夜の静寂が包み込む執務室に、ノックの音が響いた。
ランプの灯が書類の縁を白く照らし、インクの匂いが薄く漂う。
「入れ」
短く応じると、扉の向こうから藤波が姿を現した。
昼間と変わらぬ、一点の乱れもない所作で深く一礼する。
足音すら立てない。——それが彼女の矜持なのだろう。
「本日のご報告を失念せぬうちにと思い、参りました」
「聞こう」
手元の書類から目を離さぬまま、先を促した。
言葉とは裏腹に、指先はわずかに硬くなる。
彼女が『報告』と言った瞬間から、胸の奥に嫌な予感が灯っていた。
「すみれ様は……非常に、素直でいらっしゃいます。驚くほどに」
藤波は一歩前に出ると、今日初めて言葉を交わした教え子の印象を淡々と語り始めた。
その声には、長年多くの貴家の令嬢を導いてきた教育者としての、冷静で、かつ慈悲深い響きがある。
だが、慈悲は甘さではない。——彼女は事実しか告げない。
「言われたことを、そのまま真っすぐに受け取られる。
私からの指摘も、評価も、すべてをご自身の価値に直結させておしまいになる。
それは妃教育においては類まれなる長所と言えましょう。
ですが——同時に、あまりにも壊れやすい」
過大評価も、甘い同情も一切ない。
藤波が下したのは、ありのままのすみれに対する真実だった。
「あの方は、ご自身にできないことがあると、それを努力不足ではなく『存在そのものの欠陥』だと認識しておられます。
根深い自己否定の闇を感じました」
思わず手が、止まった。
ペン先が紙に触れたまま、動かない。
ランプの灯が書類の縁を白く照らし、インクの匂いが薄く漂う。
「入れ」
短く応じると、扉の向こうから藤波が姿を現した。
昼間と変わらぬ、一点の乱れもない所作で深く一礼する。
足音すら立てない。——それが彼女の矜持なのだろう。
「本日のご報告を失念せぬうちにと思い、参りました」
「聞こう」
手元の書類から目を離さぬまま、先を促した。
言葉とは裏腹に、指先はわずかに硬くなる。
彼女が『報告』と言った瞬間から、胸の奥に嫌な予感が灯っていた。
「すみれ様は……非常に、素直でいらっしゃいます。驚くほどに」
藤波は一歩前に出ると、今日初めて言葉を交わした教え子の印象を淡々と語り始めた。
その声には、長年多くの貴家の令嬢を導いてきた教育者としての、冷静で、かつ慈悲深い響きがある。
だが、慈悲は甘さではない。——彼女は事実しか告げない。
「言われたことを、そのまま真っすぐに受け取られる。
私からの指摘も、評価も、すべてをご自身の価値に直結させておしまいになる。
それは妃教育においては類まれなる長所と言えましょう。
ですが——同時に、あまりにも壊れやすい」
過大評価も、甘い同情も一切ない。
藤波が下したのは、ありのままのすみれに対する真実だった。
「あの方は、ご自身にできないことがあると、それを努力不足ではなく『存在そのものの欠陥』だと認識しておられます。
根深い自己否定の闇を感じました」
思わず手が、止まった。
ペン先が紙に触れたまま、動かない。



