***
「アブラカダブラ!」
「海野、お前さっきからそれしか言わんやん」
ユニバからの帰り道、電車を降りた途端に連中が騒ぎ始めた。魔法の杖をよほど気に入ったらしい四人を黙らせておくのに、電車の中だけでもかなり神経を使った。枝一本でここまでピーチクパーチクと喋るのだから、本当に気が滅入る。伊織の家に着くまでの間くらいは、多少のバカ騒ぎも仕方がないと諦めるほかないだろう。
というより、こいつらに構っている余裕が、正直今の俺にはあまりなかった。
(家まで送ったことは何回もあるけれど、中に入るのは初めてなんだよな)
伊織と付き合ってから、生徒会の集まりがない日は必ず伊織を家まで送るようにしていた。少しでも一緒に居られる時間を引き伸ばしたいし、俺自身、自分の家には一秒でも遅く帰りたいという事情もある。
これまではいつも玄関先で別れて、それで終わりだった。伊織のお母さんには何度か顔を合わせたこともある。伊織からは「母さんがいるから、家に上げたいけど気まずくて」と、申し訳なさそうに言われたことも一度や二度ではない。
もちろん、恋人同士のことだ。伊織と本当に二人きりになってしまったら、自分がどこまで自制できるか――正直、あまり自信がない。それでも表向きは「別にいいよ」の一言で、そのあたりの本音は全部飲み込んでいる。
とはいえ、野郎五人で押しかけるのはさすがに気が引けたので、先週末の段階で伊織のお母さんには「騒がしいと思うのですが」と一言断りを入れ、デパ地下で買った菓子折りも渡してある。準備だけは、将来的な部分に備えて抜かりなくやっているつもりだ。
駅からの急坂を上りきった先、この街でも割と有名な新築マンションに辿りつくと、伊織はなんてことのない様子で玄関の鍵を開けた。
「父さんは出張で居ないけど、下の階に迷惑だから大きな声は――」
「お邪魔しまぁーす! うわ、めっちゃ綺麗な家やんか。俺の家とは大違いやなぁ」
スニーカーを脱ぐのももどかしそうに、田中が家主よりも先にずかずかと上がり込んでいく。慌てて制止の声をかけようとすると、伊織が苦笑いを浮かべた。
「まぁ、今日は母さんも居ないから少しくらいは良いけど」
「えっ?」
「実は、おばあちゃんが家の中で転んじゃったんだ。病院に行ったり、身の回りのお世話を手伝ってくるから、今夜母さんは帰ってこないことになってる」
思ってもみなかった話に、一瞬言葉に詰まる。
「……てことは、今日は伊織の家にご両親がどちらも居ないってこと?」
「うん、そういうこと」
伊織はなんでもないことのように頷いてみせるけれど、俺の頭の中では、その一言がやけに大きく響いていた。親が帰ってこない。マジか、それはちょっとなんというか……うん、嬉しい。
(まぁ、コイツらがいるから「そういうこと」は無理だけど……)
リビングに全員分の荷物を置き、伊織はキッチンの隅からたこ焼き器を取り出すと、まだ真新しいそれをどうしたらいいのか分からない、と言う顔で首を傾げていた。
意気揚々と田中と川内が「新品やんけ」と言いながら取り囲んでいる。俺たちのほぼ無茶ぶりみたいなリクエストを受け容れてくれた挙句、わざわざたこ焼き器まで買ってくれた伊織のご両親には、本当に頭が上がらない。
たこ焼きの生地をギャーギャー言いながら準備し始めた二人を見ていると、家庭科の調理実習での悪夢がよみがえってくるようだった。
「本当にアイツらに任せて大丈夫かな」
「あはは、確かに。でも皆、小さいころからタコパは何回もしたことあるって」
「そうかもしれないけど。焼いてたのはご両親だったんじゃないかと思ってさ」
「あー、それはちょっと考えてなかった。もしかしたら焦げちゃうかなぁ」
家でパーティーなんて初めてだと微笑む伊織に「俺もだよ」と頷く。
俺たちはお互いに一人っ子だったけど、特に俺の家庭は家族旅行なんてこれまでに一度しか行った事がない。父親は昔から仕事優先で、家族での予定があっても現地集合・現地解散を当たり前のようにやってくるような人だった。
母親も母親で、俺の学校行事より自分の交友関係を優先するタイプだったから、参観日や体育祭に来てもらった記憶すらない。習い事の送迎はいつもお手伝いさん任せで、家族三人で食卓を囲んだ回数だってごく僅かだ。
だから、家でこんな風に団欒したり、友達を招いたことなんて一度もない。友人を家に呼ぶという発想自体、たぶん小学生の頃に何度か試みて、うまくいかずに諦めた記憶がある。伊織の家はそういう冷え切った家庭ではないと分かっているからこそ、俺と「同じ」と括るのはなんだか乱暴な気がした。
「みんなでこうしてお泊りが出来るなんて思っても見なかったからさ、昨日楽しみすぎてちょっと寝られなかった」
「子どもみたいだね、伊織」
「う、うるさいなぁ。浮かれてたの、俺だけってこと?」
他所の家の台所で顔面を粉まみれにしているアイツらが「アカン」とか「ヤバい」とか騒いでいるのだけれど、それ以上に俺の頭の方が「アカン」くてヤバかった。心臓がずっと変な音を立てていて、指先まで落ち着かない。まさか、伊織にここまで素直に緊張と期待を伝えられるとは、思ってもみなかったから。不意打ちにも程がある。
「俺は、その……それなりに意識してるけど」
けど、なんだ。その先を濁す伊織に、「言ってよ」という圧のある視線を送ってしまう。喉が渇いて、言葉を返そうにも上手く出てこない。
俺の方が意識しまくりだし、コイツらとなだれ込まない限りはこんなチャンスは滅多にないわけで。やましいことは絶対に出来ないけれど、恋人と一緒に一晩を過ごせるというだけで、ずっと落ち着かない。
修学旅行の時に同じベッドで眠った夜のことを思い出して、ほんのりと期待を抱いてしまった。
「あかーん! 粉こぼれてもうた。伊織、掃除機貸してや」
眼差しで問いかけている途中にまたしてもガヤが入り、伊織はハッとしてキッチンに向かった。心なしか、その横顔がホッとしているようにも見える。
「わー、派手にやったね。掃除機と雑巾持って来るから、そのままにしてて!」
「すまん。ホンマに堪忍やで」
逃げられたと思いつつも、追いかけて答えを引き出す度胸までは無かった。
一人悶々としながら「意識してるって言ったよな……」と心の中で繰り返す。もっと意識して欲しいと逆ギレのように修学旅行で稚拙な感情をぶつけたことはあるけれど、ここまで真っ直ぐに言葉にされると今度はどうしたらいいのか分からなくなる。振り回されて嬉しい気持ちと、男として主導権を握られっぱなしで良いのか、という二つの感情でせめぎ合いが起きているのだ。交際開始以来、恋人の最大級のデレを前にして固まっているだけの自分が、かなり情けない。
「満腹やわ。もうどう頑張っても食われへん」
「伊織、なんやったっけ。仙台弁で『腹いっぱい』ゆう意味の……」
「あぁ、『腹くっつい』のこと?」
「それそれ。伊織と同じイントネーションのつもりやねんけど、なんかちゃうよな」
伊織の仙台弁講座が始まり、みんなが輪になるように座って盛り上がっている。本人にその自覚はないようだけれど、地元の言葉で話している時の伊織は相当に癒しのオーラが出ている。可愛い、の一言で済ますことも勿論できるのだけれど……なんというか、おっとりとしていて、愛情深い家庭で育ったんだろうなという温かみが言葉や振る舞いの一つ一つに出ている。
結局、六人がかりで作った「それなりの形」をしたタコ焼きをたらふく食べて、ジュースで乾杯し直した。
ユニバの魔法が解けて、ただの高値で売っていた枝になってしまった魔法の杖を手にした面々は、自分たちなりの魔法学校ごっこを始めることにしたようだ。
「はい、次はお前がコレ被る番な」
「なんでやねん」
「いにしえの組み分け帽子やぞ、ありがたく被り」
伊織の家から発掘された黒いタオルが、なぜか頭に乗せるだけで「その者の内なる資質を見抜く神秘の帽子」に大抜擢され、一人ずつ被らされては「お前は勇敢組!」「いや待てコイツは絶対腹黒組やろ」と好き勝手なジャッジが飛び交う。海野はそのタオルを今度は両肩にかけ、杖を片手に、謎の呪文らしきものを唱えながら得意げに部屋を練り歩いていた。
「お辞儀をするのだ!」
「さっきまで魔法学校ごっこやったのに、急に敵ボスにジョブチェンジしてて草」
「細かいことはえぇやろ、早うお辞儀せぇや」
誰かがずっこけ、誰かが笑いすぎてジュースを吹き、その馬鹿騒ぎの真ん中にいながら――俺の心だけは、少し違う場所に立っていた。
初めてのお泊りに、頭の芯がずっと揺さぶられ続けている。周りの声はちゃんと聞こえているのに、意識だけがワンテンポ遅れて追いついてくる。
「なあ、久保。聞いとる?」
「……あ、うん、聞いてる聞いてる」
一拍遅れて返事をしてしまう自分に気づいて、余計に落ち着かない。
この浮つきをここに居る全員に気づかれたくなくて、腕組みした肩と腕が自然と強張った。
「なぁ、そろそろ風呂入らへん?」
田中がふと顔を持ち上げて、伊織が「あぁ」と時計を見て頷く。
「一応、沸かしてあるよ。誰から入る?」
「そりゃあ、家主からやろ。あとの順番は俺らで決めとくさかい、済まして来てえぇよ」
「え、いいの? 俺的には、自分が一番最後に入ろうと思ってたんだけど」
「そんなん恐れ多くて無理やって」
何の気なしに「いってら」と皆が声をかけ、着替えを両腕に抱えた伊織の後ろ姿を見送る。
(通話の時は何回も見てるけど、生の部屋着姿は修学旅行以来だな)
廊下の奥に消えていく背中を目で追っていたのけれど、ちょっといけない気持ちになってすぐにスマホに視線を戻した。
パタンと脱衣場のドアが閉まると、それまでいつも通りだった四人が一斉に俺の顔を見てくる。空気の変わり方が露骨すぎて、逆に身構えた。
「ほな、じゃんけんで二番手の順番決めようや」
全員でじゃんけんをするものの、あいこが繰り返されるばかりで、中々勝負がつかない。
三回目、四回目辺りから俺は違和感を感じて、奴らの手と顔を交互に見た。指の形が揃いすぎている気がする。
「……お前ら、なにグルになってんの?」
「なんちゅう言い方すんねん、大魔王様は! 暗黙の了解やろ。誰がお前の恋人のあとのシャワー使えんねん」
川内のツッコミに俺がしばし黙り込んでいると、全員ニヤけ顔で目を細めている。俺は呆れ半分、面倒くささ半分で溜息をつくと、山根にばしっと背中を叩かれた。
「ほんまはお前が一番浮かれてんのとちゃう? 修学旅行以来のお泊りやし」
「別に」
「伊織から聞いたで、お互いの親が厳しいから二人で泊まりは無理やって。グループやったら『クラスのみんな』って括りができるから、とかなんとか」
「……それが何? 俺が伊織に手を出してないのがそんなに面白いのかよ」
「そら、オモロイやろ。大魔王様が目の前にご馳走ぶら下げられて、終わらないフルマラソンさせられてるみたいやもん」
ゲラゲラと笑う四人へ完全に虚無の顔をしてみせると、田中が下品な指のサインをして見せながら笑った。
「で、実際ヤッてはなくても、どこまでいったん? 普通に気になるんやけど」
「俺と伊織は清らかな交際をしてるので。……まぁ、この状況でお前らのことは『邪魔だな』って正直思ってるけど」
「ほぉーん。今の伊織に言ってえぇ?」
「言ったらどうなるか、分かって口答えしてんの?」
笑顔で圧をかけると、珍しく全員が凍りつくことなく視線を逸らした。
おかしい。いつもと何かが違う。
「恋人がおらんと突然別人になるのやめぇや」
「ホンマやで。この腹黒大魔王に伊織は騙されすぎやろ」
「クソ絶●でひんひん泣かされる未来しか見えへんわ」
「教えてやりたいけど、伊織は下ネタ耐性あらへんからなぁ」
普段だったら「すいませんでした」とかなんとか、言って土下座して来るパターンなのに。一人ずつに視線を順繰りぶつけても、四人ともそれぞれ別の方向を向いて、ひょっとこ顔でとぼけるばかりだ。
転校して来てから割とすぐに、学校でも特に目立っていたこの四人のことは絞ったつもりだったのだけれど。送れてやって来た反抗期か何かか?と片眉を上げたところで、リビングと廊下を仕切るドアがガチャリと開いた。
「お先でーす。……あれ? 次に入るのって誰?」
「あぁ、俺。タオルとか色々借りるけど」
「うん、用意しておいてるから。好きに使っていいよ」
「ありがとう」
全員でグーしか出さないというあまりにも分かりやすすぎる四人の戦略を一蹴し、伊織と順番を入れ替わる形でシャワーを借りた。
ドアを開けた瞬間にさっきまで伊織が使っていた浴室の湿気とシャンプーのいい香りがして、そのぬくもりに急に恥ずかしくなってくる。ついさっきまでここに伊織が居たのだと思うと、なんてことのない脱衣所の光景まで、いちいち意味を持って見えてしまうのが厄介だった。
(中学生のガキかよ。たかが風呂だろ)
そう割り切ってシャワーのコックを捻り、頭を洗い始めた。
普段家で使っているシトラス系のシャンプーとは違って、家族兼用なのか花みたいな香りがする。ボトルのデザインをまじまじと見つめている自分に「流石に気持ち悪い」と内心で突っ込みをいれるが、香りひとつでこうも意識が引っ張られるのだから、自分でも呆れるくらい重症なのかもしれない。
「アブラカダブラ!」
「海野、お前さっきからそれしか言わんやん」
ユニバからの帰り道、電車を降りた途端に連中が騒ぎ始めた。魔法の杖をよほど気に入ったらしい四人を黙らせておくのに、電車の中だけでもかなり神経を使った。枝一本でここまでピーチクパーチクと喋るのだから、本当に気が滅入る。伊織の家に着くまでの間くらいは、多少のバカ騒ぎも仕方がないと諦めるほかないだろう。
というより、こいつらに構っている余裕が、正直今の俺にはあまりなかった。
(家まで送ったことは何回もあるけれど、中に入るのは初めてなんだよな)
伊織と付き合ってから、生徒会の集まりがない日は必ず伊織を家まで送るようにしていた。少しでも一緒に居られる時間を引き伸ばしたいし、俺自身、自分の家には一秒でも遅く帰りたいという事情もある。
これまではいつも玄関先で別れて、それで終わりだった。伊織のお母さんには何度か顔を合わせたこともある。伊織からは「母さんがいるから、家に上げたいけど気まずくて」と、申し訳なさそうに言われたことも一度や二度ではない。
もちろん、恋人同士のことだ。伊織と本当に二人きりになってしまったら、自分がどこまで自制できるか――正直、あまり自信がない。それでも表向きは「別にいいよ」の一言で、そのあたりの本音は全部飲み込んでいる。
とはいえ、野郎五人で押しかけるのはさすがに気が引けたので、先週末の段階で伊織のお母さんには「騒がしいと思うのですが」と一言断りを入れ、デパ地下で買った菓子折りも渡してある。準備だけは、将来的な部分に備えて抜かりなくやっているつもりだ。
駅からの急坂を上りきった先、この街でも割と有名な新築マンションに辿りつくと、伊織はなんてことのない様子で玄関の鍵を開けた。
「父さんは出張で居ないけど、下の階に迷惑だから大きな声は――」
「お邪魔しまぁーす! うわ、めっちゃ綺麗な家やんか。俺の家とは大違いやなぁ」
スニーカーを脱ぐのももどかしそうに、田中が家主よりも先にずかずかと上がり込んでいく。慌てて制止の声をかけようとすると、伊織が苦笑いを浮かべた。
「まぁ、今日は母さんも居ないから少しくらいは良いけど」
「えっ?」
「実は、おばあちゃんが家の中で転んじゃったんだ。病院に行ったり、身の回りのお世話を手伝ってくるから、今夜母さんは帰ってこないことになってる」
思ってもみなかった話に、一瞬言葉に詰まる。
「……てことは、今日は伊織の家にご両親がどちらも居ないってこと?」
「うん、そういうこと」
伊織はなんでもないことのように頷いてみせるけれど、俺の頭の中では、その一言がやけに大きく響いていた。親が帰ってこない。マジか、それはちょっとなんというか……うん、嬉しい。
(まぁ、コイツらがいるから「そういうこと」は無理だけど……)
リビングに全員分の荷物を置き、伊織はキッチンの隅からたこ焼き器を取り出すと、まだ真新しいそれをどうしたらいいのか分からない、と言う顔で首を傾げていた。
意気揚々と田中と川内が「新品やんけ」と言いながら取り囲んでいる。俺たちのほぼ無茶ぶりみたいなリクエストを受け容れてくれた挙句、わざわざたこ焼き器まで買ってくれた伊織のご両親には、本当に頭が上がらない。
たこ焼きの生地をギャーギャー言いながら準備し始めた二人を見ていると、家庭科の調理実習での悪夢がよみがえってくるようだった。
「本当にアイツらに任せて大丈夫かな」
「あはは、確かに。でも皆、小さいころからタコパは何回もしたことあるって」
「そうかもしれないけど。焼いてたのはご両親だったんじゃないかと思ってさ」
「あー、それはちょっと考えてなかった。もしかしたら焦げちゃうかなぁ」
家でパーティーなんて初めてだと微笑む伊織に「俺もだよ」と頷く。
俺たちはお互いに一人っ子だったけど、特に俺の家庭は家族旅行なんてこれまでに一度しか行った事がない。父親は昔から仕事優先で、家族での予定があっても現地集合・現地解散を当たり前のようにやってくるような人だった。
母親も母親で、俺の学校行事より自分の交友関係を優先するタイプだったから、参観日や体育祭に来てもらった記憶すらない。習い事の送迎はいつもお手伝いさん任せで、家族三人で食卓を囲んだ回数だってごく僅かだ。
だから、家でこんな風に団欒したり、友達を招いたことなんて一度もない。友人を家に呼ぶという発想自体、たぶん小学生の頃に何度か試みて、うまくいかずに諦めた記憶がある。伊織の家はそういう冷え切った家庭ではないと分かっているからこそ、俺と「同じ」と括るのはなんだか乱暴な気がした。
「みんなでこうしてお泊りが出来るなんて思っても見なかったからさ、昨日楽しみすぎてちょっと寝られなかった」
「子どもみたいだね、伊織」
「う、うるさいなぁ。浮かれてたの、俺だけってこと?」
他所の家の台所で顔面を粉まみれにしているアイツらが「アカン」とか「ヤバい」とか騒いでいるのだけれど、それ以上に俺の頭の方が「アカン」くてヤバかった。心臓がずっと変な音を立てていて、指先まで落ち着かない。まさか、伊織にここまで素直に緊張と期待を伝えられるとは、思ってもみなかったから。不意打ちにも程がある。
「俺は、その……それなりに意識してるけど」
けど、なんだ。その先を濁す伊織に、「言ってよ」という圧のある視線を送ってしまう。喉が渇いて、言葉を返そうにも上手く出てこない。
俺の方が意識しまくりだし、コイツらとなだれ込まない限りはこんなチャンスは滅多にないわけで。やましいことは絶対に出来ないけれど、恋人と一緒に一晩を過ごせるというだけで、ずっと落ち着かない。
修学旅行の時に同じベッドで眠った夜のことを思い出して、ほんのりと期待を抱いてしまった。
「あかーん! 粉こぼれてもうた。伊織、掃除機貸してや」
眼差しで問いかけている途中にまたしてもガヤが入り、伊織はハッとしてキッチンに向かった。心なしか、その横顔がホッとしているようにも見える。
「わー、派手にやったね。掃除機と雑巾持って来るから、そのままにしてて!」
「すまん。ホンマに堪忍やで」
逃げられたと思いつつも、追いかけて答えを引き出す度胸までは無かった。
一人悶々としながら「意識してるって言ったよな……」と心の中で繰り返す。もっと意識して欲しいと逆ギレのように修学旅行で稚拙な感情をぶつけたことはあるけれど、ここまで真っ直ぐに言葉にされると今度はどうしたらいいのか分からなくなる。振り回されて嬉しい気持ちと、男として主導権を握られっぱなしで良いのか、という二つの感情でせめぎ合いが起きているのだ。交際開始以来、恋人の最大級のデレを前にして固まっているだけの自分が、かなり情けない。
「満腹やわ。もうどう頑張っても食われへん」
「伊織、なんやったっけ。仙台弁で『腹いっぱい』ゆう意味の……」
「あぁ、『腹くっつい』のこと?」
「それそれ。伊織と同じイントネーションのつもりやねんけど、なんかちゃうよな」
伊織の仙台弁講座が始まり、みんなが輪になるように座って盛り上がっている。本人にその自覚はないようだけれど、地元の言葉で話している時の伊織は相当に癒しのオーラが出ている。可愛い、の一言で済ますことも勿論できるのだけれど……なんというか、おっとりとしていて、愛情深い家庭で育ったんだろうなという温かみが言葉や振る舞いの一つ一つに出ている。
結局、六人がかりで作った「それなりの形」をしたタコ焼きをたらふく食べて、ジュースで乾杯し直した。
ユニバの魔法が解けて、ただの高値で売っていた枝になってしまった魔法の杖を手にした面々は、自分たちなりの魔法学校ごっこを始めることにしたようだ。
「はい、次はお前がコレ被る番な」
「なんでやねん」
「いにしえの組み分け帽子やぞ、ありがたく被り」
伊織の家から発掘された黒いタオルが、なぜか頭に乗せるだけで「その者の内なる資質を見抜く神秘の帽子」に大抜擢され、一人ずつ被らされては「お前は勇敢組!」「いや待てコイツは絶対腹黒組やろ」と好き勝手なジャッジが飛び交う。海野はそのタオルを今度は両肩にかけ、杖を片手に、謎の呪文らしきものを唱えながら得意げに部屋を練り歩いていた。
「お辞儀をするのだ!」
「さっきまで魔法学校ごっこやったのに、急に敵ボスにジョブチェンジしてて草」
「細かいことはえぇやろ、早うお辞儀せぇや」
誰かがずっこけ、誰かが笑いすぎてジュースを吹き、その馬鹿騒ぎの真ん中にいながら――俺の心だけは、少し違う場所に立っていた。
初めてのお泊りに、頭の芯がずっと揺さぶられ続けている。周りの声はちゃんと聞こえているのに、意識だけがワンテンポ遅れて追いついてくる。
「なあ、久保。聞いとる?」
「……あ、うん、聞いてる聞いてる」
一拍遅れて返事をしてしまう自分に気づいて、余計に落ち着かない。
この浮つきをここに居る全員に気づかれたくなくて、腕組みした肩と腕が自然と強張った。
「なぁ、そろそろ風呂入らへん?」
田中がふと顔を持ち上げて、伊織が「あぁ」と時計を見て頷く。
「一応、沸かしてあるよ。誰から入る?」
「そりゃあ、家主からやろ。あとの順番は俺らで決めとくさかい、済まして来てえぇよ」
「え、いいの? 俺的には、自分が一番最後に入ろうと思ってたんだけど」
「そんなん恐れ多くて無理やって」
何の気なしに「いってら」と皆が声をかけ、着替えを両腕に抱えた伊織の後ろ姿を見送る。
(通話の時は何回も見てるけど、生の部屋着姿は修学旅行以来だな)
廊下の奥に消えていく背中を目で追っていたのけれど、ちょっといけない気持ちになってすぐにスマホに視線を戻した。
パタンと脱衣場のドアが閉まると、それまでいつも通りだった四人が一斉に俺の顔を見てくる。空気の変わり方が露骨すぎて、逆に身構えた。
「ほな、じゃんけんで二番手の順番決めようや」
全員でじゃんけんをするものの、あいこが繰り返されるばかりで、中々勝負がつかない。
三回目、四回目辺りから俺は違和感を感じて、奴らの手と顔を交互に見た。指の形が揃いすぎている気がする。
「……お前ら、なにグルになってんの?」
「なんちゅう言い方すんねん、大魔王様は! 暗黙の了解やろ。誰がお前の恋人のあとのシャワー使えんねん」
川内のツッコミに俺がしばし黙り込んでいると、全員ニヤけ顔で目を細めている。俺は呆れ半分、面倒くささ半分で溜息をつくと、山根にばしっと背中を叩かれた。
「ほんまはお前が一番浮かれてんのとちゃう? 修学旅行以来のお泊りやし」
「別に」
「伊織から聞いたで、お互いの親が厳しいから二人で泊まりは無理やって。グループやったら『クラスのみんな』って括りができるから、とかなんとか」
「……それが何? 俺が伊織に手を出してないのがそんなに面白いのかよ」
「そら、オモロイやろ。大魔王様が目の前にご馳走ぶら下げられて、終わらないフルマラソンさせられてるみたいやもん」
ゲラゲラと笑う四人へ完全に虚無の顔をしてみせると、田中が下品な指のサインをして見せながら笑った。
「で、実際ヤッてはなくても、どこまでいったん? 普通に気になるんやけど」
「俺と伊織は清らかな交際をしてるので。……まぁ、この状況でお前らのことは『邪魔だな』って正直思ってるけど」
「ほぉーん。今の伊織に言ってえぇ?」
「言ったらどうなるか、分かって口答えしてんの?」
笑顔で圧をかけると、珍しく全員が凍りつくことなく視線を逸らした。
おかしい。いつもと何かが違う。
「恋人がおらんと突然別人になるのやめぇや」
「ホンマやで。この腹黒大魔王に伊織は騙されすぎやろ」
「クソ絶●でひんひん泣かされる未来しか見えへんわ」
「教えてやりたいけど、伊織は下ネタ耐性あらへんからなぁ」
普段だったら「すいませんでした」とかなんとか、言って土下座して来るパターンなのに。一人ずつに視線を順繰りぶつけても、四人ともそれぞれ別の方向を向いて、ひょっとこ顔でとぼけるばかりだ。
転校して来てから割とすぐに、学校でも特に目立っていたこの四人のことは絞ったつもりだったのだけれど。送れてやって来た反抗期か何かか?と片眉を上げたところで、リビングと廊下を仕切るドアがガチャリと開いた。
「お先でーす。……あれ? 次に入るのって誰?」
「あぁ、俺。タオルとか色々借りるけど」
「うん、用意しておいてるから。好きに使っていいよ」
「ありがとう」
全員でグーしか出さないというあまりにも分かりやすすぎる四人の戦略を一蹴し、伊織と順番を入れ替わる形でシャワーを借りた。
ドアを開けた瞬間にさっきまで伊織が使っていた浴室の湿気とシャンプーのいい香りがして、そのぬくもりに急に恥ずかしくなってくる。ついさっきまでここに伊織が居たのだと思うと、なんてことのない脱衣所の光景まで、いちいち意味を持って見えてしまうのが厄介だった。
(中学生のガキかよ。たかが風呂だろ)
そう割り切ってシャワーのコックを捻り、頭を洗い始めた。
普段家で使っているシトラス系のシャンプーとは違って、家族兼用なのか花みたいな香りがする。ボトルのデザインをまじまじと見つめている自分に「流石に気持ち悪い」と内心で突っ込みをいれるが、香りひとつでこうも意識が引っ張られるのだから、自分でも呆れるくらい重症なのかもしれない。



