——すみれの生家、朝霞家。
その名を口に出さずとも、二人の間に凍てつくような怒りが共有される。
報告書に記されていた『冷遇』などと言う生温い言葉では、到底言い表せない地獄を、すみれは歩んできた。
ふとした瞬間に見せる、怯えたような視線。
触れようとした時に微かに強張る肩。
褒められても、受け取る前に『すみません』が出る口元。
その一つ一つが、彼女の過去を雄弁に物語っていた。
「殿下。今のすみれ様に必要なのは、教育よりも先に『安全』を知ることです」
「……安全だと?」
「はい。失敗しても見捨てられない。何もできなくても、ここに居てよいのだと。
心の底から安堵できる場所が、あの方にはまだないのです。
殿下の腕の中ですら、あの方は『いつか追い出される場所』だと、怯えておられます」
静かに頷いた。
自分がどれほど言葉を尽くし、彼女を必要だと言っても、すみれは心のどこかで『自分はいずれ捨てられる存在だ』と命を軽んじている。
——違う。捨てるはずがない。
それを伝えるために、どれほどの時間が要るのか。
彼女の持つ独特の危うさ。
俺の隣ですら、すみれにとってはまだ、幻のようなものなのかもしれない。
指先が温もりを思い出し、無意識に手袋の縁を握った。
「……対策は何かあるだろうか」
声が、ほんの少し低くなった。
焦りを隠すための癖だ。
「教育とは別に、日常の中にすみれ様の『過去』を知る方を置かれるのがよろしいかと存じます。
あの方が唯一、心を開けるような存在が」
「過去を知る人間か。……一人、心当たりがある」
立ち上がり、窓の外を見やった。
闇の向こうに邸の輪郭を思い浮かべる。
最初から考えていたことではあった。
彼女の孤独を埋めるには、自分一人の力では足りないかもしれない。
守る、守り抜く——そのためには、手段を選んでいる暇などない。
藤波の瞳に、一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。
「はい。教育と言う公的な場では守りきれない部分を、優しく補える存在。
それこそが、今のあの方に必要な毒消しとなりましょう」
「……すぐに手配しよう。明日にでも」
すみれと出会ってから、気がつけばこうして邸の方向を眺めることが増えた。
今頃、彼女は初めての授業に打ちのめされ、暗い部屋で膝を抱えてはいないだろうか。
——違う。そうさせない。
「すみれ……」
無意識に零れた名は、夜の静寂に溶けていった。
だがその名だけは、胸の中で、確かに熱を持って残り続けた。
その名を口に出さずとも、二人の間に凍てつくような怒りが共有される。
報告書に記されていた『冷遇』などと言う生温い言葉では、到底言い表せない地獄を、すみれは歩んできた。
ふとした瞬間に見せる、怯えたような視線。
触れようとした時に微かに強張る肩。
褒められても、受け取る前に『すみません』が出る口元。
その一つ一つが、彼女の過去を雄弁に物語っていた。
「殿下。今のすみれ様に必要なのは、教育よりも先に『安全』を知ることです」
「……安全だと?」
「はい。失敗しても見捨てられない。何もできなくても、ここに居てよいのだと。
心の底から安堵できる場所が、あの方にはまだないのです。
殿下の腕の中ですら、あの方は『いつか追い出される場所』だと、怯えておられます」
静かに頷いた。
自分がどれほど言葉を尽くし、彼女を必要だと言っても、すみれは心のどこかで『自分はいずれ捨てられる存在だ』と命を軽んじている。
——違う。捨てるはずがない。
それを伝えるために、どれほどの時間が要るのか。
彼女の持つ独特の危うさ。
俺の隣ですら、すみれにとってはまだ、幻のようなものなのかもしれない。
指先が温もりを思い出し、無意識に手袋の縁を握った。
「……対策は何かあるだろうか」
声が、ほんの少し低くなった。
焦りを隠すための癖だ。
「教育とは別に、日常の中にすみれ様の『過去』を知る方を置かれるのがよろしいかと存じます。
あの方が唯一、心を開けるような存在が」
「過去を知る人間か。……一人、心当たりがある」
立ち上がり、窓の外を見やった。
闇の向こうに邸の輪郭を思い浮かべる。
最初から考えていたことではあった。
彼女の孤独を埋めるには、自分一人の力では足りないかもしれない。
守る、守り抜く——そのためには、手段を選んでいる暇などない。
藤波の瞳に、一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。
「はい。教育と言う公的な場では守りきれない部分を、優しく補える存在。
それこそが、今のあの方に必要な毒消しとなりましょう」
「……すぐに手配しよう。明日にでも」
すみれと出会ってから、気がつけばこうして邸の方向を眺めることが増えた。
今頃、彼女は初めての授業に打ちのめされ、暗い部屋で膝を抱えてはいないだろうか。
——違う。そうさせない。
「すみれ……」
無意識に零れた名は、夜の静寂に溶けていった。
だがその名だけは、胸の中で、確かに熱を持って残り続けた。



