(……伊織の髪と同じ匂い。当たり前だけど)
そんなことを考えながら手早く体を洗っていると、不意にドアの向こうでガタンという物音と足音が聞こえた。
おそらく、田中や海野あたりがまた騒いで盛り上がっているのだろう。あれだけ口酸っぱく「静かにしろ」と言ったにもかかわらず、夜二十一時を前にしてどんちゃん騒ぎを起こし始めたことに軽く苛立ちながら、そそくさとシャワーを終えると、洗濯機の上に用意されていたタオルを一枚拝借した。
伊織は押しに弱いし、滅多に声を荒げて怒る事はないから、もしかしたら調子に乗っているのかもしれない。
(……ん? さっきより、やけに静かだな)
騒ぎ所か、話し声も物音も聞こえない。あまりの静けさに、逆に耳を澄ませてしまう。ドッキリか何か企んでいるのだろうか、と思ってゆっくりと慎重に廊下を歩いてリビングに戻ると、そこにはソファーの上でスマホを持ったままぽつんと座って固まっている伊織の姿があった。
「なにこれ、まさか隠れんぼしたいとかアイツらが馬鹿を言った感じ?」
「ううん、違くて、その……」
「もしくはドッキリのショート動画とか」
「違うんだ。俺もびっくりしたんだけど、皆急に帰るって言い始めて」
「は……?」
思わず声が上擦る。首から下げていたタオルを掴んだまま、呆然とする俺に伊織は身振り手振りをしながらおろおろと話しはじめた。
「急にみんなお腹が痛いって言い始めて。『たこパで食中毒になったかもしれへん』って」
「そんなわけないだろ、俺と伊織が大丈夫なんだから」
「俺もそう言ったんだけど、今日は自分の家に帰るってみんな荷物持って出て行っちゃって……」
伊織が玄関の方を向くので、つられて同じ方向を見る。そこには、さっきまでずらりと並んでいた(というか、俺が綺麗に整えた)はずの大量のスニーカーが消えて、俺と伊織の色違いのコンバースだけがちょこんと取り残されていた。
その光景を目にした瞬間、頭の中で色々な思考が一斉に音を立てて回り始める。食中毒だなんてあからさまな口実だ。さっきの妙に息の合った空気も、じゃんけんの茶番も、全部この瞬間のための布石だったのだと今更ながら合点がいく。悪ノリにも程がある。それでいて、こんな回りくどい真似までしてくれた四人が腹立たしく、逆にちゃんとその「したり顔」まで想像できてしまうのが余計に厄介だった。
家族も友達もいない。家には俺と伊織、二人だけ。伊織もこの悪戯は予測していなかったのか、目に見えて動揺していた。指先がスマホの端を落ち着きなく撫でる仕草を見ているだけで、こっちまで余計に緊張してくる。
このままここで「じゃあ寝よっか」なんて言えるような空気でもなくて、俺は狼狽えてる伊織を前に、スマホと荷物を手に取ると、そのまま背中を向けた。意地でも顔は見せられなかった。今どんな表情をしているか、自分でも分からなかったし、変に下心を抱いている顔を見られるくらいなら、無愛想なままの方がまだましだと思ったからだ。
「久保? どうしたの」
「いや……さすがにこれはちょっと、俺も想定して無くて。このままじゃ色々とまずいだろうし、帰った方が良いんじゃないかと思って」
我ながら白々しい台詞だと思う。頭の片隅では「帰らないで」と言って欲しくてたまらないくせに、口ではそれらしい建前を並べる。こういう二枚舌なところが、自分でも一番嫌いだ。
「か、帰るって。その格好で?」
伊織に指差されて、はたと自分の格好を見る。黒いスウェットの上下に、裸足。なんならちゃんと髪をドライヤーしてすらいない。そのことに気が付いて俺が「えっと……」と思わず声を漏らすと、伊織は眉を下げて困ったように笑って見せた。
「さすがにその格好で久保の家まで歩くのは、ちょっとね。風邪も引いちゃうと思う」
「まぁ、それはそうだけど。……伊織は、嫌じゃないの」
「嫌って、そんな」
「俺と朝まで二人っきりだよ。本当にそれでいいの?」
そうだよね、良くないよね……なんて言われたら、それはそれで伊織の清廉な印象が増すばかりではあるのだけれど、欲望とまっさらな伊織を天秤に掛けたら、あっさりと欲望の方が勝ってしまう。
俺の「王子様」のイメージは、こういうところからして崩れているのだ。いつだって涼しい顔でいるだけで、その中身はドロドロしている。他人からは要領よく生きているように見えるらしいけれど、実際のところは、こうして一人の人間の前でだけ、ひどく不器用になる。
「嫌な訳ないだろ」
視線を床に落としたまま、伊織の答えを待っていると、思っていたよりずっと早くその答えが返って来た。短い沈黙の後に、それでも迷いのない声だったことに、心臓が一拍分だけ大きく跳ねる。
そのまま伊織が俺の方へ歩み寄って、俺のスウェットの裾をぎゅっと掴んで来る。てっきり俺は恥ずかしそうにしている顔を想像していたのに、自然と上目づかいで見つめてくるその瞳には、どこか嬉しさが滲んでいた。
普段は俺の方が一枚上手のつもりでいるのに、こういう瞬間だけは、いつも伊織に主導権を握られている気がする。
「俺、めちゃくちゃ嬉しいって思っちゃったけど。久保は違った?」
「……それは」
嬉しいに決まってるだろ、とこのままプライドを全部かなぐり捨てて強く抱きしめてしまいたい。
頭の中では冷静な自分がまだ何か言い訳を探しているのに、体の方はとっくに答えを出している。直情的な人間ほどダサい生き物はないと思っているのに、プライドの高い自分こそが、一番ダサいような気がした。
「つまり、伊織は俺とふたりで寝るのが……」
「もう、面倒くさいなぁ久保は。素直に『俺も』って言ってよ」
くどくどと回り道している俺に呆れたように、伊織がぐっと抱き寄せて背中をなでてくる。その体温が思っていたよりずっと近くにあって、頭の中の理屈っぽい部分が一気に融解していく。こんなにあっさりと降参させられるとは、自分でも思っていなかった。
伊織のハグには不思議な力がある。見栄を張りたい気持ちとか、身体の深い所にいつもある寂しさや怒りが、すーっと凪になって落ち着いて行く。
それは、初めて生徒会室でハグを申し出てくれた時からずっと変わらない。俺にとっては、一種の精神安定剤のようになっていた。
「……部屋に行く?」
「うん」
どう考えても寝るには早くて不自然なのに、俺たちは手を繋いで寝室へと向かった。
そんなことを考えながら手早く体を洗っていると、不意にドアの向こうでガタンという物音と足音が聞こえた。
おそらく、田中や海野あたりがまた騒いで盛り上がっているのだろう。あれだけ口酸っぱく「静かにしろ」と言ったにもかかわらず、夜二十一時を前にしてどんちゃん騒ぎを起こし始めたことに軽く苛立ちながら、そそくさとシャワーを終えると、洗濯機の上に用意されていたタオルを一枚拝借した。
伊織は押しに弱いし、滅多に声を荒げて怒る事はないから、もしかしたら調子に乗っているのかもしれない。
(……ん? さっきより、やけに静かだな)
騒ぎ所か、話し声も物音も聞こえない。あまりの静けさに、逆に耳を澄ませてしまう。ドッキリか何か企んでいるのだろうか、と思ってゆっくりと慎重に廊下を歩いてリビングに戻ると、そこにはソファーの上でスマホを持ったままぽつんと座って固まっている伊織の姿があった。
「なにこれ、まさか隠れんぼしたいとかアイツらが馬鹿を言った感じ?」
「ううん、違くて、その……」
「もしくはドッキリのショート動画とか」
「違うんだ。俺もびっくりしたんだけど、皆急に帰るって言い始めて」
「は……?」
思わず声が上擦る。首から下げていたタオルを掴んだまま、呆然とする俺に伊織は身振り手振りをしながらおろおろと話しはじめた。
「急にみんなお腹が痛いって言い始めて。『たこパで食中毒になったかもしれへん』って」
「そんなわけないだろ、俺と伊織が大丈夫なんだから」
「俺もそう言ったんだけど、今日は自分の家に帰るってみんな荷物持って出て行っちゃって……」
伊織が玄関の方を向くので、つられて同じ方向を見る。そこには、さっきまでずらりと並んでいた(というか、俺が綺麗に整えた)はずの大量のスニーカーが消えて、俺と伊織の色違いのコンバースだけがちょこんと取り残されていた。
その光景を目にした瞬間、頭の中で色々な思考が一斉に音を立てて回り始める。食中毒だなんてあからさまな口実だ。さっきの妙に息の合った空気も、じゃんけんの茶番も、全部この瞬間のための布石だったのだと今更ながら合点がいく。悪ノリにも程がある。それでいて、こんな回りくどい真似までしてくれた四人が腹立たしく、逆にちゃんとその「したり顔」まで想像できてしまうのが余計に厄介だった。
家族も友達もいない。家には俺と伊織、二人だけ。伊織もこの悪戯は予測していなかったのか、目に見えて動揺していた。指先がスマホの端を落ち着きなく撫でる仕草を見ているだけで、こっちまで余計に緊張してくる。
このままここで「じゃあ寝よっか」なんて言えるような空気でもなくて、俺は狼狽えてる伊織を前に、スマホと荷物を手に取ると、そのまま背中を向けた。意地でも顔は見せられなかった。今どんな表情をしているか、自分でも分からなかったし、変に下心を抱いている顔を見られるくらいなら、無愛想なままの方がまだましだと思ったからだ。
「久保? どうしたの」
「いや……さすがにこれはちょっと、俺も想定して無くて。このままじゃ色々とまずいだろうし、帰った方が良いんじゃないかと思って」
我ながら白々しい台詞だと思う。頭の片隅では「帰らないで」と言って欲しくてたまらないくせに、口ではそれらしい建前を並べる。こういう二枚舌なところが、自分でも一番嫌いだ。
「か、帰るって。その格好で?」
伊織に指差されて、はたと自分の格好を見る。黒いスウェットの上下に、裸足。なんならちゃんと髪をドライヤーしてすらいない。そのことに気が付いて俺が「えっと……」と思わず声を漏らすと、伊織は眉を下げて困ったように笑って見せた。
「さすがにその格好で久保の家まで歩くのは、ちょっとね。風邪も引いちゃうと思う」
「まぁ、それはそうだけど。……伊織は、嫌じゃないの」
「嫌って、そんな」
「俺と朝まで二人っきりだよ。本当にそれでいいの?」
そうだよね、良くないよね……なんて言われたら、それはそれで伊織の清廉な印象が増すばかりではあるのだけれど、欲望とまっさらな伊織を天秤に掛けたら、あっさりと欲望の方が勝ってしまう。
俺の「王子様」のイメージは、こういうところからして崩れているのだ。いつだって涼しい顔でいるだけで、その中身はドロドロしている。他人からは要領よく生きているように見えるらしいけれど、実際のところは、こうして一人の人間の前でだけ、ひどく不器用になる。
「嫌な訳ないだろ」
視線を床に落としたまま、伊織の答えを待っていると、思っていたよりずっと早くその答えが返って来た。短い沈黙の後に、それでも迷いのない声だったことに、心臓が一拍分だけ大きく跳ねる。
そのまま伊織が俺の方へ歩み寄って、俺のスウェットの裾をぎゅっと掴んで来る。てっきり俺は恥ずかしそうにしている顔を想像していたのに、自然と上目づかいで見つめてくるその瞳には、どこか嬉しさが滲んでいた。
普段は俺の方が一枚上手のつもりでいるのに、こういう瞬間だけは、いつも伊織に主導権を握られている気がする。
「俺、めちゃくちゃ嬉しいって思っちゃったけど。久保は違った?」
「……それは」
嬉しいに決まってるだろ、とこのままプライドを全部かなぐり捨てて強く抱きしめてしまいたい。
頭の中では冷静な自分がまだ何か言い訳を探しているのに、体の方はとっくに答えを出している。直情的な人間ほどダサい生き物はないと思っているのに、プライドの高い自分こそが、一番ダサいような気がした。
「つまり、伊織は俺とふたりで寝るのが……」
「もう、面倒くさいなぁ久保は。素直に『俺も』って言ってよ」
くどくどと回り道している俺に呆れたように、伊織がぐっと抱き寄せて背中をなでてくる。その体温が思っていたよりずっと近くにあって、頭の中の理屈っぽい部分が一気に融解していく。こんなにあっさりと降参させられるとは、自分でも思っていなかった。
伊織のハグには不思議な力がある。見栄を張りたい気持ちとか、身体の深い所にいつもある寂しさや怒りが、すーっと凪になって落ち着いて行く。
それは、初めて生徒会室でハグを申し出てくれた時からずっと変わらない。俺にとっては、一種の精神安定剤のようになっていた。
「……部屋に行く?」
「うん」
どう考えても寝るには早くて不自然なのに、俺たちは手を繋いで寝室へと向かった。



