ラピスラズリに幸福を

***

 その後のマーケティング部第1課の空気は最悪だった。定時まで、誰も何も発さずにパソコンの画面と睨めっこをしている。翡翠はかかってくる電話におかしな敬語で対応していたが、誰も彼女を注意できない。私は、注意しようとしても課長の目が怖くて、今日ばかりは翡翠に構っている余裕がなかった。

 十八時。いつものように翡翠が「お疲れ様でした!」とダッシュで帰っていく。
 その光景を見ても、もう何も感じなくなるほど日常になってしまっていた。
 私は黙って翡翠の背中を見送って、翡翠の分の企画書を作成する。
 私だけ、人の二倍企画を考えなくちゃいけいのはおかしいと思うけれど、自分で手を挙げたのだから、やるしかなかった。

 残業中、通常は他の部署のメンバーを含め、なんとなく空気が緩んでオフィスの中には気だるげな空気が流れるのだが、今日のマーケティング部第1課の空気感は違っていた。
 会議が終わってから、一瞬たりとも空気が緩むことがない。
 みんなそれぞれに企画書を作成しなければならいことが要因の一つでもあるけれど、それ以上に会議中にギスギスした雰囲気のまま解散してしまったのが良くなかったんだろう。
 翡翠のやる気のなさ、私の半休の理由。
 後者は悪いことではないはずなのに、なぜこんなにも、身を縮こませなくてはならないのだろうか——
 じりじりとした焦りを覚えながらも、なんとか二つ企画書を作成した。私が二つ企画書を作成し終えたのだから、課長も麻耶さんもすでに企画書の仕事は終わっているのだろう。それでも帰らないということは、他の仕事に追われているはずだ。

「あの、何かお手伝いしましょうか?」

 主に課長に向かって尋ねる。麻耶さんはいつも「自分でやるからいいわよ〜」と言ってくれることが多い。
 課長は久しぶりに話しかけてきた私をぎろりと一瞥しながら「特にないわ」と吐き捨てるように言った。

「いいわよね、既婚者は。待ってくれる人がいるし、何かと理由つけて休めるし。それに新人女子もさ。定時で帰るキャラづくりってやつよね」

 また、びしゃりと冷や水を浴びせられたかのように全身が震えた。
 棘と毒だらけの課長の言葉に、さすがに麻耶さんも仕事の手を止めて引き攣った表情を浮かべた。

「翡翠のキャラづくりは合ってるかもしれませんけど、私は……」

 違う、と言いかけた口が止まる。
 唇が震えて、その先の言葉を紡ぎ出すことができなかった。どうしてだろう。おかしい。私は翡翠とは違う。ちゃんと仕事だってしているし、残業も、みんなより早く帰るかもしれないけれど、それでもやるべきことはやっている。私が翡翠よりも責任を果たしていないはずがない。

 だけど……課長や麻耶さんと同じくらいの仕事をやっているとも言えない。
 課長や麻耶さんからして、翡翠と私が決定的に「違う」と言えるのだろうか? 
 私は翡翠と何が違うのだろう。責任感があるかないかの違い? でもそれって、主観の話であって、他の二人には伝わらないことじゃない?
 じゃあ二人よりも早く帰ろうとしている私は、翡翠とまったく同じなんじゃないだろうか。
 翡翠が定時でダッシュで帰る理由。それを私は知らない。知らないからこそ、自由に想像してしまっている。遊びがあるとか、推し活があるのだとか、恋人とデートに行くのだとか。
 勝手に想像して、翡翠を下げて自分の事情は仕方がないと、自分に言い聞かせてはいないか?
 
「あの、お二人とも……」

 こういう時、間に挟まれた麻耶さんが気まずいからか、私たちの間を取りなすように口を開く。でも今日は、麻耶さんが何かを言う必要がなかった。

「お疲れ様でーす!」

 少し離れたところから、早足で聞き慣れた人の声が飛んできた。私たち三人は一斉に声のしたほうを見やる。

「翡翠……?」

 なぜか、一時間前に帰宅したはずの翡翠が再び姿を現した。私が首を傾げていると、課長が「もしかして仕事しに戻ってきたの?」と真顔のまま問う。