☆☆☆
一ヶ月の月日が流れ、緑が生い茂る季節。
空は雲ひとつない晴天。
蝉の鳴き声が聞こえ、季節を象徴する。
そんな中、藤乃は自室の襖を全開にして勉強に励んでいた。
風が靡き、風鈴の癒し音が聞こえると先生の指導がピタリと止まった。
「…キリがいいですし、今日はここまでに致しましょう」
「はい。本日もありがとうございました」
帰り支度を始める先生に、三つ指ついて深く頭を下げた。
「藤乃様は、飲み込みが早くてこちらもつい話が長くなってしまいます。早くないですか?」
「いえ、とんでもありません。先生に知らない事を教えて頂けて、とても楽しく学ばせて頂いております」
藤乃の言葉に、先生はホッと安堵した。
藤乃は水瀬家で異能が使えない事で、誰かに教わるという事はなかった。
しかし、いつか治癒の異能が使えると信じ、書物を何度も読み返してきた。
その積み重ねは、まるで彼女の脳内に書物庫が築かれたかのようだった。
教わる喜びを得ていた。
「それは良かった。ところで、藤乃様。最近、外出はされましたか?」
「えっ…?」
先生から勉強以外の事を聞かれるのは初めてで、目を丸くした。
先生は、日差しが厳しい季節にも関わらず、藤乃の透明感のある白い肌を見て疑問に思っていた。
内向的な女性ではあるが、外にすら出られていないのではと以前から気にかけていた。
「いえ…用事もないのに、外へ出るだなんてそんな我儘は恐れ多くて旦那様に言えません」
景は優しく、藤乃の幸せを一番に考えている。
そんな彼に心の蟠りは日々ゆっくりと消化されていた。
けれど、未だ自分の願望は言えなかった。
これは彼女が十八年間、水瀬家にがんじがらめにされていた事も関係している。
「用事…それでは、来週ある夏祭りをご一緒に参られてはいかがです。俳句の勉強のために、情景を学びたいとおっしゃってみては?」
「夏祭り…噂には聞いたことがあります」
「えぇ。帝都で毎年行われている大規模なもので、屋台も多く出店しています。祭りの終盤には花火も打ち上げられます。夏の風物詩ですね」
楽しそうな雰囲気を感じ取れる話に、藤乃の心は踊った。
「早速、旦那様に伺ってみようと思います」
景と楽しめる事を想像して、藤乃は柔らかな笑みを溢した。
☆☆☆
翌日。
部屋に差し込む爽やかな光。
障子越しに聞こえる風切り音。
布団を畳み終えると、部屋の外へ出ると景がいつものように鍛錬をしていた。
剣を振る手を止め、汗を拭いながらこちらへ振り向いた。
「おはよう、藤乃」
「おはようございます。景さん」
いつも通り挨拶を終えると、藤乃の頭の中はどのように景を誘おうかと悩むばかりだった。
縁側に座ると、どう切り出そうかと俯きがちになった。
考え込んでいると、不意に視界へ影が落ちた。
視線を上げると、景が小首を傾げて目の前に立っていた。
「どうしたんだ、藤乃。元気がなさそうに見えるが…まさか、また体調が悪いか?」
「い…いえっ。そうではないのですけれど…」
「けれど? 何だ、申したい事があるのか?」
縁側で座る藤乃の横に腰掛ければ、彼女をじっと見つめた。
言いたそうにするけれど、唇をきゅっと噛み締めて言い出せそうにない藤乃。
急かす事なく、ただじっと見つめて彼女の言葉を待っているとゆっくりと口を開いた。
「あの…来週…なのですが」
「来週?」
顎に手を添えれば、少し考えに耽る景。
「その…夏祭り、というのに行ってみたくて…ご一緒に参りませんか…?」
ぎゅっと拳を握り意を決した。
顔に熱が集まり、頭がぼうっとする。
心臓は脈を早めた。
「…悪いが、夏祭りの日は警備の公務が入っている」
初めての申し出を断られれば、途端に恥ずかしくなった。
優しい景だから、きっと一緒に行ってくれる。
また一つ、彼との思い出ができる事を喜ばしく思っていた。
「も…申し訳ありませんっ。景さんの激務を考えれば、分かる事でした。生意気な事を言って、本当に申し訳」
「藤乃」
三つ指ついて景に頭を下げようとする彼女を阻止すると、ふわっと柔らかく彼女を抱きしめた。
「謝る必要がどこにある。むしろ、それは俺の方だろ。もしかして、先程考えていたのはーー俺をどう誘おうか、ということか?」
「えっ…と、は…はい…」
素直にこくりと頷けば、藤乃の頬に口付けを落とした。
「俺は幸せ者だな。共に参る事はできない…だからこそ、ここにいる皆と行くのはどうだ?」
「でも…皆さんのご迷惑になりませんか…?」
「迷惑になんて思わない。あと、約束して欲しいことがある」
景の言葉に首を傾げた。
「祭りでは必ず皆と行動しろ。それだけは守ってくれ」
「は、はい…」
景の言葉にこくりと頷くと、藤乃にとって、生まれて初めての夏祭り。
その日を思うだけで、胸は小さく弾んでいた。
☆☆☆
一週間後。
オレンジに染まり始めた帝都の中心部は、いつも以上に人で賑わっている。
異能を使った屋台や催しで人同士の距離も近い。
(わ…お祭りって、こんなにすごいんだ…)
初めての事に、藤乃は人混みの中必死に歩いていた。
「藤乃様。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫…です…」
混雑した人通りを抜けると、前を歩く貴子にそう聞かれるが大丈夫としか言えなかった。
日頃から外へ出る事は少なく、夕方とはいえまだ暑さもあり体力に自信のない藤乃は疲れていた。
「…少しお休みしましょう。飲み物…あっ、ラムネはいかがですか?」
「ラムネ…?」
辺りを見渡し、冷たい飲み物を売る屋台を見つけると、貴子はそちらへ歩き出した。
聞き慣れない言葉に小首を傾げながら後を追うと、銀のタライがあった。
その中には、水と氷が入っており宝石のような薄い青緑色の瓶がキラキラと輝いている。
「わぁ…綺麗…」
「すみません。ラムネを二つ、頂けますか?」
「はいよ!」
藤乃がうっとりと見つめている間、貴子が注文すれば瓶を二本出す店主。
水の滴る瓶を布で拭き取れば、藤乃も受け取った。
「わっ…冷たい…」
暑い中で受け取った瓶は冷たく、目を細めて見つめた。
「藤乃様。あちらで頂きましょう」
そう言うと、貴子は人が少なくなった通りの先にある石造の階段を指差した。
丁度日陰にもなっており、そちらへ近付くと貴子と藤乃は一段違いで腰掛けた。
「…すごく綺麗」
階段に座り、ラムネを空に掲げると光が反射して一層キラキラと輝く。
「ふふ。せっかく冷えておりますから、ぬるくなる前に頂きましょう」
「え、えぇ…えっと…」
見惚れていた所で声をかけられるが、藤乃は眉間に皺を寄せた。
「あの、貴子さん…これ…」
「? あぁ、こうです」
恐る恐る開け方を尋ねようとしたのを察すれば、貴子は藤乃の前で開け方を披露した。
付属の栓でラムネを開けるのを見て、納得すると真似て栓をグッと押し込んだ。
すると、貴子の時とは比べものにならない勢いで、ラムネがしゅわっと溢れ出した。
「はわわっ…あっ、す、すみませんっ…」
自分にラムネがかかり、咄嗟に謝れば貴子がクスッと小さく笑った。
「藤乃様。それはラムネを開ける時によくある事です」
「えっ…? でも、貴子さんはこんなこと…」
「これでも、祭りには何度も通ってますからね。コツを習得しました」
誇らしげに言う貴子に、思わず藤乃も笑みが溢れた。
「い、頂きます…」
ぷくぷくと泡をたてる飲み物に、飲むのを躊躇した。
しかし、美味しそうに飲む貴子に釣られて一口含むとすぐに口を離した。
「わっ…こ、これ…」
「藤乃様、いかがなさいました? お口に合いませんでした?」
藤乃の様子にすぐ尋ねるが、首を横に振った。
「いえ…すごく甘くて美味しいです。でも、この…しゅわしゅわに驚いてしまって」
「ふふ、たしかにそうですね。ラムネって、夏祭りのように催し物の時にしか買えない特別なものですから。初めて飲んだら驚きますよね」
貴子はそう呟き、最後の一口を飲み干した。
(これ…景さんとも飲みたかったな…景さんはどのようにおっしゃるのかしら…って、いけない…)
貴子が美味しそうに飲むのを見て、頭に景の事が浮かんだ。
一口だけ飲んで、瓶の中にあるビー玉を転がしながら瓶を眺めていると、人影が藤乃を覆った。
視線を少しあげれば、黒のスラックスが見えた。
(これほど暑い時に洋服なんて、このお方大変…あっ)
視線を上げた先にいた人の顔を見て、目を丸くした。
隊服を身にまとった景が立っていた。
人混みの中で見慣れた藤乃の姿を見つけたのか、その表情には安堵が滲んでいる。
しかし次の瞬間には、へらっと笑みを浮かべた。
「お嬢さん。もしかして、どこか気分でもお悪いですか? …なんて」
「け…景、さん…」
これほどの人混みの中、警備をしている治安会の人はすれ違い様に何度も見た。
その度に顔を見て、景でないかと確認していたが都合よく会える事はなかった。
そんな中で声をかけられ、藤乃は言葉を詰まらせながら呼んだ。
「景様。暑い中の警備、ご苦労様です」
「いえいえ。貴子さんこそ、藤乃とご一緒してもらいありがとうございます。藤乃、それは…ラムネか。懐かしい」
主人である景に丁寧に言うと、景も貴子へ感謝を告げた。
藤乃の方に向けば、手に持つラムネに目を細めて穏やかな表情を浮かべた。
「は…はいっ。あの、甘くてしゅわしゅわで…えっと、景さんと一緒に…その、飲みたいなって…あ、でも! えっと…」
突然彼が現れた事で、いつも以上に上手く伝えられない。
一緒に飲みたいと伝えれば、思わず自分の飲んでいたラムネの瓶を彼に差し出してしまった。
(私ったら…! 飲みかけのラムネを渡すなんて…っ、景さんだってはしたないと思っているわ…話したい事、他にもあるのに…)
自分の口下手さがもどかしかった。
「隊長。そろそろ」
「あぁ、すぐに行く! …藤乃。悪いがそれ、一口頂いても?」
「えっ…は、はいっ…」
景は瓶を受け取ると、一瞬だけ藤乃を見つめ、小さく笑った。
「頂く」
そう告げて、口を付けた。
「…美味いな。よく冷えてて。ありがとう」
瓶を見ながら感想を伝え、藤乃に渡した。
「い、いえ…」
「それと、藤乃。警備の調整が少し出来そうでな…花火、一緒に見れそうなんだ」
「っ、本当ですか…!」
藤乃の表情がぱあっと明るくなった。
「あぁ。貴子さん、花火が始まる少し前、ここに来てもらえませんか? 俺も一緒に参ります」
「かしこまりました。それでは、時間になればまたこちらへ来ます」
「よろしくお願いします」
貴子に約束すれば、もう一度藤乃の方を見た。
「それと、藤乃。今日の浴衣姿はとても」
「なんだと!? お前がぶつかってきたんだろうが!」
「あぁ!? お前が前見てねぇからだろ!」
景が藤乃に言葉を告げようとしたが、少し遠くから彼の言葉を打ち消すほどの怒号が飛んだ。
「隊長! あちら、揉めているようです」
「あぁ、すぐ参る! 藤乃。それではまた後でーーそれ、似合ってるぞ」
駆け足で離れながら藤乃に伝えた。
藤乃が身に着けている紫陽花の髪飾りを指差すと、そのまま揉めている方へ向かった。
景に褒められると、藤乃は優しく髪飾りに触れた。
景から貰った髪飾りは特別で、夏祭りというイベントでは絶対に身につけたかったのだ。
「景様、お忙しいんですね…」
「…そのようですね。みなさんが楽しく過ごすために頑張っていらっしゃるのですから、とても誇らしいです」
貴子にそう告げたが、内心は違った。
本当は、もっと話したかった。
一緒に夏祭りを回りたかった。
幸せな時間を共有したかった。
彼ともっと一緒にいたい――そんな願いで心が埋め尽くされていると知られれば、呆れられてしまうかもしれない。
彼は、地域の治安を守るための立派な仕事をしている。
こんな気持ち、彼の妻としてふさわしくないとまで思っていた。
「藤乃様…私ではございますが、花火が始まるまでたくさん楽しみましょう」
「貴子さん…」
「私、祭りには目がないんです。藤乃様にもぜひ、私が編み出した楽しみ方をお伝えできればと思います」
まるで、藤乃の中にある浅ましい気持ちを見透かすかのように、伝えた。
そんな彼女の優しさに思わず笑みが溢れた。
「えぇ、ぜひ教えてください」
景との約束を胸に抱きながら、藤乃は貴子と共に人混みの中へ歩き出した。
☆☆☆
午後八時。
賑わっていた屋台から人がいなくなった。
これから始まる花火を良い場所で見る為に移動したのだ。
「景様…いらっしゃいませんね」
人がいなくなった事で見渡しがよくなった帝都の中心部。
隊服を着た人達も少ない。
ほとんどの隊員が人の集まるところの警備に充てられたのだ。
「…仕方ありません。忙しいのですから」
貴子の言葉に、聞き分けの良いフリをする藤乃。
しかし、内心は穏やかではない。
一度期待してしまった分、余計に胸が締め付けられた。
「…私達だけで参りますか?」
「いえ、私は景さんをお待ちします。きっと…来てくださりますから。その時に、私がいなければ景さんはきっと悲しまれます」
「藤乃様…」
貴子にも、藤乃の心のうちの痛みは伝わっており言葉に詰まっていた。
「あの、それではせめてもう少し階段を登りませんか? 花火が見えるかもしれません。少し登っただけなら、景様がお越しになった時に対応もできます」
「まぁ、それは良い考えですね…!」
貴子の名案にこくりと頷けば、石段を登り始めた。
その時、背後から声がした。
「藤乃様」
「…? はい」
聞き覚えのない声に振り返ると、そこにいたのは隊服を着ている男性。
しかし、治安会の人とは面識がなく小首を傾げた。
「僕は治安会攻撃隊の者です。隊長より命を受け、奥方様をお迎えに上がりました」
「まぁ、景さんから…!」
どこか貼り付けたような笑みを浮かべる彼は、治安会攻撃隊の人間。
つまり、景の同僚。
景が遅れた理由にも納得し、ぱぁっと明るい表情で貴子を見た。
しかし、彼女は隊員をじっと見た。
「景様から、ですか?」
「えぇ。奥方様を迎えに行くようにと仰せつかりました」
「景様は奥方様に何か言伝がある際、別部隊の隊長である桐谷様を通じて仰るのですが…貴方に?」
会話をしながら藤乃の前に立ちはだかる貴子。
状況が読めず小首を傾げる藤乃。
隊員は「こほん」と咳払いをした。
「申し訳ありません。言葉を省略してしまい…奥方様であれば分かっていただけると思ったのですが、桐谷様から命を受けましたが、誰からの言伝かを伝えた方が分かっていただけるかと思っ」
隊員が言い終える前に、貴子は自身の唇に指を当て勢いよく息を吹きかけた。
すると、彼女の指からは鉄砲のように速く鋭い水の塊が出た。
隊員めがけて放出された水だが、華麗に避けた。
「た…貴子さん…!?」
何が起きたのか分からず、藤乃は目を見開いた。
「藤乃様。私から離れないで下さい…貴方、誰です。攻撃隊…いえ、治安会の方であるかさえ怪しい」
鋭い眼光で男をギロリと睨み付けた。
「突然、何をなさるのです。僕は治安会攻撃隊と申したではありませんか」
「いいえ。それはおかしいのですよ」
藤乃を背中に庇ったまま、貴子がそう告げると男は眉間に皺を寄せた。
「攻撃隊隊長は景様。そして、副隊長が桐谷様です。上長と側近の名を覚えてない不届き者は攻撃隊にいません…!」
再び唇に指を当てて連続で水を噴射した。
しかし、それを華麗に避けていく男の姿。
ただ者ではない。
「バレてしまっては仕方ない…水瀬 藤乃。貴様、この姿を見れば僕が誰か…分かるだろ?」
そう言うと、隊服に靄が絡みついた。
次の瞬間、その姿は音もなく別人へと変わる。
その姿に、藤乃は目を大きく見開いた。
「修…様…!?」
景と出会う前に見合いした斑目家の子息だ。
「お前のせいで、僕はあの日を境に斑目家から勘当された。しかし、僕を助けてくれたあのお方の為に…お前の身柄を貰う」
「っ、させるわけないでしょう…!」
貴子が身構え、水を放出しようとしたが修は姿を消した。
水を辺り一面へ放つ。
もし姿を消しているだけなら、水に触れた部分だけが不自然に弾かれるはず。
そこに修がいる。
「おい! ここは許可なく異能を放つ事を禁じている場所だ! 何をしている!」
貴子が水を放出した事で騒ぎとなり、治安会が駆けつけたのだ。
味方が増えた事で安堵した表情を浮かべてすぐに声を荒げた。
「人攫いです! 藤乃様を…!」
治安会員たちの視線が貴子へ集まったーーその瞬間。
「きゃっ…!」
背後から伸びた腕が藤乃の口元と身体を同時に捕らえた。
しかし、貴子の願いも虚しく一瞬の隙を縫って修は藤乃の背後から姿を現して彼女の身柄を捕らえた。
藤乃の短い悲鳴も虚しく、二人の姿はすっと消えた。


