「くそ……なぜに勝てない……」
もう何敗目だろう。ラジオ体操のスタンプカードでいったら二枚目はゆうに超えている気がする。ぐったりする俺に、まあまあ、と久我が言う。
「ほんま、先輩は将棋が好きやねえ」
「当たり前だろ、将棋部なんだから」
「それはそうですけど、もう部員おらへんのに」
言いながら久我は駒を桐箱に収め、蓋を丁寧に閉める。
「来なくなってもおかしないやないですか。なんで毎日来はるんです?」
「それは……」
――久我くんのこと、お願いね。
倉橋先輩の声を思い出しながら、俺は畳の上に片肘をつき、手で頭を支えながら久我を眺める。
「お前こそ、来なくなると思ってた。なんで毎日来るの?」
「さあ、なんでやろうなあ」
からかうような声を出しながら、久我は将棋盤と駒箱を戸棚の中へすっと仕舞う。
「僕がいのうなったら、将棋の駒、あっちこっちに行ってもうて、将棋部が困るからかもしれません」
「ふざけんなよ。そこまで片付けできなくないわ」
「どうですやろ。ずぼらですやん、先輩」
こちらに向けられた広い背中がくっくっ、と揺れる。相変わらず生意気極まりないが、楽しそうには見える。
そのことにほっとしながら俺は何の気なしに言葉を投げる。
「部員、自分だけになるとか、まあきついのに。お前、続いてて偉いな」
これくらいは言ってやってもいいだろうか、先輩として……なんて思ったときだった。
「続かなかったですよ、ひとりなら」
ふっと声が畳に落ちた。
「でも、先輩がいてくれたから」
将棋盤を仕舞い終わり、襖を閉め終わった、そのままの姿勢で久我は言う。その声に俺は思わず畳の上に座り直した。
久我の声にはいつもの軽やかなはんなり色がなかったから。
「久我?」
そろそろと呼びかける。久我はまだ背中を向けたままだ。間もなく下校時刻なのか、下校を促す夕焼け小焼けが窓の外には流れている。それでも……動かない。動かずに、ただ声だけを返してくる。
「先輩はどうですか? 僕がいること、先輩の役に立ってますか?」
「え……」
なんだろう。いつもと違う。やけに改まって……。こういう空気、ちょっと、困る。
「当たり前だろ。お前がいないと嫌だよ」
流れる沈黙に耐えかねてそう言ったとき、ふっと久我の背中が揺れた。そろそろと首が巡らされ、顔がこちらに向けられる。その顔を見て、俺は固まった。
信じられない、とでも言いたげに、目が見張られていたために。
お、俺はなにか、変なことを言っちゃったんだろうか。なにか……。
――お前いないと、嫌だ。
お前、いないと、嫌だ。お前いないと嫌だ?
自分で言った台詞を心の内で繰り返す。そうしているうちに、だんだん頬が熱くなってきてしまった。
こ、これ、まあまあハズいこと、言ってないか?
かああっと頬までもが熱を持ち始め、俺は勢いよく首を振った。
「あの! いや! 違う! お前がいないと将棋の相手がいなくて困るって話! 深い意味はない!」
「深い意味」
すうっと久我の目が細められる。
「深い意味、とは?」
重ねて問われ、心臓がどくん、と鳴った。
なんで今、心臓がこんなふうに動くんだろう。まったく意味がわからない。わからなすぎて、いたたまれない。ただ、この場をなんとかしなければ……。
「意味なんてない! そ、そもそも俺、倉橋先輩にお前のこと頼まれてるから! だからお前はい、いろいろ気にしないで部活来ればよろしい!」
慌てふためいてまくしたてると、ふっと久我が小さく息を吸った。見開かれていた瞳がゆらっと揺れるのが、見えた。
「それ……」
「ん?」
「倉橋先輩が頼んできたからだけ、ですか?」
――久我くんのこと、お願いね。
確かに、俺が部活に来ている最大の理由は、倉橋先輩がそう言ったからだ。それは確かだ。ただ……それだけか、と訊かれると、それだけってことはないとも思う。
将棋部の最後のひとりとしての責任感から? それもある。でもそれだけじゃないような。
というか、今ここで、うんそれだけだ、って頷くのは、なんとなくだめな気もする。
だって……それだと、倉橋先輩の言葉がなかったら、俺はお前を見捨てるよ、にならないか?
それはさすがに……駄目だ。
「まあ頼まれたのは、そう、だけど。でも多分、頼まれなくても来た、とは、思う」
つっかえつっかえ言うと、久我の目がますます大きくなった。
「本当に?」
「まあ……うん」
ぼそっと呟いて俯く。なんなんだろう。この空気。困惑しながら俺はそろそろと久我から目を逸らす。と、畳がかすかにさり、と音を立てた。
見ると、久我がこちらに向き直って正座していた。
「堪忍です、先輩」
「え、なにが?」
「変なこと、訊いてもうて」
急に変わった口調に驚く。逸らしていた視線を久我の顔に戻すと、そこにはいつものはんなりバージョンの笑顔があった。
「すぐ道具、なおしますんで、待っとってください。一緒に帰りましょ」
「なおす?」
「片づけるいうことです」
にこっと笑って、久我は茶器を盆に載せて立ち上がる。ほな、と一礼して茶室を出ていく彼を見送ってから、俺は畳の上でぐたりと脱力した。
なんなんだ。一体、あいつはなんなんだ……。
ただ、気になるのは、さっき俺が部活に来る理由を問いかけたあの瞬間、あいつの言葉が標準語に戻っていたことだ。
なんで戻ったんだろう。
わからないことはもうひとつ、ある。
そろそろと胸の辺りを押さえ、俺はそうっと息を吸う。
あいつの言葉遣いが変わったとき、俺はなんでだかどきどきしてしまったのだ。あれは一体、どういうことなのか。
はんなりのときは全然そんなこと、ないのに。
「わけわかんねー……」
「終わりました。先輩帰りましょか」
呟いたとき、からりと引き戸が開いた。そこにはいつもの、はんなりのほうの久我がいた。いつも通りのその笑顔にほっとしつつ、ほんの少しもやつきも覚えながら俺は、ああ、と頷いた。
もう何敗目だろう。ラジオ体操のスタンプカードでいったら二枚目はゆうに超えている気がする。ぐったりする俺に、まあまあ、と久我が言う。
「ほんま、先輩は将棋が好きやねえ」
「当たり前だろ、将棋部なんだから」
「それはそうですけど、もう部員おらへんのに」
言いながら久我は駒を桐箱に収め、蓋を丁寧に閉める。
「来なくなってもおかしないやないですか。なんで毎日来はるんです?」
「それは……」
――久我くんのこと、お願いね。
倉橋先輩の声を思い出しながら、俺は畳の上に片肘をつき、手で頭を支えながら久我を眺める。
「お前こそ、来なくなると思ってた。なんで毎日来るの?」
「さあ、なんでやろうなあ」
からかうような声を出しながら、久我は将棋盤と駒箱を戸棚の中へすっと仕舞う。
「僕がいのうなったら、将棋の駒、あっちこっちに行ってもうて、将棋部が困るからかもしれません」
「ふざけんなよ。そこまで片付けできなくないわ」
「どうですやろ。ずぼらですやん、先輩」
こちらに向けられた広い背中がくっくっ、と揺れる。相変わらず生意気極まりないが、楽しそうには見える。
そのことにほっとしながら俺は何の気なしに言葉を投げる。
「部員、自分だけになるとか、まあきついのに。お前、続いてて偉いな」
これくらいは言ってやってもいいだろうか、先輩として……なんて思ったときだった。
「続かなかったですよ、ひとりなら」
ふっと声が畳に落ちた。
「でも、先輩がいてくれたから」
将棋盤を仕舞い終わり、襖を閉め終わった、そのままの姿勢で久我は言う。その声に俺は思わず畳の上に座り直した。
久我の声にはいつもの軽やかなはんなり色がなかったから。
「久我?」
そろそろと呼びかける。久我はまだ背中を向けたままだ。間もなく下校時刻なのか、下校を促す夕焼け小焼けが窓の外には流れている。それでも……動かない。動かずに、ただ声だけを返してくる。
「先輩はどうですか? 僕がいること、先輩の役に立ってますか?」
「え……」
なんだろう。いつもと違う。やけに改まって……。こういう空気、ちょっと、困る。
「当たり前だろ。お前がいないと嫌だよ」
流れる沈黙に耐えかねてそう言ったとき、ふっと久我の背中が揺れた。そろそろと首が巡らされ、顔がこちらに向けられる。その顔を見て、俺は固まった。
信じられない、とでも言いたげに、目が見張られていたために。
お、俺はなにか、変なことを言っちゃったんだろうか。なにか……。
――お前いないと、嫌だ。
お前、いないと、嫌だ。お前いないと嫌だ?
自分で言った台詞を心の内で繰り返す。そうしているうちに、だんだん頬が熱くなってきてしまった。
こ、これ、まあまあハズいこと、言ってないか?
かああっと頬までもが熱を持ち始め、俺は勢いよく首を振った。
「あの! いや! 違う! お前がいないと将棋の相手がいなくて困るって話! 深い意味はない!」
「深い意味」
すうっと久我の目が細められる。
「深い意味、とは?」
重ねて問われ、心臓がどくん、と鳴った。
なんで今、心臓がこんなふうに動くんだろう。まったく意味がわからない。わからなすぎて、いたたまれない。ただ、この場をなんとかしなければ……。
「意味なんてない! そ、そもそも俺、倉橋先輩にお前のこと頼まれてるから! だからお前はい、いろいろ気にしないで部活来ればよろしい!」
慌てふためいてまくしたてると、ふっと久我が小さく息を吸った。見開かれていた瞳がゆらっと揺れるのが、見えた。
「それ……」
「ん?」
「倉橋先輩が頼んできたからだけ、ですか?」
――久我くんのこと、お願いね。
確かに、俺が部活に来ている最大の理由は、倉橋先輩がそう言ったからだ。それは確かだ。ただ……それだけか、と訊かれると、それだけってことはないとも思う。
将棋部の最後のひとりとしての責任感から? それもある。でもそれだけじゃないような。
というか、今ここで、うんそれだけだ、って頷くのは、なんとなくだめな気もする。
だって……それだと、倉橋先輩の言葉がなかったら、俺はお前を見捨てるよ、にならないか?
それはさすがに……駄目だ。
「まあ頼まれたのは、そう、だけど。でも多分、頼まれなくても来た、とは、思う」
つっかえつっかえ言うと、久我の目がますます大きくなった。
「本当に?」
「まあ……うん」
ぼそっと呟いて俯く。なんなんだろう。この空気。困惑しながら俺はそろそろと久我から目を逸らす。と、畳がかすかにさり、と音を立てた。
見ると、久我がこちらに向き直って正座していた。
「堪忍です、先輩」
「え、なにが?」
「変なこと、訊いてもうて」
急に変わった口調に驚く。逸らしていた視線を久我の顔に戻すと、そこにはいつものはんなりバージョンの笑顔があった。
「すぐ道具、なおしますんで、待っとってください。一緒に帰りましょ」
「なおす?」
「片づけるいうことです」
にこっと笑って、久我は茶器を盆に載せて立ち上がる。ほな、と一礼して茶室を出ていく彼を見送ってから、俺は畳の上でぐたりと脱力した。
なんなんだ。一体、あいつはなんなんだ……。
ただ、気になるのは、さっき俺が部活に来る理由を問いかけたあの瞬間、あいつの言葉が標準語に戻っていたことだ。
なんで戻ったんだろう。
わからないことはもうひとつ、ある。
そろそろと胸の辺りを押さえ、俺はそうっと息を吸う。
あいつの言葉遣いが変わったとき、俺はなんでだかどきどきしてしまったのだ。あれは一体、どういうことなのか。
はんなりのときは全然そんなこと、ないのに。
「わけわかんねー……」
「終わりました。先輩帰りましょか」
呟いたとき、からりと引き戸が開いた。そこにはいつもの、はんなりのほうの久我がいた。いつも通りのその笑顔にほっとしつつ、ほんの少しもやつきも覚えながら俺は、ああ、と頷いた。



