ラピスラズリに幸福を

 四階のマーケティング部のオフィスから一階まで階段で駆け降りる。普段はエレベーターを使っているけれど、待っている時間がもったいなかった。
一階の受付のところに、翡翠の背中が見えた。
 その時、「おねえちゃん!」と小さな女の子が明るい声を上げるのを聞いてはっと立ち止まる。

「菫、お待たせ」

 受付の社員の傍から、五歳ぐらいの女の子が飛び出してきて、翡翠に抱きついた。
 翡翠はそのまま、女の子をぎゅっと抱きしめる。

「待たせてごめんねー。大丈夫だった?」

「へーき! このおねえちゃんと一緒だったから」

 女の子が受付の社員を指差して笑う。翡翠は「ありがとうございます」と受付に頭を下げた。

「翡翠」

 たまらなくなって、彼女の名前を呼んだ。翡翠がゆっくりと振り返る。

「あ、瑠璃さん」
 
 先ほどのことはなかったかのように、クリアな声で私の名前をつぶやいた。

「ごめん、追いかけてきちゃった。その子は妹さん?」

「はい、そうです。保育園の帰りに忘れ物に気づいて戻ってきたので、ちょっとここで待ってもらってました」

 いつになく落ち着いた口調で答える。本当の翡翠はこんなふうにきちんと受け答えができて、妹の世話をする、しっかり者の姉だったのか。
 知らなかった翡翠の新たな一面を知って、胸がずきりと痛む。

「翡翠、ごめんね。私たち、翡翠の事情を知らずに、いつもダッシュで定時で帰る無礼なヤツだって思ってた」

 正直に伝える。私はこの先も翡翠と一緒に仕事がしたいから、翡翠のことを誤解したままでいたくなかった。
 翡翠の眉がぴくりと持ち上がる。

「いや、わたしのほうこそ何も伝えてなかったですよね。さっきは課長にエラソーなこと言いましたけど、伝えてなかったんだからしゃーないところはあります。あとわたし、舐めた態度とってたのは間違いないし。企画書のことも……瑠璃さんに押し付けてすみません」

 素直に頭を下げる翡翠。
 菫が「どうしたの?」と互いに謝る私たちを見比べて、困った顔をしていた。

「わたし、学生時代にバイト先で先輩からいじめられたことがあって。その経験が結構トラウマっていうか。そのせいで、職場の先輩っていうものに不信感を抱いちゃってました」

「そんなことが……」

 翡翠が今度は眉を下げて口元を緩める。泣き笑いのような表情に、心がくしゃりと塵みたいに丸くなった。

「だからここでも、最初から傷つかないように、虚勢を張っててんですよねー。それが先輩たちを怒らせる原因になって、本当にごめんなさい」

 しゅんと肩を丸めて小さくなる翡翠の背中を、菫がトントンと優しく撫でている。
 姉妹の情愛にあふれた光景を目の当たりにして、私は「あのね!」と思わず声を張り上げた。

「さっきさ、課長の前で私のこと庇ってくれたでしょう? あの時、すごく嬉しかったし救われたんだ。私、プライベートで上手くいかないことがあって……。でも他人にぺらぺら話せるような内容でもないから、伝えられなくて。翡翠がうちの部署に来る前から課長から言われ放題で参ってた」

 翡翠がはっと私を見つめる。その瞳が、宝石のようにきらりと瞬く。

「だから、はっきり言ってくれてありがとう」

 翡翠に向かって、深く頭を下げる。
 課長に対してどうしようもなく胸に巣食っていたやるせなさや後ろめたさが、私を臆病にしていた。でも、そんな心の枷をまだ入社して間もない彼女がとっぱらってくれたんだ。
 私は何も悪いことをしていないのだと、背中を押してくれたようだった。