「正解」だと理解しているのに、心臓の鼓動が、それを全力で拒絶していた。
窓の外から、校舎の裏手にある中庭で、吹奏楽部が放課後の練習を始める音が微かに風に乗って届いた。
パァー、というトランペットの、まだピッチの安定しないチューニングの音。それに続いて、木管楽器のたどたどしい音階練習が重なっていく。決して上手な演奏ではない。むしろ、まだ音がひっくり返っているような発展途上の演奏だ。
なのに、その不器用な音が窓ガラスを透過して鼓膜を震わせるたびに、遥の心臓はドクンと嫌な高鳴りを見せる。血が全身を巡り、冷え切っていた身体が勝手に熱を持とうとする。音楽という刺激に対して、細胞が勝手に喜んでしまう。その生理現象そのものが、今の遥には惨めで、仕方がなかった。
「……本当に、うるさいな」
遥は誰に言うでもなく呪詛のように呟き、椅子をガタリと鳴らして立ち上がると、開いていた窓を両手で乱暴に閉めた。
アルミのサッシが大きな音を立てて閉まると、外の音は半分以下に遮断された。それでも完全には消えない。ガラス一枚を隔ててもなお、音楽は遥の鼓膜を、そして魂の輪郭をトントンと執拗にノックし続けてくる。お前は本当にそれでいいのか、と問い詰めるように。
毎日、塾に通った。スマートフォンから作曲アプリをアンインストールし、音楽関係のSNSアカウントもすべて削除した。
それが、十七歳の私が導き出した、これ以上傷つかないための唯一無二の『正解』のはずだった。
遥は深く息を吸い込み、今度こそシャーペンを紙に強く押し当てた。
カサリ、と乾いた音がして、第一志望の枠の中に、大学名の最初の一画目が黒く刻まれる。
その瞬間だった。
バタン――!
静まり返った廊下の奥から、激しく重い扉を開け放つような、心臓に悪い破裂音が響き渡った。
驚いて遥が顔を上げた瞬間、学校のすべてを力技でねじ伏せるような、地響きに似た重苦しいエレキギターのフィードバックノイズが、閉めたはずの窓ガラスをビリビリと震わせながら、遥の鼓膜へと突き刺さってきた。
「な、に……っ?」
それは、吹奏楽部のような統率された綺麗な音では断じてなかった。
耳を塞ぎたくなるほどの爆音、歪みきった不協和音。だが、その暴力的な音の塊の中に、遥の耳は「圧倒的な、むき出しの才能」の輝きを、一瞬で聴き取ってしまっていた。
五線譜から完全にはみ出した、あまりにも凶暴なその音が、遥の偽りの正解を木っ端微塵に打ち砕くように、夕暮れの教室を満たしていった。
2,爆音の残響を背中で聞きながら、遥は逃げるようにして校門を飛び出した。
胸の奥でドクドクと不快な脈を打つ心臓をなだめるように、何度も深く呼吸を繰り返す。けれど、あの歪んだギターの残響は、耳の奥にこびりついて離れてくれなかった。
夕暮れの住宅街を通り抜け、見慣れた建売住宅のドアを開ける。
「ただいま……」
声をかけると、奥のキッチンから、小気味よい包丁の音と、出汁の優しい匂いが漂ってきた。どこにでもある、絵に描いたような平穏で温かい我が家の風景。それが今の遥には、息の詰まる無菌室のように感じられた。
「あ、遥。おかえりなさい。早かったじゃない」
エプロン姿の母親が、穏やかな笑みを浮かべてリビングから顔を出した。
母親はいつも優しい。声を荒らげることもなければ、遥の選択を頭ごなしに否定することもない。けれど、その優しさの裏側には、決して逆らうことを許さない「見えないレール」が敷かれている。
「今日の模試、どうだった? 自己採点、もうしてみた?」
お茶を淹れながら、母親が何気ない口調で尋ねる。その言葉の刃は、悪意がないからこそ、遥の胸に深く、確実に突き刺さる。
「……うん。英語と国語は、いつも通りA判定だと思う。数学が、ちょっと難しかったかな」
「そう。でも遥なら大丈夫よ。あなた、昔からコツコツ頑張る子だもの。お母さん、信じてるからね」
信じてる。
その言葉は、いつから応援ではなく『呪い』に変わってしまったのだろう。
「あ、そうだ。学校から配られた進路希望調査票、もう書いた? 提出、今週中だったでしょう」
母親が冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出しながら、背中で言った。
「……うん。一応、もう書いたよ。お母さんの言ってた、経済学部」
「よかった」
母親が振り返り、本当に安心したような、心からの笑顔を浮かべた。
「やっぱり、女の子もこれからは堅実な資格や、就職に強い学部を選んでおいた方が安心よ。ほら、あなたの中学のときの……あの、音楽の塾?あそこで一緒だった子、覚えている?確か、音楽の専門学校に進んだ子」
母親が記憶を手繰り寄せるように、眉を少しひそめる。
「ああ……美咲ちゃん?」
「そう、その子。風の噂で聞いたんだけどね、やっぱり音楽だけじゃ食べていけなくて、今はフリーターをしながら夜遅くまでバイトしてるんですって。親御さんも本当に苦労されているみたいよ。それを聞くとね、お母さん、あのとき遥が『音楽はもう趣味にする』って自分で決めてくれて、本当にホッとしたの。あなたは賢い子で、本当によかったわ」
カチャリ、と母親が机に置いたグラスの音が、妙に大きく響いた。
遥は視線を落とし、自分の膝の上で握りしめた拳を見つめた。爪が手のひらに食い込んで痛い。
「自分で決めてくれて」
――母親はそう言う。けれど、本当にそうだろうか。
ネットで自分の曲が酷評され、自分の才能の限界に絶望していたあの夜。泣きながら部屋にこもる遥のドアを叩き、母親はこう言ったのだ。
『遥、辛いならもうやめてもいいのよ。お母さんは、あなたが傷つくところを見たくないの。音楽なんて不安定な世界に行かなくても、普通の幸せが一番なんだから』
あの言葉に救われたと思った。傷つくことから逃げるための免罪符をもらったのだと、当時の自分は安堵した。
けれどそれは、遥の音楽の息の根を止める、最も優しくて、最も残酷なトドメの一撃だったのだ。
夕食のテーブルに並ぶのは、肉じゃがと、ほうれん草のお浸し、豆腐のみそ汁。どれも完璧に美味しくて、健康的な、母の愛が詰まった料理。
それを口に運ぶたび、遥の喉の奥は砂を噛むように乾いていった。
「美味しいね」と笑顔を浮かべ、母親の望む『良い娘』を演じ続ける。その一分一秒が、自分の魂を少しずつ削り取っていくような感覚だった。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
勉強机の上には、最新の赤本と、塾の分厚いテキストが綺麗に整頓されて並んでいる。
かつてその場所にあったはずの、小型のキーボードや、楽譜が書き殴られたノートは、クローゼットの暗闇の奥に押し込められたままだ。
スマホを手に取り、無意識のうちに、かつて削除したはずの動画サイトをブラウザで開く。
検索欄に、自分の古い活動名を入力しかけて、指が止まった。
どうせ検索したところで、あの『百二十四』という残酷な数字と、冷酷な批判コメントが残っているだけだ。いまさらそれを見て、何になるというのだろう。
スマホの画面を消し、天井を見つめる。
部屋を暗くすると、昼間の放課後の景色が、そしてあの『爆音』が、再び鮮明に蘇ってきた。
あの音。五線譜を、教科書を、大人の言う『正解』を、文字通り力技でねじ伏せて、粉々に破壊していくような、圧倒的なエレキギターのノイズ。
あの音を鳴らしていたのは、一体誰なのだろう。
なぜあんなにも凶暴で、なのに、泣きたくなるほど綺麗なメロディを紡ぐことができたのだろう。
「……正解なんて、どこにもないくせに」
ベッドの中で、遥はぽつりと呟いた。
母親の言う通りに生きることが正解だと自分に言い聞かせてきた。けれど、その正解を選んだ自分の胸の奥は、どうしてこんなにも冷たく、空っぽなのだろう。
明日、あの進路希望調査票を担任に提出すれば、もう後戻りはできない。私の人生は、完全にあの五本の線の内側に閉じ込められる。
窓の外では、夜の雨が静かに降り始めていた。
ガラスを叩く不規則な雨音が、まるで新しい変拍子のリズムを刻んでいるように聞こえて、遥は朝が来るのが、少しだけ怖くなった。
3,翌朝、世界は灰色に濡れていた。
天気予報の通り、夜半から降り続く雨は勢いを増し、登校する生徒たちの傘を激しく叩いている。校舎のコンクリートは湿気を吸って黒ずみ、廊下には濡れたローファーが残した足跡がいくつも点々と続いていた。
朝のホームルームが始まる直前、遥はカバンの中から、昨日必死の思いで書き上げた『進路希望調査票』を取り出した。
一晩経って乾いたインクで刻まれた『○○大学 経済学部 経営学科』の文字。それはまるで、自分の未来をきれいに屠殺して、四角いプラスチックのパックに詰め込んだかのように冷機を放っている。
「宮園、進路票、まだ出してないの、お前だけだぞ。今日の放課後までに必ず職員室に持ってこいよ」
担任の男が、出席簿で教卓を叩きながら面倒そうに言った。
「……はい。放課後、お持ちします」
遥は愛想笑いを張り付け、小さく頭を下げた。
授業中も、ノートを取る遥の指先はどこか冷え切っていた。
黒板を叩くチョークの音。教師の単調な声。それらすべての日常のノイズが、今の遥には自分をゆっくりと絞め殺していく真綿のように感じられる。
時計の針が、一歩ずつ、確実に放課後という『処刑の時刻』へ向かって進んでいく。
そして、最後のチャイムが鳴った。
放課後。クラスメイトたちが部活や塾へと散っていく中、遥は進路票を右手に持ち、誰もいない廊下を一人、職員室に向かって歩いていた。
この階段を下りて、廊下を曲がり、職員室の重いドアを開けて、これを提出する。
ただそれだけの動作で、私の17歳は終わる。音楽を諦めた、従順で賢い、大人の言う『正解』のレールの上の住人になる。
――その時だった。
ズゥン……と、校舎の底から突き上げてくるような、地響きがした。
昨日と同じだ。いや、昨日よりもさらに近く、さらに暴力的な、エレキギターの咆哮。
鼓膜を直接つかんで揺さぶるような、歪みきったディストーションノイズ。それは階段の吹き抜けを伝って、校舎全体を激しく震わせながら、遥の元へと届いた。
心臓が、跳ねる。
提出するはずの藁半紙を持つ指先が、ガタガタと震え出した。
耳が、脳が、細胞が、その音を拒絶できない。
吹奏楽の綺麗な音階ではない。楽譜通りに弾く優等生の演奏でもない。
それは、五線譜の枠を力任せに引きちぎり、インクをぶちまけたような、あまりにも不器用で、圧倒的に自由な、むき出しの悲鳴だった。
(また、あの音だ……)
気がついた時には、遥の足は職員室とは真逆の方向へ動いていた。
理性は「止めろ」と叫んでいた。今すぐ職員室に行って紙を出せば、傷つかない平穏な未来が手に入る。あの音に関われば、またあの日の挫折と絶望の泥沼に引きずり戻される。
頭では分かっているのに、ローファーの踵がコンクリートを蹴る速度は、どんどん上がっていった。
歩きが、早足になり、やがて全力の疾走に変わる。
右手に握りしめた進路希望調査票が、風圧でクシャリと歪んでいく。そんなことはどうでもよかった。
息が苦しい。胸が痛い。だけど、心臓がこんなにも熱く拍動したのは、音楽を捨ててからのこの1年間で、間違いなく初めてだった。
音の鳴る方へ。あの、自分を五線譜の檻から連れ出してくれそうな、暴力的な光の方へ。
遥は階段を駆け上がり、特別棟の最上階、普段は誰も使っていないはずの旧音楽室の前にたどり着いた。
重い木製の引き戸の隙間から、漏れ出てくる光と、破裂しそうなほどの音の塊。 遥は呼吸を整えることも忘れ、両手でその扉を、勢いよくぶち開けた。
バタン……っ!
夕闇が迫る薄暗い音楽室の中、雨の光を背に受けて、一人の少年が立っていた。
ボロボロの、ステッカーだらけの黒いエレキギターを低い位置で構え、アンプから火花が散るほどの爆音を鳴らしている。
濡れて額に張り付いた乱雑な黒髪。制服のネクタイは緩められ、シャツの袖は乱暴に捲り上げられている。
扉が開いた音に気づき、少年がギターの弦を右手でミュートした。
キィィィン……というハウリングの残響だけが、静まり返った部屋に冷たく響く。
少年が、ゆっくりと振り返った。
鋭い、けれどどこか退屈そうな、冷たい切れ刃のような瞳が、遥を真っ直ぐに射抜く。
軽音部のスター、瀬尾漣。
学校中でその名を知らない者はいない、教師たちの手を焼かせる、はみ出し者の問題児。
「……誰?」
漣は、低く掠れた声で呟いた。その視線が、遥の右手にある、クシャクシャに握りつぶされた『進路希望調査票』へと落ちる。 遥は肩で息をしながら、言葉を探した。けれど、喉がカピカピに干からびて、上手く声が出ない。
「あ、あの……あなたの、今の、ギター……」
漣はフッと鼻で笑うと、ギターのボリュームノブを雑に回した。
「うるさかった? 悪りぃな。苦情なら、職員室のセンコーに言ってくれよ。どうせ俺の出す音なんて、あいつらにとっちゃ一ミリも『正解』じゃないからさ」
その言葉を聞いた瞬間、遥の胸の奥で、何かがパチンと弾けた。
「……違う」
「あ?」
「違う。正解じゃない。あなたの今のコード進行、サビの前で4度マイナーに落ちてた。あんなの、教科書通りの綺麗なポップスじゃ、絶対に悪手だし、不協和音ギリギリの、ただのはみ出し者。……だけど」
遥は一歩、音楽室の埃っぽい床を踏み締めた。
「だけど、めちゃくちゃ綺麗だった。五線譜から、完全に、はみ出してるのに……泣きたくなるくらい、私の耳に、刺さった」
漣の瞳が、わずかに見開かれた。
退屈そうだったその瞳の奥に、初めて、鋭い猛獣のような光が宿る。
漣はゆっくりとギターを机に立てかけると、遥の目の前まで歩いてきて、その顔を覗き込んだ。
「へぇ。お前、面白い耳してんじゃん」
漣が、遥の手からクシャクシャの進路票をひょいと奪い取った。
「あ、返して……!」
「『経済学部』? ハッ、つまんね。お前、こんなクソみたいな紙の中に、自分の音、閉じ込めるつもりだったわけ?」
漣はそう言うと、遥の目の前で、その進路票を躊躇なく真っ二つに破り捨てた。
「あ――」
ビリビリと音を立てて、大人の正解が、白い紙吹雪となって床に散る。
呆然とする遥の手首を、漣の、ギターの弦で固くなった熱い指先が、強く、拒絶を許さない力で掴んだ。
「おい、お前。名前は?」
「……みや、ぞの。宮園、遥」
「よし、遥。お前のその耳、俺にくれよ。俺たちの音楽に、お前の『はみ出した正解』を混ぜてくれ」
窓の外の激しい雨音が、まるで二人の始まりを祝うオーケストラのように、旧音楽室のガラスを激しく叩き鳴らしていた。



