ラピスラズリに幸福を


「十九時までに絶対に迎えに行かなくちゃいけないんですけど、できれば早く行ってあげたくて。だからいつも定時で帰ってました」

 普段、定時で帰っていることを悪いと思っている様子はない。だって、翡翠は何も悪いことなんてしていないから。
 翡翠にとって、いち早く職場を出て妹を迎えにいくことが一番の正義だったんだ。
 私は、心臓をぎゅっと鷲掴みにされた気分で翡翠の凛としたまなざしを見つめる。
 課長と麻耶さんが近くで息をのむ気配がした。

「……と、わたしのことはいいんですけど。人には人の事情ってもんがあるじゃないですか。瑠璃さんだって、事情があるから半休とったり早く帰ったりしたいだけなのに、なんで課長は邪魔するんですか?」

 翡翠が私のほうを見ながらも、課長に強い抵抗感を示した。彼女の言動に、私ははっと瞬きを繰り返す。
 もしかして翡翠は私のことを庇ってくれている……?
 私が、課長から暗い感情を向けられていることに気づいていたんだ。
 何も考えていないように見えて、翡翠だってちゃんと、課長の心の刃を見ていた。
 まだこの部署に配属されて一ヶ月も経っていないというのに。しかし逆に言えば、それほど課長が私に嫌味を言っているのが、周囲に丸分かりだということなんだろう。
 
「課長は、自分ができない結婚を早くにしてる瑠璃さんが羨ましいんですよね」

 全身の鳥肌がぶわりと立った。
 みんなが知っていたことだ。でも誰もはっきりと言葉にはしなかったことを、この新卒の女子は堂々と口にした。
 無知ゆえの素直さかもしれない。それでも私は、翡翠が面と向かって課長に抗議してくれたことに、奮い立たされた気分だった。

「人間だから、嫉妬したり羨んだりするのは当たり前だと思います。でも、相手の事情も知らずに、社会的立場を利用して相手を傷つけるような発言をするのは、違うと思いますよ」

 言葉が粒になって飛んでくる。
 課長が唇を噛み締める。麻耶さんも気まずそうに視線を泳がせた。 
 私は……私は、ただ翡翠のその勇敢な言葉の一つ一つに、胸を打たれ、焦がされ、そして泣いた。
 気がつけば涙がすーっと一筋流れて、慌ててハンカチで拭う。
 
「あなたに……」

 課長が徐に口を開く。課長の周りの空気が重く沈んでいて、近づけばその闇にのみ込まれてしまいそうだった。

「あなたに私の何が分かるって言うのっ!」

 課長が叫んだ。しかしその言葉に、はっと自ら両手で口を押さえる。
 翡翠が唇の端を持ち上げてニヤリと笑った。

「はい、分かりません。人の事情なんて分からなくて当たり前です。だから勝手に決めつけて、苦しめないでくださいね?」

 特大ブーメランを喰らった課長は、ぐぬぬ、とこれ以上は何も言えなくなって押し黙った。
 翡翠が「菫が待ってるので失礼します!」と宣言してその場から去っていく。時が止まったように翡翠を見つめることしかできなかった私は、はたと立ち上がった。

「わ、私もお先失礼します……!」

 課長はもう、私を睨むことも嫌味を言うこともしなかった。麻耶さんは「お疲れ」と力なく答える。
 麻耶さんに課長のケアをさせるようで申し訳ないけれど……でも今は、二人のことより翡翠のことが気になって仕方がなかった。