【続編】乱気流の飛行機でパニックになり、隣の奴に手を握ってもらったら、転校先の生徒会長でした。

 ***

 伊織の部屋は、俺が頭の中で思い描いていた想像の通りだった。
 ナチュラル系の色合いで整えられた、六畳のフローリングに学習机と本棚、窓際にシングルベッド。カーテンの色がうすいクリーム色で、変に思春期特有の格好良さを意識していないところが、彼らしいなと思う。
 壁の一角には、修学旅行の最終日に空港で撮ったツーショット写真とシーサーの置物がさりげなく飾られていて、見つけた瞬間に俺の方が照れくさくなった。

「伊織、あれって……」
「あんまし見ないで、なんか恥ずかしい」
「それは無理かも。だって、好きな人の部屋だし。通話してる時は、その辺の棚が映っているのは見たことあるけど……それに、本当にここで生活してるのかと思うとさ」
「思うと?」
「……やっぱりなんでもない」

 なんだか疾しい気持ちになって、俺は言葉を濁した。伊織が口元を隠しながら微笑んでいて、またやられたような気持ちになる。こういう時、余裕そうな顔をしているのはいつも伊織の方だ。
 伊織はベッドに枕を二つ並べると、当然のように布団を持ち上げて「どうぞ」と俺を手招きした。

「待って、ちょっとストップ」
「え、なんで――」
「それって、わざとなの? 俺、心の準備が……」
「わざとの意味がよく分かんないんだけど」

 まさかの同じベッドだなんて。伊織のご両親が用意してくれている、来客用の布団もあるのに。
 正直言えば、俺だってしたい気持ちはある。けれどそれは、伊織とふたりで少しずつ段階を踏んでいくことが大事だと思っていて。今のキスや手を繋ぐ関係で、それ以上をこんな土壇場で求めるのは間違っている気がした。

(でも、据え膳食わぬは……)

 もう一人の俺が反論してきたところで、俺は咳き込んで誤魔化すようにその思考を追い払った。自分の中にいる二人の自分が、ずっと綱引きをしているみたいだ。

「だめ? 嫌だった?」
「そうじゃなくて。あんまり近いとさ、その……」
「でも、たぶん泊まれるチャンスってなかなか無いから。寝ようよ、一緒に」
「……じゃあ、伊織が壁側で寝て」

 観念したように促すと、伊織は嬉々として俺の分のスペースを開けて横たわった。そのまま、俺の身体も一緒に包み込むように布団をふわりと被せる。

「なんか、修学旅行の時を思い出すのは俺だけ?」
「俺も思ったけど、今日は全然違うよ」
「なにが?」
「だって、朝までこの家には俺と伊織の二人きりなんだから」

 お互いに少しずつ体を寄せ合うと、豆電球だけがついた灯りの中で、伊織が目を細めてこっちを見つめているのが分かった。その眼差しが、満たされていて、本当に幸せそうで。気付いた時にはその頬を両手で包むようにして、想いを込めたキスをしている自分がいる。

「ごめん、めちゃくちゃキスしたいかも」
「うん」
「もう少し先に進むの怖い?」
「ん……、久保?」

 そのまま首筋へとするりと手を這わせると、同じ男なのにどうしてこんなに線が細いんだろう、と思った。伊織の体温がじわりと上がって、自分も同じくらい身体が熱くなる。

(もっと触りたい、もっと……)
 
 ――感情をむき出しにするな、みっともないからやめろ。
 子供の頃から、両親にはそう言われ続けてきた。人前で泣くことも、声を荒げることも、はしゃぎすぎることも――家では全部その一言で片付けられて、いつしか俺は表情の作り方だけが上手くなっていった。

『拓磨は何でもできる子なんだから、これくらいのことで泣いちゃダメよ』
『そうやって怒りを周りにまき散らしているうちは、立派な大人になんてなれないぞ』
『私達の息子として、跡取りとして。最高の環境を与えているんだから、拓磨も頑張って父さんと母さんを喜ばせてね』

 でも、この腕のなかにいる恋人の前では、それが全部崩れていく。
 格好つけたい気持ちがあるはずなのに、伊織に俺の弱い所も、もっと曝け出して安心させて欲しくなる。
 誰にも見せたことのない情けない顔を、伊織にだけはもう見せてもいい気がしてしまうのが不思議だった。

「触ってもいい?」
「うん……大丈夫だけど」

 じゃあ、どれくらい先まで進んだら伊織は「やめて」と恥ずかしがるんだろう。そんな意地悪な好奇心が頭をよぎって、自分でもたちが悪いと思う。部屋着の襟口から手を滑らせて首筋に俺の鼻先が触れると、伊織は小さな声を漏らした。その反応ひとつひとつが、こっちの理性を少しずつ削っていく。
 伊織と付き合い始めてから財布に、万が一の時のために。一つだけ入れているそれを出すか物凄く悩んで、やめた。
 タイミングは絶対に今じゃない。俺だけ浮かれすぎて引かれたくないし、早急に求めて怖がらせたくもない。

「くすぐったい……」
「そういう声あんまり出さないで」
「だってそれは久保が」
「うん、そうだね。全部俺のせいにしていいよ」

 両想いになって、付き合い始めてから――帰る時に手を繋ぐとか、生徒室でこっそりハグとキスをするのは、ほぼ当たり前の習慣になりつつある。もっと二人きりになれる場所が欲しいし、こうして一緒に同じ屋根の下で眠る事が出来たら、どれほど幸せだろうかと思う。日常のすべてに伊織がいる生活を、気づけば当たり前のように想像している自分がいた。

「可愛い……」
「み、耳元で喋んのはナシ。ゾクゾクする」

 ちゅ、と吸いつくようなキスをして、俺は伊織の反応を伺う。

「……伊織はさ、俺といつかこうして二人で暮らす未来って考えてる?」
「どうしたの、いきなり」
「いい機会だから、話しておこうと思って。伊織が進級して、卒業したあと、どんなふうに思ってるのか聞かせてよ」

 打ち上げの時から、ずっと胸の奥でくすぶっていた不安だった。今なら聞ける、と思ったら、口が勝手に動いていた。
 伊織の頭の下に腕を差し込み、腕枕をする。ぽけーっとした顔で俺を見つめていた伊織は、天井の方をむいて難しい顔で唸り始めた。

「まず、進路は久保と無理に揃えることは無いかなって思ってる。そこまで束縛したくないし」
「ふぅん」
「なんでもう怒ってるの?」
「そりゃあ、面白くないでしょ。寂しくないの、俺と別の大学に通うの」
「違うって。久保は頭いいんだから、その……レベルをわざわざ落とすのは勿体ないだろ」
「どうでもいいよ。どの大学でも、真面目にやって卒業出来ればそれでいいじゃん」
「よくないです」

 めっ、とでも言うかのように伊織が俺の鼻の頭を人差し指でちょんと触れた。これで怒ってるつもりなんだとしたら、やっぱり俺は伊織にいくらでも叱って欲しい。伊織なりの気遣いだということは分かっているのに、素直に「ありがとう」とは言えなくて、つい意地を張ってしまう。

「俺、伊織と今更離れるとか無理だよ。大学も同じにするし、家もそうするつもり」
「えっ、家ってどういうこと?」
「……同棲。ルームシェアして、一緒に暮らそうよ」

 半分本気、半分は伊織の反応を見てみたいだけの下心でもあった。
 けれど言葉にした瞬間、自分でも驚くくらいそれが本気の願望だったことに気づく。

(……お願いだから、『いいよ』って笑って頷いて)

 伊織の背中をそっと抱き寄せて耳元で告げると、密着している伊織の身体越しに心臓が早く鳴っているのが分かった。その振動が、自分のものなのか伊織のものなのか、意識を集中させていないと分からなくなる程だ。

「ど、同棲? それって結婚する前のお試し期間の恋人たちがすることなんじゃないの」
「うん、まさに俺たちってそうだと思うけど」

 違ったの? と問い詰めるようにじっ、とその瞳を覗き込む。伊織は「うぇえ……?」と曖昧に返事をすると、それ以上はどう言葉にしたらいいのか分からないようだった。耳まで赤く染まっていくのを間近で見ながら、ますます伊織が愛しくてたまらなくなる。

「うん、って言ってくれないの?」
「言いたいよ、そりゃあ。でも、そういう話はもっと……」
「もっと?」
「先の事だと思ってたから。ごめん、俺……同じだけの気持ちで、久保のことを考えられてなくて」

 今の気持ちを言葉で表すなら、ずーんという単語以外にぴったりなものは見つからない。恋人とウキウキでテーマパークでデートして、友達にハメられた挙句に二人きりでのお泊りまで運よくこぎつけられたのに、まさかの遠回しな拒否&大学も別でいいと言われるなんて。これって、俺が重すぎるんだろうか。

(やっぱり、俺の執着って異常なのかな。重すぎる……?)

 同じだけの重みを求めたい一方で、それは無理だって分かっている自分がいる。心の中ではまるで、欲しいおもちゃを買ってもらえなくて床でむせび泣いている子供のようだった。……そんなことは、実際したことがないのだけれど。感情の起伏をとことん抑え込んで育ってきたはずなのに、伊織相手だとどうしてこう、子供みたいに不貞腐れたくなるんだろう。

「俺が焦り過ぎた? でも、いずれかは向き合わなきゃいけないことでしょ」
「でも、あの、ほら……俺たちまだ、付き合って一年も経って無いし」

 まぁ、確かにそれはそうだ。じゃあ、大学の進路と同棲を切り出すタイミングっていつが良かったんだろうかと最適解を頭の中で再計算していると、伊織が不意に俺の胸元に額を寄せた。
 顔が見えない。どうしたんだろう、と覗き込むと、ますます強く押しつけられる。

「正直さ、精一杯なんだよ」
「……ごめん、なにが?」
「その……久保と、恋人らしいことするので。キスとか、ハグとか……この前は、大人のキスもしたじゃん。そういうので頭がいっぱいになってて、それより先の事とか、大学生になった時のことまで考えられないよ」

 消え入りそうな声でそう言われて、俺は一瞬言葉を失った。自分ばかりが何歩も先を歩いていて、ついてきてくれていなかった伊織に拗ねていたけれど――実際は、伊織なりに目一杯背伸びをして、その瞬間の時々についてきてくれていただけ。そう思うと、さっきまでの不満が急にばつが悪いものに感じられた。

「そっか、ごめん」

 顔を真っ赤にしながら教えてくれた伊織に、俺はちゅ、ちゅと何度もキスをした。触れるたびに伊織の体温が上がっていくのが、密着した肌越しに伝わってくる。腕の中に収めているこの小さな熱源が、こうして無自覚に自分の理性を溶かしにかかってくるのだから、たまったものじゃない。

「でも、俺なりに久保のことをちゃんと好きだし、その気持ちは分かっていてほしいっていうか」
「……伊織がそこまで一杯いっぱいだったの、気付かなかった」
「うん、だろうね」
「えっ?」
「夢中なんだろうなって、俺も思ってたから。自慢っぽく聞こえるかもだけど」
「待って、どういうこと」
「ほら……いつも、生徒会室とか。放課後の教室とかでキスする時、久保があんまりにも嬉しそうにしてるというか……無我夢中で、俺が肩叩いても気づかない時、あるから」

 消え入るような声で、伊織が目を逸らしたまま口元に照れ笑いを浮かべている。まさかそんなことを言われるとは思っても見なくて、今度は自分の頬のほうがかーっと熱を持っていくのが分かった。抱きしめている腕の力加減すら忘れて、一瞬固まってしまう。

「嘘。俺、そんながっついてた?」
「……うん、だって、俺が名前呼んでも無反応っていうか。わざとなのかな?とも思ってたんだけど、違う?」
「いや、無視したつもりはなかった。ごめん、本気で夢中になってたのかも」
「あ、いや……その。全然、嫌とかじゃないから。むしろ、甘えてくれてるのかなーなんて……」

 伊織にそんな風に思われていたなんて。内心で「マジか」と呟きながら、口元を手で覆う。取り繕う余裕もなく、耳の先まで火照っているのが自分でも分かった。密着したままの体勢のせいで、その動揺まで伊織に筒抜けになっているのが、なんとも居た堪れない。

「でも、その……同じ大学に行って、同じ家に帰って来るっていうのも、ちょっとうらやましいなって思ってる自分も居るよ」
「じゃあ、やっぱ俺が志望校の偏差値を落すから。それで――」
「そうじゃなくて。逆だよ。俺が勉強を頑張って、久保と同じ大学に行きたい」

 その一言に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。腕の中の体温がさっきよりも近く感じられて、抱きしめる力が自然と強くなった。伊織の心臓の音が、自分の鼓動と重なるのを感じる。

「……っ、そんなこと言われたら、またひとりで舞い上がっちゃうよ。勉強教えるのだって、いくらでも手伝いたいって思う」
「うん。そういう、お互いを高め合うような目標のある恋人でいたいよね」
「伊織に無理させるのが一番嫌だよ、俺は」
「……無理はしてない。そう言う時は、自分で『ごめん無理』って言えるし。なんだろう、こう……久保のおかげで頑張れる、っていう気持ちの方が強いって言えばいいのかな?」

 自分の価値を落とすのではなくて、切磋琢磨しあって高みを目指す。なんというか、同じ高校生でここまで恋愛にそういう自分の信念みたいなものを示す伊織に、ますます敵わないと思ってしまう。
 俺よりも幅の狭い肩口に顔を埋めると、優しくすり、と手のひらで頬を撫でられた。その手つきひとつに、これまでの緊張がゆっくりとほどけていくのが分かる。

「……俺、アメリカから日本に来て。親の都合で高校を転校するって決まった時、自分で好きな高校を選んでいいって言われたんだ」
「うん」
「それで、選んだのが江陽だったんだけど。さすがに親にもキレられてさ」
「……それは、なんでだろうって俺も気になってたよ。だって、久保なら公立でもっといいところに行けただろ? 俺は、どこも定員に空きが無くて下見もせずに選んじゃったんだけど」
「そう、当てつけのつもりだったんだ。お前らの思い通りの人生歩んでたまるかよって」

 将来は父親の会社を継ぐことが、物心つく前からすでに決められていた。
 中学まではそれを当然のこととして受け入れてきた。跡取りとして育てられることに疑問すら持たなかったし、それが親孝行というものなのだと信じて疑わなかった。
 けれど、リビングから漏れ聞こえる両親の言い争う声が日に日に増えていくのを、扉の隙間からただ黙って聞くしかなかったあの頃から、俺の中にあった従順さは崩れていった。継ぐという言葉の重みが、いつの間にか鎖のように感じられるようになっていたのだ。
 「こんな偏差値の低いところ」「Fラン以下だ」——父の口から放たれる言葉は容赦がなかった。それでも俺は頑として譲らなかった。反発というよりは、これだけは自分で選びたいという、ささやかな意地だったのかもしれない。
 両親はそんな俺の態度に苛立ちを隠さず、それならばと条件を突きつけてきた。主席の座を守り続けること、そして生徒会長を務め上げること。結果さえ出せば文句は言わせない、そういう腹づもりなのだろう。おおかた、跡取り息子がこんな学校に通っているという事実そのものが、親としてのプライドを踏みにじられているように感じているに違いなかった。

 息苦しいだけのはずだったこの高校生活の中で、伊織と出会えたことだけは、間違いなく俺にとっての救いだった。灰色に染まりかけていた日々に、ふと差し込んだ光のように。

「大学も、それなりに名前の有名なところに行けって言われてるけど。俺は伊織が居るかどうかが一番重要で……」
「……じゃあ、俺めっちゃ頑張んなきゃいけないかも」
「っ、ごめん。そう言わせたかったわけじゃ……」
「あはは、分かってるよ。要するに、久保は俺がいないなら大学も行きたくない、と。困ったさんだなぁ、ほんとに」

 暗い話題を努めて明るくしようと笑ってくれているのが分かって、俺はより一層力を込めて抱きしめた。

「伊織、好きだよ。好き過ぎて、怖いくらい」
「うん、俺も好きだよ。すげー好き」
「……高校を卒業して、大学生になって。社会人になっても、俺は伊織を好きでい続けるって誓う」

 こんなに優しくて、可愛くて、真っ直ぐで。純粋な人が俺のことを好きだと言ってくれて、同じ未来を描くために努力したいと言ってくれている。それ以上に幸せなことなんて、この世には一つとしてない気がした。
 伊織もまた俺を抱きしめたまま、さっきまでの恥ずかしさなんて感じさせない表情で、唇を吸って、舐めて、まだ慣れないキスで想いを伝えてくれている。その不器用さがかえって愛しくて、理性が緩んでいくのが自分でも分かった。

「んー……、ん、久保……」
「名前、呼んで。今二人きりだから」
「……た、拓磨……」
「まだ慣れない?」
「うん……ちょっと、照れる」

 その惜しみない愛情と温もりが嬉しくて、抱きしめたまま腰を押し付ける。我慢、我慢……と心のなかで何度も繰り返しながら、じわりと宿る熱を誤魔化すことは、どうやっても出来なかった。

「ま、待って」
「なに、どうしたの?」
「いや、あの……あたってるから」
「……仕方がないだろ、恋人と一緒に居て、こうならない訳ないじゃんか」

 それでも、伊織の気持ちを無視して一人で先走ってはいけない。ふう、と息を吐いて必死で自分を抑え込む。今日という日を、変に焦って壊したくはなかった。

「ごめん。正直びっくりしてる」
「なにが」
「どう頑張っても身体が男だから、その……た、拓磨が……そう言う気持ちになれるかな? って自信なかったから」
「……それ、本気で言ってる? そこまで言うなら、教えてあげようか」
「うん?」
「そういう気持ちに、ちゃんとなってるよ。伊織のこと考えてする時だってあるし、学校ですらそう言う目で見そうになる時もある」

 このくらいはっきり言わないと、きっと伊織は分からないだろう。
 恥を捨てて告げると、伊織は赤面して「そっか」とだけ言うと、ヤドカリのように掛け布団の中に隠れてしまった。

「なんで隠れるの」
「む、無理。恥ずかしすぎて顔あっつい」
「キスしたいから出てきてよ」

 その夜遅くまで、俺と伊織はベッドの中でキスを繰り返して、何度も大人のキスをした。がっつかないように、でも二人きりの特別な解放感を味わうように。
 息継ぎの合間に交わす笑い声も、繋いだままの指先も、どれもが今夜だけの宝物みたいに思えた。窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていたらしい。ぱらぱらと屋根を叩く音が、部屋の中を優しく包んでいた。

「拓磨、すき……大好き」
「……うん、俺もだよ。伊織のことが好き」

 いつか、この温もりが当たり前の日常になる日が来るとしても――今この瞬間の、まだ手探りで確かめ合うような愛おしさだけは、きっとずっと忘れない。そう思えるくらい、今夜という夜は俺の中で特別なものになっていた。

(伊織なしじゃ、生きていけない)

 思えば、今までの人生で「満たされている」という感覚をこれほど鮮明に味わったことはなかった気がする。
 欲しいものはほとんど与えられてきたはずなのに、いつも心のどこかが乾いていた。それが今は、こんなにも簡単に埋まってしまうのだから不思議だ。伊織が居てくれるだけで、真っ暗だったはずの心にぽうっと優しいあかりが灯りつづけているような気持ちになる。

「ねぇ、今なに考えてる? 不安そうな顔してる」
「ごめん、色々。伊織の顔みてたら考え事が……」
「……もう一回キスしようか」

 これだけあたたかな愛を与えてくれる人に、俺はどうやってそれ以上の気持ちを表して、返したらいいんだろう。まだ答えは出ないけれど、たぶん急いで見つけるものでもないのだろうと思う。これから先、何度も何度も、こうして隣で日々を重ねていく中で、少しずつ形にしていけばいい。

(絶対に誰にも渡したくない。俺の、俺だけの……)

 その髪に鼻先を埋めながら、俺はそんなことを考えて――やがて思考も溶けるように、一緒にゆったりと目を閉じた。
 世界でいちばん好きな人の、世界でいちばん優しい音に包まれながら。