涙の治癒師 〜無能と呼ばれた私を、若き当主だけが信じてくれました〜


☆☆☆

「それでは、行って参る」
「はい。いってらっしゃいませ」

朝食を終えると、景は隊服に着替えた。
使用人達と藤乃が見送ると、景は玄関を閉めた。
屋敷で初めて過ごす一人の時間に、少し緊張していると「あらっ」と使用人の一人が声を上げた。

「嫌だわ、景様にお弁当を渡してなかった…」
「大変じゃない。早く追いかけないと…!」

使用人達が慌てていると、藤乃が恐る恐る名乗り出た。

「あの…私が届けてきてもよろしいでしょうか…?」
「えっ…でも、藤乃様にそんな…」
「私に行かせてください」

再度申し出れば、申し訳そうにしながら手渡す使用人。
受け取れば、玄関から足早に景の背中を追いかけた。
景はまだ、近くにいて門の近くにいた。

「景さんっ…!」
「藤乃…? どうした?」

追いかけてきた藤乃の声に振り返った。
尋ねると、弁当を手渡され忘れていた事に気付いたようだ。

「ありがとう。危うく昼を抜く所だった」
「いえ…よかったです。それでは、景さん。いってらっしやいませ」

これで彼と会える時間まで、しばらく空いてしまうと思うと少し寂しく感じた。
しかし、勤めだからと理解して屋敷に戻ろうとしたら「藤乃」と呼び止められた。

「どうされました…?」
「もう一つ、忘れ物があった」
「それなら、私取って参ります」
「いや、大丈夫」

景の言葉を聞き、屋敷に戻ろうとした。
しかし、彼は彼女の後頭部を手で支えると顔を近付けて額に口付けを落とした。
少しの間、ぽかんとしていた藤乃だが状況を飲み込むとぽっと顔を赤くした。

「それじゃあ、行ってきます」
「い…いってらっしゃいませ…」

何事もなかったかのように勤務地へ向かう景。
藤乃の心臓は、速くなった。
景の姿が見えなくなっても、藤乃は額にそっと手を当てたまま、その場から動けなかった。

☆☆☆

「藤乃様。本日からのご予定をお伝えさせて頂きたく思います」

屋敷に戻るなり、貴子がそう言うと藤乃は緊張した面持ちをした。

「は、はい…!」

炊事、洗濯、掃除。
屋敷を保つ為の作業なら、水瀬家にいた時に一通りのことはこなしてきた。
何を言われたとしても、それほど困る事はないはず。
そう思っていても、久世家では違うかもしれない。
しかし、貴子が放ったのは藤乃の予想とはまるで違った。

「まず、本日はこれから勉強して頂く際に担当される先生方へのご挨拶。それと、外商の方もお越しいただくよう伝えておりますので、そちらの方へのご挨拶があります。今後の関係の為に、顔合わせのような事を重点的に行って頂きます。本格的な開始は明日からです」

貴子の言葉に、きょとんとした。

「…どうされました?」

不思議そうにする藤乃にそう尋ねると、恐る恐る口を開いた。

「あの…お屋敷の事は…? 景さんは、みなさんがして下さるとおっしゃっていましたが、私のすることって…?」
「お屋敷の事…? もしかして、食事作りや掃除のことをおっしゃってますか?」

貴子にこくりと頷いた。
貴子は目を丸くしたが、「…なるほど。承知しました」と一人で呟くと何かを納得したようだ。

「屋敷の事は、私達が行います。藤乃様は、これから景様の奥方様として、様々な方の前に立つ機会が増えます。その為の勉強をする時間が、貴女のお役目と捉えて頂けますか?」

屋敷の仕事をしなくてもいい。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
これまで、屋敷の事を優先的に行い、それ以外の事は後回しにしていたからだ。

「不慣れな事を詰め込んでいるのは、申し訳ございません。ただ、一日でも早く慣れて頂けた方が藤乃様も今後肩の荷が降りると思いまして…しかし、これは私の一存です。明日以降、調整が必要であれば遠慮なくお申し付け下さい」

貴子の気遣いを知ると、藤乃は柔らかく笑みを浮かべた。

「とんでもありません。私の為に、ありがとうございます。一日でも早く、みなさんに妻として役目を果たせるよう、努めます」
「ありがとうございます」

藤乃がそう答えると、早速屋敷の呼び鈴が鳴った。

「先生がいらっしゃったのでしょう。藤乃様、参りましょう」

貴子がそう告げると、藤乃と二人で玄関へと向かった。

☆☆☆

「あっ…また、やっちゃった…」

先生や外商と挨拶を交わした数日後。
障子から差し込む朝日、明るくなった部屋。
文机に伏せて眠ってしまい、目を覚ましてから落胆した。

「出迎え、したかったのに…」

外から風切り音が聞こえると、昨日の自身の行動に深い罪悪感があった。
ここ数日、景とは朝にしか会えていない。
というのも、一つの隊をまとめる仕事をしている景は朝早くに屋敷を出て、帰ってくるのは日を超えてから。

毎朝口付けされる額に手を当てると、唯一の夫婦のコミュニケーションに頬を赤らめた。

「いけない…景さんが鍛錬なさっているのに…」

そう思い、立ち上がった。
その瞬間、ぐらっと世界が歪んだ。

「っ…何…今の…?」

瞬きを数回繰り返し、天井を見上げて少しすると収まり他に異変がない為襖を開けて廊下へ出た。

「おはよう、藤乃」

襖を開けると、景が素振りを止めて優しい笑顔を向けた。

「おはようございます、景さん」

縁側に正座をして、頭を下げて顔を上げると先程までの穏やかな表情が一瞬で硬くなった。
藤乃の方に歩みを進め、視線を合わせるようにしゃがんだ。
藤乃が不思議そうにしていると、景の角張った手がそっと頬に触れて顔が近くなった。

「あ、あのっ…景、さん…?」

ここ数日、縁側でもコミュニケーションをする事があり、まさかと思いきゅっと目を閉じた。
景の指が数回頬を撫でると、それだけで体がピクッと反応した。

「…跡がついてる。藤乃…また布団で寝なかったのか?」
「え…?」

閉じた目をゆっくりと開けると、頬についた跡を心配そうに見ている景。
景が帰ってくるのを待とうとして、この数日立て続けに机で眠ってしまっていた。
口付けを期待してしまった事を恥ずかしく思うと、頬を赤らめた。

「…顔も火照っている。どこか具合が悪いのではないか?」

真剣な眼差しを向ける景。

「っ…い、いえっ。違いますっ…」
「本当か? 無理は良くない。今日は休むよう、連絡もできるが」
「いえっ…本当に、そういうのでは…」
「…そういうのでは? 何かあるのか?」

誤魔化そうとしても、言葉の端を捉えられると逃げられない。
真剣な顔で心配をする景に恥ずかしくて口をもごもごと動かした。
観念すると、恐る恐る口を開いた。

「その…いつもの、されると思って…」

恥ずかしそうに藤乃が呟くと、額を抑えてじっと見つめた。
最初はきょとんとしていた景だったが藤乃の言葉を聞くと、察して口角を上げた。

「…いつものって?」

意地悪にそう返されると、藤乃は耳までかぁっと赤く染めた。

「そ…その…せ…接吻、です…っ」

語尾になるにつれて小声になる藤乃。
言い終えると、景はくすりと笑い触れていない方の頬に口付けをした。

「え…あ、えと…」

初めて頬に口付けをされると、口付けを落とされた場所に手を添えて一層頬が赤らんだ。

「…申し訳ない。つい、我慢ができなくて」

日に日に藤乃への愛おしさが増していき、彼女の行動一つに想いが募るばかりだ。
頬へ触れていた手をゆっくりと離すと今度は柔らかい笑みを浮かべて口を開いた。

「そうだ、藤乃。明日、休みが取れたから街へ行かないか?」
「街…ですか?」

藤乃が聞き返せば、こくりと頷いた。

「世の夫婦は、休みに出かけるんだ。俺も藤乃と参りたい。もちろん、無理強いはしない。慣れない生活で疲れているだろう。息抜きも必要だ」

藤乃の手に自身の手を重ね、尋ねると藤乃もこくりと頷いた。

「はい…私も、景さんと街へ行きたいです」
「そうか。それでは、今日はしっかりと寝てくれ。今日も遅いから、気にせず先に休んでくれ」
「分かりました」

景の言葉にそう返すと、タイミングを見計らったかのように使用人が声をかけた。

「景様、藤乃様。おはようございます。朝食のご用意が出来ました」
「あぁ、ありがとう。藤乃、先に行ってくれ。汗を流してくる」

使用人の手前、最後に優しく頬に触れて伝えてから景は立ち去った。

☆☆☆

「…やはり眠っているか」

日を超えて数十分。
景は任務を終えて帰宅するなり、自身の部屋に戻る前に手前にある藤乃の部屋で立ち止まった。
部屋の明かりは消えていたが、襖の前で小さく「藤乃」と声をかけしばらくしても反応がない。
そっと音を立てないように襖を少し開け、彼女が眠っている様子は月明かりで伺えた。
朝、自身がしっかりと休むように伝えたが心にはぽっかりと寂しさがあった。
音を立てないよう襖を閉めると、背後からこそっと話しかけられた。

「ーー景様。寝込みを襲おうとしているところ、申し訳ないのですが、定時の報告だけよろしいですか」
「っ…! 貴子さん…相変わらず気配を消すのがお上手で…あと、襲おうなんて思っていません」

藤乃の世話役を任されている貴子は、毎晩その日の様子を景へ報告していた。
遅くに帰ってくる景にそう声をかけたのだ。
勿論、貴子が思ってるような事をするつもりはない。
藤乃が起きないよう幻術で気配を消してそっと景に話しかければ、景は苦笑いをしながら答えた。

「藤乃様がお休みされていたので…それでは報告をよろしいですか?」
「えぇ。部屋で伺えますか?」

貴子に伝え、景の部屋へ向かった。
部屋にはたくさんの書物や仕事に関する物で溢れているが、きちんと整理整頓されており部屋は広々としている。

「今日はどうでした? 藤乃の様子」

部屋に入るなり、毎日同じ事を聞く景。

「はい。分単位で決めさせてもらっている内容ですが、楽しそうにして頂け、助かっています」

貴子が組んだスケジュールは、決して容易にこなせるものではない。
勿論これは、貴子の優しさによるもの。
景の治安会攻撃隊・隊長という役職には、仕事で社交会が突発的に行われる事がある。
そして、そのような場には奥方が参加するようになっており、藤乃がその場で浮いてしまうという可能性を、少なからず感じていた。
それ程、貴子が聞いていた藤乃の環境は劣悪なものだった。

「そうか…ところで、今日の藤乃に何か異変はありましたか? どれだけ些細な事でも構いません」
「えぇ、実はちょっと…あ、いやでもこれは…」
「っ、貴子さん。全て報告して下さい」

貴子の表情が一瞬曇ったが、濁そうとしたのを止めた。
藤乃は、連日きちんと寝ておらず景は内心穏やかではなかった。

「先生方からご教授を受けている時や外商の方と話している時はいつもと変わらなかったのですが、ふと空いた時間にぼんやりとされていて」
「ほう…」

景が難しい顔をして、顎に手を添えた。
空いた時間に、この生活が嫌になったのではないか。
疲れているのではないか。
頭の中を巡るのは悪いことばかりだった。

「それで、「少しお休みになりますか」とお尋ねしました。すると、「明日は景様とお出かけなので、そのことを考えていました」と」
「なっ…」

不意に告げられた愛おしい妻の言動。
考えるとつい笑みが溢れて、貴子の手前という事もあり口元を手で覆った。

「日々の事に嫌気がさしたとか、そのような事はないようです。むしろ、終わってからもお部屋で勉強されるほど熱心で私の方が心配になります」
「そうか…もしかしたら、気負わせているのやもしれん…」
「そうかもしれません。景様、明日あまり追い詰めないよう、お伝えいただけませんか。私の組んだ日程で、藤乃様なら十分です、と」
「分かりました。貴子さん、いつも遅くまで申し訳ありません。ありがとうございます」

一連の報告を受けると、貴子に礼を伝える景。
それを聞くと、貴子は部屋から部屋を去った。

「そうか、藤乃は毎日頑張ってくれている…それに、街へ行く事も…」

一人になった部屋でまた思い返すと口元を抑えたが、笑みが溢れるのを止める事はできなかった。

藤乃は、自分の気持ちを殺して相手を優先させる。
それは、彼女の優しさで心の清らかな彼女の事を勿論愛している。
しかし、そればかりではいつか彼女が壊れてしまうかもしれないという不安が頭のどこかに必ずあった。
景にとって、彼女がぼんやりとする程自分との約束を楽しみにしてくれているのは嬉しい事だった。

「明日は、必ず楽しませよう」

ボソリと呟き、明日の為に休む為の準備を始めた。

☆☆☆

翌日、目を覚ました藤乃。
布団から上体を起こしただけで視界がぐらっと歪んだ。

「う…っ…」

頬は赤く、座っているだけで体が鉛のように重い。
額に手を当てると、熱を持っている。

(風邪、引いた…? どうしようーー)

今日は景と街へ出かける日。
それなのに、体調を崩してしまった。
脳裏には昔この事がよぎった。

『自分の体調管理もまともに出来ないなんて、お姉様は本当とことん水瀬家から突き放されてますね?』
『能力は開花しないのに、他の事で手を煩わせおって』

藤乃が風邪を引いた時。
当主や佳乃が気にかけるという事は、もちろんなかった。
むしろ、人を治療する立場であるにも関わらず、自身が体調を崩して回復できないという事に軽蔑された。

(きっと、景さんだって…)

優しく、ゆっくりと愛を育んでくれる彼に拒絶されるのが怖かった。
水瀬家にいた時、何度か体調を崩したが周りに悟られず乗り越えてきた過去から藤乃は深呼吸をして息を整えた。

「景さんが、私のために時間を充てて下さるんだもの…無下にしては…」

自身にそう聞かせて立ち上がると、しっかりと地の感覚を確かめながら歩いた。
襖を開けると、鍛錬を終え黒い着物を着ている景が丁度廊下を渡っているところだった。

「おはよう、藤乃」
「お…おはようございます。申し訳ありません、景さんは早くから鍛錬、なさっていたのに…私…」
「いや、寧ろ毎日話し相手をしてもらってこちらこそありがとう。藤乃ーー」

景の手が頬に触れようとした瞬間、熱があるのを気付かれてしまいそうで「っ…」と短く声を上げてぎゅっと目を閉じて一歩退いた。

「…そろそろ、朝食の用意ができたそうだ。藤乃、参ろう」

行き場をなくした手を下ろし、寂しそうに笑う景に藤乃の胸は痛んだ。

「あっ…は、はい…」

こくりと頷けば、いつもと違う様子の藤乃に手を差し出す事なく二人は茶の間へ向かった。

「藤乃」
「え、は、はい…」

茶の間に着いて、二人で向かい合う形で朝食を食べていると景に話しかけられてビクッと肩を上げた。
体調が芳しくなく、耳も遠くなっているようだ。

「どうした。いつもと様子が違う。顔色も悪く見えるし、食も…全然進んでいない」
「あっ…」

景に指摘された通り、藤乃に盛り付けられた料理はほとんど手をつけられていなかった。

「美味しくなかったですか…?」

二人の給仕をしている使用人が不安そうに尋ねると、藤乃は首を横に振った。

「い、いえっ。とても美味しいです…!」

そう言って、一度にたくさんの量を口に運べば使用人はほっと安堵した表情を浮かべた。

「それなら、どうした。今日の藤乃は、藤乃らしくない」
「えっと、その…景さんと出かけるのが初めてで、それで緊張して…妻として、上手くできるかなって」

体調が悪い事を隠す為に、普段なら口にしない本音を漏らすと景の動きもぴたりと止まった。
近くにいた使用人も「あら…」と声を漏らして、甘酸っぱい空気に頬をぽっと赤らめた。

「そ、それは…。藤乃が気負う事はない。貴女はただ自然にしてくれていればいい。満足する日にできるか否かは、俺の努め次第だから」

そう言うと、残りのご飯を先に食べ終え先に茶の間を出る景。
廊下に出ると振り返った。

「出かける時くらい、肩の力を抜いて無理をするな」

それだけ告げると、茶の間の襖を閉めた。
後ろから見えた耳は、赤く染まっていた。

☆☆☆

朝食を終え、部屋に戻った藤乃。
具合がどんどん悪くなっていながらも、化粧、着付けを終えると景が待つ玄関へ向かった。

「お待たせ致しました」
「いや、それほど待っていない。それでは行って参る。夜には戻るつもりだ」

玄関にいる使用人にそう伝えた。

「かしこまりました。景様、藤乃様。いってらっしゃいませ」
「あぁ」
「いってきます」

使用人達に見送られ、二人は屋敷の外へ出た。

「街には色々ある。藤乃はどこか、行ってみたい場所はあるか?」
「えっ…わ、私は…」

街へ行ったのは、斑目家との縁談の日が初めてだった。
自分が過ごしてきた場所とはまるで違う栄えた街並みに気を取られるのも束の間の事で詳しくはなかった。
答えに困っていると、景が口を開いた。

「それでは、俺が藤乃と参りたい場所へ行くので構わないか? 道中、藤乃が参りたいところがあればそこへ寄ろう」
「…はい」

藤乃の為にと考え、寄り添ってくれる優しい景。
藤乃の鼓動は早くなった。

「手を繋いでもいいか?」

敷地から出る門へ向かう途中、景がそう告げた。
今朝、頬に触れようとして避けられたと思い、行動を言葉にした。
手に触れられれば、熱がる事を気付かれてしまうかもしれない。
そう思い、手を握り返せず一歩前に進むと、視界が大きくぐらっと揺れて目の前がだんだんと暗くなった。

「へ…?」

そのまま、体が言うことを聞かなかった。
足元から力が抜け、景の姿がゆっくりと揺らいだ。

「藤乃っ!」

景の声も、だんどんと遠のいた。

☆☆☆

「っ…」

息を漏らしながらゆっくりと目を開ける藤乃。
鉛のように重たかった体は、寝たからか軽い。
額には濡らした手拭いが当てられており、すっかり熱も引いたようだ。
ぼんやりとした視界が、次第にはっきりとすると不安そうに顔を覗き込んでいる貴子と目が合った。

「良かった…! 藤乃様…っ」

貴子の目には、涙が浮かんでいる。
障子から差し込む光は、オレンジがかっており長い時間、眠っていた事が分かった。

「貴子さん…あの、景さんは…?」
「あっ…えっと、景様はその…」

藤乃の問いに、言いにくそうに言葉を濁す貴子。

「…ここまで無理をなさっていただなんて。私は、藤乃様の教育を任されていたのに…失格です」

正座したまま、涙ぐんで悔しそうに着物をきゅっと握る貴子。

「そんな…! これは、私がっ」
「熱がある事。どうして言わなかった」

貴子を励まそうとしたら、襖を開けて声をかける景。
その表情は、今まで見た事がないくらい冷たかった。
部屋に入り、腰を下ろすと氷のような瞳は藤乃を捉えて離さなかった。

「貴子さん。藤乃に熱がある事、貴女に非はありません。申し訳ないが、二人で話したい事がある。先を外してもらえませんか?」
「…かしこまりました」

景がそう言うと、貴子は一礼して部屋を後にした。
二人きりになると、重々しい空気になった。
これまでなら、二人になるのは嬉しくて胸がときめくものだった。
しかし、今は違う。

「藤乃。なぜ言わなかった」
「も…申し訳ありませんっ…」
「謝れとは申してない。理由を聞いている」

沸々と静かに怒っている景。
普段とはまるで違い、藤乃はぎゅっと布団を握った。

「景さんは毎日お忙しいのに、ようやく取れたお休みでしたから…私の体調で駄目にしてしまうなんて、申し訳なくて…」
「…そんな理由で黙っていたのか?」

藤乃が正直に答えると、景は眉をぴくりと動かした。

「俺の休みは街へ行く為にあるんじゃない」
「…へ?」
「貴女と笑って過ごす為にあるんだ」

きっと怒られる。
そう思って白状したが、景の言葉は意外だった。
景の方を見ると、とても悲しそうだった。

「藤乃。約束してほしい」
「約束……ですか?」

景は少しだけ目を伏せ、静かに息を吐いた。

「今日のように、体調が悪いことを隠さないでほしい」

そして、藤乃をじっと見つめた。

「十年探し求めた貴女を、この先失う未来なんて…俺には想像もできない」
「そんな風に、大切に思っていただけるなんて…」

彼に出会って、初めてだった。
水瀬家にいたら、この未来は絶対にあり得なかった。
景の言葉に、きゅっと唇を噛み締めた。

「隊長には、いずれ後を任せられる者がいる。けれど、貴女の夫は生涯、俺だけだと思っているから」

景がそう言えば、藤乃の頬に手を添えた。
そして、いつもと同じ柔らかな笑みを浮かべる彼に大きく頷いた。