ラピスラズリに幸福を

「いえいえ、忘れ物です! わたし、定時で帰るキャラなんで!」

 皮肉たっぷりに答える翡翠に、課長の顔がこわばる。
 翡翠……私たちの会話を聞いていたのか。でも、翡翠が定時で帰るのは事実なので、何を言われても仕方ないっちゃ仕方ない。
 しかし、臆することなく課長に皮肉を言える翡翠は、精神が図太すぎる。
 私も麻耶さんも呆れてものも言えずに固まっていると、翡翠が今度はピエロのようにしゅんとした表情をした。

「すみません。さっき課長がわたしのことそう言ってるのが聞こえたもので……」

 翡翠の言葉に、熱はこもっていなかった。挑発ともとれるセリフに、課長の表情がどんどん歪んでいく。

「あ、あったこれだ」

 翡翠は自分のデスクの下からとある本を取り出して、にんまりと笑った。
 彼女の両手に握られた本を見てはっとする。
「MOSテキスト」——マイクロソフトスペシャリストの資格を勉強するためのテキストだ。
 翡翠の手の中にあるそれを思わず凝視する。彼女は手早くそのテキストを鞄の中にしまい込んだ。
 課長や麻耶さんは気づいていないのか、特に驚いている様子はない。
 今日の会議でパソコンが使えないって言ってたけど……勉強する気だったんだ。
 知らなかった。翡翠が、本当は影で努力しようとしていたこと。
 会議の時はパソコンなんて使えないし、これから勉強しようという気すら見せなかったから、てっきりやる気はゼロなんだと思っていた。
 だけど違ったのだ。
 私は瞬きを繰り返しながら、翡翠と、課長、麻耶さんを変わる変わる見つめる。
 
「それじゃ、改めてお疲れ様です!」

 忘れ物をゲットした翡翠はそのまま踵を返して、立ち去ろうとしていた。
 私は思わず「えっ」と声を上げる。課長がすかさず「ちょっと待ちなさいよ」と翡翠の背中に呼びかけた。

「なんですか、課長」

「呆れた。ちょっとは手伝おうって気にならない? せめて一声かけようとは思わないの?」

 課長の叱責に、翡翠は「なるほど」とわざとらしく顎に手を当てて考えるふり(・・)をした。

「仕事なら定時までやりました。企画書の提出期限は明日とかじゃないですよね?」

 翡翠が私をチラリと見ながら聞く。

「それはそうだけど。でも、企画書はどのみち自分でつくる気もないんでしょ? だったら、別の仕事を手伝いなさいよ」

「えーいやですよ。こう見えてわたし、忙しいんです」

 渋る翡翠に、課長が分かりやすく怒りを露わにした。唇がふるふると震え出し、拳をぎゅっと握る。
 ああ、まずい。翡翠、それ以上は良くないよ——
 私たちの間に流れる空気が、今日一番に重く、淀んでいく。

「そんなの、みんなそうじゃないの。私だって早く家に帰ってやりたいことがあるの!」
 
 拳で机を叩いてしまうんじゃないかという勢いで、課長が吠える。隣の宣伝部の人たちが私たちのほうをチラチラ見ている。
 たぶんみんな、「またやってるよ」としか思っていない。翡翠が入社してから——いや、翡翠がいなくても、課長が私を叱責する場面は幾度となく繰り広げられてきた。だからこんなの、日常の一部だ。そのはずなのに……翡翠が怒られているところを見ると、なぜか胸のざわめきが止まらなかった。

 課長の怒りの声を聞いて、翡翠の目がすっと細められる。 
 今まで見たことのない、彼女の表情だった。

「だったら早く解放してくださいよ。わたしの気持ちが分かるってことですよね?」

「あなたねえ……!」

 売り言葉に買い言葉で、課長の前でも態度を変えない翡翠に、私は胃がキリキリとぎゅっと絞られるような心地にさせられた。
 見れば、麻耶さんも「二人とも落ち着いて」と二人を宥めつつ、どうしようかと困った表情をしていた。

「大体、上はどうしてあんたを雇ったの? 替えはいくらでもいるのよ。頑張らないと誰かに替えられちゃうわよ!」

 激昂する麻耶さんの言葉に、今度は翡翠の顔が大きく歪んだ。

「……べつにいいですよ。仕事なんて探せばいくらでもありますし。でも、(すみれ)にとってわたしは替えが効かないから、定時で帰れる職場を探すまでです」

 今まで好戦的だった彼女の声が、湿り気のあるものに変わる。その変化に、私たち三人は戸惑いを隠せない。

「菫……?」

 彼女の口から初めて聞く誰かの名前に、私は首を傾げた。
 翡翠が「ああ、言ってなかったですね」と落ち着いた口調で言う。普段の翡翠からは想像もできないほど冷静な声音に、課長の身体がぴくんと揺れた。

「わたし、歳の離れた妹がいるんです。今五歳なんですけど、保育園に行ってて。父も母も働いているので、保育園に一番近いわたしがお迎えに行くことになってるんです」

 彼女の口から淡々と紡ぎ出される話に、私は釘付けになった。