皇城院麗華が皇城院家を去ってから、三か月が経った。
表舞台から彼女の姿は消えた。
ワイドショーは新しい炎上を見つけ、経済誌は「時代を騒がせた危険思想家」として彼女を過去形で処理し、政界では九条院体制の残滓を巡る駆け引きが続いていた。誰もが次の話題へと移っていった。
それは表の景色にすぎなかった。
地方都市の外れ、潰れかけていた商店街に、匿名の投資資金が入った。設計士が来て、大工が来て、三か月後には小さな八百屋と、コーヒーの匂いのする喫茶店と、子どもが本を選べる本屋が並んでいた。
シングルマザー向けの職業訓練校が、全国七都市で開校した。受講料は無料で、子どもを連れて来てもいい保育スペースが併設されていた。修了者の就職率は、開校から二か月で九十一パーセントを超えた。
ライフ・アシストの違法契約で工場に縛られていた若者たちの債務が第三者機関によって買い取られた。返済条件は緩められた。
資金の出所は辿れない。法人名義は複数に分散されており、すべてが法の範囲で処理されていた。関係者に聞いても、誰もが「担当者から直接指示を受けた」とは言うが、その担当者を辿ると、また別の法人に行き着いた。
市場では一つの噂だけが残っていた。
"ブラック・ローズ"
腐敗した企業だけを狙い、株式操作、債務買収、世論形成、国際監査の連動によって静かに沈める、正体不明の投資家。一度ターゲットにされた企業は、表からも裏からも逃げ場を失う。だが、その企業が潰れた後の土地には必ず何かが建つ。
建つのは、いつも人が使えるものだった。
都心の外れ、かつて再開発で切り捨てられた地域の古い雑居ビル。
エレベーターは動いているが、外壁は古く、周囲にコンビニもない。誰かが事務所を構えるような場所ではない。
だが四階の一室には、光が灯っていた。
窓のない部屋に大型モニターが四面並び、床にはケーブルが這い、コーヒーカップが積み上がっている。白亜宮でも、皇城院グループ本社でもない。だがこの部屋から、日本の市場の一部が動かされていた。
「ブラック・ローズ、か」
黒瀬ジンが椅子を後ろに傾けながら言った。
「その通り名、気に入ってんだろ?」
「誤解ですわ」
麗華はモニターを見たまま答えた。
以前と変わったことがある。服装が簡素になった。黒のシャツとシンプルなパンツ。ヒールはまだ履いているが、華やかさのためではなく習慣の問題だ。
「本当ですか?」
「わたくしは、もっと品位ある名前が好みですの」
「例えば?」
「そうですわね……市場の天罰とか」
「それはひどい」
黒瀬が笑った。久しぶりに聞く、力の抜けた笑い声だった。
麗華も口角をわずかに上げた。
笑顔とは呼べない。だが、それに近い何かだった。
九条院貴政はまだ生きていた。
政治的な意味で。
資産の一部は凍結された。派閥の幹部議員が二名辞職した。国際監査が入り、海外口座の詳細が調査機関の手に渡った。それだけのダメージを受けながらも、この男はまだ政界の深部に根を張っていた。
切り捨てる尻尾はいくらでも持っていた。
痛みを受けるたびに見えている部分を差し出し見えていない部分を守る。それを何十年も繰り返してきた男。一度や二度の打撃では倒れない。
水面下で九条院は動き始めていた。
「国家安定化緊急法案」
市場混乱の防止を名目とした金融統制。公益保護を名目とした報道の制限。経済安全保障を名目とした市民ファンドへの規制。
法案の条文は巧みに書かれていた。表向きは「国民経済の安定を守るため」の措置。実態は麗華が壊した搾取構造を、混乱対策という名目で再構築するための法案。
革命返し。
今度は法律という形で。
「やっぱり来たか」
鷹宮が、法案の草稿を読みながら言った。
作戦室に三人が集まっていた。沙夜は資料を整理しながら静かに聞いていた。
「転んでも立つ」
「それだけの男だということですわ」
麗華は法案を手に取った。
読んだ。最初から最後まで、全文を。条文の一つひとつを、その意図ごと読んだ。
「さすがですわ」
「さすがって言ってる場合ですか。もし、これが通ったら──」
「通りませんわ」
「なぜ言い切れる」
「成立する前に、成立不能にすればいい」
鷹宮が眉をひそめた。
「どうやって」
「国会は数の論理です。九条院派が過半数を持っている限り、正面からは止められない」
「だから?」
「正面から行かなければいいでしょう」
麗華は法案を机に置いた。
「数を動かします」
「議員を、ですか」
「この法案が通れば、誰が損をするか。九条院派の中にも、地元の中小企業を支持基盤に持つ議員がいる。地方銀行を支持基盤に持つ議員がいる。市民ファンドへの規制はその人たちの選挙区にも影響する」
「つまり、派閥の内側から崩す」
「それだけではありませんが」
麗華は立ち上がった。
「ジン。法案の影響を受ける事業者のリストを作ってください。業種別と地域別で。それぞれの選挙区の議員を紐付けて」
「了解」
「鷹宮さん。憲法学者と経済法の専門家に会わせてください。法案の問題点を正式な意見書の形にする必要があります」
「もうリストは持っています」
「さすがですわ」
鷹宮が鼻を鳴らした。
「十分の一くらいは先読みできるようになりました」
「上出来ですわ」
北海道の小さな町。
かつてライフ・アシストの系列工場で三年間、違約金に縛られて働いていた二十五歳の男が今年の春に起業した。道内の農家と食品加工業者を繋ぐ小さな流通会社だ。資本金はリベリオン・キャリア・リビルド計画の再建ファンドから調達した。
その男が法案の影響試算を読んで、地元の市議会議員に会いに行った。
大阪の外れ。
東都ライフサポートの施設に母親を入れていた五十代の女性が施設の改善後、介護士の資格を取って同じ施設で働いていた。彼女は地元の介護士組合に入り、法案についての情報を組合員に共有した。組合員の中に地方議員の配偶者がいた。
東京の私立大学。
奨学金の再編ファンドを使って借金を整理した二十二歳の学生がゼミの教授に法案の問題点を話した。その教授が専門家意見書の共同署名に加わった。
それぞれは小さな動きだった。
だが、全国で同じような動きが同時に起きていた。
麗華が作ったのは「仕組み」だった。人と人が繋がれる仕組み。情報が流れる仕組み。声を持てる仕組み。その仕組みが今、動き始めていた。
「見ろよ、これ」
黒瀬が全国の動きを集約したマップを投影した。
「リベリオン・アライアンスから発信された情報がこんな経路で広がっている。俺が仕掛けたわけじゃない。勝手に動いてやがる」
「……」
「お嬢様が施しを配ったんじゃないですよね」
黒瀬は珍しく感心したような声で言った。
「立ち上がるための床を作った、ということですか」
麗華は答えなかった。
モニターを見ていた。全国に広がる小さな光の点を。
ひとつひとつは、か細い。だが繋がれば網になる。
彼女の目には、誇りでもなく安堵でもない、もっと静かで深い何かがあった。
採決の前夜、麗華は一人でいた。
窓際の椅子に座って夜の街を見ていた。鷹宮も黒瀬も沙夜も、それぞれの持ち場で最後の準備をしていた。
麗華にできることは、もうほとんどない。
打てる手はすべて打った。議員への働きかけ、専門家意見書の公開、メディアへの資料提供、国際機関への照会。法的に合法の範囲で動かせるものはすべて動かした。
あとは、明日を待つだけ。
そのことが、麗華には慣れなかった。
行動している間は思考が回り続ける。次の手、その次の手、起こりうる反応とその対策。思考が忙しい間は、他のことを考えずに済む。
だが、待つ間は思考が止まる。
止まった思考の隙間に記憶が入ってくる。
母の手。
コロッケの匂い。
商店街の夕暮れ。
白亜宮の廊下で手を繋いで歩いた記憶。あの頃の母は、まだ笑えた。故郷の話をするたびに目が少し柔らかくなった。
それが、なくなった。
街がなくなって、母の中の何かがなくなった。皇城院の名前が、皇城院の金が、皇城院の都合が、一人の人間の笑顔を消した。
麗華はあの日からずっと怒っていた。
それを怒りと呼んでいいのかどうか、自分でもわからなかった。感情として意識したことはほとんどなかった。ただ、動き続けることが呼吸をすることと同じくらい自然なこととなっていた。止まればあの廊下で一人になった子供に戻ってしまう気がしたからだ。
そして、今夜は止まっていた。
扉がノックされた。
「お嬢様」
沙夜だった。
「入りなさい」
沙夜は部屋に入り、麗華の隣に来た。立ったまま、同じ窓の外を見た。
二人でしばらく黙っていた。
「お母様のことを考えていましたか」
沙夜は静かに言った。
麗華は少しの間を置いて答えた。
「なぜわかりましたの」
「そういう顔をされていましたから」
「わたくしは、そんな顔をしますか」
「滅多には」
また沈黙が来た。
「沙夜」
「はい」
「わたくしは、正しかったでしょうか」
沙夜は、すぐには答えなかった。
いつもならすぐに答える。業務的な問いには業務的な速度で。だが、今の問いはそういう種類ではなかった。
「わたくしは」
沙夜は慎重に言葉を選びながら言った。
「お嬢様が正しいかどうかを判断する立場にありません」
「そうですわね」
「ですが」
沙夜は麗華を見た。
「朝霧町に八百屋が開きました。先週のことです。商店街の再建計画の第一号店として」
「知っています」
「開店の日、近所の方々が列を作ったそうです。一時間待ちだったと聞きました」
「報告書で読みましたわ」
「その列の中に、七十代のお婆さんがいたそうです。昔の商店街を知っている方で、開店を見て泣いていたと現地の担当者から連絡がありました」
麗華は何も言わなかった。
「それだけのことかもしれません」
沙夜は続けた。
「誰かが泣いた。悲しみではなく、別の何かで。それは確かに起きました」
窓の外に東京の夜が広がっていた。
麗華の目が少しだけ動いた。
それ以上は何も言わなかった。だが沙夜は、それで十分だと思った。
翌日。
衆議院本会議場。国家安定化緊急法案、採決。
九条院派は数の上では優勢。
だが、投票が始まった瞬間から空気がおかしかった。
造反が出た。
九条院派の中堅議員が三名。地方の中小企業を支持基盤に持つ者、農業系の組合を背負う者、地元の商工会から強く要請を受けた者。彼らは棄権した。
続いて、野党側が一斉に反対に回った。
数字が逆転した。
法案は否決された。
議長が結果を読み上げた瞬間、本会議場がざわめいた。予定された筋書きとは、全く違う結末だった。
その瞬間、全国同時配信が始まった。
すべての主要端末に、すべての街頭ビジョンに、映像が流れた。
システムへの侵入は黒瀬が前夜から仕込んでいた。
映し出されたのは映像ではなかった。
文字だった。
九条院貴政が過去四十年にわたって設計し、維持し、拡張し続けた搾取の構造。
貧困政策の歪曲。災害復興利権。教育債務の組み換え。医療費削減と、その裏で行われた医療関連株の購入。
一つひとつが、日付と金額と関係者名とともに、記録として示されていた。
告発でも糾弾でもない。
ただ、記録だった。
起きたことを起きたこととして残す。それだけだった。
九条院は何かを言おうとした。
だが、その声はもう届かなかった。
記者たちが走っていた。官邸で怒号が上がっていた。
九条院は何も言わずに座った。
それが、この男の終わりだった。
作戦室に四人が揃っていた。
黒瀬がソファに横になり、鷹宮がコーヒーを飲み、沙夜が窓の外を見ていた。
麗華は書類を読んでいた。
「届きました」
沙夜が振り返った。
「司法取引の最終条件です。金融商品取引法違反、および不正競争防止法上の営業秘密不正取得の件」
「読みます」
麗華は書類を受け取った。
内容は既に把握していた。有罪。執行猶予付きだが前科がつく。公職への就任資格が一定期間制限される。
弁護士からは「争える余地がある」と言われた。だが、麗華は争うつもりはなかった。
「お嬢様」
鷹宮がコーヒーカップを置いた。
「これは不当だ」
「そうですか?」
麗華は書類から顔を上げた。
「実際に法を越えました。必要があったからそうしました」
「だが、結果としてどれだけの人間が──」
「鷹宮さん」
麗華は穏やかに遮った。
「結果で罪を測るなら、わたくしより重い罪を持つ人間が今も政界に残っています」
「なら、なぜ有罪を受け入れる?」
「法を越えた者が完全に無罪では」
麗華は少しだけ間を置いた。
「次の怪物に、都合が良すぎるでしょう?」
鷹宮は言葉に詰まった。
「目的のためなら何をしても許されるという前例になってはいけません。たとえ、その目的がどれだけ正しかったとしても」
黒瀬が、ソファから体を起こした。
「それは」
「わたくしは怪物ですわ。自分でそう思っています。怪物が怪物を倒した。それだけのことです。怪物が英雄になってはいけない」
誰も返す言葉を持たなかった。
麗華は書類に署名した。
ペンを置いた。
「さあ」
彼女は立ち上がった。
「次の話をしましょう」
「次?」
「九条院体制が崩れた後の空白に、もう別の連中が動き始めているはずですわ。ジン、確認して頂戴」
「あ、はい……」
黒瀬が慌てて端末を開いた。
「本当に止まりませんね」
鷹宮が呆れたような、それでいて、かすかに笑ったような声で言った。
「止まる理由がまだないもの」
麗華はモニターに向かって歩いた。
その背中を三人が見た。
確かに怪物だと思った。
そして、怪物で良かったとも思った。
桜が散ったあとの、静かな春だった。
朝霧町の商店街は今日も開いていた。
アーケードの屋根が新しくなっていた。歩道の石畳が整備されていた。八百屋の前に野菜の木箱が並んでいた。本屋のショーウィンドウに子ども向けの絵本が飾られていた。
コーヒーの匂いが通りに漂っていた。
商店街の角に小さな喫茶店があった。
建物は新しいが、ドアノブだけが古い。前の店から引き継いだものだと店主は言う。
その店の窓際の席に黒髪の女が座っていた。
紅茶のカップを両手で包むように持ち、窓の外を見ている。店内には他にも数人の客がいて、誰かが笑い声を上げて、誰かが静かにコーヒーを飲んでいる。
女はその音を聞いていた。
声の一つひとつを聞いていた。
子どもが外を走る足音が聞こえた。
自転車が通り過ぎる音が聞こえた。
八百屋のおじさんがいらっしゃいと言う声が聞こえた。
聞いていると何かが緩んでいく感じがした。長い間、どこかに力が入ったままだったものが、少しずつ解けていく感じ。
「お嬢様」
向かいの席に沙夜が座った。そして、コーヒーを一つ頼んだ。
今日の沙夜はスーツではなくシンプルなコートを着ていた。それだけで少し違う人間のように見えた。
「次の案件の資料を確認していただけますか」
「後にしてもよいかしら?」
「珍しいですね」
「今日くらいは」
麗華は紅茶を一口飲んだ。
温かかった。
「沙夜。朝霧町に来たのは久しぶりですわね」
「三か月ぶりです。工事が始まった頃以来ですね」
「ずいぶん変わりましたわ」
「ええ」
二人で、しばらく窓の外を見た。
通りを老人が一人、ゆっくりと歩いていた。立ち止まり、八百屋の野菜を手に取り店主と何か話していた。笑い声が聞こえた。
麗華はその光景を見ていた。
母が笑った場所は今、別の誰かが笑っている。
同じ場所で別の笑顔が生まれている。
それが何なのか、麗華にはうまく言葉にできなかった。継承でも復元でもない。生まれ変わりとも違う。だが、確かにある。
「沙夜」
「はい」
「わたくしは」
麗華は窓の外を見たまま言った。
「正義のためにやったのではありませんわ」
「存じています」
「善人でもありませんし、英雄でもない」
「それも存じています」
「法も越えました」
「ええ」
「それでも」
麗華はテーブルの上に視線を落とした。
紅茶のカップの横に一輪の花が挿してある。店内の装飾として置かれた小さな赤い花だ。薔薇ではない。名も知らない赤い花。
「これでよかったと思ってますわ」
沙夜は何も言わなかった。言う必要がなかった。
ただ頷いた。
扉が開いて、鷹宮と黒瀬が入ってきた。
黒瀬はコートのポケットに手を突っ込み、面倒くさそうな顔をしていた。
「なんでこんな遠い街まで来ないといけないんですか」
「風景が必要でしたの」
「風景?」
「ええ。あなたには、たまには画面の外を見ることが必要ですわ」
「余計なお世話です」
黒瀬はぶつぶつ言いながら麗華の隣の席に座った。メニューを開き、ケーキセットくださいと店員に言った。
鷹宮は静かに向かいに座った。
窓の外を見た。商店街の通りを見た。歩いている人を見た。開いている店を見た。
「……いい街ですね」
鷹宮が静かに言った。
「ええ。前はここ、駐車場でしたわ」
鷹宮は、麗華を見た。
「あなたが壊したものは確かにあった」
「ええ」
「だが、あなたが作ったものも確かにある」
麗華は答えなかった。
鷹宮もそれ以上を言わなかった。
ただ、窓の外を見た。
しばらくして、黒瀬がケーキを食べながら言った。
「次の案件ありますよ。九条院体制が崩れた後、利権の空白が生まれてる。そこに入り込もうとしてる連中が動き始めてます」
「知っています」
「やりますか」
麗華は少しだけ間を置いた。
窓の外をもう一度見た。
通りの子どもが自転車のペダルを踏んで商店街の中を駆けていった。風を切って、速く、まっすぐに。
「ええ」
麗華は言った。
「やりますわ」
「気合い入れてきます」
「その前に、紅茶を飲み終わらせてください」
「え?」
「今日は、もう少しだけここにいますわ」
黒瀬は呆気に取られた顔をした。
「それは、珍しいですね」
「ええ」
「いいんですか、時間」
「構いませんわ」
麗華はまた窓の外を見た。
「今日くらいは」
春の光が商店街の石畳に降りていた。
人が歩き、声が聞こえ、生活が続いていた。
了
表舞台から彼女の姿は消えた。
ワイドショーは新しい炎上を見つけ、経済誌は「時代を騒がせた危険思想家」として彼女を過去形で処理し、政界では九条院体制の残滓を巡る駆け引きが続いていた。誰もが次の話題へと移っていった。
それは表の景色にすぎなかった。
地方都市の外れ、潰れかけていた商店街に、匿名の投資資金が入った。設計士が来て、大工が来て、三か月後には小さな八百屋と、コーヒーの匂いのする喫茶店と、子どもが本を選べる本屋が並んでいた。
シングルマザー向けの職業訓練校が、全国七都市で開校した。受講料は無料で、子どもを連れて来てもいい保育スペースが併設されていた。修了者の就職率は、開校から二か月で九十一パーセントを超えた。
ライフ・アシストの違法契約で工場に縛られていた若者たちの債務が第三者機関によって買い取られた。返済条件は緩められた。
資金の出所は辿れない。法人名義は複数に分散されており、すべてが法の範囲で処理されていた。関係者に聞いても、誰もが「担当者から直接指示を受けた」とは言うが、その担当者を辿ると、また別の法人に行き着いた。
市場では一つの噂だけが残っていた。
"ブラック・ローズ"
腐敗した企業だけを狙い、株式操作、債務買収、世論形成、国際監査の連動によって静かに沈める、正体不明の投資家。一度ターゲットにされた企業は、表からも裏からも逃げ場を失う。だが、その企業が潰れた後の土地には必ず何かが建つ。
建つのは、いつも人が使えるものだった。
都心の外れ、かつて再開発で切り捨てられた地域の古い雑居ビル。
エレベーターは動いているが、外壁は古く、周囲にコンビニもない。誰かが事務所を構えるような場所ではない。
だが四階の一室には、光が灯っていた。
窓のない部屋に大型モニターが四面並び、床にはケーブルが這い、コーヒーカップが積み上がっている。白亜宮でも、皇城院グループ本社でもない。だがこの部屋から、日本の市場の一部が動かされていた。
「ブラック・ローズ、か」
黒瀬ジンが椅子を後ろに傾けながら言った。
「その通り名、気に入ってんだろ?」
「誤解ですわ」
麗華はモニターを見たまま答えた。
以前と変わったことがある。服装が簡素になった。黒のシャツとシンプルなパンツ。ヒールはまだ履いているが、華やかさのためではなく習慣の問題だ。
「本当ですか?」
「わたくしは、もっと品位ある名前が好みですの」
「例えば?」
「そうですわね……市場の天罰とか」
「それはひどい」
黒瀬が笑った。久しぶりに聞く、力の抜けた笑い声だった。
麗華も口角をわずかに上げた。
笑顔とは呼べない。だが、それに近い何かだった。
九条院貴政はまだ生きていた。
政治的な意味で。
資産の一部は凍結された。派閥の幹部議員が二名辞職した。国際監査が入り、海外口座の詳細が調査機関の手に渡った。それだけのダメージを受けながらも、この男はまだ政界の深部に根を張っていた。
切り捨てる尻尾はいくらでも持っていた。
痛みを受けるたびに見えている部分を差し出し見えていない部分を守る。それを何十年も繰り返してきた男。一度や二度の打撃では倒れない。
水面下で九条院は動き始めていた。
「国家安定化緊急法案」
市場混乱の防止を名目とした金融統制。公益保護を名目とした報道の制限。経済安全保障を名目とした市民ファンドへの規制。
法案の条文は巧みに書かれていた。表向きは「国民経済の安定を守るため」の措置。実態は麗華が壊した搾取構造を、混乱対策という名目で再構築するための法案。
革命返し。
今度は法律という形で。
「やっぱり来たか」
鷹宮が、法案の草稿を読みながら言った。
作戦室に三人が集まっていた。沙夜は資料を整理しながら静かに聞いていた。
「転んでも立つ」
「それだけの男だということですわ」
麗華は法案を手に取った。
読んだ。最初から最後まで、全文を。条文の一つひとつを、その意図ごと読んだ。
「さすがですわ」
「さすがって言ってる場合ですか。もし、これが通ったら──」
「通りませんわ」
「なぜ言い切れる」
「成立する前に、成立不能にすればいい」
鷹宮が眉をひそめた。
「どうやって」
「国会は数の論理です。九条院派が過半数を持っている限り、正面からは止められない」
「だから?」
「正面から行かなければいいでしょう」
麗華は法案を机に置いた。
「数を動かします」
「議員を、ですか」
「この法案が通れば、誰が損をするか。九条院派の中にも、地元の中小企業を支持基盤に持つ議員がいる。地方銀行を支持基盤に持つ議員がいる。市民ファンドへの規制はその人たちの選挙区にも影響する」
「つまり、派閥の内側から崩す」
「それだけではありませんが」
麗華は立ち上がった。
「ジン。法案の影響を受ける事業者のリストを作ってください。業種別と地域別で。それぞれの選挙区の議員を紐付けて」
「了解」
「鷹宮さん。憲法学者と経済法の専門家に会わせてください。法案の問題点を正式な意見書の形にする必要があります」
「もうリストは持っています」
「さすがですわ」
鷹宮が鼻を鳴らした。
「十分の一くらいは先読みできるようになりました」
「上出来ですわ」
北海道の小さな町。
かつてライフ・アシストの系列工場で三年間、違約金に縛られて働いていた二十五歳の男が今年の春に起業した。道内の農家と食品加工業者を繋ぐ小さな流通会社だ。資本金はリベリオン・キャリア・リビルド計画の再建ファンドから調達した。
その男が法案の影響試算を読んで、地元の市議会議員に会いに行った。
大阪の外れ。
東都ライフサポートの施設に母親を入れていた五十代の女性が施設の改善後、介護士の資格を取って同じ施設で働いていた。彼女は地元の介護士組合に入り、法案についての情報を組合員に共有した。組合員の中に地方議員の配偶者がいた。
東京の私立大学。
奨学金の再編ファンドを使って借金を整理した二十二歳の学生がゼミの教授に法案の問題点を話した。その教授が専門家意見書の共同署名に加わった。
それぞれは小さな動きだった。
だが、全国で同じような動きが同時に起きていた。
麗華が作ったのは「仕組み」だった。人と人が繋がれる仕組み。情報が流れる仕組み。声を持てる仕組み。その仕組みが今、動き始めていた。
「見ろよ、これ」
黒瀬が全国の動きを集約したマップを投影した。
「リベリオン・アライアンスから発信された情報がこんな経路で広がっている。俺が仕掛けたわけじゃない。勝手に動いてやがる」
「……」
「お嬢様が施しを配ったんじゃないですよね」
黒瀬は珍しく感心したような声で言った。
「立ち上がるための床を作った、ということですか」
麗華は答えなかった。
モニターを見ていた。全国に広がる小さな光の点を。
ひとつひとつは、か細い。だが繋がれば網になる。
彼女の目には、誇りでもなく安堵でもない、もっと静かで深い何かがあった。
採決の前夜、麗華は一人でいた。
窓際の椅子に座って夜の街を見ていた。鷹宮も黒瀬も沙夜も、それぞれの持ち場で最後の準備をしていた。
麗華にできることは、もうほとんどない。
打てる手はすべて打った。議員への働きかけ、専門家意見書の公開、メディアへの資料提供、国際機関への照会。法的に合法の範囲で動かせるものはすべて動かした。
あとは、明日を待つだけ。
そのことが、麗華には慣れなかった。
行動している間は思考が回り続ける。次の手、その次の手、起こりうる反応とその対策。思考が忙しい間は、他のことを考えずに済む。
だが、待つ間は思考が止まる。
止まった思考の隙間に記憶が入ってくる。
母の手。
コロッケの匂い。
商店街の夕暮れ。
白亜宮の廊下で手を繋いで歩いた記憶。あの頃の母は、まだ笑えた。故郷の話をするたびに目が少し柔らかくなった。
それが、なくなった。
街がなくなって、母の中の何かがなくなった。皇城院の名前が、皇城院の金が、皇城院の都合が、一人の人間の笑顔を消した。
麗華はあの日からずっと怒っていた。
それを怒りと呼んでいいのかどうか、自分でもわからなかった。感情として意識したことはほとんどなかった。ただ、動き続けることが呼吸をすることと同じくらい自然なこととなっていた。止まればあの廊下で一人になった子供に戻ってしまう気がしたからだ。
そして、今夜は止まっていた。
扉がノックされた。
「お嬢様」
沙夜だった。
「入りなさい」
沙夜は部屋に入り、麗華の隣に来た。立ったまま、同じ窓の外を見た。
二人でしばらく黙っていた。
「お母様のことを考えていましたか」
沙夜は静かに言った。
麗華は少しの間を置いて答えた。
「なぜわかりましたの」
「そういう顔をされていましたから」
「わたくしは、そんな顔をしますか」
「滅多には」
また沈黙が来た。
「沙夜」
「はい」
「わたくしは、正しかったでしょうか」
沙夜は、すぐには答えなかった。
いつもならすぐに答える。業務的な問いには業務的な速度で。だが、今の問いはそういう種類ではなかった。
「わたくしは」
沙夜は慎重に言葉を選びながら言った。
「お嬢様が正しいかどうかを判断する立場にありません」
「そうですわね」
「ですが」
沙夜は麗華を見た。
「朝霧町に八百屋が開きました。先週のことです。商店街の再建計画の第一号店として」
「知っています」
「開店の日、近所の方々が列を作ったそうです。一時間待ちだったと聞きました」
「報告書で読みましたわ」
「その列の中に、七十代のお婆さんがいたそうです。昔の商店街を知っている方で、開店を見て泣いていたと現地の担当者から連絡がありました」
麗華は何も言わなかった。
「それだけのことかもしれません」
沙夜は続けた。
「誰かが泣いた。悲しみではなく、別の何かで。それは確かに起きました」
窓の外に東京の夜が広がっていた。
麗華の目が少しだけ動いた。
それ以上は何も言わなかった。だが沙夜は、それで十分だと思った。
翌日。
衆議院本会議場。国家安定化緊急法案、採決。
九条院派は数の上では優勢。
だが、投票が始まった瞬間から空気がおかしかった。
造反が出た。
九条院派の中堅議員が三名。地方の中小企業を支持基盤に持つ者、農業系の組合を背負う者、地元の商工会から強く要請を受けた者。彼らは棄権した。
続いて、野党側が一斉に反対に回った。
数字が逆転した。
法案は否決された。
議長が結果を読み上げた瞬間、本会議場がざわめいた。予定された筋書きとは、全く違う結末だった。
その瞬間、全国同時配信が始まった。
すべての主要端末に、すべての街頭ビジョンに、映像が流れた。
システムへの侵入は黒瀬が前夜から仕込んでいた。
映し出されたのは映像ではなかった。
文字だった。
九条院貴政が過去四十年にわたって設計し、維持し、拡張し続けた搾取の構造。
貧困政策の歪曲。災害復興利権。教育債務の組み換え。医療費削減と、その裏で行われた医療関連株の購入。
一つひとつが、日付と金額と関係者名とともに、記録として示されていた。
告発でも糾弾でもない。
ただ、記録だった。
起きたことを起きたこととして残す。それだけだった。
九条院は何かを言おうとした。
だが、その声はもう届かなかった。
記者たちが走っていた。官邸で怒号が上がっていた。
九条院は何も言わずに座った。
それが、この男の終わりだった。
作戦室に四人が揃っていた。
黒瀬がソファに横になり、鷹宮がコーヒーを飲み、沙夜が窓の外を見ていた。
麗華は書類を読んでいた。
「届きました」
沙夜が振り返った。
「司法取引の最終条件です。金融商品取引法違反、および不正競争防止法上の営業秘密不正取得の件」
「読みます」
麗華は書類を受け取った。
内容は既に把握していた。有罪。執行猶予付きだが前科がつく。公職への就任資格が一定期間制限される。
弁護士からは「争える余地がある」と言われた。だが、麗華は争うつもりはなかった。
「お嬢様」
鷹宮がコーヒーカップを置いた。
「これは不当だ」
「そうですか?」
麗華は書類から顔を上げた。
「実際に法を越えました。必要があったからそうしました」
「だが、結果としてどれだけの人間が──」
「鷹宮さん」
麗華は穏やかに遮った。
「結果で罪を測るなら、わたくしより重い罪を持つ人間が今も政界に残っています」
「なら、なぜ有罪を受け入れる?」
「法を越えた者が完全に無罪では」
麗華は少しだけ間を置いた。
「次の怪物に、都合が良すぎるでしょう?」
鷹宮は言葉に詰まった。
「目的のためなら何をしても許されるという前例になってはいけません。たとえ、その目的がどれだけ正しかったとしても」
黒瀬が、ソファから体を起こした。
「それは」
「わたくしは怪物ですわ。自分でそう思っています。怪物が怪物を倒した。それだけのことです。怪物が英雄になってはいけない」
誰も返す言葉を持たなかった。
麗華は書類に署名した。
ペンを置いた。
「さあ」
彼女は立ち上がった。
「次の話をしましょう」
「次?」
「九条院体制が崩れた後の空白に、もう別の連中が動き始めているはずですわ。ジン、確認して頂戴」
「あ、はい……」
黒瀬が慌てて端末を開いた。
「本当に止まりませんね」
鷹宮が呆れたような、それでいて、かすかに笑ったような声で言った。
「止まる理由がまだないもの」
麗華はモニターに向かって歩いた。
その背中を三人が見た。
確かに怪物だと思った。
そして、怪物で良かったとも思った。
桜が散ったあとの、静かな春だった。
朝霧町の商店街は今日も開いていた。
アーケードの屋根が新しくなっていた。歩道の石畳が整備されていた。八百屋の前に野菜の木箱が並んでいた。本屋のショーウィンドウに子ども向けの絵本が飾られていた。
コーヒーの匂いが通りに漂っていた。
商店街の角に小さな喫茶店があった。
建物は新しいが、ドアノブだけが古い。前の店から引き継いだものだと店主は言う。
その店の窓際の席に黒髪の女が座っていた。
紅茶のカップを両手で包むように持ち、窓の外を見ている。店内には他にも数人の客がいて、誰かが笑い声を上げて、誰かが静かにコーヒーを飲んでいる。
女はその音を聞いていた。
声の一つひとつを聞いていた。
子どもが外を走る足音が聞こえた。
自転車が通り過ぎる音が聞こえた。
八百屋のおじさんがいらっしゃいと言う声が聞こえた。
聞いていると何かが緩んでいく感じがした。長い間、どこかに力が入ったままだったものが、少しずつ解けていく感じ。
「お嬢様」
向かいの席に沙夜が座った。そして、コーヒーを一つ頼んだ。
今日の沙夜はスーツではなくシンプルなコートを着ていた。それだけで少し違う人間のように見えた。
「次の案件の資料を確認していただけますか」
「後にしてもよいかしら?」
「珍しいですね」
「今日くらいは」
麗華は紅茶を一口飲んだ。
温かかった。
「沙夜。朝霧町に来たのは久しぶりですわね」
「三か月ぶりです。工事が始まった頃以来ですね」
「ずいぶん変わりましたわ」
「ええ」
二人で、しばらく窓の外を見た。
通りを老人が一人、ゆっくりと歩いていた。立ち止まり、八百屋の野菜を手に取り店主と何か話していた。笑い声が聞こえた。
麗華はその光景を見ていた。
母が笑った場所は今、別の誰かが笑っている。
同じ場所で別の笑顔が生まれている。
それが何なのか、麗華にはうまく言葉にできなかった。継承でも復元でもない。生まれ変わりとも違う。だが、確かにある。
「沙夜」
「はい」
「わたくしは」
麗華は窓の外を見たまま言った。
「正義のためにやったのではありませんわ」
「存じています」
「善人でもありませんし、英雄でもない」
「それも存じています」
「法も越えました」
「ええ」
「それでも」
麗華はテーブルの上に視線を落とした。
紅茶のカップの横に一輪の花が挿してある。店内の装飾として置かれた小さな赤い花だ。薔薇ではない。名も知らない赤い花。
「これでよかったと思ってますわ」
沙夜は何も言わなかった。言う必要がなかった。
ただ頷いた。
扉が開いて、鷹宮と黒瀬が入ってきた。
黒瀬はコートのポケットに手を突っ込み、面倒くさそうな顔をしていた。
「なんでこんな遠い街まで来ないといけないんですか」
「風景が必要でしたの」
「風景?」
「ええ。あなたには、たまには画面の外を見ることが必要ですわ」
「余計なお世話です」
黒瀬はぶつぶつ言いながら麗華の隣の席に座った。メニューを開き、ケーキセットくださいと店員に言った。
鷹宮は静かに向かいに座った。
窓の外を見た。商店街の通りを見た。歩いている人を見た。開いている店を見た。
「……いい街ですね」
鷹宮が静かに言った。
「ええ。前はここ、駐車場でしたわ」
鷹宮は、麗華を見た。
「あなたが壊したものは確かにあった」
「ええ」
「だが、あなたが作ったものも確かにある」
麗華は答えなかった。
鷹宮もそれ以上を言わなかった。
ただ、窓の外を見た。
しばらくして、黒瀬がケーキを食べながら言った。
「次の案件ありますよ。九条院体制が崩れた後、利権の空白が生まれてる。そこに入り込もうとしてる連中が動き始めてます」
「知っています」
「やりますか」
麗華は少しだけ間を置いた。
窓の外をもう一度見た。
通りの子どもが自転車のペダルを踏んで商店街の中を駆けていった。風を切って、速く、まっすぐに。
「ええ」
麗華は言った。
「やりますわ」
「気合い入れてきます」
「その前に、紅茶を飲み終わらせてください」
「え?」
「今日は、もう少しだけここにいますわ」
黒瀬は呆気に取られた顔をした。
「それは、珍しいですね」
「ええ」
「いいんですか、時間」
「構いませんわ」
麗華はまた窓の外を見た。
「今日くらいは」
春の光が商店街の石畳に降りていた。
人が歩き、声が聞こえ、生活が続いていた。
了



