「恋愛の神様」と呼ばれた俺が、逢坂くんに恋した5つの理由

「あっ、恋愛の神様見―っけ!」

 移動教室へ向かう途中。階段を上りきったところで、いきなり人差し指を突きつけられた。ぱちぱちと瞬きを繰り返す俺の顔に、これでもかというくらい真っ直ぐな指先が向けられている。見れば、まだ制服に着られている感のある一年生男子だ。そして、背中に隠れるようにして三、四人分の顔がひょこひょこと覗き見えていた。まるで巣穴から様子を窺う燕の雛鳥のようだ。

「え、マジ? 俺も芦屋先輩に恋愛相談したい」
「おい待てよ、オレが先に見つけたんだぞ」

 胸倉を掴み合い始めた後輩たちを前に、隣でその一部始終を呆れ顔で見守っていた幼馴染の真山が、堪えきれないとばかりに苦笑いを漏らした。

「遙日、邪魔になるから脇にはけた方が良いんじゃね」
「あ……ごめん。恋愛相談は大歓迎なんだけど、もうちょっと端に寄ってもらっていい?」

 俺が両手で示しながら移動を促すと、後輩たちは掴み合っていたことなどすっかり忘れた様子で、素直に廊下の隅へと固まりのまま移動してくれた。単純というか、可愛げがある。そして次の瞬間には、俺の両手をひしっと掴んで、真剣そのものといった眼差しをぶつけてきた。

「オレ、いま気になる女子が居るんすよ。同じクラスの子なんですけど」
「ちょっと待って、一旦ストップ」

 片手を上げて、勢いよく飛び出そうとする恋バナをせき止める。

「君、俺のアカウントはフォローしてくれてるんだよね?」
「もちろんっすよ、ここにいる全員……じゃねーや、コイツ以外は全員フォロワーっす。DMも送らせてもらってます」

 一番奥で最も興味なさそうに立っている一人を指差しながら、目の前の後輩くんはいかに自分がアカウントに接触してきたかを語っている。

「ごめんね、毎日何十件も来るから、どうしても返信が追い付かなくて。ユーザー名を先に教えて貰ってもいいかな?」

 営業スマイルを顔に貼りつけてみせると、彼らは弾かれたように口々に自分の名前とIDを、我先にと大声で名乗り始めた。廊下に声が反響して、通りすがった女子生徒たちがクスクスと笑いながら振り返っていく。

「待って、なにあれ……男子も芦屋先輩に相談してるの?」
「あー、そうなんじゃない? もうすぐクリスマスだし、焦って彼女ほしいのかもね」
「てか、芦屋先輩って遠くからでも透明感がすごい……」
「お母さんが元モデルらしいよ。遺伝子強すぎ」

 通り過ぎざまにそんな声が聞こえて、俺は聞こえなかったふりで曖昧に頬を緩めた。慣れているとはいえ、こういう反応をされるたびにこそばゆい気持ちになるのは変わらない。
 俺が『恋愛の神様』などという二つ名で呼ばれているのは、(@koigami_)というアカウント名で運営している恋愛名言botの「中の人」だからだ。プロフィール欄には「あなたの恋、成就させます/匿名相談受付中」という一文だけを添えていて、アイコンはハート型に切り抜かれた雲の画像。
 もともとは、友人の他愛ない恋愛相談に付き合っていただけだったのに、いつの間にか「芦屋が仲を取り持ったふたりは必ずカップルになれる」という妙なジンクスが出来上がり、それが面白がられて瞬く間に噂が広まった。
 そんなこんなで始めた、恋愛の名言botと匿名相談。それがバズりにバズって、フォロワー数はいつの間にか数万人を超え、気付けば俺は校内でちょっとした有名人になっていた。
 毎晩七時ちょうどに投稿する「今日の一言」をメインコンテンツに、恋愛相談の投稿はリポスト数が軽く五桁を超えることもざらだ。DMには、常時数十件の未読が積み上がっている。「告白したいけど怖いです」といった王道の悩みからデートの相談まで、内容は様々だ。

「お願いします、その子と今度デートするんで、アドバイスを下さい!」
「だったら、まずは君のことを教えてもらわないと。それにお相手の子のこともね。性格とか、趣味嗜好とか――そういうのを全部知った上でじゃないと、無責任なアドバイスは出来ないよ。ほら、このリンクに入力欄があるから、そこに送ってくれる? 今回だけ特別に、急いでデートプランを考えてみるから」
「マジすか、あざーっす!」

 スマホの画面を覗き込んで嬉々として声を上げる後輩の様子に、つられて小さく笑う。基本的には受け付けた順番通りに相談に乗るようにしているけれど、こうしてその場で泣きつかれると、つい情に流されてイレギュラーな対応をしてしまう。そのたびに真山からは「またやってる」と、半ば呆れた目を向けられるのだけれど……。まあ、お人好しな性分だというのもあるし、なにより「恋愛の神様」なんて大層な二つ名を背負ってしまった以上、その看板の名誉を守りたいという気持ちもある。

「あっ……芦屋先輩、あの子っす」

 来週、意中の相手とのデートを控えているという沢村くんが、必要事項を打ち込んだデータを送ってくる傍ら、渡り廊下を歩いていく女子生徒の後ろ姿を指差した。柔らかそうな黒髪を揺らしながら友達と談笑する姿は、なるほど確かに可愛らしい。
 さて、どんなデートプランがふたりには似合うだろう。彼の一世一代の恋が、少しでもいい結果に転ぶように……なんて考えていると、頭のすぐ上から低い声が降ってきた。

「くっだらね」

 その一言で、さっきまで盛り上がっていた面々が水を浴びせられたように静まり返る。「おい、逢坂」と誰かがいなすようなトーンでそれ以上の言葉を制止すると、奥に立っていた男子が身体の前で腕を組んだまま、不機嫌そうな顔で俺を見下ろしていた。

(あ、この雛鳥グループの中で俺を唯一フォローしてない後輩くん)

 さっきの話題を思い出すと同時に、俺はその顔立ちに目を奪われていた。ワックスでラフに動きをつけた、透明感のあるオリーブベージュの髪。くっきりとした二重の切れ長の目元は涼しげで、身長も後輩にしては頭ひとつ抜けて高い。
 黙っていれば少女漫画から抜け出してきたような美形なのに、開口一番の台詞がこれなのだから台無しにもほどがある。整った見た目とは裏腹に、纏っている雰囲気も針みたいに尖っていて、近寄りがたい。

(えっ、俺たちに向かって『くだらない』って言ってるの?)

 今まで学年を問わず話しかけられてきたけれど、初対面の時点でこんなにも「あなたのことが面白くありません」みたいな顔をされたのは初めてだ。というか、なんで何もしていないのにそんなことを言われなくちゃいけないんだろう。
 困惑しきっていると、後輩たちはその子の頭を無理やり下げながら、何度もペコペコと謝って苦笑いした。

「芦屋先輩、すみません。コイツ、恋愛アレルギーなんすよ」
「恋愛アレルギー?」

 なんだそれ、と俺が眉を寄せると、不貞腐れた顔のまま「逢坂」と呼ばれた男はぼそりと言い返した。

「ちげーし。俺はただ、恋愛相談なんかされて嬉しそうにしてるこの人が、滑稽だなって思っただけで……んぐッ」
「バカ、失礼だろうが!」

 皆まで言うなというかのごとく、彼らは逢坂くんの口を思い切り塞いだ。手の上に手が重なって、あれだ。一番下に置いた人が叩く遊びみたいになってる。
 何がそんなに癇に障ったのかは分からないけれど、初対面の年下に「滑稽」と言われてカチンと来なかったかといえば、嘘になる。俺はこの恋愛相談にやりがいを感じているし、決して自己陶酔しているつもりもない。本気でやっているからこそ、馬鹿にされたのは許せなかった。

(――でも、待てよ)

 自分を落ち着かせるように、俺は今の逢坂くんの様子を観察した。腕を組む仕草は、心理学でいう防御姿勢の典型だ。それに、視線は微妙に俺の目を避けている。本当にただ「くだらない」としか思っていないなら、わざわざ足を止めて口を挟む必要すらない。無視すればいいだけの話だ。それをしないということは……。

(何かしら、こっちに引っかかるものがあるってことだ)

 誰かの恋バナに首を突っ込んで悪態をつくのは、大抵二種類の人間だ。一つは、口を出さずにいられない寂しがり屋タイプ。もう一つは、自分自身の恋愛にまつわる何かしらの劣等感を、他人に投影して攻撃してしまうタイプ。
 逢坂くんが放っている刺々しさは、明らかに後者の匂いがする。恋愛の神様としての好奇心が、むくむくと頭をもたげてくるのを止められない。

「もしかして、逢坂くんって恋人いなかったりする?」
「……は? 何、いきなり」
「人の恋愛相談に『くだらない』って言う人って、自分のことは棚に上げてるタイプが多いんだよね。だから、そうなのかなって」
「いや、恋愛なんてタイパとコスパ悪すぎでしょ」

 フンと鼻を鳴らされたわけではないけれど、そう見えた。ものすごく俺のことをバカにしているのが伝わってきて、内心で(はぁ?)と声を漏らす。逢坂くんは友人達に非難轟々で責められても、どこ吹く風という顔をしていた。

「恋愛をタイパとコスパでしか考えられないってことは、本気で好きになれる相手にまだ出会った事がないんだね。可哀想に」

 にこり。笑顔でカウンター攻撃だ。普段ならこんなに言い返したりしないものの、神様の沽券に関わる。どれだけ悪態をつかれても平気ですよと口角を上げて笑みを向けると、逢坂くんは小さく息を吐き、一歩前へ踏み出して俺の顔の横にドンと手をついて覗き込んできた。

「じゃあ、本気で好きになれる相手見つけてよ。自称・恋愛の神様なんでしょ?」
「えっ?」
「今日から一ヶ月以内に、俺が夢中になる恋人を作ってよって言ってんの」

 周りの後輩くんたちの視線の他にも、後輩が先輩に壁ドンをしているという奇妙な構図もあいまって、いつの間にか小さな人だかりが出来始めていた。誰かがスマホをこっそり構えているのまで見えて、思わず眉を寄せる。

(大人の対応をして、断ることも出来る。けど……)

 こういうタイプの人間は、決まって自分の願望が叶わないと分かるとデカい声で煽ってくる気がする。というか、俺が断るのをむしろ期待しているようにさえ見えて、ぐっと喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。売られた喧嘩を、みすみす自分から降りてやる義理はない。

「……いいよ」
「は?」
「今日から一ヶ月以内に、君が……逢坂くんがメロメロになる恋人を作ってあげる」

 こうなったら宣戦布告だ。周りの観衆も巻き込んで、盛大にぶち上げてやろう。このメロい男が今から恋人を作るからね、狙い放題だよ~なんて、半分は逢坂くんへの牽制、半分はフリーの子たちへの景気づけのつもりで、あえて周囲に聞こえるように声を張った。案の定、後輩たちの間から「おおっ」という野太いどよめきと笑いが起こる。

「じゃあ、もしも出来なかったら?」
「アカウント、閉鎖してもいいよ。まぁそれは有り得ないと思うけど」

 「だからまずはアカウントをフォローしてDMを送ってね」とその胸にスマホを軽くぶつけると、俺は逢坂くんを大きく避けながら教室へ向かった。背中に突き刺さる視線を感じつつも、振り返らずに済ませたのは年上の意地だ。
 平静を装っているものの、胸の奥がじわりと熱を持っている。柄にもない。そう思いながらも、鼓動はしばらく元のリズムに戻ってくれそうになかった。

「おい、遙日。なにキレてんだよ」
「キレてない、全然キレてないよ」
「二回言う時は嘘ってお前が言ってたことだぞ」

 ……それは確かにそうだ。心にもないことを言う時、人は無意識のうちに自分の言葉をもう一度重ねて肯定してしまう。言葉の弱さを、回数で補おうとするのだ。恋愛相談で耳にタコができるほど繰り返してきた、受け売り理論。まさか自分がその典型例になるとは思わなかった。

「お前がそんなムキになるなんて珍しいじゃん」
「小さい頃から負けず嫌いなのは知ってるだろ」
「いや、そうだけど。たかが一年にそこまでキレなくてもいいんじゃね?」

 内心ではメラメラと闘争心が燃えていた。恋愛の神様として、あんな不届き者に負けるわけにはいかない。一ヶ月かけた総力戦で、逢坂くんが溺れるような恋に落としてあげよう。そして、隣にそのお相手を伴わせて「あの時はありがとうございました」と頭を下げさせてやるんだ。

「なんか、いつもの依頼より燃えてきた!」

 ただでさえ忙しい冬休み前の相談に加えて、逢坂くんに恋人を作るという特大ミッションが出来た以上、ここはもう思う存分に腕を発揮するほかない。
 肩を回してみせる俺に真山は「ダメだこりゃ」と溜息をつき、教室の扉を開けた。

 ***

 帰宅後、制服のままベッドにドサッと腰を下ろし、スマホの画面をスワイプした。
 上から順に、新着のDMを読んでいくと、クリスマス前に恋人を作りたいという学生からの相談が増えている。街のイルミネーションが灯る前から、相談のほうが先に季節を教えてくれるのだから面白い。

「えーっと……この子は先週、連絡先交換したばっかりだっけ」

 簡単な定型文で済ませることはせず、相談内容によって送り主の過去のやり取りまで遡って、前回のアドバイスがどう活きたのかを確認してから返信する。手間はかかるけれど、これだけは譲れないこだわりだった。誰かの恋を預かっている以上、いい加減な返事はしたくない。
 一通り読み終えたところで、質問箱にメッセージが届いた。

『恋愛の神様は、どんな恋人と付き合ってるんですか?』

 基本的には届いた質問に答えるようにしているけれど、こればかりは、見なかったことにするほかない。画面をスクロールして次のメッセージへ逃げるように、小さく独りごちる。

「……神様のくせに、恋愛経験はゼロですなんて言えないし」

 仰向けに寝転がり、天井のシーリングライトの眩しさを腕で遮ると深いため息が漏れた。何を隠そう、俺は恋愛経験が皆無だ。告白されたことは片手で数えられる程度あるけれど、自分から誰かに「好きです」と想いを伝えたことは一度もない。何故なら――。

「ただいまー、遙日! ねぇ、見てこれ。ついに彼にプロポーズされちゃった!」
「……お帰り、母さん」

 いつもよりドレッシーな装いの母が、鼻歌交じりの上機嫌で勢いよくドアを開けた。これみよがしに、左手の薬指にキラキラと輝くダイヤを見せつけてくる。照明の光を吸ってやたらと存在を主張してくるその石を眺めながら、俺は半分呆れ、半分感心した気持ちで相槌を打った。

この前の人(・・・・・)がくれたのより大きいね」
「そうなのよ。何カラットあるのかしら~」
「それが最後の結婚指輪になるといいけど」
「えぇっ⁉ なんでそんな冷たいこと言うのよぉ」

 そう。俺の母親――というか、芦屋家の一族は、親戚がもれなく全員離婚している『最強の離婚家系』なのだ。
 俺の知る限り曾祖母の代から、子供を成すと婿や嫁と別れている。少なくとも最初は皆、本気で好きになった相手と恋に落ち、恋愛結婚をしている。それなのに、長期休暇に本家に帰省すると、誰かしらが離婚しているという異常ぶりだ。今年のお盆も離婚報告が同時に飛び交って、親戚一同でなぜか揃って乾杯していた。あれはもう笑うしかない。

『芦屋家の人間が本気で好きになった相手とは、必ず別れる運命にある』

 そんな自虐的な言い伝えがまことしやかに語られているくらいで、それを打ち破ってやると意気込んで結婚した人もいるにはいたけれど……結果は、まぁ言うまでもない。

「別に、母さんが何回再婚しようが関係ないけどさ。俺はもう、新しいお父さんだよ~って紹介されて食事会するの、ウンザリだから」

 少し強い口調で牽制すると、母さんは分かりやすく落ち込んだ顔をして『ごめんね、遙日』と眉を下げた。
 母さんのことは嫌いじゃない。ただ、その巻き添えを食う側の気持ちにも、思いを馳せてほしいから、これくらいの意思表示はしておきたいものだ。
 幼い頃から再婚を繰り返す母さんに振り回され、転校を伴う引っ越しもたくさんしてきた。新しい学校、新しい『お父さん』候補。愛想笑いを身につけて、またいつか壊れると分かっている関係に、ずっと心の準備をしてきた。そのうち、きっと自分も同じ運命を辿るのだと諦めを覚えるようになり、誰かを本気で好きになることをずっと避けている。

(だから、自分の恋愛は「これ」で満たせばいいだけ)

 視線を横にやると、壁際の棚にぎっしり並んだDVDと少女漫画の全巻セットが目に入る。どれもラブストーリーの傑作揃いで、俺にとってはバイブルのようなものだ。頭の中で恋をするぶんには、誰も傷つかない。すれ違いも別れも、何度でも同じページを開けばやり直せる。それで十分、満足できる。
 しかも、そのおかげで恋愛の知識だけは人並み以上に身について、いつの間にかbotまで運営することになって――それが今の俺の立派な心の居場所になっているんだから、我ながら皮肉なものだと思う。
 母さんがリビングに戻っていく背中を見送ると、机の上のスマホに通知が増えていた。

「……あれ、逢坂くん。もうフォローしてくれてる」

 昼間の「くっだらね」の一言が、あれからずっと頭の中でリフレインしている。あの刺々しい目つきと、それに反して整いすぎた顔。ああいう難ありな子ほど、実は恋愛の素晴らしさにまだ気付いていないだけだったりするんだよなぁと思いながら、俺は一番上に追加された「Naru.O」をタップした。
 プロフィールも投稿履歴も空欄のまま、「一年四組 逢坂鳴」とだけ書かれたメッセージ。
 あまりに素っ気ないその一文に俺はいたずら心を起こして、既読の代わりに真っ赤なハートマークを押してやった。

 ***

 翌日、俺は一年生の校舎を訪れた。だが、肝心の逢坂くんが居るはずの教室に、その姿はない。それどころか、普段めったに顔を出さない「恋愛の神様」の来訪に気づいた下級生たちが、一斉にざわめき始めたのだ。

「あ、神様だ! やばい、めっちゃレア!」
「本当だ、本物だ!」

 あっという間に廊下は黄色い声と好奇心の波に飲まれ、四方八方から押し寄せる恋愛相談の包囲網に捕らえられる。
 視界の端から端までが制服姿の後輩たちで埋め尽くされ、揉みくちゃにされながら相槌を打ち続け、気づけば十五分もその場に足止めを食らっている。

(こんなことになるなら、アポを取ってから来るべきだった……!)

 熱を帯びた空気と終わらない相談の渦にすっかりウンザリしながら、俺は群れをかき分けるようにして、ようやくの思いでそこから逃げ出す。
 そのまま足早にカフェテリアへ向かうと、渡り廊下に面した外のベンチに、逢坂くんの姿を見つけた。喧騒とは無縁の空気を纏ったまま、片足を立てて仰向けに寝転がり、気だるげにスマホをいじっているではないか。

「あーっ、やっと見つけた! 教室に居ないから、君のせいで大変な目に遭ったんだけど」
「……いや、なんで俺のせいなんすか」

 むくりと上半身だけ起こしながら、逢坂くんが不機嫌そうに見上げてくる。まぁ、確かにそう言われれば事前に連絡しなかった俺も悪いけれど、揉みくちゃにされた挙げ句にここまで小走りで来たこの疲労感は、責任転嫁でもしないと割に合わない。
 俺は乱れた髪を手櫛で整えると、逢坂くんの隣にすとんと腰を下ろした。

「自己紹介フォームを記入してねって書いてあったの、読まなかった?」
「DMしろっては言われましたけど、さすがにあれはダルい」
「あ、あのさぁ……本気で恋人作る気ある? お願いしてきたのはそっちだよね」
「なんであんな事細かに記入しなきゃいけないんすか。MBTI診断より長いんすけど」

 確かに、逢坂くんの言うことにも一理ある。俺のフォームには名前、生年月日、血液型、家族構成、恋愛経験の有無と回数、理想のデートの過ごし方、絶対に譲れない条件――と、項目がずらりと並んでいる。だけど、これは決して適当に作ったものではない。恋愛において、相性診断には最低限これくらいの基本情報が必要なのだ。それなしには、最高のマッチングなんてあり得ない。

「まずは逢坂くんの性格をちゃんと知りたいんだよ。それが分かって初めて、アドバイスできるんだから」
「めんどくさ……。先輩、それボランティアでやってんの?」
「ボランティアっていうか、好きな事だから」
「ふーん、ヒマ人なんだ。もしかして恋人いない?」
「い、いるに決まってるでしょ⁉」

 くわっ、と目を見開いて、大声で嘘をついてしまった。我ながら笑えないけれど、こんなところで恋愛未経験だとバレるわけにはいかない。
 逢坂くんはそんな俺を見て、呆れるでも笑うでもなく、ただ奇妙なものを見るような目でじっと観察していた。オオカミみたいに鋭いその視線がまた居た堪れなくて、俺は誤魔化すように咳払いを重ねる。

「へぇ、どんなやつ? 俺よりカッコいい?」
「それは……ノーコメントで」
「じゃあ、不細工ってことか」
「違うってば! 勝手に話を進めないでもらえる?」

 こんな痴話喧嘩をしに来たつもりじゃないのに。ペースを乱されている自分に気づいて、俺は溜め息をひとつ挟んでから「今週中には入力しておいてほしい」と話を戻した。逢坂くんはあからさまに面倒くさそうな顔をして、頭を掻いてみせる。

「てか、先輩。日曜日ヒマ?」
「暇じゃないよ。休みの日こそ、リアルタイムで相談が送られて来て、オペレーションセンター並みに忙しいんだから」
「じゃあ、俺とデートすんのは無理か」
「……はい?」
「こんなん打って送るより、一日一緒に居れば、どういう人間かなんて大体分かるっしょ」

 この子は一体、何を言っているんだ。俺がお願いしているのは、あくまでプロフィールの入力であって、貴重な休みを丸ごと消費してまで実地調査する時間なんて――。

(でも、確かに百聞は一見にしかず……かも?)

 フォームに書かれた文字情報だけでは、結局のところ本人の癖や表情の作り方、言葉の裏側までは読み取れない。データ収集と同時に、恋人を作って見せろなんて無茶を吹っかけてきた超貴重な個体(しかも全く懐かない)を、間近でじっくり研究できるまたとないチャンスかもしれない。

「いいよ、一日かけて逢坂くんを丸裸にしてやるから」
「ふ、なにその言い方。えっちじゃん」
「えっちじゃありませんけど⁉」

 怒鳴り声がテラスに響いて、通りがかった生徒が何事かとこちらを振り返る。恥ずかしさに耳の先まで熱くなるのを感じながら、俺は隣でにやにやと笑いを堪えている逢坂くんを、思い切り睨みつけた。……本っ当に、全然可愛くない。

 ***

 日曜日。十二時ちょうどに駅前広場で待ち合わせをした俺は、もちろんその時点から「調査」の一環として、待ち合わせの時間より二十分も早く現場に到着したのだけれど……。

(な、なんで先に来てるの?)

 あまりにも予想外の光景だった。噴水の縁に腰かけてスマホをいじる逢坂くんの姿を見つけた瞬間、足が止まる。なんなら三分遅刻くらいはするだろうと踏んでいたし、よくても五分前集合かな、なんて予想していたのに。
 遅刻したわけじゃないけど、なんだか気まずいような、居心地の悪い気持ちになってしまうのは何故だろう。

「……お、お待たせ」

 どんな顔で挨拶すればいいのか分からなくなって、結局いつもより数段固い声が出てしまった。

「え、先輩早くない? なんでもう来んの」
「来ちゃダメみたいに言わないでよ」
「あ、分かった。これで俺が遅刻ギリとかだったら、マイナス査定するつもりだったんでしょ?」

 「残念でした」と笑う逢坂くんに額を小突かれた。俺は思わず情けなく後ずさりながら、ぐしゃぐしゃになった前髪を必死で直す。やっぱりこの最強の個体は一筋縄ではいかないようだ。
 黒のハイネックにグレーのチェスターコートを合わせた逢坂くんの私服はシンプルなのに様になっていて、私服のセンスまで満点かよ、と内心で毒づく。
 調査用のメモアプリに〈時間厳守:二十分前到着、私服:スタイリッシュ系〉と打ち込もうとしたけれど、すぐ隣を歩く逢坂くんが「なにそれ」と顔を寄せてきた。わざわざ腰を曲げてまで覗き込んでいるけれど、一応、俺だって身長は一七五センチある。逢坂くんの背が高すぎるだけだ。それなのに、こんなふうに見下ろされる形になると、まるで自分が小柄みたいに錯覚してしまうのが釈然としない。

「な、なんでもない。ちょっとメモを」
「ふーん。てか、先輩の私服可愛いね」
「そうかな」
「俺、そういう服好き。どこで買ってんの」
「ク……クラネっていうお店だよ」
「マジか。割といい値段するとこじゃん。先輩ん家、実は金持ち?」
「いや、そうでもないけど……」

 この服は半分見栄を張ったというか、年上として、恋愛の神様として、それなりに気合を入れて準備した勝負服だったりする。財布から諭吉さんが二枚退場する値段だし、日常使いに気軽に着られるようなデザインでもない。
 意外にも服の趣味が合うらしい俺たちは、その日着てきた服の話題で普通に盛り上がってしまった。中学の頃からファッションが好きだと話す横顔は、学校で見せる不貞腐れた顔とは違って、思いのほか無防備だ。

「じゃー、適当に古着屋巡りとかする?」
「俺はてっきり逢坂くんがデートって言うから、どこか行きたいところにリードしてくれるのかと」
「へぇ、デートだと思って気合入れて来てくれたんだ」
「そ、そうじゃなくて。本気のデートじゃなくて、ごっこというか……」
「オッケー、デートごっこね」

 向こうは知らないと思うけど、これがデートのていで進むなら俺にとっては生まれて初めてのデートだ。……まさか、その相手が年下男子になるとは思ってもみなかったけど。
 ごにょごにょと言い淀む俺に、逢坂くんは首を傾げて余裕たっぷりの笑みを浮かべる。歩き出してから、さり気なく車道側を歩いてくれていることに気づいた。わざとらしくないし、意識してやっているのか、無意識にやっているのか、見分けがつかないほど自然な仕草だ。

(これも、データとして記録しておかないと……)

 頭ではそう思うのに、実際は「さりげなく守られている」という状況そのものに気を取られて、メモを取る手が止まってしまう。

「先輩。あそこ、俺のお気に入りの店」

 振り返った逢坂くんの声にハッと我に返り、俺は慌てて小走りで距離を縮めた。
 モルタルの壁に『koti』と書かれた小さな看板が、控えめなランプの明かりに照らされている。ドアを開くと、店内には大人っぽいシックな古着が、ハンガーに一本ずつ間隔を空けてゆったりと並べられていた。

「逢坂くんは、いつも一人で買い物する派?」
「あー、うん。友達と遊ぶ時はあんまり。一人の方がじっくり見られるし」
「そっか。相手に似合う物を提案したり、ウィンドウショッピングは好き?」
「え、なんか尋問始まってる?」
「今日は君の調査目的で来てるので」

 スマホのメモアプリに『落ち着いたお店が好き/服の系統はストリートよりカジュアル派』と打ち込む俺の隣で、逢坂くんはニットを一枚手に取った。

「お互いに服を選んであげるのとかは好き」
「認めたくないけど、なかなかセンスいいね」

 鏡越しに「先輩に似合いそう」とニットをあてがいながら笑いかけられて、反応がワンテンポ遅れた。軽い調子だけど、声のトーンがいつもより柔らかかった気がする。
 気のせいかな、と思って顔を覗き込むと、逢坂くんは何でもない顔で次のハンガーに手を伸ばしていた。

「逢坂くんは、今みたいなニコッとしてる方が絶対いい。デートしてる側もきっとキュンとすると思うよ」
「へー。じゃあ今、先輩もキュンとしたってこと?」
「論点をすり替えないでよ。俺は効果的なアピールの仕方を助言しようと……」
「先輩も見事に話逸らしたじゃん、今」
「事実を述べているだけだよ」
「はいはい。都合悪くなると急に年上ぶるの可愛いね」

 可愛いって言った……? と思わず二度見してしまったけれど、俺の反応なんて気にも留めていない様子で、逢坂くんはいつものツーンとした不貞腐れ顔に戻っていた。
 せっかく引き出したはずの笑顔をまるでシャッターを下ろされたように隠されてしまい、もう少し見たかったという名残惜しさと、小さな不満が胸を突く。向けられた広い背中に、俺は密かに唇を尖らせた。
 すたすたと歩いていく彼の後ろを、慌てて追いかけてお店を出る。
 食べるのが好きだという俺のリクエストに応えて、逢坂くんは行きつけだというお洒落なカフェに連れて行ってくれた。

「ノープランの割には、お店のチョイスも良し……と」
「先輩と喋りながら、俺なりに考えてるからね」

 なるほど、それはなかなかスマートと言ってもいいんじゃなかろうか。決めていたルートを辿るのではなく、その場のやり取りから相手の好みを拾い上げていくやり方は、口の悪さからは想像もつかないくらいスマートだ。

 カフェでふたり並び合うようにして座り、窓ガラスの向こうを歩いていく人の流れを眺めていると、注文したティラミスが運ばれてきた。表面に敷き詰められたココアパウダーが土に見立てられ、そこにミントの葉が植えられている。まるで本物の植木鉢みたいで、遊び心が満載だ。おまけに、スプーンはスコップ風のデザインになっている。

「わー、ミニチュアみたい。これ考えた人、天才じゃん」
「こういうの好きそうだなって思って」
「え、なんで分かるの?」
「だって先輩、なんかこう……地に足のついたメルヘンって感じじゃん」

 分かるようで分からない。しっかりしているようで、どこか抜けているというか、ほわんとしているってことだろうか。
 目の前に並んだ映えスイーツをカメラに収めていると、逢坂くんは頬杖をついたまま俺の左手首をくい、と引っ張った。

「どうしたの?」
「ここ、見て。俺と同じ場所にさ、ほくろあんの。すげー偶然じゃね?」

 ほら、とテーブルの上にふたりで左手を並べて置くと――確かに、まったく同じ位置にほくろがあった。薬指の付け根の、よく見ないと分からないくらいの小さな点。突然の接触と縮まった距離に息を呑んでいると、逢坂くんは横目でこちらを覗き込み、面白がるようにふっと口の端を上げた。

「先輩、どうかした?」
「べ、別に何でもないよ。逆になんで?」
「自覚ないの? めっちゃ耳赤いけど」
「気のせい、気のせい。お店の灯りでそう見えるだけだよ」

 それ以上深追いされたくなくて、ティラミスを一気にかき込む。調査しに来たはずなのに、なんで俺の方が形なしになってるんだろう。

「先輩が俺のデータ取ってる間、こっちも観察してるんで」
「えっ……観察って」
「『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』って言うじゃん」
「逢坂くんはいつから深淵になったわけ。てか、俺も深淵なの?」
「気にするところ、そこじゃなくね?」

 こくんと飲み込んで口元をナプキンで隠しながら、俺は逢坂くんの方へ向き直った。甘さの中にほんのりコーヒーの苦みが効いている。

「……ちなみに、今日の調査の中間報告なんだけど」
「ん、なに?」
「リードの仕方とか、話題の振り方とか。そういうのは全部ちゃんとクリアしてる。どうして恋人いないのか不思議なくらい」
「別に……なんとなく察して、『こういうセリフ聞きたいんだろうな』って言葉を適当に口にしてただけだし。全部テンプレなぞっただけだよ」

 あっさりと言い切られて、俺は少し面食らう。今までの自然な気遣いも、鏡越しの笑顔も、全部が計算ずくの演技だったというのだろうか。だとしたら、この子はいったいどれだけ相手のことをよく見ているんだろう。

(ていうことは、俺、今日ずっと逢坂くんに試されてた側だった……?)

 調査するつもりで来たはずなのに、気づけば向こうの手のひらの上で転がされていた気がしてならない。悔しいような、それでいて妙にドキドキするような、複雑な気分だ。

「勿体ないよ、逢坂くん。もっとさ、ちゃんと恋愛に向き合えば……」
「いや、だから。本気になれる相手、先輩が責任持って見つけて」
「み、見つけますとも。なんてったって俺、恋愛の神様だし!」

 性格に少々の難はあるけれど、無くて七癖というやつだ。相手の求めるであろう振る舞いを瞬時に察して実行に移せるなら、きちんと逢坂くんが本気で相手を好きになったとき、その観察力は間違いなく良い方向に発揮されるに違いない。ただ、問題なのは――。

「好きなタイプってどんな子? 可愛い系か、綺麗系か」
「絶対に綺麗派だけど、清潔感があれば十分かな。まぁ、お洒落が好きな人だと嬉しいっちゃ嬉しい」
「内面……というか、性格はどんなのがいいの?」
「うるさいのは無理かな。大人っぽくて、あと……なんかこう、何かに一生懸命取り組んでる感じの子がいい」
「じゃあ年上一択だね。逢坂くんのそういう子供っぽいところ含めて『しょうがないなぁ』って笑って甘やかしてくれそうな人」
「めちゃくちゃ楽しそうな笑顔でディスるじゃん」

 とん、と軽く肘打ちされたのがなんだか嬉しくて、自然と笑ってしまった。
 スマホのメモがそれなりに埋まっていくのを見ていると、俺のなかでは既に逢坂くんにぴったりなお相手の理想像がぼんやりと輪郭を持ち始めていた。大人びた雰囲気があって、たおやかに自分の芯を持っている人。そういう相手なら、この極めて厄介な隠れ肉食系男子にもきっと動じずに渡り合ってくれるだろう。

「つーか、随分と余裕そうじゃん。そんなことばっかりしてると、恋人にフラれちゃうかもよ」
「余計な心配をどうもありがとう。でも、大丈夫なので」
「ふーん。放任主義の恋人? それって愛されてないんじゃね」
「あっ、そういう意地悪は言わない方が良いよ。今ので五十点減点」
「配点デカすぎかよ」

 困ったように笑う横顔は、なんだか年相応で可愛げがある。人を寄せ付けない狼みたいな空気を纏っていたはずなのに、こうして見ると案外、大型犬に近い気がしてくるから不思議だ。もっと今みたいに素直な気持ちで恋愛にも向き合えばいいのに……勿体ないなぁ。

 ***

 逢坂くんのデータ収集を終えた、翌週水曜日の放課後。
 中庭で繰り広げられている重大場面を、俺は自販機の陰からこっそり見守っていた。

「この前の日曜日はありがとう。俺……愛ちゃんのことが好きです。付き合ってください!」

 男らしくビシッと頭を下げた沢村くん。そう、あのあと俺のデートプランを実行した彼は、その熱が冷めないうちにお相手を呼び出して、告白をすることにしたのだ。
 デートの報告を聞いた感じ、感触は悪くなさそうだったし、思い切って一気に攻めた方がいいと助言した。緊張のあまり首筋まで真っ赤になっているのが、この距離からでもよく分かる。

「私も沢村くんのことが好きです」

 深々と頭を下げ合っているのを見て、俺は物陰で口元を両手で覆いながら込み上げる喜びを噛みしめた。目頭が熱くなるのを堪えながら、隣で腕を組んで立っている逢坂くんのシャツの袖口をグイグイと引っ張る。

「今の見た⁉ 超クラシックで典型的な告白パターンだけど、ザ・初恋って感じ!」

 ふぅん、といまいちピンと来ていなさそうな顔をされて、やれやれと俺は眉を下げる。一緒にこの自販機の陰に隠れているのだって、なんだかんだ沢村くんの恋愛が気がかりだったくせに。

「てか、あれ大丈夫なん。なんか二人とも気まずそうにしてるけど」

 はっとして振り返ると、視線の先で沢村くんが右往左往しているのが見えた。告白するところまではシミュレーション通りにできたけれど、その後どうしたらいいのか分からず固まっているらしい。俺は慌てて「手を繋いで帰るんだよ」と口パクするけれど、遠目では伝わらなかったのか首を傾げられてしまう。

「手っ……握って――」

 大きい声で叫ぶわけにもいかないし、かといって小さすぎる声では伝わらない。もどかしさに声を低めて訴えていると、不意に左手をぎゅっと握られた。そのまま指を絡められて、逢坂くんが沢村くんに向けて繋いだ手をぶんぶんと大きく振って見せる。
 沢村くんはポカンとした顔をしていたものの、意味が通じたのかハッとして、そのまま彼女と手を繋いで歩き出した。夕暮れ前の柔らかい光の中を並んで歩いていく後ろ姿を、逢坂くんとふたりで見えなくなるまで見守る。

「逢坂くん、ありがとう。お陰で……」
「お礼はにこにこ現金払いで」
「へっ?」
「先輩のヘマ、カバーしてあげたじゃん。お駄賃ないの?」
「今のでお金とるつもり⁉ カツアゲじゃん」
「人聞き悪……アイツらがうまくいったのは、このアシストありきでしょ」

 ぎゅう、と繋いだままの指先にわずかに力を込められる。試しに手を解こうとするものの、離してくれる気配はない。なんだこれ、新手の詐欺にでも遭った気分だ。

「ご飯に連れて行くくらいなら、全然いいけど」
「え、マジで? 先輩、チョロすぎ」
「俺ね、依頼してくれた子が両想いになったら、自分へのご褒美で美味しいもの食べに行くって決めてるんだよね。今日は元々そのつもりだったし、逢坂くんが嫌じゃなければさ」
「……行くし。ってか、断る理由なくね?」

 するりと指が離れて、逢坂くんはその手を制服のポケットに突っ込んで歩き出す。行き先を知らないから、俺の周りをうろうろと少し離れてはすぐ追いついてくるその動作は、なんだか大型犬を散歩させているような気分だ。

「先輩の奢りなら、めちゃくちゃ食うよ。てか、どこの店?」
「それは着いてからのお楽しみ」

 夕焼けで橙色へと染まり始めた校門を並んで後にしながら、俺はこっそり口角を上げた。恋愛の神様として今日また一組、幸せなカップルを見送れた達成感もある。けれど、隣を歩く逢坂くんとの時間にここまで心が浮き立っている理由だけは、自分でもよく分かっていなかった。

 ***

 人通りの多い商店街を歩いていると、前から歩いてきた男子高校生の集団にぶつかりそうになる。
 とっさに強い力で肩を引き寄せられ、気づいたときには、逢坂くんの腕の中にすっぽりと収まっていた。

「うわっ……ちょ、逢坂くん?」
「危ねぇじゃん。ながらスマホすんなよ」

 密着した距離に頭が真っ白になって、心臓が身体の内側で跳ねている。守られたのだと理解するまでに、数秒の間があった。……なんか、これって少女漫画のワンシーンっぽい。今まで散々読み漁ってきたはずの光景に、俺は唇にきゅっと力を込めてポーカーフェイスを装った。

「ご、ごめん。沢村くんからお礼のDMが来てて」

 謝ったものの、逢坂くんの声にはどこか棘があった。「あっそ」とぶっきらぼうに返してきたわりに、肩に置かれた手はそのままだ。人混みが途切れてもなお離れる気配がなくて、離していいよと申し出るタイミングを完全に見失ってしまう。
 最寄り駅にほど近いチェーン店の中華料理屋に着くと、逢坂くんは無言のままドカッと席に腰を下ろした。

「えーっと、ラーメンと餃子と天津飯、あと回鍋肉。食後にごま団子にしようかな」
「……俺より食うじゃん」

 提供が早いし、なにより学生のお財布にも優しい低価格な設定。一組のカップルを結んだら、ここでお礼のDMやツーショット写真を眺めてほくほくと心を温めながらお腹を満たしていたけれど、今日は逢坂くんが向かい側に座っている。なんだか、少し変な感じだ。

「先輩ってやっぱ変わってるよな」
「え、な、急にどうしたの」

 語尾が思ったより上ずってしまった。先輩らしく泰然と構えていたいのに、逢坂くんを前にするとどうしてこうも、テンポがずれてしまうんだろう。

「人の恋愛見て、あそこまで喜べるもん? 嬉しそうな顔しちゃってさ」
「それが俺の幸せだからね。ほらっ、沢村くんたちの明るい未来を祈って、乾杯しよう」

 結露した小さなグラスをコツン、とぶつけあう。早速運ばれてきた回鍋肉を逢坂くんにも分けてあげると、お肉を箸で持ち上げながら逢坂くんがちらりとこっちを見た。

「てかさぁ、先輩。俺、気付いたことがあるんだけど」
「うん、なに?」
「先輩、普通に恋人いなくね?」
「げふっ⁉ ゲホッ、ゴホッ……!」
「うわ、マジか。大丈夫?」

 飲み込もうとした瞬間に核心を突かれて、思い切りむせる。涙目になりながら胸を叩いて何とか呼吸を整えるものの、今度は奥に入りかけて余計に涙が滲んだ。

「何を急に言い出すかと思えば……っ!」
「だって普通、休日も放課後も恋人と過ごすじゃん。後輩とつるんで一緒に飯食うとか、あり得なくね?」
「そういうのは、こう、束縛しないタイプっていうか」
「デートごっこの時もさ、先輩めっちゃ不慣れな感じだったし。…もしかして人生初?ってくらい、ぎこちなさ全開だったよな」

 図星すぎて、二の句が継げない。ちゃんと余裕たっぷりに振る舞えていたつもりだったのに、全部お見通しだったということだろうか。
 あとさ、と逢坂くんはレンゲでラーメンのスープをすくいながら、思い出したように付け加えた。

「先輩のアカウント、恋人の惚気とか一回も呟いたことないじゃん。毎日投稿してんのに、自分の話は徹底して出さない。普通、あれだけ恋愛の話ばっかしてたら、たまにはポロッと出そうなもんじゃね?」

 まさかそんなところまで見られているとは思わなかった。確かに、俺は自分の恋愛話を一切発信していない。それは単純に、語るべき実体験そのものがないからだ。
 どうしよう、完全にバレてる。しかも、感覚だけでなく、それなりの根拠を積み重ねられたうえでの指摘だ。上手い言い訳を必死に頭の中で探すけれど、どれもこれも、今しがた挙げられた証拠の前ではあまりに苦しい。

「俺、噓吐かれんのだけはマジで無理だから」

 誤魔化しの効かない、まっすぐな視線だった。俺はしばし黙り込んでから、その視線の圧に耐えかねて――というより、これ以上取り繕っても墓穴を掘るだけだと悟って、小さな声で白状した。

「……ごめん。本当は、付き合ってる人はいない」

 言ってしまった。口にした瞬間、なぜかどっと肩の力が抜けて、それと同時にじわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。今まで誰にも言ったことのない秘密を、よりによって逢坂くんに明かしてしまうなんて。

「やっぱり。質問コーナーでも全部はぐらかしてるから、そうだろうなって思ってた」
「えっ、質問コーナーまで見てくれたの?」
「どんなもんかなって思って、さらっと見ただけ」

 俺がそうやって答えを濁したのって、結構前のはずだけど。わざわざ過去のアーカイブまで遡ってくれたんだろうか。
 浮かんだ疑問をひとまず脇に置いて、ごくりと喉を鳴らしてから箸を置く。俺は顔の前でぱちんと両手を合わせ、頭を下げた。

「お願い。このこと、周りの人には言わないって約束して」
「なんで?」
「だって、恋愛の神様になんの恋愛経験もないってバレたら、信頼性に欠けるというか」
「……え、付き合った事すらないってこと?」
「うん……恋人が出来たこともない」
「マジか。なんで恋愛経験ゼロのくせに、縁結び出来んの? 超能力じゃん」

 ぶは、と盛大に吹き出して笑う逢坂くん。人の弱みを見つけると、すぐこれだ。でも、その声に嫌な感じは一切なくて、純粋に面白がっているのが隠しきれずにダダ漏れている。

「小さい頃から、ラブストーリーが好きで沢山見てきたっていうのもあるし、それが高じて恋愛心理学の本も読むようになって……。学校でも、見てると分かるんだ。誰が誰を好きで、両想いだなって。それで、友達にアドバイスしてたら……」
「神様として崇められちゃった、ってこと?」

 ゆっくりと頷く俺に、逢坂くんは頬杖をして「ウケる」とけらけらと笑った。なんだか、弱みを握られたみたいで本当に恥ずかしい。

「じゃあ、実際の先輩は『恋愛赤ちゃん』ってことだ」
「まぁ……そういうことになる、ね」
「なにそれ、バブい」
「あーっ、もう。絶対に誰にも言わないでね! バレたら俺、生きていけないよ」
「なんで? 別にバブちゃんでもいいじゃん。先輩は恋愛指南が好きで、人の役に立ってんだから」

 恥ずかしさで俯く俺に、逢坂くんは差し箸をしながら平然としている。マナーうんぬんは置いておいて、この秘密を面白半分で言いふらすつもりはないらしい。そのマイペースな態度に、ほっと胸を撫で下ろす。

「んで、質問。先輩の好きなタイプってどんなん?」

 もぐ、と餃子を食べていると、次々と質問攻めにされた。年上と年下はいけるか、どういう価値観を重視するか。まるで、この前のデートの時に俺が尋問した内容を、そっくりそのまま返されているみたいだ。

「月並みだけど、優しくて……いざという時に、真っ先に駆けつけてくれる人かな」
「ふーん、ありきたり」

 うるさいなぁ、とムッとして睨むと、逢坂くんはそれはそれは嬉しそうに笑っていた。まるでゲームで新しい裏技を見つけた小学生みたいに、屈託のない笑顔だ。
 確かに、めちゃくちゃありきたりだとは思う。けれど、これは俺が心の底から望んでいるものなのだ。ただし――そんな相手と万が一巡り逢えたところで、いざ自分が本気で惚れてしまったら、全て駄目にしてしまうに違いないのだけれど。
 目の前の天津飯を大きめのスプーンでがっつり頬張ったはいいものの、思いのほか餡に熱が籠っていたことに気づいたのは、口に運んでからのことだった。

「ん゛ーっ⁉ あっふぃ!」
「あー、もう。何やってんだよ、水飲んで……ほら」

 涙目になりながら口の中でハフハフと空気を送っていると、逢坂くんが素早くグラスに水を注いで差し出してくれる。
 こういう時、この子は案外手際がいいんだな、なんてことを場違いに思いながら水を口に含む。熱を持った舌先が冷やされていくのと同時に、胸の奥のほうで、言葉にできない感情がゆっくりと輪郭を持ち始めるのが分かった。

(臨機応変に対応できるのも、逢坂くんの内面的な魅力じゃないのかな)

 本人はきっと、自分がそういう気の利かせ方をしていることにすら気づいていない。悔しいけれど、水を注いでくれる仕草ひとつに、ちゃんと感心してしまっている自分がいる。それに、少し遅れて気がついた。さっきから胸のあたりが、なんだかふわふわと落ち着かない。これはあくまで、逢坂くんの隠れた魅力を分析しているだけなのに……。
 逢坂くんが「先輩?」と怪訝そうな顔でこちらを覗き込んできた。何でもないと首を振りながら、空になったグラスを差し出す。逢坂くんは特に追及することもなく、二杯目の水を注いでくれている。俺はその顔を、バレない程度に何回かチラ見した。いや、特に深い意味はないはず……なんだけど。

 ***

 満腹になるまで中華を堪能した俺と逢坂くんは、駅までの道を並んで歩いた。ぽつりぽつりと間隔を空けて立っている外灯と、その隙間から覗く星空。なんだかんだ、遅い時間まで喋っちゃったなぁなんてスマホで時間を確認していると、一件の通知が表示された。

「先輩、どうかした?」
「……え、あ、ううん。何でもないよ」

 差出人は母さんからで、今夜は再婚候補の相手とレストランで顔合わせをしたいから、帰ったら着替えて待っていてほしい、というメッセージだ。
 文面自体はいつもと変わらない、明るい絵文字付きのお願い事だった。それなのに、指先がひやりと冷たくなっていく。
 また、この儀式が始まる。新しい「候補」に会って、笑顔を作って、何度目かも数えていないくらいの「宜しくお願いします」を口にする。母さんがまた今度こそ幸せになれますようにと願う自分と、どうせまたいつか終わるんでしょと冷めた目で見ている自分が、心の中で綱引きを始めるのだ。

「……なんでもないは、なんかある時」
「え?」
「なんでもないって言う時は、何かあったけど言えないよの裏返しだって、先輩がアカウントで呟いてた言葉だよ。覚えてねーの?」
「そんなこと言ったっけ。呟きすぎて、忘れちゃった」

 本当はしっかり覚えているけれど、今はただ帰りたくない。どこかで時間を潰そうかと頭を巡らせるものの、八時を過ぎたら補導されてしまう。なんとか逢坂くんを先に帰らせて、一人で時間を潰せる場所を探そうとしていると、彼はふっと息を吐き出し、何も言わずに自分のマフラーをするりと外した。そのまま、有無を言わさず俺の首元にふわりと巻きつけてくる。

「え、逢坂くん、これ……」
「先輩、なんか顔色悪いし。ここで風邪ひかれたら、俺が後々めんどくせーの」
「な、なんで俺が風邪ひいたら逢坂くんが困るの?」
「出た、先輩のそういう面倒くせぇとこ。もっと素直に照れろよ」

 そんな軽口を言いながらも、マフラーを巻く手つきは思いのほか丁寧だった。ふわりと香った柔軟剤の甘い匂いに、なぜか落ち着かない気持ちになる。

「……てか、ちょっとあそこの自販機寄って良い?」

 顎でしゃくって指さされたのは、公園にある赤い自販機だった。そのすぐ横には、ぽつんと木製のベンチが置かれている。
 逢坂くんは「どれにすっかな」なんてわざとらしい独り言をつぶやきながら、ずらりと並んだ飲み物を一通り眺めた。そして、炭酸をふたつ取り出すと、そのうちの一つを俺の手に押し付けてくる。

「え、いいの?」
「いいよ、さっき先輩が多めに出してくれたじゃん」

 さっきお会計を済ませた時、なんだかんだ逢坂くんは自分の分をきっちり支払っていた。それでも端数が合わなくて、結局俺のほうが数百円多く払う形になってしまったのだけれど……それを律儀に覚えていたなんて。
 二人でベンチに座って飲んでいる間にも、スマホには「何時に帰って来るの?」というメッセージの連投が続いている。さっきから心配そうにこちらを窺ってくる逢坂くんに、俺はどうにか笑いかけてみせた。

「……俺が恋愛の神様になった理由ね、もう一つあるんだ」
「なにそれ、聞きたい」
「うち、代々離婚家系なんだ。俺の両親も離婚してて、母は再婚を繰り返してるんだけど、長続きしなくて。『芦屋家の人間が好きになった相手とは、必ず別れる』なんて言い伝えがあるんだよ」

 おかしいでしょ、と面白おかしく話してみせたけれど、逢坂くんは少しも笑みを浮かべていなかった。缶の側面についた水滴が、指の間をつう、と伝い落ちていく。

「先輩が恋愛経験ないのって、もしかしてそのせい?」
「うん。したくても、出来ないというか……正直、怖い。母さんのことは、嫌いなわけじゃないんだ。むしろ、誰よりも一生懸命に恋をする人でさ。そのたびにちゃんと本気で傷ついて、それでもまた次の人を好きになれる強さがあるっていうか……そういうとこは、尊敬してる」

 でも、と俺は続ける。

「そのすぐ隣で、いつも振り回される側に立たされると、やっぱキツいんだよね。新しい『お父さん』候補ができるたびに転校して、クラスが変わって。最初は頑張って馴染もうとするけど、心のどっかで『どうせまたすぐ終わるんだ』って冷めた目で見てる自分もいてさ。そんな風に思う自分が、最低だなって嫌になる時もある」
「……それってさぁ」

 逢坂くんの声のトーンが、明らかに変わる。今までのどんな軽口とも違う、怒りを露わにした低い声だった。

「小学校とか、下手したら中学の途中とかでも、その度に友達と環境をリセットされてきたってこと?」
「え、うん……そうだけど」
「意味わかんない。息子に無理させといて、なんで先輩の母さんは、悪びれもせず恋愛してんの」

 早口でまくし立てる逢坂くんに、むしろ俺のほうが面食らってしまう。いつもは気だるげで、何事にも一歩引いた態度を崩さない彼が、これほど感情を剥き出しにしているところなど初めて見たからだ。

「あ、あのね。母さんも、別に悪気があるわけじゃ――」
「悪気がないとか、余計にタチ悪いじゃん」

 吐き捨てるように言ったあと、逢坂くんは自分の声が大きくなりすぎたことに気づいたのか、ハッとして目を逸らした。それでも、膝の上でぎゅっと握りしめた拳には、まだ隠しきれない苛立ちがこもっている。

「ごめん、先輩にキレたわけじゃなくて」
「……うん、分かってるよ」
「ただ、なんかマジでむかついたっていうか……」
「ありがとう。でも、俺はみんなの恋を応援するだけで十分なんだ。そのほうが、もし万が一……好きな人が現れたとしても、お互いに傷つかずに済むし」

 自分に何度もそう言い聞かせてきたはずなのに、いざ口に出してみたら、喉の奥がキュッと引き絞られたように息苦しくなった。視界がゆらゆらと滲み、涙が目のふちを伝うのを必死でこらえる。
 そんな俺の様子に気づいた逢坂くんは、舌打ちでもしたそうに険しく眉を寄せた。かと思うと、乱暴に伸びてきたぶっきらぼうな指先が、目尻に浮いた涙をぐいっと拭い去る。触れてきた彼の指は、普段の冷たそうな印象とは裏腹に、ほんのり熱を帯びていた。

「わり、泣かすつもりなんて全然なかったんだけど」
「あはは、ごめん。勝手に俺が話したくなっただけだから……」
「……じゃあ次、俺の番。さっき先輩が秘密を教えてくれたし、俺も恋愛しない理由、話すわ」
「恋愛しない、理由?」
「『恋愛アレルギー』とか周りには言われてっけど、一応俺なりにワケがあんだよ」

 少しだけ間が空いて、夜の冷たい風が通り抜ける。俯いていた逢坂くんの横顔にはいつもの余裕や悪戯っぽさがなく、ぐっと眉根を寄せてどこか痛みを堪えるような顔をしていた。

「俺、中学のときに彼女がいたんだけどさ。親友にずっと恋愛相談に乗って貰ってたんだ」

 逢坂くんの話によると、その信頼していた友達が仲を取り持つように二人の間に入って、何かと世話を焼いてくれていたらしい。けれど――。

「気づけなかった俺もアホだけどさ……。普通に、そのふたりで浮気してたんだよ。一番信じてた奴にずっと嘘をつかれてたんだって思うと……マジで無理になった。『恋愛なんか二度とするか』って思ってさ。そんで……たまたま先輩が『恋愛の神様』とか持て囃されてるのを見て、なんかこう、勝手にイライラして突っかかりたくなったっていうか……」
「だから、あんな野次をとばしたってこと?」

 俺がはっきりと言葉にすると、逢坂くんは気まずそうに俯いて「うん」と低い声で答えた。けれど、その顔には申し訳なさがいっぱいに滲んでいる。

「恋人を作ってみろよって喧嘩売って、『ほらみろ、結局できねぇじゃん』ってイジってやろうと思ってさ。でも、先輩が本気で俺のために動いてくれてんのも分かったし。沢村とか……フォロワーたちのために必死になってんのを実際に目の当りにしたら、なんか……」
「なんか?」
「かわゆ、って思った。一生懸命すぎて」

 俺が「え?」と首を傾げてその真意を尋ねようにも、逢坂くんはこちらを見ないまま顔をまっすぐ前に向けて、気恥ずかしそうに目を逸らしたままだった。めちゃくちゃ、分かりやすく照れている。耳の端がほんのり赤く染まっているのが、外灯の光の下でもはっきり見えた。

「ちょっと待って、じゃあ最初から俺がいくら頑張ったって、恋愛する気なんてなかったってこと? 嘘つかないでって言ったのはそっちなのに、逢坂くんも俺に隠し事してたわけ?」
「最初はそうだったけど……今はちげーし」

 焦ったように言葉を重ねられて、ぽかん……とその顔を見つめると、逢坂くんはベンチから立ち上がり、俺を真正面から見て言った。

「ちょっと、気になる人ができたから」
「えっ⁉ 待って、お相手の名前をメモるから!」

 ポケットからスマホを取りだそうとすると、逢坂くんにやんわりと画面を伏せられた。
 そのまま、そっと手の甲を包み込まれる。缶ジュースの冷たさが残っているはずのその手は、一部がひんやりしているのに、不思議とあたたかかった。

「遙日先輩が好きかもしれないっていうか、多分好き」
「…………え?」
「聞こえた? 俺、遙日先輩の恋人になりたいんだけど」

 頭の中で、いつも人に授けている台詞たちがぐるぐると空回りする。「返事に迷ったときほど、まず相手の目を見て」「沈黙は一番失礼な返し方だよ」――散々そう教えてきたはずなのに、いざ自分が言われる側になると、まともな返事のひとつも出てこない。
 俺はただ自分の顔を指差しながら「お、俺……?」と間の抜けた声を出すことしかできなかった。

 ***

「おーい、遙日。聞いてる? てか、生きてる?」

 体育館の二階、ギャラリーの手すりに寄りかかりながら、俺は真山に顔の前で手を何度も振られた。ちなみに、その話は何も聞こえていないし、理解もしていない。こんな状態になってしまったのは無論、おとといの夜――逢坂くんに告白されたせいだ。
 あの夜から、俺はずっとこの調子だ。「今日の一言」を打とうとしても、いつもならすぐ浮かぶ言葉が一向に出てこない。DMの返信も、内容が頭に入らないまま何度も同じ文を読み返す羽目になっている。

『せーのっ、逢坂くん、頑張って~!』

 キャハハ、なんて楽しそうな声を上げながら、一年生女子達が隣からコートに向かって大声援を送っている。今日は、学年対抗の球技大会。俺のクラスと、逢坂くんのクラスがバスケの決勝で激突し、まさに一進一退の攻防を繰り広げている。声援を受けた本人は一瞬こちらを振り返ったものの、すぐに興味無さそうに視線を前へと戻した。そのクラスTシャツの背中には――。

「……『顔で地球を救ってます♡』?」

 なんだあれ、と俺が目を細めたのを見て、真山は「あぁ」とそれに気付いて笑った。

「クラスの女子が勝手に書き換えたらしいよ。そんで本人は超不機嫌、って後輩に聞いた」

 今も走る順番を待つ列の脇で、他クラスの女子たちが数人固まってはしゃいでいるのが見える。本人は塩対応どころか目も合わせずにいるのに、それすらも「クールな一匹狼」みたいに勝手に変換されているらしい。
 恋愛アレルギーを自称している割に、当の本人がこれだけモテているのだから世の中は不公平だ。
 ……まあ、そんな「恋愛の神様」気取りの俺の背中には、『恋愛相談受付中です♡』なんて文字がデカデカとプリントされているのだけれど。

 公園のベンチで逢坂くんに告白された後、俺はその場で断れなかった。誰とも付き合わないって気持ちは変わらないままなのに、あんな風に捨て犬みたいな顔をされて突っぱねるほど、強く出られなかったというのもある。

(いつか別れるって分かってるはずなのに、なんで即答で断れなかったんだよ、俺は)

 そう自分で自分を責め立てては、どうしてこんなに焦っているんだろう――と奥底を探ろうとした瞬間、コートの中で激しくボールを追う逢坂くんに目を奪われた。鮮やかなドリブルで、先輩相手にも臆することなく次々と抜き去っていく。

「……おぉ、本気で頑張ってる」

 周りの声援も忘れて見入っていると、いつも気だるげに歩く姿からは想像もつかないくらい、貪欲にゴールへ向かう逢坂くんの姿があった。ふてぶてしい態度に反して、実は誰よりも負けず嫌いなところ。そういう不器用な一生懸命さに触れるたび、可愛い後輩だという情みたいなものが、どんどん膨らんでいく。
 逢坂くんの劇的なブザービーターで一年生チームが逆転勝利を果たした瞬間、体育館いっぱいに大きな歓声が響いた。ゴールを決めた本人は、いつも通りの涼しい顔で仲間たちにハイタッチしている。

「さすが元バスケ部だよな。高校で辞めるなんてもったいなすぎだろ」
「え、そうなの?」
「同中の奴が言うにはさ、チームメイトと揉めたらしいぜ。マネジを巡る恋愛トラブルが原因だったとか何とか」

 熱気の冷めやらぬギャラリーを背に、俺は真山と一緒に人混みを縫うようにして階段へと下り始めた。
 まだ浮ついた空気が漂う中、ベンチで逢坂くんが恋愛しない理由を話してくれた時のことを、ふと思い返したその時――曲がり角の先で、あろうことか、ばったり本人に遭遇してしまった。

「あ、遙日先輩」

 慌てて素通りしようと足を速めたものの、ムッとした顔をされ、ジャージの後ろを子猫のようにキュッと掴まれてしまう。

「なんで避けんの。俺のプレー、ちゃんと見てた?」
「『見に来い』ってメッセージくれたから、一応ね」
「……てか、背中のそのネームなに」
「えっ、これ以上ない広告になるかなと思って」

 苦笑しながらそう答えると、逢坂くんは心底面倒くさそうに「ハァ」と大きな溜息をつき、有無を言わさず俺の腕をぐいっと引く。
 周囲の視線を避けるように、体育館の端にある備品庫の陰へと引っ張り込まれた。薄暗いその場所で戸惑っていると、バトンやハチマキが乱雑に詰められたカゴから、ガムテープと黒のマジックを迷いなく取り出す。

「ちょっと、逢坂くん。何するつもり?」
「動くなよ、すぐ終わるから」

 問答無用でくるりと身体を無理やり後ろに向けさせられ、背中にガムテープをべたんと乱暴に貼られた。その上からマジックで何か書かれている感触がする。逢坂くんの手が服越しに触れる度に体温が伝わってきて、俺は棒立ちのまま身を固くした。

「……はい、終了」

 カチ、とキャップを閉める音が響いた。振り返ろうとすると、肩を掴まれ「まだ見るな」と制止される。
 逢坂くんはどこか満足げな顔で俺の正面に回り込むと、ジャージのポケットに手を突っ込み、やれやれと言いたげに息をついた。

「これ、剥がしたら先輩が恋愛経験ゼロってバラすからね」
「えっ、言わないって約束したのに」
「……それじゃ、俺もうクラス戻るわ」

 そう言って、逢坂くんは悪びれる様子もなくひらひらと手を振る。呼び止める間もなく、その背中はあっという間に体育館の出口へと歩いて行ってしまった。

「なんだったんだ、いきなり……」

 飼い犬に手を噛まれたような気分で立ち尽くしていると、近くを通りかかった後輩たちが俺の背中を見て「あはは」と笑いながらヒソヒソと指差していく。
 何が書かれているのか気になって、慌てて近くのトイレに駆け込んだ。洗面台の鏡に背中を映して、恐る恐る振り返ってみると――。

「『逢坂鳴が攻略中です♡』……?」

 もともとあった『恋愛相談受付中です♡』のネームの上からガムテープが貼られ、すごい太字でそんな文言が書き殴られている。
 誰が攻略中だよ、と恥ずかしいのと呆れるのが一気に押し寄せてきて、文句のひとつも言ってやりたいのに、当の本人はもうとっくに教室へと戻ってしまった後だ。ぶつける先を失った感情が、火照るような頬の熱に変わっていく。
 周囲の目をできるだけ避けるように壁伝いに歩きながら、俺はトボトボと自分の教室へと戻る羽目になった。

 ***

 あの後、逢坂くんとはまともに顔を合わせられないまま、体育祭は幕を閉じた。文句を言うタイミングを完全に見失ったせいで、消化不良な気持ちを抱えたまま家路に就いたのだけれど――。
 クラスTシャツを洗濯機に放り込もうとした瞬間、落書きされた逢坂くんの文字に手を止める。

「……好きになったら、芦屋家の言い伝え通りになるのに」

 逢坂くんに恋人を作ると宣言してから、タイムリミットはあと数日。こんな短期間で相手が見つかるはずもなく、本来なら俺の『負け』で決まりのはずだった。
 それなのに、まさか本人から好かれるなんて完全な計算外だ。しかも厄介なことに、その予想外の告白に、俺の心は思いのほか激しく揺らいでいる。
 もしここで俺が本気で好きだと認めてしまえば、いつか終わりが来る未来へ向かってしまう。――だけど、本当に怖いのは、自分が傷つくことじゃない。その先の未来で、逢坂くんを泣かせてしまうことだ。

(じゃあ、どうすればいいんだよ……)

 答えの出ない問いを頭の中でぐるぐると繰り返しながら、うんうんと唸ってベッドに突っ伏した、その時。突然、スマホの着信音が鳴り響いた。

「もしもし?」
「遙日、助けて! ロスト・ラブのどん底にいる!!」
「……母さん、落ち着いて。声のトーンを下げて」
「落ち着いてなんかいられないわよ! 空港のロビーで待てど暮らせど、彼が来ないのよ⁉ これはもう、私を振って高跳びしたか、実はスパイだったかの二択でしょ!」
「スパイの可能性は絶対にないから安心して。……というか、単にフライトが遅れてるか、仕事が押してるだけなんじゃないの」

 また始まった、と正直うんざりした気持ちでスマホを遠ざけながら、とりあえず母さんを宥める言葉を口にする。

「やっぱり、芦屋家の呪いには勝てないのよ」

 ずん、とその一言が胸の奥の深いところまで沈んでいく。何度も聞いてきたはずの言葉なのに、今日ばかりは特に重く響いた。俺は「とりあえず、連絡してみなよ」と言うのが精いっぱいで、通話を半ば無理やり切る。
 深く溜息をついてホーム画面を見ると、もう七時を過ぎていた。アカウントに「今日の一言」を更新しなきゃいけない。告白のことで頭がいっぱいになって、予約投稿のストックを切らしていたのをすっかり忘れていた。

(なに、呟こう……)

 今までなら、どんな言葉でもすぐに思い浮かんだのに。靄がかかったように考えられなくて、その次には逢坂くんの振り返ってきた時の顔が思い浮かぶ。

「傷つくことを恐れて、足を止めないで。怖いままでも、前に進んでみたっていい……」

心のままに打ち終えてポストを読み返すと、それがそのまま自分自身に向けた言葉のように思えて、スマホを持つ手にぎゅっと力がこもった。

 思い返せば、他の誰に向けられた言葉や想いにも、こんなふうに頭の中を占領されたことは一度もなかった。逢坂くんの些細な癖や、ふとした表情の変化に、いちいち心を乱されていたこと。そのすべてに、今更ながら気づかされる。

 手首を引かれてドキッとしたことも、ニット越しの笑顔に見惚れたことも、涙を拭われた指先の熱も――全部、ちゃんと「好き」の兆候として自分の中に積み重なっていたのだ。それに気付かないふりをしていたのは、ほかならぬ俺自身だった。

 傷つけたくないからと最初から手を伸ばさないことと、傷つく覚悟をしてでも精一杯大事にしようとすること。似ているようで、それは決定的に違う気がする。

『逢坂くん、今から少しだけ』

 DMの画面にそこまで打ち込んでいる途中で、逢坂くん側の吹き出しがモクモクと点滅し始める。
 向こうも何か入力しているんだと気づいた瞬間、ポコンと通知音が鳴り、新しいメッセージの吹き出しが画面に追加された。

『投稿見た。超会いたいから、公園で八時まで待ってる』

 表示された一文に、さっきまでの重苦しいモヤモヤが嘘みたいに吹き飛んでいく。
 行くねと返事をする前から来ることが大前提なのも、「超会いたい」なんてストレートすぎる爆弾を投げてくるのも、全部ずるい。ずるいよ逢坂くん。
 俺は頭の中でそんなふうに文句を言いながらも、ダッフルコートを部屋着の上から適当に羽織り、スニーカーの踵を踏んだままマンションのエレベーターへと飛び乗った。

***

 冷えた夜風のなかを息を切らして駆け抜け、待ち合わせ場所へ向かう。
 公園の街灯の下、ベンチの脇に逢坂くんは立って待っていた。はぁ、と白い息を吐きながら近づいていく足音が聞こえたのか、ゆっくりと顔を上げる。

「……遙日先輩」
「ごめんっ、はぁ、お待たせ……っ!」

 声をかけたものの、笑顔を頑張って保とうとした表情は、逢坂くんと目が合った瞬間に一気に崩れてしまった。ぽろ、と自分でもコントロールできないまま涙が零れ落ちて、慌てて指先で拭おうとする。

「あれ……?」

 動揺をごまかそうと苦笑いしながら何度も涙を拭う俺の顔を、逢坂くんはじっと覗き込んでくる。

「……あーあ、最悪」
「え」
「先輩がガチ泣きしてる可能性、頭の隅にはあったけど。マジで当たると普通にへこむ」

 まだ何も話していないのに、逢坂くんは俺よりもよっぽど辛そうに眉を下げて尋ねてきた。その優しさが嬉しいのと、悲しさが溢れて、口をへの字に曲げる。

「か、母さんが……またダメになるかもしれなくて」
「急がなくていいよ。先輩が全部話し終わるまで、俺はここにいるから」

 人前でこんなに泣くなんて格好悪い、と分かっているのに、涙腺の方が言うことを聞いてくれない。手の甲でごしごしと拭っても、次から次へと溢れてきて、その不甲斐なさに余計に泣きたくなる。
 ひっく、ひっくと嗚咽を繰り返しながら、俺は逢坂くんにそれまでの辛い気持ちを全部ぶちまけた。言葉にすればするほど、みっともなくて。それでも逢坂くんは、途中で口を挟むこともせず、ただじっと話を聞いてくれていた。

「これ、使えば」

 差し出されたポケットティッシュは、揉みくちゃにされたみたいにくしゃくしゃだった。その不器用すぎる優しさに、不思議と張り詰めていた糸が切れ、溢れそうになっていた涙がぴたりと止まる。

「あ、ごめん。急いで突っ込んだからぐしゃぐしゃになったわ」

 困ったように笑う逢坂くんから、それを受け取ろうと手を伸ばす。
 その隙を突くように強い力で手首を引かれ、気づいたときには、俺の体は彼の温かい腕の中にしっかりと抱きしめられていた。

「え……っ、お、逢坂くん?」

 頭が真っ白になって驚きに目をしばたかせると、逢坂くんは俺の背中に腕を回したまま、まっすぐな声を落としてくる。

「遙日先輩が泣いてる時は、俺がいつだって駆けつけたいんだよ。……これって、たぶん逢坂家の遺伝子かも」
「い、遺伝子……?」
「離婚家系だの何だの言われてもさ、俺の家はマジで全力の溺愛家系だから。家族全員バカみたいに仲良いし、九十過ぎたじーちゃんなんか毎朝みたいにばあちゃんに『愛してる』って言うし」
「ちょ、待って、どういうこと」
「先輩の家の言い伝えとか、そんなの知らねぇよ。俺と、この逢坂家の遺伝子が全部どうにかしてやるから。何回喧嘩したって、絶対に乗り越えるって約束する」

 真剣な声だった。いつものような余裕もなく、隠しようのない本気が伝わってきて、胸が熱くなる。それが嬉しくて、同時にどうしようもなく苦しかった。
 逢坂くんに恐怖を背負ってもらうんじゃなくて、自分自身の足でしっかりと立つ強さを持たなければいけない。そう、気づいてしまったから。

「――だから」

 言葉を続けようとする逢坂くんの唇に、俺はそっと人差し指を当てて遮った。

「待って、ちょっと一旦話させて」
「え、なんで。今、めっちゃ格好つけようと思ったのに」
「分かってるけど……その、逢坂くんからの想いだけじゃ、きっとダメだから」
「は? なんでだよ。俺はマジで、遙日先輩のこと――」

 焦ったように言葉を重ねようとする逢坂くんに、俺はゆっくりと首を振ってみせた。

「逢坂くんが本気で言ってくれてるのは、伝わってる。だから、今度は俺がちゃんと言葉にする番だと思うんだ」

 そのまっすぐな眼差しに背中を押されるようにして、俺はもう一度、自分のなかの本当の気持ちを探し始めた。
 このまま逢坂くんの熱量にすべてを預けてしまえば、確かに楽になれるかもしれない。いつか訪れるかもしれない終わりへの恐怖も、彼が引っ張っていってくれるなら、見ないふりができるかもしれない――だけど、それは違う。
 どれだけ逢坂くんが本気でぶつかってきてくれたって、俺が自分の足で立っていなければ、結局はいつか言い伝えの呪縛に押しつぶされてしまう。そこに「それでもこの手を離さない」という自分の意志がなければ、なにも意味がない。
 そう気付いた瞬間、胸のつかえがスッと消えて、ようやく自分の気持ちがはっきりと形を帯び始めた。

「逢坂くんとなら……もしこの先、言い伝え通りに別れることになったとしても、俺は絶対にそのせいにしたりなんてしない」
「え、なにそれ。俺、もう振られる前提なの?」
「そうじゃなくて。たとえ離れ離れになる未来があったとしても、俺はきっと、心の底から君の幸せを願いながら、ずっと好きでい続けると思うんだ」

 これまでの芦屋家は、いつだってお互いを憎み合うことでしか関係を終わらせられなかった。血筋のせいにして、傷つけ合って、恋そのものを呪ってきた。でも、たとえどんな結末が待っていたとしても、逢坂くんと俺は――この恋だけは、自分の意志で選び取ったものとして、最後までまっすぐ抱きしめていられるって信じたい。

「……好き、逢坂くん。君のことが好きです」

 今まで、誰かのページをめくるようにして恋を知った気になっていた。何百回と繰り返し読んできたはずの、紙の上の恋物語。けれど今、目の前にいる逢坂くんは、そのどのページにも書かれていない。
 言葉より先に動く手。隠しきれない優しさ。ふとした瞬間に剥がれ落ちる素顔。そして、俺の代わりに声を荒げてくれた、あの本気の怒り。
 物語の中なら、きっと数行で片付けられてしまうようなことだ。それなのに、この手で直接触れてしまった今は、もうどんなに美しいラブストーリーを読んでも敵わない。逢坂くんに恋した理由を思い返すたびに、胸の奥のなにかがコトリと音を立てる。

「逢坂くんの恋人になるの……俺じゃだめかな」

 街灯の光が、逢坂くんの頬をやわらかな淡いオレンジに染めていた。恥ずかしそうに口元へぐっと力を入れて、視線をあちこちに泳がせながらまごついている。

「駄目なわけねぇし。つーか、自分の気持ちに気付くの遅すぎだから」
「だって、逢坂くんのこと傷つけるのが一番嫌で」

 逢坂くんは片手で自分の口元を覆って、ふいっと視線を逸らした。指の隙間から覗く耳が、みるみるうちに赤くなっていく。

「……っつーか、そう思う時点で、俺のことだいぶ好きだって気づけよな」

 その言葉に、俺は「うぅ」と頬を覆って言葉を詰まらせた。恥ずかしさに耐えきれず、同じく視線を逸らして俯いてしまう。
 それを見た逢坂くんは、何かを堪えきれないように一度だけ深く息を吸った。そして、下から顔を軽く傾けると、そっと静かに唇を寄せた。
 外の冷たい空気に晒されていたはずなのに、触れた唇はほわりと柔らかくて、あたたかい。
 あんなに憧れていたファーストキス。叶わない「いつか」を夢見たことはたくさんあったのに。少女漫画の中で、何百回とページをめくって追いかけてきたはずのその瞬間は、今までに思い浮かべたどんなものよりも、ずっと温かくて、しあわせだった。

「……もう一回してくれる?」

 ゆっくりと離れていく唇の名残惜しさに、素直な声でねだってしまう。頭の片隅では「はしたないかも」なんて考えているのに、口から出た言葉を引っ込める気にはなれなかった。
 目の前で逢坂くんが大きく目を見開き、フリーズしたように固まった。それから片手で口元を覆ったまま、そっと顔を背ける。

「……っ。ほんと、調子狂う……」

 いつも余裕たっぷりに人をからかってくる逢坂くんが、こんなふうに狼狽える姿を見るのは初めてで、なんだか少し愉快な気分になる。夜風に揺れる前髪の下で泳ぐ瞳の動きすら、今はもう全部が愛おしくてたまらなかった。

 ***

「そういえばさ、うちの母さんのロストラブ騒動。あれから普通に仲直りしたみたい。単純に飛行機が遅延してたとかで」
「先輩の母さん、スケールデカすぎだろ」
「俺も将来、恋愛で暴走するタイプになっちゃうのかなぁ」
「それは期待しかねーな。だって先輩、俺のこと結構好きじゃん」
「大丈夫、しないように気を付けるから」
「えっ、そこは即答すんなよ。否定するにしても、もう少し言い方あるだろ」

 逢坂くんと俺が、両想いになってから一週間後。相変わらず、恋愛名言botにはたくさんの恋愛相談が届き続けている。けれど、前ほどスマホにかじりついて返信をすることはなくなった。対応時間を決めて、返信には時間が掛かる場合もあることをきちんと追記している。
 これからも相談には乗るけれど、以前と違う点があるとしたら……きっと、実体験に基づいた本音でアドバイスが出来ることかもしれない。

「あのね、逢坂くん。理想的な恋人関係の構築として、二週間に一度はお互いの好きなものを――」
「はいはい、また本から仕入れた知識でしょ」

 カフェのソファーに座ってティラミスをスプーンで掬っていると、逢坂くんに頬をむにっとつままれた。楽しそうな目で見下ろされると、反論する気も失せてしまう。

「頭でっかちの知識だけは一人前なのに、実技は全然ダメダメじゃん」
「またそうやって馬鹿にして。今、練習中って言ったよね」
「うん、知ってる。……その練習も本番も、一生俺でやってて?」

 いきなり距離を詰められて反応が遅れた。逃げるタイミングを失って、ふに、と軽く食むみたいに頬へキスを落とされる。慌てて左手で頬を隠したけれど、もう遅い。

「こら、外ではしない約束だよって」
「俺、遙日先輩に怒られんの割と好きなのかもしんない」
「しょうがないなぁ、もう……」

 悪びれもせず笑う逢坂くんに、俺は眉を下げて小さく息を吐いた。
 陽だまりに満ちた窓辺で、彼が頬杖をつく左手の薬指。その小さなほくろに重なるように、今はもう一つ、お揃いの輪があたたかな光を返していた。
 逢坂くんの腕に頭を預けて体を寄せ、互いの手を並べて覗き込む。オルゴールの優しいクリスマスソングに包まれながら、俺たちはどちらからともなく笑みを零した。


(終)