「お疲れ様でーす! お先、失礼しますねっ」
姫崎翡翠の軽やかな声が十八時のオフィスに響き渡る。八時間も働いているのにまるで疲れを知らない俊敏な動きで立ち上がり、カツカツとヒールを踏み鳴らした。
「お、お疲れ」
私の前に座っている二つ上の麻耶さんが引き攣った顔で返事をした時には、もう翡翠の姿は近くになかった。
前のめりな姿勢で数時間、パソコンの画面を見つめていたからか、麻耶さんは首をコキコキと鳴らしながら小さくため息を吐いた。
「あー、羨ましい。あたしも早く帰りたい。新卒はずるい」
翡翠がいなくなったからか、麻耶さんが大っぴらに愚痴を吐き出す。でも、誰も彼女を責め咎めたりしない。だって、私たちマーケティング部第1課の四人とも——いや、翡翠を抜いて三人とも、同じ気持ちだもん。
「はいはい。新卒に愚痴なんて言っても仕方ないから早く終わらせましょう」
最年長で課長の馬場優奈が麻耶さんを正論で諭す。
課長の言うことはもっともだ。
この春に入社してきてまだ一ヶ月と少し。ようやく人事部による新人研修が終わり、部に配属されたばかりの新人翡翠に、定時を超えてやるべき仕事なんてないのだ。
……と、頭では分かっているものの、毎日颯爽と定時ぴったりに真っ先に帰っていく翡翠を目の当たりにすると、やっぱりもやもやとした気持ちは募っていく。
「翡翠にできることが少ないことぐらい分かってますよ。でも、せめて『何かお手伝いしましょうか?』とか一声かけてくれればいいじゃないですか。その声かけがあるかないかだけで、心象は変わるのに」
麻耶さんが、今まさに私が心の中で言語化できなかった気持ちをクリアに吐き出してくれた。
そうだ。そうなのだ。声かけ。それさえあれば、私だって目の前で定時ぴったりに新人に去られても、悪い気はしない。
「気持ちは分かるわよ。でも今の時代、みんなそうなんじゃない? ほら、Z世代は定時で帰るのが普通って言うじゃない」
そう言いながら、課長が私のほうを一瞥した。
三十八歳の課長も、三十歳の麻耶さんも、世代で言うと話題のZ世代ではない。二十八歳の私は——ぎりぎり、Z世代の枠に入れられているものの、自覚はまったくないし、ひとくくりにされるのも勘弁してほしいものだ。
「課長、よくないですよ。主語が大きすぎるのはほら……」
「ごめんなさいね。古い人間なもので」
「いや、そういうわけじゃないですけど……」
麻耶さんが課長に気を遣っているのが分かる。私をちらちらと見て、「ごめん瑠璃!」と目で謝っているのが分かる。
「そんなことより、天海さんは帰らなくていいの? 旦那さんのためにご飯つくらなくちゃいけないんでしょ」
課長が私の名前を呼びながら、「旦那さんのために」と強調する。麻耶さんが気まずそうにさっと目を逸らした。
「い、いえ……大丈夫です。予定があるのは皆さん、同じだと思いますし。私だけ抜けるのは申し訳ないです」
「あらそうなの。よかったわ。あなたが常識人で」
「はあ」
皮肉たっぷりの課長の返答を聞きながら、私はどっと疲れを感じていた。
あんまりストレスを溜めるのは嫌だなあ。今日は“仲良しデー”なのに……。
夫との夜のことを考えながら、憂鬱な気分に陥る。
課長は、老舗の玩具メーカーであるこの会社、サンライズトイに入社して二年目の二十四歳という若さで結婚をした私に対して、厳しい意見を持っているように感じる。
ううん、もっとはっきりと言ってしまえば、私を嫌っている。
課長はここ数年ずっと結婚相談所に通っているらしく、たぶん、早くに結婚した私を目の敵にしているのだ。あまりにも理不尽だし、ただの八つ当たりだと感じるけれど、気持ちは分からなくもない。
でもなあ……私だって、それなりに悩みはあるんだけど……。
刺すような課長の視線を感じると、背中にじっとりと汗が流れた。
余計なことは考えずに、さっさと仕事を終わらせよう。
憂鬱な気持ちを振り払い、再びパソコンの画面をと睨めっこを始めるのだった。
姫崎翡翠の軽やかな声が十八時のオフィスに響き渡る。八時間も働いているのにまるで疲れを知らない俊敏な動きで立ち上がり、カツカツとヒールを踏み鳴らした。
「お、お疲れ」
私の前に座っている二つ上の麻耶さんが引き攣った顔で返事をした時には、もう翡翠の姿は近くになかった。
前のめりな姿勢で数時間、パソコンの画面を見つめていたからか、麻耶さんは首をコキコキと鳴らしながら小さくため息を吐いた。
「あー、羨ましい。あたしも早く帰りたい。新卒はずるい」
翡翠がいなくなったからか、麻耶さんが大っぴらに愚痴を吐き出す。でも、誰も彼女を責め咎めたりしない。だって、私たちマーケティング部第1課の四人とも——いや、翡翠を抜いて三人とも、同じ気持ちだもん。
「はいはい。新卒に愚痴なんて言っても仕方ないから早く終わらせましょう」
最年長で課長の馬場優奈が麻耶さんを正論で諭す。
課長の言うことはもっともだ。
この春に入社してきてまだ一ヶ月と少し。ようやく人事部による新人研修が終わり、部に配属されたばかりの新人翡翠に、定時を超えてやるべき仕事なんてないのだ。
……と、頭では分かっているものの、毎日颯爽と定時ぴったりに真っ先に帰っていく翡翠を目の当たりにすると、やっぱりもやもやとした気持ちは募っていく。
「翡翠にできることが少ないことぐらい分かってますよ。でも、せめて『何かお手伝いしましょうか?』とか一声かけてくれればいいじゃないですか。その声かけがあるかないかだけで、心象は変わるのに」
麻耶さんが、今まさに私が心の中で言語化できなかった気持ちをクリアに吐き出してくれた。
そうだ。そうなのだ。声かけ。それさえあれば、私だって目の前で定時ぴったりに新人に去られても、悪い気はしない。
「気持ちは分かるわよ。でも今の時代、みんなそうなんじゃない? ほら、Z世代は定時で帰るのが普通って言うじゃない」
そう言いながら、課長が私のほうを一瞥した。
三十八歳の課長も、三十歳の麻耶さんも、世代で言うと話題のZ世代ではない。二十八歳の私は——ぎりぎり、Z世代の枠に入れられているものの、自覚はまったくないし、ひとくくりにされるのも勘弁してほしいものだ。
「課長、よくないですよ。主語が大きすぎるのはほら……」
「ごめんなさいね。古い人間なもので」
「いや、そういうわけじゃないですけど……」
麻耶さんが課長に気を遣っているのが分かる。私をちらちらと見て、「ごめん瑠璃!」と目で謝っているのが分かる。
「そんなことより、天海さんは帰らなくていいの? 旦那さんのためにご飯つくらなくちゃいけないんでしょ」
課長が私の名前を呼びながら、「旦那さんのために」と強調する。麻耶さんが気まずそうにさっと目を逸らした。
「い、いえ……大丈夫です。予定があるのは皆さん、同じだと思いますし。私だけ抜けるのは申し訳ないです」
「あらそうなの。よかったわ。あなたが常識人で」
「はあ」
皮肉たっぷりの課長の返答を聞きながら、私はどっと疲れを感じていた。
あんまりストレスを溜めるのは嫌だなあ。今日は“仲良しデー”なのに……。
夫との夜のことを考えながら、憂鬱な気分に陥る。
課長は、老舗の玩具メーカーであるこの会社、サンライズトイに入社して二年目の二十四歳という若さで結婚をした私に対して、厳しい意見を持っているように感じる。
ううん、もっとはっきりと言ってしまえば、私を嫌っている。
課長はここ数年ずっと結婚相談所に通っているらしく、たぶん、早くに結婚した私を目の敵にしているのだ。あまりにも理不尽だし、ただの八つ当たりだと感じるけれど、気持ちは分からなくもない。
でもなあ……私だって、それなりに悩みはあるんだけど……。
刺すような課長の視線を感じると、背中にじっとりと汗が流れた。
余計なことは考えずに、さっさと仕事を終わらせよう。
憂鬱な気持ちを振り払い、再びパソコンの画面をと睨めっこを始めるのだった。



