五線譜からはみ出した、17歳の正解

1,  放課後の第一音楽室は、西日に染まった埃が、まるで電子の海に漂うノイズのようにきらきらと踊っていた。

ガタゴトと遠くから聞こえる運動部の掛け声や、廊下を駆けていく誰かのローファーの足音。そんな「正しい高校生の日常」から逃げるようにして、私は防音扉をそっと閉め、鍵をかけた。ここは、私の歪んだ秘密基地だ。

クラスでの私は、いつもスマホを眺めているだけの、背景の一部みたいな女子高生――宮園遥、17歳。
だけど、このリュックの中に押し込まれたノートパソコンを開く時だけは、私は世界のすべてを支配する神様になれた。

「………よし」

机の中にパソコンを広げ、オーディオインターフェースに安物のコンデンサーマイクを繋ぐ。イヤホンを耳の奥まで押し込むと、さっきまで聞こえていた世界の雑音が、一瞬でシャットアウトされた。
画面の中で明滅する、私が徹夜で打ち込んだDTMのトラック。ドラムの重低音、歪んだベース、そして焦燥感を煽るようなシンセサイザーの旋律。
マウスをクリックすると、私の心臓の鼓動を追い越すような激しいビートが鼓膜を殴りつけてきた。

私はゆっくりと息を吸い込む。
学校での、誰の目にも留まらない「地味な私」の殻をバリバリと脱ぎ捨てるように、マイクに向かって声を乗せた。

「―――♪」

私の喉から溢れ出たのは、普段のぼそぼそとした話し声からは想像もつかない、鋭く、鋭利な刃物のようなボーカルだった。
歌詞は、昨日の夜、部屋の隅でノートに書き殴ったもの。
『正しい未来の歩き方なんて  誰も教えてくれなかった  正解の標識はいつだって  大人の都合で書き換えられる』
そんな、誰にも言えない、だけど心の中でずっと燻っている17歳の焦燥感を、メロディに乗せて吐き出していく。

音楽だけが、私を証明してくれる。
音楽だけが、私の割り切れない心を肯定してくれる。

サビの最高音を、胸を締め付けるような切なさを込めて歌いきった、その時だった。
ガラリ、と背後の防音扉が乱暴に開いた。

「――っ⁉」

心臓が口から飛び出るかと思った。ハッと振り返ると、そこには夕日を背に浴びて、信じられないという顔で立ち尽くす男子生徒がいた。
整えられたマッシュヘア、着崩した制服。クラスの中心でいつも笑っている、軽音部のスター―――瀬尾漣だった。

「……うわ、鳥肌たった」

漣は右手に持っていたギターストラップを床に落としたのも忘れ、ただ呆然と私を凝視していた。イヤホンの片方が外れ、私の耳元でシャカシャカと虚しくビートが鳴り響いている。

「今の……宮園が作った曲?お前、そんな声で歌うんだな……」

彼の言葉が、私の脳内に冷水を浴びせかけた。
見られた。聴かれた。私の、一番泥臭くて、一番見られたくなかった、生身の魂の叫びを。

「……聴かなかったことにして」

パニックになりながら、私はコードを引き抜き、パソコンを乱暴に閉じた。機材を鞄に押し込む指先が、情けないくらいに震えている。

「待てよ、宮園!今の曲、めちゃくちゃヤバいって。サビのメロディとか、頭から離れないんだけど――」
「ただの趣味だから!」

私は漣の言葉を遮るように叫んだ。音楽室の壁に、私の鋭い声が虚しく反響する。

「どうせ、ただの自己満足。音楽でお金なんて稼げないし、一握りの天才しかプロになれないなんて分かってる。私はもう、現実を見るって決めたの。だから……もう二度と、私に話しかけないで」

漣が何かを言おうと手を伸ばしたが、私はそれをすり抜け、這う這うの体で音楽室を飛び出した。廊下を走る私の耳の奥で、自分の血流の音が、激しいノイズのように鳴り響いていた。



2,  その夜、私の部屋は、パソコンのブルーライトだけで青白く照らされていた。
画面に表示されているのは、動画サイトに匿名で投稿した、私の最新曲。
投稿から丸一日が経った現在の再生数は、液晶画面の隅に静かに佇んでいた。

【再生数:14回】

「……ほらね」

自嘲気味な笑いが、狭い部屋に落ちる。
タイムラインを開けば、同い年で何百万回も再生されているボカロPや、SNSでバズってメジャーデビューを決めた女子高生シンガーのニュースが嫌でも目に入る。
画面の向こう側とこちら側。世界は完全に切り離されている。
あんなに指先を震わせ、心臓を削るようにして紡いだ言葉も、ネットの海に放り投げられば、誰にも見つからないまま一瞬で沈んでいく。

音楽でお金なんて稼げない。
プロになれるのは、あの一握りの天才たちだけだ。
才能のない人間の音楽なんて、ただの自己満足。誰の耳にも届かない、ただの雑音。
昼間、音楽室で漣に言い放った言葉は、彼に向けたものであると同時に、自分自身に言い聞かせるための冷たい現実だった。

「……諦めるのが、正解なんだから」

声に出すと、胸の奥がチクリと痛んだ。
ヘッドホンを外し、机の上に放り出す。静まり返った部屋に、雨が窓を叩く音だけが響く。
諦めて、周りと同じように受験勉強をして、普通の大人になる。それが17歳の私に許された、唯一の正しい未来のはずだった。

その時、机の上でスマートフォンが激しく震えた。
画面に表示されたのは、登録した覚えのない連絡先からの通知。

『瀬尾 漣』

心臓がドクリと跳ねた。
昼間、音楽室で彼が無理やり交換してきたメッセージアプリの画面。恐る恐るタップすると、短いテキストと一緒に、一つの動画ファイルが添付されていた。

『宮園の曲、コード進行だけ耳コピして、勝手にアレンジしてみた』

息を呑む。
添付された動画を再生すると、少しノイズの混じったアコースティックギターの音が流れてきた。
背景に映っているのは、おそらく彼の部屋だ。軽音部のスターにふさわしい、高価な楽器や機材が並ぶ部屋の真ん中で、漣がギターを抱えて座っている。

「―――♪」

画面の中の彼が、弦を弾いた。
私がDTMで作った、あの再生数14回の曲。
冷たいデジタルビートだったはずのメロディが、彼の指先によって、泥臭く、だけど圧倒的に熱いアコースティックの響きへと生まれ変わっていく。

そして、漣が歌い始めた。
私の書いた、誰にも言えない弱音と、叫びのような歌詞を。

クラスの誰もが憧れる彼の歌声は、私の作った拙いメロディを、驚くほどに鮮やかに、力強く肯定していく。
いつも完璧な笑顔を崩さない漣が、前髪を振り乱し、必死な顔で私の曲を歌っている。
ワンコーラスを歌いきると、漣はふう、と息を吐き、カメラを真っ直ぐに見つめた。

『やっぱり、めちゃくちゃいい曲じゃん。なぁ、宮園。こんなところで終わらせるなよ』

動画はそこで途切れた。

暗転したスマートフォンの画面に、自分の呆然とした顔が映っている。
外したはずのヘッドホンの残響のように、彼の歌声が耳の奥から離れない。

ただの自己満足だと切り捨てたはずの音が。
1円にもならないと諦めたはずの言葉が。
学校で一番、光の中にいる男の子の心に、確かに届いていた。

窓の外の雨音が、いつの間にか激しくなっている。
私の胸の奥で、冷え切っていたはずの「17ヘルツの熱量」が、再び静かに拍動を始めていた。



3,  翌朝、学校へ向かう足取りは、いつになく重かった。
寝不足のせいだけじゃない。昨夜、スマホの画面越しに浴びた漣の歌声と、あの真っ直ぐな言葉が、今も心臓の奥をジリジリと焦がしているからだ。

(あんなの、ずるい)

イヤホンから流れていたのは。漣が所属するバンドのライブ動画だった。画面の中の彼は、ベースを低く構え、信じられないくらい楽しそうに、そして圧倒的な熱量でステップを踏んでいた。
ただの趣味、なんて生ぬるい言葉じゃ到底括れない。あれが「本気」の輝きだ。
あんなものを見せつけられたら、自分の作っている音楽が、ただの『おままごと』のように思えてくる。

「……趣味で十分だって、思ってるのに」

通学路の坂道を上りながら、私は小さく息を吐いた。
安全に大学へ行って、普通の就職をして、普通に生きていく。それが一番傷つかないし、親も安心する「正解」のルートのはずだ。
なのに、私の心は、漣のあの真っ直ぐな言葉――『こんなところで終わらせるなよ』――に、どうしようもなく引っ張られている。

学校の昇降口に入り、上履きに履き替える。
できるだけ漣と顔を合わせないように、気配を消して教室へ向かおうとした、その時だった。

「よ。おはよう、遥」

背後から、昨日と同じ、少し低いけれどよく通る声がした。
心臓がドクリと跳ねる。恐る恐る振り返ると、下駄箱に寄りかかるようにして立つ漣の姿があった。昨日動画で見た「ステージの上のスター」が、寝癖のついた制服姿でそこにいる。

「せ、瀬尾くん……なんでここに」
「お前を待ってたんだよ」

漣は事も無げに言って、私の前に歩み寄ってきた。周りの生徒たちが「え、何あれ?」という目でこちらを見ているのがわかる。学校の有名人に話しかけられているのだから、当然だ。

「ちょっと、場所変えよう」

私は慌てて漣の制服の袖を引っ張り、人目の少ない階段の踊り場まで連れて行った。

「あのね、昨日も言ったけど、私はただの趣味でやってるだけだから。本気でバンドとか、そういうのもやるつもりないの。私は安全に大学に行くって決めてるの!」

一気にまくし立てた私を、漣は遮ることもせず、じっと見つめていた。その瞳が、昨夜動画で見た時と同じ、強い光を放っている。

「大学に行ったら、その歌は捨てんの?」

漣の短い問いに、私は言葉を詰まらせた。

「捨てない、と思う。……でも、サークルとかで、細々と続ければそれでいいし」
「嘘だな」

漣は一歩、距離を詰めた。彼の持つ独特の空気感に、気圧されそうになる。

「お前の曲、何度も聴いた。あの曲が作れる奴が、趣味で満足できるわけがない。お前はただ、本気になるのが怖いだけだろ。失敗して、稼げなくて、将来が狂うのが怖いから、大学って言い訳に逃げてるだけだ」

核心を突かれ、頭に血が上る。図星を指された悔しさと、見透かされた恐怖で、奥歯がガタガタと震えそうだった。

「………何が分かるのよ」

私は漣を睨みつけた。

「そうよ、怖いに決まってるじゃない!音楽じゃご飯は食べられない。安全な道を選ぶのが、17歳の正しい正解なの!あなたみたいに、才能があって、最初からスターみたいな人にはわからないわよ!」

感情をぶつけて、私はハッと息を呑んだ。
だけど、漣は怒るどころか、フッと柔らかく微笑んだのだ。

「俺だって怖いよ。ベースじゃ飯食えないかもしれない。でもさ」

漣はポケットからスマホを取り出し、私の目の前に突きつけた。画面に映っていたのは、私の新曲の歌詞のメモだった。昨日、私が音楽室に忘れていったものだ。

「この曲を、誰も知らないまま終わらせる方が、俺にとってはよっぽど怖い。……放課後、また音楽室で待ってる。俺のベース、お前の歌に合わせて準備しとくから」

それだけ言うと、漣は私の横をすり抜け、階段を上っていった。
残された私は、自分の胸が、昨日よりも激しくジリジリと焦げついているのを感じていた。