涙の治癒師 〜無能と呼ばれた私を、若き当主だけが信じてくれました〜


☆☆☆

屋敷へ帰る頃には、日が傾き薄暗くなり始めていた。
屋敷の敷地へ入る為の階段の前には、人影があった。
薄暗く、見にくい状況で藤乃が目を細めていると、その人影は藤乃めがけてやって来た。

「藤乃様っ…おかえりなさいませっ…」

目には涙を浮かべ、声を震わせる貴子。
ぎゅっと藤乃の手を握れば、ぽたぽたと涙が流れた。

「た…貴子、さん…?」

彼女の泣き顔に動揺し、あたふたしていると貴子が唇を振るわせながら口を開いた。

「よかった…本当に、良かったですっ…! 景様。ありがとうございます…!」
「貴子さんの協力があったからですよ。貴女が斑目の姿を捉えていなければきっと…今も、俺は藤乃を探しているでしょう」

景が拳をぎゅっと握りしめた。

「景さん、貴子さん…ご心配をお掛けしました…」

藤乃が頭を下げれば、先に貴子が口を開いた。

「そんな…! 頭を上げてください」
「そうだ。あれは、財部が仕組んだ事で、藤乃は被害者だ」

続けて景も藤乃の肩を優しく撫でて答えた。
藤乃が小さく頷けば、三人で階段を登り屋敷の敷地へ入った。

「何だか…懐かしい気がします」

一日ぶりに帰ってきた家に、思わず藤乃が言うと景が目を細めた。

「そうだな…一日しか経っていないのに」

仕事で地方へ出向きしばらく屋敷を空ける事もある。
その時は、これほど懐かしく思う事はない。
それは、景にとっても藤乃のいるこの屋敷が、かけがえのない場所へと変わったからだ。
玄関の引き戸に手を開けた。

「ただいま戻った」

景がそう言えば、使用人達がぞろぞろと一斉に出てきた。
この時間は、いつもなら夕ご飯の準備で皆が忙しくしている。
しかし、景の声に集まったのだ。

「お帰りなさいませ、景様。藤乃様」
「はい…ただいま戻りました」

迎え入れられ笑みをこぼしながら言うと、使用人達は涙ぐみながらも安堵の笑みを浮かべた。

「よくぞご無事で…」
「貴子さんから話を聞いた時…生きた心地がしませんでした」
「藤乃様。今日はお疲れでしょう? すぐに夕飯できますから、ささっ。お部屋でお休みください」

藤乃を手厚くもてなすと、あっという間に部屋までやって来た。

「全く。主人を放っておくとはな」
「も…申し訳ありません。私が、その…こういうのに慣れていなくて…」
「謝る事ではない。ただ、彼らにとって…藤乃がそれほど大切な存在になったんだ」

藤乃の頭を優しく撫でると、目を細めてじっと見つめた。

(大切な存在…みなさん、そんな風に思ってくれて…)

景の言葉に胸が温かくなると、襟元をきゅっと掴んだ。

「それじゃあ、疲れただろ。部屋で休むといい」
「は、はいっ…」

こくりと頷き、手が離れると話しかけようともぞもぞと動いた。
そして、意を決して「あ、あのっ…」と声をかけたが、景は自身の部屋に入って行った。

(…聞きたいことや、話したい事があったのに)

誰もいなくなった廊下を見て一人、ぽつんと立ち尽くした。

「…藤乃様?」
「あ…貴子さん」

背後から声をかけられ振り返った先にいた貴子をじっと見つめた。

「あっ…もしかして、景様に何かお話が…? 申し訳ありません。私が話しかけてしまったから…」
「い、いえっ…貴子さんが悪いのではなくて…景さんもお疲れですから」

長い髪を耳にかけ、誤魔化した。
景に話しかけたかったけれど、話せなかった。

「…あの、このような事を私が申すのはおこがましいことを承知なのですけれど」
「…貴子さん?」

真面目な顔をしてただならぬ様子の貴子に、小首を傾げた。

「藤乃様は景様の奥様です。景様の奥方様として…遠慮するなんて事はあるのでしょうか」
「そ…それは…」

貴子の言葉に、返す言葉が無かった。
まだ、世間は男性の後ろを女性が歩くという風潮がある。
しかし、景は藤乃に一度も後ろを歩く事を強要した事はない。
むしろ、街中でも手を繋いで隣を歩くくらい、生涯をかけて共に歩みたいと思っている。
貴子の言葉で、そんな彼に応えない事が失礼なのではないのかとさえ思った。

「藤乃様。私にできる事があれば、何でもご協力致します。景様に申しにくいのであれば、私がお膳立て致します」
「い、いえ…そんな、貴子さんのお手を煩わせるなんて…でも…」
「でも?」

藤乃の言葉に小首を傾げると、藤乃は頬を赤らめながら小さく口を開いた。

「もう少し…景さんとお話ができたらな、って。いつも、お仕事で帰りが遅く、お休みも少ないですし…。あ、でも…! 景さんのお立場だから、これは重々承知の上で…!」

控えめな願いですら、気を遣いながら言うと貴子はぽかんとしながらもすぐに笑みを浮かべた。

「なるほど…でしたら、すぐに解決できそうです」
「っ、ほ…本当ですか…?」
「えぇ、勿論でございます。藤乃様、私にお任せください」

貴子の言葉にぱぁっと表情が明るくなった。
詳細を問おうと、前のめりに話を聞こうとしたが「お食事のご用意ができました」と、他の使用人に声をかけられた。
貴子の話の続きはおあずけとなり、藤乃は茶の間へ向かった。

☆☆☆

食事を終え、風呂に入ると後は寝るだけとなった。
夏場でも湯に浸かり、ほかほかと温まった体を団扇で風を送り、風鈴の音に心が癒された。

「ふぅ…良いお湯でした…」

部屋へ着く前にぼそりと呟き、自室の障子にてをかけると「藤乃様」と、貴子に呼び止められた。

「貴子さん。いかがなさいました?」
「今日は少し暑いので…お部屋より、客間の方が涼しいので、そちらにお布団をご用意いたしました」
「まぁ…お心遣い、ありがとうございます」

貴子に軽く頭を下げると、彼女の後ろをついて歩き客間へ向かった。

(そういえば、客間の方なんて行った事がない…どのような場所なのかしら)

広い屋敷で生活をして数ヶ月。
自室、茶の間、浴室、厠、台所など生活に必要な場所は毎日のように行く。
しかし、客間へは足を運んだ事がなかった。
どこにあるのだろう、と彼女の後ろをついて歩けば、廊下を曲がった先で正座をし、襖越しに声をかけた。

「貴子です。藤乃様をお連れしました」

そう声をかけると、襖を開けた。
そこには、布団が一枚敷かれていた。
なぜ声をかけたのだろうと視線を上げれば、窓際で景が書物を読んでいた。

「それでは景様、藤乃様。本日はこちらでお休み下さいませ…失礼致します」
「なっ…! た、貴子さん…!」

客間に入るなり、貴子は口早にそう言うと藤乃の引き止めを聞く事なく、襖を閉めてしまった。

『藤乃様、私にお任せ下さいませ』

夕食前、貴子が言った言葉の意味を理解すると顔を真っ赤にした。

(あれはこういう…ど、どうしましょう。これって、景さんと二人で…えぇっ、そんな…っ)

これまで、二人で過ごす時間は限られていた。
勿論、同じ部屋の同じ布団で一夜を過ごした事なんてない。
恥ずかしさと動揺で、景に背を向けて襖の方をじっと見ていると「藤乃」と声をかけられた。

「あ、あのっ…! 私っ…すぐに、他のお布団をもらってきます…! あと、えっと…お部屋も…! 別の所で寝ますので…!」
「あ、いや…それが…」

慌てて早口で捲し立てる藤乃に、景は少し戸惑いながらも口を開いた。
まず、他の布団がないという事。
これは、布団の準備をしようとした貴子が、他の布団を彼女の異能により水浸しにしてしまったそうだ。
彼女いわく、先日護に治療をしてもらったものの意図しない形で異能が誤発したと景に説明したそうだがーー藤乃の願いを叶えるために、図ったのだ。

「そ、それなら…! 別の所で休みます…!」
「布団もない所で、藤乃を寝かせられる訳がないだろう。藤乃、俺の事は気にせず布団を使え。俺は縁側か廊下で寝る」
「え、ええっ…! そ、そんな…!」

景の提案に首を横に振った。

「景さんは今日、とてもお疲れでしたのに…私が廊下か縁側でお休みします…!」
「何を言う。妻にそのような場所で寝させて、俺が布団で眠れるほど無神経と申したいのか」
「い、いえ…そうではなく…それじゃあ、えっと…ご、ご一緒に…あっ、も、勿論…景さんが嫌でなければ…」

布団の横にちょこんと正座をすれば、掛け布団をめくり恐る恐る尋ねた。

「…嫌なわけがないだろ」

ふい、と視線を逸らしながら言えば書物を机の上に置いて立ち上がった。

「もう、寝るか? 他に支度があれば、好きに明かりを消せばいい」
「い…いえ。特にはございません」
「そうか。なら、消すぞ」

そう言うと、壁にあるスイッチを押して部屋の明かりを消した。
暗くなった部屋の中、布団の隅に控えめに体を入れる藤乃。
反対側から景も布団を捲り、体を入れた。
景は仰向けになり、暗くなった部屋でぼんやりと天井を眺めた。
藤乃は景に背を向けて襖の方をじっと見つめた。
一人で使うには大きな布団だけれど、二人だとお互いの体が触れてしまいそうになるくらい近い距離。
この緊張感に、藤乃の心拍は速くなるばかりだ。

「…狭く、ないか?」

少しすると、景がそう尋ねた。

「い…いえ。大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」

彼に背を向けたまま答えた。
その後しばらく、無言の間が続いた。
部屋の中は静寂に包まれ、時折廊下から微風により靡く風鈴の音が聞こえるくらい。

「…景さん」

ぼそり、と小声で呟いた。
きっと、彼はもう寝ている。
そんな気がした。

「…何だ」
「あっ…も、申し訳ありません…起きていましたか…?」
「あぁ。正直、今日のことがあったばかりで…眠れる気がしない」

床に入り、目を閉じてはみるけれど、思い浮かぶのは自分の見ていない所で愛おしい人が拐かされるという状況。
今回は、貴子が修の正体を見破った事、治安会の協力があったから解決ができた。
誰かの力が欠けていれば、きっと今も藤乃を見つけられなかったという恐怖は、景の中で根強かった。

「申し訳ありません…私があのような事に遭ってしまったから…」
「藤乃が謝ることではない。全ては、財部が仕組んだ事。藤乃も、怖かっただろう」

仰向けだった体勢を藤乃の方に体を向ければ、彼女の小さな背中にそう問いかけた。
藤乃は口を開くよりも先に、小さく頷いた。

「私は、景さんならきっと、来てくださると信じていました…けれど、あの時に景さんが来ていなければ、私の心はきっと、あの方に握られていました」

そして、修のように良いように利用されていたかもしれない。
そんな最悪の未来を想像すると、声が震えた。

「私…景さんにお話しなけれはならない事があるのです」
「…何だ?」

きっと、上総に出会わなければ景に話す事もなかったであろう『母』の事。
景は、分かっていると言っていたけれど、それは藤乃が殺したとなっているのか、それとも自害をしているからなのか、頭の中はその事でいっぱいだ。

「私の…お母様の事です」
「…あぁ」

必要最低限の返事をすると、景は藤乃の言葉に耳を傾けた。
八歳になって異能が目覚めず、使用人同然の暮らしをした事。
異能がない事で、母にも使用人同然の扱いを受けさせてしまった事。
そして、それが原因で母に手をかけられた事。
それがきっかけで、母が水瀬家を追放された事。
ここまでを話すと、藤乃の声と体は震えた。

「…藤乃。無理に申すな。俺は分かっているから」
「いえ…ダメ、です。私は、景さんに嫌われたくない、久世家のみなさんと離れたくないという自己中心的な浅ましい気持ちから、今話さなければきっと…この先もずっと、この事を隠してしまいます」

母が自害をしたという話は、藤乃の心に深い傷を作った。
さらに、この話は上総が景に話した。
きっと、景は十年前に助けられたという恩義から気を遣っているだけだと藤乃は思っていた。

「藤乃…あの男の話は妄言だ」
「いいえ…嘘ではございません。だって、あの方…私がずっと…景さんにも言えなかった事まで知ってて…!」
「藤乃の母上は健在だ」

ぎゅっと締め付けられた心。
景に隠さないようにした矢先、上総から受けた事実と異なる言葉に目を丸くした。

「どうして…だって、あの人は…母が自害した、と…」
「藤乃。治安会の人間が結婚をする際、婚家の人間の素性、人間関係などを調べられる。一般職の家庭なら、このようなことはないだろうが、俺は違う。これは初めて話すが…藤乃の事も、調べたんだ。そして、勿論藤乃や藤乃の家族に問題がないと認められて、結婚できたんだ」
「へ…?」

初めて聞く事実に、目を丸くした。
景は戸惑う藤乃に、ゆっくりと話を続けた。
藤乃の素性を調べる際、水瀬家だけでなく母の華恵の事も調べられた。
華恵は現在、帝都から離れた地方で新たな人生と配偶者と二人慎ましく暮らしている。
藤乃との関係の事があり、華恵は子どもを望む事が怖かった。
しかし、配偶者はそんな華恵の気持ちを慮ったそうだ。

「そう…だったのですね」
「あぁ。あの男の異能は他人の心に干渉する事。人の過去を覗き、求める言葉が分かる。だから、精神操作ができてしまう。あの男が、藤乃の知らない母上の現状を把握できるはずがないんだ」

母が自害せず、新たな家庭で幸せに暮らしていると知り、藤乃は安堵した。

「…それにしても、意外だったな」
「意外…?」
「藤乃が、俺に嫌われなくないと…久世家からも離れたくないと思っているなんて。俺はてっきり、藤乃への想いは一方通行だと思っていた」

藤乃の心のわだかまりが解消されれば、景がくすりと笑った。

「っ…さ、先程は…その、っ…も、申し訳ありません…出過ぎた事を…」
「何を言う。俺は嬉しい。藤乃にそんな風に思ってもらえて。あと、久世家から離れたくない、というのは明日にでもみんなに言ってやれ。みんなも聞きたがっている言葉だ」

未だ本音を話すのが苦手で、奥ゆかしい。
だから、藤乃は久世家にいる事を本心ではどう思っているのかと使用人達は気になっていた。
その事は勿論、景も知っている。
藤乃の背中を押すと、彼女は小さく頷いた。
恥ずかしがり、顔の半分を布団にうずめたまま景の方を振り向いた。

「あ…あの。それともう一つ…よろしいですか?」
「あぁ。どうした?」

景が小首を傾げると、藤乃はごくりと生唾を飲み込んで覚悟を決めて口を開いた。

「その…私を愛してるって…あの時、仰って下さったじゃないですか…」

景が瀕死の状態に陥った時、藤乃の涙で救えるはず。

『藤乃の泣き顔なんて、愛してる人のそんな顔…見たくない。笑ってくれ…』

そう言われた事が、藤乃にとって不思議だった。
強い力があれば、利用したくなるもの。
人としては、上総の異能が欲しいという欲望の方が頷けた。

「…あぁ。あの時の」

少し間があったが、思い出すとくすりと口角を上げた。

「わ、私は…その。涙に頼られる…そう思っていました。だから、景さんのお言葉は、不思議で」
「愛している人の泣き顔を、わざと見たいと申す男はあまりいないだろう。それはもちろん、俺もだ」

暗闇の中、視界が慣れてくるとぼんやりと見える人影。
藤乃の目を見て伝えれば、彼女の体温は上昇した。

「藤乃」
「は、はいっ…」

言葉に詰まっていると、景が尋ねた。
藤乃が小首を傾げると、景の声が近くなった。

「少し、近づいてもいいか?」
「っ…は、はいっ…」

返事をするよりも先に体を近付けた。
耳元にかかる息、近くなったら事で感じる体温。
藤乃の緊張は限界に近い。

「…今日の藤乃には驚かされる事ばかりだ」

自ら近付いた藤乃にくすっと笑みを溢せば、暗闇の中で顔を真っ赤にする藤乃。

「も…申し訳っ」
「謝らなくていい」

謝罪し終える前に近付いた藤乃の体を優しく抱きしめた。
耳元でぼそりと呟けばしばらく、腕の中に収まっていたが恐る恐る景の背後に腕を回して抱きしめ返した。

「先程、藤乃は俺が涙に頼ると思った。そう、言ったな?」
「は、はい…っ」
「今後、俺の為に異能を使わなくて良いよう一層鍛錬する」

抱きしめる力が強くなった。
けれど、その言葉は藤乃の不安を煽った。

「そ…それは…私が役立たずだから、ですか…?」

藤乃が声を震わせ、恐る恐る尋ねれば景は即座に口を開いた。

「なぜそうなる。泣かせたくないからだ。確かに、涙で治療ができるのは優れた異能。しかし、今後何が起こるかも分からないから使うのは控えるべきーーというのが、建前だ」
「建前…?」
「本当はただ、笑っていて欲しい。悲しませたくない。派手でなくても、慎ましく平穏に…幸せに日々を過ごしたい。そんな貴女の隣にいたい」

日々を失いかけた事で、景はしっかりと言葉にして伝えた。
柔らかく小さな体を潰さないよう、傷つけないよう優しく抱きしめていた腕に力が入った。

「景、さん…」
「…今、泣かせたくないと申したばかりだぞ」

藤乃の声が震え、頬に一筋の涙が流れると景が困ったように笑った。
大きな瞳からは涙が溢れそうになっており、景は指で目元を拭った。

「ち、違うんです…っ。これは、悲しいのではなくて…その…嬉しくてっ…」
「…嬉しい?」
「はいっ…私も、景さんのお側にいたいですっ…。貴方のことをお慕いしております…っ」

腕の中で初めて愛を口にすれば、景は目を見開いた。
その目はすぐに細まり藤乃の頬に優しく手を添えればそっと顔を近付けた。
初めて二人は、接吻を交わした。

「俺もだ。愛している」

長い一日を終え、二人の夜は明けていく。

☆☆☆

夜が明け、朝日が障子越しに差し込む。
その光に瞼をピクピクと動かせば、ゆっくりと目を開けた。
目を開けた先にいる景と目が合えば、藤乃の目は一瞬で覚めた。

「け…景さんっ…!」

思わず、布団を頭から被れば布団越しに優しく頭を撫でられた。

「おはよう」
「お、おはよう…ございます…」

布団の中でもぞもぞと動き、少ししてから目元だけ顔からひょっとこりと覗かせた。

(そうだ…私、昨日…)

目覚めた時に、隣に景がいて柔らかく笑みを浮かべる姿に動揺した。
しかし、藤乃は二人で昨日初めて一夜を共にした事を再認識する方が身体中の熱を上げた。

「身体、痛むところはないか?」
「は、はいっ…何ともございません」

目元を出した藤乃に優しく尋ねれば、こくりと頷いたのを見て布団から出た。

「きっともう、朝食ができている。茶の間へ参ろう」
「えっ…もう、そんなお時間ですか…?」

いつもなら、朝食ができる前には起きていた。
長い時間眠っていた事が分かり、ぱちぱちと瞬きを繰り返す藤乃。

「あぁ。随分と眠っていたからな…俺も、これほど朝寝坊したのは初めてだ」
「初めて…」

いつも、朝早くに起きて鍛錬をし、仕事があれば夜遅くに帰ってくる景。
そんな彼にとっても、昨夜は特別だったのだと思うと藤乃は笑みをこぼした。

「おはようございます、景様。藤乃様」
「おはようございます、貴子さん」

茶の間へ向かえば、丁度給仕をしていた貴子に会った。
いつも通りに挨拶する貴子と景。
藤乃だけが一人、彼女を見てぽっと顔を赤くした。

「おっ…おはよう、ございますっ…貴子さん」
「あら、藤乃様…」

藤乃の反応と景の表情を見て、にやりと口角を上げる貴子。
自身に課せられた任務を終えたと実感し、細く笑みを浮かべた。

「ところで、貴子さん」
「はい。いかがなさいましたか、景様」

景に呼ばれ、小首を傾げる貴子。

「その後…異能の調子はいかがです?」
「えっ、異能…? あぁ…やはり、流石は医療隊長様の治療の施しです。すっかり良くなりました。それでは、私はお茶を持って参りますので」

景の問いかけにぽかん、とするが、思い出したように言った。
そして、また台所へ向かう貴子の背中を見ながら小さくため息を溢した。

「…図られたな」

貴子の反応を見て、確信を得るとボソリと呟いた。

「景さん…?」
「何でもない。皆が用意してくれたのだ。温かいうちに頂こう」
「はいっ…」

茶の間に入れば、食事が用意されている。
使用人達もいて、景と藤乃を見れば皆が挨拶をした。
二人が席に着けば、皆が出て行こうとした。
その時、藤乃が口を開いた。

「あ、あの…みなさん」
「…? いかがなさいましたか、藤乃様」

藤乃から皆に声をかけることは滅多になく、声をかけられれば目を丸くした。

「失礼致します。お茶をお持ちいたしました」

藤乃の言葉に皆が耳を傾けている時、台所から戻ってきた貴子が茶の間に入った。
いつもと違う静かな空間。
その中で、藤乃が口を開いた。

「みなさんがいらっしゃるので…えっと、その…」

『明日にでも伝えればいい』

そう言ってくれた景に応えようとしたが、やはり口にするのはまだ緊張する。
恐る恐る景の方を見れば、優しく見つめていた。
その笑顔に、藤乃の緊張は解れた。
再度、使用人達の方を見た。

「あの…私は、これからも皆さんと一緒にいたい、です…」

ぎゅっと着物を握りしめると、「ふふっ」と貴子の笑い声が聞こえた。

「勿論です。藤乃様は景様の奥方様ですから」
「えっと、そうではなくて…あっ、いや…景様の妻ではあるのですけれど…」

もじもじとする藤乃に、皆が静かに耳を傾けた。

「皆さんのことを…その、家族のようだなって…あの、勝手にこんな事を申すのはおこがましいと、重々承知なのですけれど…っ!?」

視線を伏せたまま言ったが、語尾になるにつれ目線を上げた。
すると、使用人の何人かがぽろぽろと涙をこぼしていて、ぎょっとした。

「あ、あのっ…! わ…私、皆さんを悲しませるほど…不快な事を申し上げてしまったのでしょうか…?」
「違います…違うのです、藤乃様」

涙を流す使用人のうちの一人が、そう声を上げれば、ぽつぽつと何人も続いた。

「藤乃様が、私達のことをそのように思っていて下さったなんて…」
「私達使用人にも、親切だとは思っていましたが…」
「勿論、私達も家族だと思っております…! 使用人の分際で図々しいとは思っていましたが」

藤乃に伝える言葉が続き、嬉しく、恥ずかしく、そして心が温まり景の方を見た。

「ほら…今日にでも伝えて良かっただろう?」
「っ…はいっ」

大きく頷き、屋敷中は幸せな気持ちに包まれ朝食を口にした。

☆☆☆

朝食を食べ終えると、景は藤乃に外へ出る支度をするよう伝えた。
着替えを終え、最後に紅を引いたところで障子に人影が映った。

「藤乃。準備は整ったか?」
「は、はい…っ。お待たせいたしました」

丁度良いタイミングで声をかけられ、障子を開けて景に答えた。
景の服装を見ると、目を丸くした。

「あの…景さん、お仕事…ですか?」
「千影には、しばらく休むよう言われたが…さすがに、総隊長や会長に昨日のことを報告しない訳にはいかない」
「そう…ですよね」

出かける準備をするようにと言われ、二人でどこかへ行く事を期待していた反面、落ち込んだ。

「藤乃も参るぞ、治安会本拠地へ」
「へっ…!? わ、私も…ですか?」

治安会本拠地といえば、帝都の外れにある広大な土地にある高い柵に囲まれた建物。
鉄壁の防御と呼ばれ、会長、総隊長、各部隊の隊長、副隊長という治安会の人間でも限られた人間しか入る事の許されない場所。

「千影が会長や総隊長へ藤乃の事は伝えているそうだ。それにーー今は一刻も、藤乃と離れたくない」
「っ…景さん…っ」

ぎゅっと優しく抱きしめると、藤乃も彼の背中に腕を回した。

「だが、服部殿と清谷殿には気をつけて欲しい」
「へ…?」
「清谷殿は、藤乃の力に興味があるらしい。それに、服部殿は…いや、何でもない」

護は、『研究対象』として藤乃に興味がある。
けれど、宗介は掴みどころがなく景は警戒していた。

「景さん」

抱きしめる力を緩めれば、下からくいくいと服を引っ張られた。
景が小首を傾げれば、藤乃は穏やかな表情を向けた。

「藤乃…?」
「私が愛してるのは今もこの先も、景さんだけです。だから、その…」

自分で言い始めたものの恥ずかしくなれば、頬を赤らめ視線を逸らした。

「藤乃」

名前を呼ばれれば、自然と景と視線を合わせた。
藤乃の顎を捉え、唇を重ねればそっと目を閉じた。

「…参ろう」
「はい」

手を握り、玄関へ向かった。
もう二度と、その手を離すことのないように。

《完》