俺にだけ京都弁で話してくる後輩の真意について。

「え……?」

 さらさらの前髪が揺れ、その陰から見開かれた目がこちらに向けられる。そうされてかっと頬が熱くなったけれど、俺は顔を伏せなかった。

「……今……なんて?」
「だから……好きって、言った」
「……普通、この局面だと『王手』って言うとこだと思うけど」
「対局ではそうだけど、一番言いたいの、それじゃ、ない、から!」

 うわ、俺、なに言ってんだろ。
 ますます頬が熱くなる。あたふたしたとき、久我がふうっと細い息を吐いた。

「すんません、今って夢の中ってことで、よろしおすか」
「よくない」
「じゃあ、なんですか。冗談?」
「なんでそうなんだよ」
「だっておかしいやないですか。先輩が僕にそんなこと言わはるなんて、あり得えへん」
「あり得えへんことはない。ってかさ、教えてくれる約束じゃないの。そのしゃべり方、俺にだけする理由」
「……ほんに変なとこだけ記憶力よろしおすな」
「久我さ」

 つん、と顔を背ける久我を俺は将棋盤を挟んで見据える。

「約束したじゃん。俺が勝ったら教えてくれるって。だから俺、めちゃくちゃ特訓してきたんだけど。教えて、くんないの?」
「……特訓、しはったんですか」
「まあ、うん。山田先輩に頼んで」
「あんた、あの人受験生なのに……」

 駄目な子を見る目をされ、俺は身を縮める。
 そうか、そういえばそうだった。夢中すぎて山田先輩の事情なんて考えもしなかった。

「先輩、受験失敗したらどうしよ……」
「ほんま萩原先輩、将棋部のくせに先読みへたくそやね」

 ふふ、と笑みが零れる。涼しげに整った顔に浮かんだ、ほんのり熱のあるそれに、どきっとする。その俺からすうっと目を逸らし、久我は炉へと向き直った。
 指の長い手が、冷めているお湯を温めるべく、電熱器のスイッチを入れ、茶釜をセットする。

「僕、めっちゃ口下手なんですよ」

 沈黙をかき分けるように出された声からは、関西特有のイントネーションは綺麗に拭い去られていた。
 目を伏せ、茶器をそうっと丁寧な仕草で整えながら発せられた言葉を、俺は息を詰めて聞く。

「思ったこと、しっかり言えなくて相手をいつもいらいらさせる。まあそれも自分って思ってたけど、今回ばっかりはそうもいかなかったから」
「今回ばっかりは……って?」
「素のままだったら、先輩、僕に飽きて部活来なくなっちゃうでしょ」
「え! いやいや、そんなことないって」

 確かに入部当初の久我は堅苦しくて、ちょっととっつきにくいとは思ったけれど、でもだからって俺が部活に行かなくなるなんてありえないし、性格を変えてほしいとも思ってない。

「ごめん、もっと話せっていったのがストレスだった? そういう意味じゃない。自然にしててって意味で……」
「うん、わかってる。僕が勝手に始めただけ。ってか、やってるうちに面白くなってきちゃったから。言葉ってすごいですね。ちょっと話し方変えるだけで気持ちも変わってきて、前より話題も思いつくようになって。先輩に喜んでもらえるような面白い僕にね、なれた気がした」
「それ……」

 もどかしい気持ちで俺は唾を飲みこむ。
 だってこいつは、俺に面白いって思ってもらいたくて、話し方を変えたって言ったから。
 俺に、って。
 それって……。

「なんで、俺に、だけ、なの」

 久我は伏し目のまま、茶釜から上がる湯気を見ている。

「他の人にはそれしなかった理由ってなに?」
「…………」
「なあ、久我。教えて」

 しゅんしゅん、と茶釜が鳴く。それでも久我は動かない。が、俺がさらに言葉を重ねようと口を開きかけたと同時に動いた。手が伸び、電熱器のスイッチが切られる。

「見たかったから」
「……なに、を?」
「先輩が笑った顔」

 音の絶えた室内を久我のしっとりとした声が舞う。ゆっくりと茶杓が取り上げられ、抹茶の粉が茶器の中へ、かん、と落とされた。その音に励まされるように久我の唇が動く。

「初めて会ったとき、いっぱい話しかけてくれた先輩の顔が、すごく可愛かったから。あの顔、もっと見たくて。でも素のままの僕じゃ見せてもらえない気がしたから。だから」

 ――先輩、ありがとうございます。
 ――たくさん、話しかけてくださって。

 あのとき。ずいぶんかしこまったことを言うやつだな、くらいしか俺は思わなかった。
 でもこいつにとってあの一瞬はすごく大事なものだったって、こと?
 想像したとたん、恥ずかしくなってしまった。熱を持った頬を意味なく撫でながらそうっと視線を上げ、俺は息を呑む。
 俺の目線の先に、久我の横顔がある。
 それが、俺同様に赤く染まっていた。
 見つめる俺の前で、その顔がすうっと上がり、目と目が合う。
 真っ黒く、瑞々しく光る久我の目。その目を息を詰めて見つめる。糸がぴんと張るように緊張で空気が強張ったとき、ああ、と小さく久我が声を漏らした。

「やっぱ、だめ」
「え、なに、が」
「話し方、変えてないといろいろかっこ悪いの出る……」

 長い睫毛が揺れ、顔が背けられる。
 数秒後、長めの前髪の奥から漏れ聞こえてきた声は、掠れていた。

「こういうの先輩に見られるのがハズくて嫌だったのに。だからできもしない京都弁使ってたのに。ああもう……」

 ぼそぼそと紡がれる言葉にもはや、なんと返事したらいいかわからない。なんとか気持ちを落ち着け、俺は久我の顔をそうっと覗き込んだ。

「……ちなみに、なんで京都弁?」
「茶道部なんで京都弁が合うかと……ってか、これでよろしおすやろ。もう堪忍してくれます?」
「…………」

 なんだそれ。ほんとなんなんだ、お前。
 恥ずかしいから? そんな理由で方言使ってたの? 俺にだけ?
 しかも茶道部だから京都弁って……いやもうお前……。
 馬鹿すぎるだろ。
 まったくもう、馬鹿で、意味不明で、ほんと……。
 だけど、なんだろ、すごく……。

 ……可愛い。

「やっぱ、好き、だわ、お前」

 ぽろっと言うと、ばばっと久我の顔の赤味が増した。

「そういう冗談はもうええですから。堪忍してください」
「んだよそれ」

 この期に及んでまだ、冗談云々抜かすのかこいつ。いらっとして俺は、ちょっと前のめりに久我を見た。

「俺はお前と違ってこういうタイプの冗談、言わない」
「……なんですか。それじゃ僕が冗談しか言わない子みたいやないですか」
「実際そうだろ。カップルになろうかって言って来たのそっちのくせに、その直後にはんなりごまかしてきやがって」
「あれは……いきなり言うたら、先輩、嫌がる思たから」
「そんなん勝手に決めるな! あとそのえせ京都弁やめろ! 俺は素のお前と話がしたいの!」

 そう言ったとたん、くっと久我が唇を噛んだ。
 次いで、すうっと手が伸び、茶器が横にどけられる。いまだ放り出してあった将棋盤も丁寧な仕草で脇に押しやられ、俺はきょとんとした。なにをし始めたんだ? と目を丸くする俺をすっと久我が見た。

「いいんですか」

 茶器も将棋盤もなくなり、俺と久我を隔てるものはなにもない。
 はっとした俺の目を見据えたまま、畳の上、久我が膝でこちらににじり寄ってきた。久我の制服の膝部分と畳がこすれ、さり、とかすかな音が零れる。

「僕、言葉で飾んないと冗談のひとつも言えないです。全部、心がそのまま出ちゃう。それでも、先輩、構いませんか」

 そう囁く、久我の黒い瞳が潤んでいる。今、必死に紡がれる言葉と同じ、真摯な色をしたそれを見たら、答えなんてひとつしか思いつかなかった。

「違うよ」

 小さく息を吸って、俺はゆっくりと口角を上げる。
 そうして、久我が、いいなって言ってくれた笑顔に少しでも近くなっていたらいいと思いつつ、ゆっくりと微笑んだ。

「構わないとかじゃなくて。俺が、素のお前の気持ち、教えてほしいの」

 ゆらっと久我の目がゆらめく。ゆらゆらと頼りなく涙の膜をまとった瞳でこちらを見つめた久我が、掠れた声で言った。

「素の僕は……面白くないですよ」
「いや、お前気付いてないみたいだけど、素のお前もかなり面白いよ?」

 すぐ赤くなるところとか、かしこまりすぎて人と違う空気とか。そう言うの全部面白い。面白くて、もっと知りたくなる。

「だから教えてよ、久我。お前のこと、もっと」

 笑顔でそう問いかける。その俺の顔をじいっと見ていた久我が、不意に視線を自身の膝に落とした。

「なんか、むかつく」
「え、なんで? 変なこと言った? だめだった?」
「じゃなくて」

 口の中でぼそぼそ言ってからすうっと久我が顔を上げる。笑みのない顔にどきっとした瞬間、長い腕が伸びてきた。

「え!」

 次の瞬間、唐突に視界が反転する。じたばたと事態を把握しようとしたときにはもう、体当たりするみたいに久我がこちらに体重を預けていて、支えきれぬまま、俺は畳の上にあおむけに転がっていた。

「ちょ! は?! なにしてんの! もう! 重い! どけ!」
「嫌です」

 久我は俺より体が大きいから、こんなふうに伸し掛かられると、すっぽりと久我の体に覆い隠されてしまう。その異常な状況に、そして、薄いシャツ越し、しっかりと伝わってきた久我の体温に反応し、心臓がどくどく言うのがはっきりと聞こえた。
 この音も全部、こいつに伝わっちゃってるんじゃ、と思ったら恥ずかしくて俺は久我の腕の中で身をよじる。

「お前なあっ! いきなりなに! こういうのは……」
「だって、先輩が余裕ぶった顔、するから。これなら……僕のこと、もっと意識してくれる、でしょ」

 俺の体の上で低い声がする。は?! と目を剥く俺の耳元に久我がそうっと唇を寄せる。さらっと吐息が耳をなぞり、声が差し込まれた。

「僕ばっかり好きみたいなのは、やだ」

 言葉の最中にも思わずというように、背中に回された腕にきゅうっと力が籠る。そうされて……俺は暴れるのをやめた。
 じりじりと体に沁みてくる熱。
 寝転がった畳のイグサの感触。空気を染める、茶葉のかぐわしい香り。
 そして、とくとくと鳴く俺の心臓の音と、それに重なる久我の心音。
 包んでくる全部が、なんだかすごく、心地いい。
 こんな感覚初めてで、もっと怖いとか、違和感があってもいいのに、そんなもの全然ない。ただただ、安心する。
 それは……こいつの腕の中にいるからなのだろうか。
 話し方まで変えて近づいてきたこいつ。笑顔が見たいってそれだけの理由で。ほんと、馬鹿みたい。
 でもその馬鹿みたいな理由も、そのやり方も、全部、全部が、愛おしい。
 こいつの全部を取り込んでしまいたくて、ゆっくりと久我の背中に腕を回すと、久我がぴくり、と体を震わせた。先輩、と甘い声が俺を呼ぶ。
 なにかを求めるそんな声に、ん、と短く返事をすると、俺の肩口に顔を伏せていた久我が首を巡らせてこちらを見た。熱っぽい目が俺の目を覗き込んでくる。
 普段の久我の目よりもずっとしっとりと濡れたその目が欲しているものがなにか、言葉にされていないのに、なぜかわかった。
 気持ちのままにそろそろと顔を上げると、いつも取り澄ました笑顔ばかり浮かべる顔が、頬を上気させ、近づいてきた。
 全然、いつもと違う顔がすぐそこにあって、どきどきする。そのどきどきを包み込むみたいに、俺の体に回された久我の腕にきゅっとまた力が籠る。
 その腕の力に釣り込まれるように、俺も顔を寄せると、久我がふっと笑った。
 はんなりのときとは違う、血の通った笑みが目の前いっぱいに広がって、思わず見とれた瞬間、

「…………っ」

 俺の唇を熱い唇が覆った。
 こいつ、熱でもあるんじゃ、いや熱があるのは俺? キスってこんなに頭の中がぐちゃぐちゃになるものだなんて聞いてない。ああ、もう、どうしよう。脳も心も全部焼かれて、思考が全然形にならない。
 なんてふわふわしている間に唇が解かれた。あれだけ頭の中がかき回されて、甘苦しささえ感じたっていうのに、離れたと同時に強烈な寂しさに襲われる。思わずすがるように久我を見ると、その俺の眼差しを受け止めた久我の目がゆらっと揺れた。探り合うみたいに見つめ合ったのは、ほんの、一瞬。
 直後、一度目より性急にキスが落ちてきて、俺は久我の体に強くしがみつく。
 結ばれた口と口で交換された熱によって、胸も頭も熱せられて……なんだかもう……。
 のぼせそう……。
 くらくらして溺れちゃいそうで、でも離れたくなくて。そんな苦しさと心地よさの狭間でたゆたいながら、唇を離すと、少しだけ呼吸を乱した久我が長い睫毛を伏せて、だめかも、と呟いた。

「え、なに、がだめ?」
「いや、これ、気持ちよすぎて……なんか言葉が……その……京都弁、使って、いいですか」

 ……なんなん、ほんとこいつ。

 たまらず、くっくっと肩を震わせると、ちょっと、と久我が尖った声を出した。

「先輩、笑わんとってください」
「あー、もう。俺、お前の素が好きなのに、お前のその話し方聞くと楽しくなっちゃう。なんだろ、二股かけてるみたいな気持ちになる」
「浮気もんですなあ、ほんま」

 低い声を出しながら、久我の腕がくうっと俺の体を締め付ける。

「ちょっ、痛いって」
「当たり前や。浮気者へのお仕置きなんやから」
「いやいや、どっちもお前じゃん」
「そうですけど。ほんま、むかつくわあ、先輩は」

 言いながらも久我の手は俺の頭を撫でる。そのしなやかな指の感触に胸がじわっと熱くなり、俺は思わず久我の肩口に顔を押し当てる。

「久我」
「なんです?」
「ありがと。俺のこと、好きになってくれて」

 ありがと。

 囁いた俺の額で、ちゅっと軽い音がした。
 素早く額にキス……されていた。

「可愛い。すごく可愛くて……誰にも見せたくなくなる。ねえ、先輩」

 赤くなる俺の上から下り、俺の横に横たわった久我が、そうっと腕を伸ばして俺の体を自分の胸の中に引き寄せる。

「二股、かけてください。僕にだけ。ずっと」
「ちょっと待って、お前、これからもはんなりする気なの?」
「だって先輩、楽しそうやから。ええですやろ?」

 まったく。意味わからない。
 呆れながらも俺は久我の胸に顔を寄せた。久我の胸からは久我が好きと言ったお茶の柔らかい香りがしている。

 ……俺もこの匂い、好きだな。

 そう言ってやりたかったけれど、久我の手に顔を上げさせられ、もう一度口づけられたせいで、言えなかった。