俺にだけ京都弁で話してくる後輩の真意について。

 その能天気な顔を見ていたらだんだんむかついてきた。だから音がしそうなほど勢いよく立ち上がる。が、あまりにもいきなり立ち上がりすぎたせいか、立ち眩みがした。とっさに手近の手すりに摑まる俺に、おいおい、と驚いたような声をかけながら山田先輩が階段を下りてくる。

「どしたの、お前、部活は?」
「誰かさん達のせいでお休みです!」
「誰かさん?」
「せ、先輩達が部室でキ……!」

 キス、なんかしてるから。

 そこまでは言えなかった。けれど、顔色でばれてしまったらしい。あー、と呟いてから、ごめん、と片手で拝まれる。

「紫苑が作法室に忘れ物したって言うから取りに行ったんだわ。そしたらなんか懐かしくて……そっかあ、見られてたか」
「ああいうの、部室ではやめてほしいです。すっごく気分、悪いです」

 ああ、普段ならこんなこと言わないのに。これも全部、久我のせいだ。
 憤る俺の顔を山田先輩はじっと見つめてくる。
 が、突然、ぽん、と頭に手が乗せられ、俺は固まった。

「そうだよな。ごめんな。萩原にはきつかったよな」

 ……これ。

 静かな声で紡がれた言葉を聞いて、わかった。

 ……この人も全部、気付いてる。

 俺の、倉橋先輩への、想いに。

 ああ、そうか。
 知ってて、みんな、黙ってたってことか。
 
「人が悪い。先輩達も久我も」

 零れた声はひどくひび割れていた。
 うなだれる俺のかたわらで山田先輩は俺の髪をただひたすら撫でている。寒さに震える動物をそっと撫でさするようなその手つきにいらっとした。
 けれど、振り払えなかった。
 振り払う自分のその手に、嫉妬とか、苛立ちとか、そんなものばかりが溢れてしまって、この人への尊敬の気持ちもその手で全部穢してしまうような、そんな気がしたから。
 どれくらいそうしていただろう。不意に山田先輩の手が止まった。
 迷うような気配がまだ頭に置かれた手から感じられる。そろそろと目を開けたとき、違うよ、と山田先輩が呟いた。

「なにが、違う、んですか」

 ぼそぼそと問うと山田先輩の手がするっと俺の頭から離れる。その手で自身の茶髪をぱさり、と搔き上げ、山田先輩はふっと息を吐く。

「紫苑はお前が紫苑のこと好きだったこと知らないよ」

 唖然とする俺に山田先輩は、小さく頷いてから、続ける。

「だからちょっとひやひやはしてた。紫苑に頼まれごとしたら、お前断れないだろうに、あいつ、久我のこと、お前に頼んだりするから。ほんとあいつ、鈍感で無神経で」

 ごめんな、と言われていらっとした。
 彼氏面しやがって、って思っちゃったから。でも……痛みは思ったよりは大きくなかった。
 もっと傷ついたり、胸の奥が酸っぱくなるくらいどす黒くなったっておかしくないのに。
 それくらい、俺は倉橋先輩のことが好きだったのに。
 なんでなんだろう。
 胸の奥を探る俺の脳裏にふっと声が蘇る。

 ――先輩。

 その声に俺は瞠目する。

 今年に入ってから……いや、より正確に言うなら、今年の六月くらいから、俺は倉橋先輩のことを考える時間がぐっと減っていた。
 それまでは、ついつい目で追っちゃってたし、山田先輩と笑う姿を見て胸が痛かったりしていたのに。
 なのに、気が付いたら、倉橋先輩が部室に来てくれなくなっても、それほど苦しくなくなっていた。
 なんで、そうなったのか。
 なんで。

 ――先輩、どないしました?
 ――ええとこにいらはりました。一服いかがです?

 ……俺が、倉橋先輩じゃないやつのことがずっと、気になっちゃってたから。

 わけわからなくて、ついつい目で追っちゃって。頭の片隅にいつもなんとなく住まわせてしまって。
 他の人にはしないような顔を俺に見せてくれるたび、なんでだ、と首を傾げながらも少しだけうれしかったりも、して。
 そうして一緒にいるうちに、だんだん楽に呼吸できるようになってきて。
 気が付いたら、あんなに心の中にぱんぱんに詰まっていた倉橋先輩の残像が、遠くなっていて。
 それは全部……。

 ――先輩がいてくれたから。

 あいつは俺にそう言ってくれたけれど、それは正しくない。
 だって、それを言うなら、俺のほうなのだから。
 あいつがいてくれたから、苦しいって顔、垂れ流さないでいられる。
 あいつがいてくれたから、笑えてる。

「山田先輩」
「ん?」
「俺……久我に勝ちたいんです」
「勝つ?」
「将棋。俺、あいつに一度も勝てないんです。将棋部なのに」
「ああ、まあなあ、あいつ強いからなあ。兄貴が奨励会入ってるらしいから仕方ないじゃん」
「それでも、勝ちたいんです。勝たないと、肝心なこと、なんにも聞けないから。だから、教えてくれませんか。あいつに勝てる秘策、なにかないですか」

 こんなふうに人に頼るなんて、久我が知ったら笑われるかもしれない。
 でももう、なりふり構ってはいられない。
 山田先輩が唸りながら眉を寄せる。しばらく顎に手を当てて考えてから、ああそうだ、と眉間のしわが緩んだ。

「あいつの守り、堅いんだよ。めちゃくちゃ」
「はい」
「でもさ、その分、守りに満足しちゃって攻めが甘いときあんの。雑くなるっていうか。勢いはあるけど、足元見えてないときある。だから大駒で攻めてきたら、なるべく自分の玉から遠いとこで受け流すのな。すると囲っていた駒が手薄になる。そこを虎視眈々と突くって感じ」

 言われて思い出した。確かに、あいつの手筋は、前半に比べ、後半の攻めが少し荒い。大技が多くなる。結構強引な手筋も見せる。俺はそれを正面から受けすぎてしまっていつもやられるのだが、山田先輩にはちゃんとあいつの弱点が見えていたらしい。

「さすが部長……」
「元部長な」

 にやっと笑い、山田先輩はまた俺の頭を撫でる。

「なんかわからんけど、俺はうれしい。お前らが仲良くやってくれてて」

 俺達は仲良し、なのだろうか。
 考えていたら、なんとなく照れ臭くなってしまった。その照れをぶつけるみたいに、俺は先輩の手を跳ねのける。今度はそれほど躊躇していない自分に内心笑いながら。

「仲良しってことないです。あいつ、ほんとむかつくもん」
「そうかそうか」

 膨れてみせたが山田先輩はただただ楽しそうだ。そうしながらそうっと俺の髪をまた撫でる。
 そして言った。

「頑張れよ。茶道部になんて負けんな」

 俺の髪に触れる、温かくて大きな掌。この掌は倉橋先輩にはどんなふうに触れるのだろう、とちらっと考えた。でもすぐに想像するのをやめた。
 だって、俺を撫でてくれる手が、すごく優しかったから。疑いようがないくらい、俺のこと、心配してくれていたから。それがわかっちゃったら、ゲスいことなんて考えられない。
 
 ……ああほんと、この人のこと、嫌いになれない。ってか、好きだなあ。
 ……倉橋先輩が好きになっちゃったのも無理ないや。

 何度も思ったことをもう一度胸の中で噛みしめる。少しだけ、じん、とした。でもそれを静かに胸の奥地に沈め、俺はこくん、と頷いた。