午前八時五十五分。
東京証券取引所の電光掲示板が、開場前の静寂の中で準備を整えていた。
九時を回った。
最初の三分で皇城院ホールディングスの売り注文が殺到した。
「関連四十二社、連鎖下落!」
「金融、物流、不動産、教育、医療ファンドまで波及しています!」
皇城院グループは日本経済そのものに根を張る怪物だった。その根が、昨日の総会で表に出た。だから連鎖した。関連銘柄が下がり、取引先が下がり、その取引先の取引先が下がる。一本の糸をほどけば、すべてが崩れるように。
皇城院グループ本社ビルの外には、朝から報道陣が陣取り、抗議デモも集まり始めていた。
そのすべての喧騒から切り離された場所で、麗華は紅茶を飲んでいた。
リベリオン本部。
朝からすべてのモニターが点灯していた。市場の動き、報道の動き、政界の動き、SNSの動き。四面のスクリーンが、それぞれが現実を映している。
「確認しました」
黒瀬が大型モニターの前に立ったまま言った。いつもの軽さが、今日は鳴りを潜めている。
「売り浴びせている連中の大半、九条院派のダミーファンドです。ケイマン諸島、ルクセンブルク、シンガポール経由でロンダリングされていますが、最終的に繋がるのは全部同じ口座群です」
「狙いは?」
「安値で皇城院資産を拾い直して支配権を奪い返す気でしょう。株価が下がったところを買い集めて筆頭株主に収まる。そうすれば、麗華さんが公開した不正の責任を押しつけながら実権は握れる。一石二鳥どころか三鳥くらいある手ですね」
「想定通りですわ」
麗華は紅茶のカップをソーサーに戻した。
「腐肉に群がる蠅は、自分から巣を教えてくださる」
「本当に想定してたんですか?」
「ええ」
「どこまで読んでたんです?」
「今日だけで言えば、ここまで。明日以降は、相手の動きを見ながら」
「それ、想定って言わないですよ」
「では、読み筋とでも言いましょうか」
鷹宮が資料を指でなぞりながら言った。
「九条院が動くのはわかった。だが、どこまで来る? 市場操作だけか、それとも政治的な圧力もかけてくるか」
「両方でしょうね」
「根拠は?」
「あの方は一手しか打たない人間ではありませんもの」
麗華は立ち上がり、モニターを見渡した。
赤い数字が踊っている。だがその目に恐れはなかった。
総理官邸、緊急経済対策本部。
普段は冷静なはずの官僚たちが、この日ばかりは血相を変えていた。
「皇城院麗華を止めろ! 法的手段はないのか!」
「このままでは金融システムへの信頼が」
「海外投資家が撤退の動きを見せています! モルガン、ゴールドマン、すでに問い合わせが来ている!」
怒号が飛び交う中、九条院貴政だけが静かだった。
上座に座り、両手を組み、目を閉じている。怒鳴っている者たちを放置している。
室内の怒号が、少しずつ萎んでいった。誰かが気づき始める。九条院が何も言わないのは、まだ動く時ではないからだ。この大臣が黙っている間は、策がないのではなく、練っているのだ。
三分が過ぎたころ、九条院は目を開けた。
「騒ぐな」
その一言で、室内が静止した。
「市場は恐怖で揺れる。だが恐怖は、方向さえ作れば支配できる」
「方向とは」
「皇城院麗華を国家の敵にする」
その言葉を聞いた瞬間、室内の何人かが顔色を変えた。正しいとか間違いとかではなく、この男が本気でそれをやろうとしているという事実への反応だった。
「具体的には」
「メディアは動かせる。評論家も学者も同業者の声も使う。麗華の行動が国民経済を傷つけたという物語を今日中に立ち上げる」
「しかし、彼女が公開した不正は事実で──」
「事実かどうかは関係ない」
九条院は立ち上がった。
「重要なのは国民が何を信じるかだ」
数時間後、大手テレビ局のニュースが揃ったように同じ文脈で報道し始めた。
『皇城院ショック、日本経済に深刻な打撃』
『暴走令嬢が国民資産を危機に晒す』
『無責任な理想主義が招いた金融混乱』
SNSでは、それまでになかった声が急増し始めた。組織的な投稿の匂いがある、均質な文体の批判が複数のアカウントから同時に流れ始めた。
評論家が画面に出て語った。
「皇城院麗華の行動は一種のテロリズムです」
御用学者が言った。
「改革は段階を踏まなければならない。彼女のやり方は患者を治そうとして手術台の上で殺すようなものだ」
競合企業の経営者が言った。
「我々は今回の件で多大な損害を被っています。責任を取っていただきたい」
皇城院本邸の前では抗議デモが続いていた。
投石が起きた。怒声が上がった。機動隊が出動した。
「売国奴!」
「金持ちの道楽で国を壊すな!」
「責任を取れ!」
窓の外を見下ろしながら沙夜が言った。
「我社の支持率が急落しています。昨日まであった女性層と高齢者層の支持が大幅に削れました」
「そうでしょうね」
麗華は窓から離れた。
デモの声はガラス越しに聞こえていた。怒鳴っている人間の多くは、おそらく東都やライフ・アシストの実態を知らない。知らされていない。
「よろしいのですか」
沙夜が言った。珍しく問いの形を取っていた。
「あの人たちは正確な情報を持っていないだけですわ」
「それでも」
「構いません」
麗華は机に向かった。
「英雄は期待を背負うが、悪女は結果を奪える」
その声は静かだった。
夜、作戦室に三人が集まった。
黒瀬が大型モニターに展開したのは複雑に絡み合う資本移動のフローチャートだった。矢印が何重にも重なり、法人名と口座番号と金額が蜘蛛の巣のように繋がっている。
「九条院派の動きです」
黒瀬は図の一点を指した。
「皇城院の暴落を利用して年金基金を動かしています。それだけじゃない。地方銀行の融資枠、公共インフラの債権、農業共済の積立金まで絡んでいる」
「国民資産を盾に使っている」
鷹宮が低く言った。
「そうです。構図はこうです。九条院派のファンドが皇城院株を買い進める。そのファンドには年金基金や地方銀行が間接的に絡んでいる。だから『麗華を止めなければ庶民の老後が危なくなる』という構図が成立する」
「本当に庶民の老後が危なくなるのか?」
「今の時点では、危なくありません。だが危ないという物語を作ってしまえば、その物語を否定するのは難しい。国民は将来への不安に敏感ですので」
「最低だ」
鷹宮が拳を握った。
「弱者を守ろうとした動きを、弱者そのものを盾にして潰してくるとは」
麗華は立ち上がり、フローチャートを見ていた。
「だからこそ美しい」
「は?」
鷹宮が振り返った。
「ここまで腐っていれば、切除すべき箇所が明確ですもの。中途半端に健全な部分が残っていると、どこまで切るべきかが見えにくい。でもこの図は、ひとつの中心から全部繋がっている」
「それが、美しい?」
「外科的に言えば」
麗華はモニターから視線を外し、黒瀬を見た。
「ジン。九条院派の海外ファンド、全口座を追跡してください。ケイマン、スイス、シンガポール、どこに飛ばしていても構わない。追える限り追って」
「了解です。どこまで?」
「最深部まで」
「了解」
次に鷹宮を見た。
「鷹宮さん。租税回避、政治資金の迂回、公益法人への名義貸し、合法の範囲ぎりぎりで構いません。九条院派の全資金経路を接続してください。国内と海外、両方で」
「全部繋げたとして、それから?」
「国際監査機関に提出します」
鷹宮は一瞬、目を細めた。
「国際監査機関は、日本国内の金融当局よりも独立性が高い。九条院が国内の機関を押さえていてもそこは押さえられない」
「そうです」
「つまり、九条院が国民を盾に使うなら」
麗華は微かに笑った。
「こちらは国際的な透明性を盾に使いますわ」
鷹宮は息を吐いた。
「本気か、と聞くのも、もう馬鹿らしくなってきたな」
「ええ、もちろん本気ですわ」
二人が作業に戻った。
九条院が「国民を守るため」という看板で積み上げた金が、今夜、別の場所を流れ始める。
彼女は静かに、次の手順を組み立て始めた。
衆議院・緊急経済公聴会。
九条院貴政の主導によって招集された、異例の緊急公聴会だった。
建前は「皇城院ショックによる経済的損失の検証と再発防止策の審議」。だが実態は、皇城院麗華を断罪するための舞台。それは関係者の誰もが知っていたし、メディアもそう報じた。
参考人として呼ばれた有識者たちは、揃って批判的な見解を示すことが決まっていた。経済学者が損失額を試算し、金融の専門家が市場への悪影響を語り、企業経営者が損害を訴える。そのような流れで進み、最後に「皇城院麗華の行為は無責任な経済テロリズムである」という結論に辿り着く。そういう脚本だった。
会議が始まった。
予定通りに進んだ。予定通りに批判が積まれた。
「参考人、皇城院麗華氏」
会場の空気が変わった。
記者席が前のめりになった。傍聴席の市民たちが姿勢を直した。委員たちの一部が、無意識に手を止めた。
黒いスーツ。白い肌。赤いルビーのピアス。
麗華は議場に入ってきた。
舞踏会のように、という表現が最も正確だろう。完全なアウェーの空間を、まるで自分のために設えられた舞台のように歩いた。緊張も、萎縮も、なかった。ただ、いつものように歩いた。
着席した麗華を、委員長が見下ろした。
「皇城院麗華氏。あなたの一連の行動により、何万人もの国民が経済的不安を抱えることになりました。その責任について、どうお考えですか」
会場が応答を待った。
「質問がありますわ」
麗華が遮った。
委員長の眉が上がった。
「参考人が先に質問するというのは──」
「その不安を担保にして誰が空売りで利益を得ましたか?」
議場が静止した。
委員の一人が立ち上がった。
「参考人! この場は──」
「こちら、九条院派に関連するファンドの一覧と、皇城院暴落の三日前からの売買履歴ですわ」
沙夜がタブレットを操作した。議場の大型スクリーンにデータが映し出された。
口座名。売買日時。取引量。利益額。
数字が並ぶ。
「加えて、生活保障予算の削減が決定された翌月に、低所得者向け債権商品を大量購入した投資記録です。予算削減によって生活困窮者が増えることを見越した、事前の仕込みと見られます」
記者席が動いた。ペンが走る音、カメラのシャッター音、キーボードを叩く音が一斉に重なった。
「皆様方は国を守ろうとしたのではなく」
麗華の声が議場に響いた。
「国民の不安を金融商品に変えただけですわ」
「証拠はどこだ! そのデータの出所は!」
委員のひとりが怒鳴った。
「ありますわ」
麗華は微笑んだ。
「提出済みですもの。国税庁と、国際金融監査機関に」
九条院の笑みは、ここで消えた。
議場の外は騒然としていた。
廊下で、複数の議員が携帯電話に怒鳴っていた。秘書が走っていた。記者がマイクを向けていた。
麗華は人の波の中を歩きながら、鷹宮に耳打ちした。
「国際監査機関の担当者と、明後日のミーティングを押さえて頂戴」
「もう連絡取ってあります」
「早いですわね」
「あなたが議場に入った時点で、この展開になると思ってましたから」
麗華は少しだけ口角を上げた。
「読まれてしまいましたわね」
「十分の一くらいは」
「上出来ですわ」
国会議事堂の前に、人が集まっていた。デモではなかった。市民がスマートフォンを掲げて何かを撮影していた。
今日の公聴会の中継を見て来た人たちだろう。
麗華はその景色を一秒だけ見て、歩き続けた。
その夜から世界が動いた。
国際金融監査機関が、九条院派関連ファンドへの調査開始を発表した。同日、スイス当局が口座の一時凍結措置を取った。翌朝、九条院派の参議院議員が二名、政治資金規正法違反の疑いで任意の事情聴取に応じた。
市場では、九条院派の関連銘柄が暴落した。
皇城院株は逆に反発した。
理由は単純だ。膿が出た企業は、市場からある程度の信頼を取り戻す。すべての不正が表に出たなら、少なくとも「まだ何か隠れているかもしれない」という恐怖はなくなる。投資家は不確実性を最も嫌うからだ。
「皇城院グループ、解体を開始します」
麗華が発表したのは、国際監査の発表から三日後のことだった。
解体という言葉に記者たちがざわめいた。
「解体とは、つまりは清算ということですか?」
「違いますわ」
麗華は資料を配布させながら言った。
「再編です」
計画の骨格はこうだった。
皇城院グループの事業を、公共性の高いものとそうでないものに分類する。金融、不動産投資、海外資産、利益を最大化するだけの機能を持つ部門は、段階的に縮小する。
その一方で、医療、教育、住宅、介護の分野は、切り離して独立させる。そして、それらを市民ファンド化する。特定の大株主が支配するのではなく、多数の小口投資家が分散して保有する形にする。意思決定に地域住民や利用者が参加できる仕組みを作る。利益の分配を、株主だけでなく労働者にも及ぼす構造にする。
「つまり、独占構造から切り離すということですか」
「ええ」
「しかし、それでは皇城院家は」
「ええ。消えるでしょうね」
麗華はあっさりと言った。
記者が息を呑んだ。
「家名など」
彼女は少しだけ遠くを見るような目をした。
「母の街ひとつ守れなかった時点で、すでに価値はありませんわ」
その夜、沙夜が珍しく長い言葉を話した。
作戦室に二人だけが残っているときのことだった。鷹宮も黒瀬も帰っていた。
「お嬢様」
「何ですか」
「全財産の大半を、今回の再建基金に移管することになります。個人資産も含めて」
「知っています」
「皇城院家から公式に追放されることになります」
「知っています」
「それでも」
沙夜は、珍しく言葉を選ぶような間を置いた。
「後悔はありませんか」
使用人としての問いではなく、個人的な問いだった。
「あなたが聞くのは珍しいですわね」
「滅多には聞きません」
「そうですわね」
麗華は椅子の背に寄りかかった。
「後悔というのは、別の選択肢があったのにそちらを選ばなかったという感情ね」
「そうです」
「わたくしに、別の選択肢はありませんでしたの」
窓の外に夜の東京が広がっていた。
「母が病んで、商店街がなくなって、故郷が駐車場になった。それを見て何もしないでいられる人間ではなかった。それだけのことですわ」
「それだけですか」
「ええ」
麗華は窓の外を見た。
「だから後悔はありません」
沙夜は頷いた。
「沙夜」
「はい」
「あなたは、どうしますか」
「どう、とは」
「皇城院家がなくなれば、あなたの雇用も終わります。わたくしの個人資産もほとんどなくなる。あなたを雇い続ける財力がわたくしにはなくなりますわ」
沙夜は少しの間、答えなかった。
「わたくしはお嬢様についていきます」
「お給料は払えませんわよ?」
「承知しています」
「物好きですわね」
「そうかもしれません」
麗華は沙夜を見た。
何かを言おうとして、やめた。
代わりに頷いた。
その頷きには言葉がなかった。沙夜にはそれで十分だと思えた。
雨の夜。
皇城院本邸の前に、黒塗りの車が一台停まっていた。
麗華は屋敷から出てきた。
傘を持っていなかった。使用人が差し出したが、首を振った。
白亜宮を見た。
白い壁が雨の中で灰色に見えた。正面玄関の照明が水たまりに揺れている。手入れされた庭が雨に打たれて暗く沈んでいる。
二十八年間、この屋敷が生家だった。
好きだったわけではない。だが、あの廊下を母と歩いたことは本当だった。あの窓から見た庭は、確かにここにあった。
麗華は一度だけ目を閉じた。
そして、車に向かって歩き始めた。
ヒールが水たまりを踏んだ。黒い水が跳ねた。
「これで何も残りませんね」
車に近づいたとき鷹宮が言った。
彼は助手席のドアを開けながら、傘を持っていた。だが麗華が傘を断ったことを知っているので、自分の傘の下に入るよう促すことはしなかった。
「いいえ」
麗華は首を振った。
雨が髪を濡らした。
「ようやく、わたくしのものになりますの」
「何が?」
麗華は車のドアを開ける前に、一度空を見上げた。
雨が顔に当たった。だが、彼女にはそれが不快ではなかった。
彼女は車に乗り込んだ。
鷹宮も乗った。沙夜が運転席に座った。
車が動き出した。
白亜宮が遠ざかっていく。
無一文。家なし。権威なし。
だが、潰すべき腐敗がまだある。
作り直すべき仕組みがまだある。
悪女。国賊。怪物。
その悪名こそが棘だった。最初からそうだった。
「次はどこへ向かいますか」
沙夜が前を見たまま聞いた。
「本部に戻って、九条院の残存資産の状況を確認しましょう」
「了解です」
「それと」
麗華は窓の外を見た。
「明日の朝、朝霧町の再建計画の進捗を確認したいですわ。商店街の工事が始まったはずでしょう?」
「はい。先週から基礎工事が入っています」
「そう」
麗華はほんの少しだけ表情を緩めた。
笑顔ではなかった。だが、戦場の外にいる人間の顔だった。
「では、急ぎましょう」
車は、夜の雨の中を走り続けた。
東京証券取引所の電光掲示板が、開場前の静寂の中で準備を整えていた。
九時を回った。
最初の三分で皇城院ホールディングスの売り注文が殺到した。
「関連四十二社、連鎖下落!」
「金融、物流、不動産、教育、医療ファンドまで波及しています!」
皇城院グループは日本経済そのものに根を張る怪物だった。その根が、昨日の総会で表に出た。だから連鎖した。関連銘柄が下がり、取引先が下がり、その取引先の取引先が下がる。一本の糸をほどけば、すべてが崩れるように。
皇城院グループ本社ビルの外には、朝から報道陣が陣取り、抗議デモも集まり始めていた。
そのすべての喧騒から切り離された場所で、麗華は紅茶を飲んでいた。
リベリオン本部。
朝からすべてのモニターが点灯していた。市場の動き、報道の動き、政界の動き、SNSの動き。四面のスクリーンが、それぞれが現実を映している。
「確認しました」
黒瀬が大型モニターの前に立ったまま言った。いつもの軽さが、今日は鳴りを潜めている。
「売り浴びせている連中の大半、九条院派のダミーファンドです。ケイマン諸島、ルクセンブルク、シンガポール経由でロンダリングされていますが、最終的に繋がるのは全部同じ口座群です」
「狙いは?」
「安値で皇城院資産を拾い直して支配権を奪い返す気でしょう。株価が下がったところを買い集めて筆頭株主に収まる。そうすれば、麗華さんが公開した不正の責任を押しつけながら実権は握れる。一石二鳥どころか三鳥くらいある手ですね」
「想定通りですわ」
麗華は紅茶のカップをソーサーに戻した。
「腐肉に群がる蠅は、自分から巣を教えてくださる」
「本当に想定してたんですか?」
「ええ」
「どこまで読んでたんです?」
「今日だけで言えば、ここまで。明日以降は、相手の動きを見ながら」
「それ、想定って言わないですよ」
「では、読み筋とでも言いましょうか」
鷹宮が資料を指でなぞりながら言った。
「九条院が動くのはわかった。だが、どこまで来る? 市場操作だけか、それとも政治的な圧力もかけてくるか」
「両方でしょうね」
「根拠は?」
「あの方は一手しか打たない人間ではありませんもの」
麗華は立ち上がり、モニターを見渡した。
赤い数字が踊っている。だがその目に恐れはなかった。
総理官邸、緊急経済対策本部。
普段は冷静なはずの官僚たちが、この日ばかりは血相を変えていた。
「皇城院麗華を止めろ! 法的手段はないのか!」
「このままでは金融システムへの信頼が」
「海外投資家が撤退の動きを見せています! モルガン、ゴールドマン、すでに問い合わせが来ている!」
怒号が飛び交う中、九条院貴政だけが静かだった。
上座に座り、両手を組み、目を閉じている。怒鳴っている者たちを放置している。
室内の怒号が、少しずつ萎んでいった。誰かが気づき始める。九条院が何も言わないのは、まだ動く時ではないからだ。この大臣が黙っている間は、策がないのではなく、練っているのだ。
三分が過ぎたころ、九条院は目を開けた。
「騒ぐな」
その一言で、室内が静止した。
「市場は恐怖で揺れる。だが恐怖は、方向さえ作れば支配できる」
「方向とは」
「皇城院麗華を国家の敵にする」
その言葉を聞いた瞬間、室内の何人かが顔色を変えた。正しいとか間違いとかではなく、この男が本気でそれをやろうとしているという事実への反応だった。
「具体的には」
「メディアは動かせる。評論家も学者も同業者の声も使う。麗華の行動が国民経済を傷つけたという物語を今日中に立ち上げる」
「しかし、彼女が公開した不正は事実で──」
「事実かどうかは関係ない」
九条院は立ち上がった。
「重要なのは国民が何を信じるかだ」
数時間後、大手テレビ局のニュースが揃ったように同じ文脈で報道し始めた。
『皇城院ショック、日本経済に深刻な打撃』
『暴走令嬢が国民資産を危機に晒す』
『無責任な理想主義が招いた金融混乱』
SNSでは、それまでになかった声が急増し始めた。組織的な投稿の匂いがある、均質な文体の批判が複数のアカウントから同時に流れ始めた。
評論家が画面に出て語った。
「皇城院麗華の行動は一種のテロリズムです」
御用学者が言った。
「改革は段階を踏まなければならない。彼女のやり方は患者を治そうとして手術台の上で殺すようなものだ」
競合企業の経営者が言った。
「我々は今回の件で多大な損害を被っています。責任を取っていただきたい」
皇城院本邸の前では抗議デモが続いていた。
投石が起きた。怒声が上がった。機動隊が出動した。
「売国奴!」
「金持ちの道楽で国を壊すな!」
「責任を取れ!」
窓の外を見下ろしながら沙夜が言った。
「我社の支持率が急落しています。昨日まであった女性層と高齢者層の支持が大幅に削れました」
「そうでしょうね」
麗華は窓から離れた。
デモの声はガラス越しに聞こえていた。怒鳴っている人間の多くは、おそらく東都やライフ・アシストの実態を知らない。知らされていない。
「よろしいのですか」
沙夜が言った。珍しく問いの形を取っていた。
「あの人たちは正確な情報を持っていないだけですわ」
「それでも」
「構いません」
麗華は机に向かった。
「英雄は期待を背負うが、悪女は結果を奪える」
その声は静かだった。
夜、作戦室に三人が集まった。
黒瀬が大型モニターに展開したのは複雑に絡み合う資本移動のフローチャートだった。矢印が何重にも重なり、法人名と口座番号と金額が蜘蛛の巣のように繋がっている。
「九条院派の動きです」
黒瀬は図の一点を指した。
「皇城院の暴落を利用して年金基金を動かしています。それだけじゃない。地方銀行の融資枠、公共インフラの債権、農業共済の積立金まで絡んでいる」
「国民資産を盾に使っている」
鷹宮が低く言った。
「そうです。構図はこうです。九条院派のファンドが皇城院株を買い進める。そのファンドには年金基金や地方銀行が間接的に絡んでいる。だから『麗華を止めなければ庶民の老後が危なくなる』という構図が成立する」
「本当に庶民の老後が危なくなるのか?」
「今の時点では、危なくありません。だが危ないという物語を作ってしまえば、その物語を否定するのは難しい。国民は将来への不安に敏感ですので」
「最低だ」
鷹宮が拳を握った。
「弱者を守ろうとした動きを、弱者そのものを盾にして潰してくるとは」
麗華は立ち上がり、フローチャートを見ていた。
「だからこそ美しい」
「は?」
鷹宮が振り返った。
「ここまで腐っていれば、切除すべき箇所が明確ですもの。中途半端に健全な部分が残っていると、どこまで切るべきかが見えにくい。でもこの図は、ひとつの中心から全部繋がっている」
「それが、美しい?」
「外科的に言えば」
麗華はモニターから視線を外し、黒瀬を見た。
「ジン。九条院派の海外ファンド、全口座を追跡してください。ケイマン、スイス、シンガポール、どこに飛ばしていても構わない。追える限り追って」
「了解です。どこまで?」
「最深部まで」
「了解」
次に鷹宮を見た。
「鷹宮さん。租税回避、政治資金の迂回、公益法人への名義貸し、合法の範囲ぎりぎりで構いません。九条院派の全資金経路を接続してください。国内と海外、両方で」
「全部繋げたとして、それから?」
「国際監査機関に提出します」
鷹宮は一瞬、目を細めた。
「国際監査機関は、日本国内の金融当局よりも独立性が高い。九条院が国内の機関を押さえていてもそこは押さえられない」
「そうです」
「つまり、九条院が国民を盾に使うなら」
麗華は微かに笑った。
「こちらは国際的な透明性を盾に使いますわ」
鷹宮は息を吐いた。
「本気か、と聞くのも、もう馬鹿らしくなってきたな」
「ええ、もちろん本気ですわ」
二人が作業に戻った。
九条院が「国民を守るため」という看板で積み上げた金が、今夜、別の場所を流れ始める。
彼女は静かに、次の手順を組み立て始めた。
衆議院・緊急経済公聴会。
九条院貴政の主導によって招集された、異例の緊急公聴会だった。
建前は「皇城院ショックによる経済的損失の検証と再発防止策の審議」。だが実態は、皇城院麗華を断罪するための舞台。それは関係者の誰もが知っていたし、メディアもそう報じた。
参考人として呼ばれた有識者たちは、揃って批判的な見解を示すことが決まっていた。経済学者が損失額を試算し、金融の専門家が市場への悪影響を語り、企業経営者が損害を訴える。そのような流れで進み、最後に「皇城院麗華の行為は無責任な経済テロリズムである」という結論に辿り着く。そういう脚本だった。
会議が始まった。
予定通りに進んだ。予定通りに批判が積まれた。
「参考人、皇城院麗華氏」
会場の空気が変わった。
記者席が前のめりになった。傍聴席の市民たちが姿勢を直した。委員たちの一部が、無意識に手を止めた。
黒いスーツ。白い肌。赤いルビーのピアス。
麗華は議場に入ってきた。
舞踏会のように、という表現が最も正確だろう。完全なアウェーの空間を、まるで自分のために設えられた舞台のように歩いた。緊張も、萎縮も、なかった。ただ、いつものように歩いた。
着席した麗華を、委員長が見下ろした。
「皇城院麗華氏。あなたの一連の行動により、何万人もの国民が経済的不安を抱えることになりました。その責任について、どうお考えですか」
会場が応答を待った。
「質問がありますわ」
麗華が遮った。
委員長の眉が上がった。
「参考人が先に質問するというのは──」
「その不安を担保にして誰が空売りで利益を得ましたか?」
議場が静止した。
委員の一人が立ち上がった。
「参考人! この場は──」
「こちら、九条院派に関連するファンドの一覧と、皇城院暴落の三日前からの売買履歴ですわ」
沙夜がタブレットを操作した。議場の大型スクリーンにデータが映し出された。
口座名。売買日時。取引量。利益額。
数字が並ぶ。
「加えて、生活保障予算の削減が決定された翌月に、低所得者向け債権商品を大量購入した投資記録です。予算削減によって生活困窮者が増えることを見越した、事前の仕込みと見られます」
記者席が動いた。ペンが走る音、カメラのシャッター音、キーボードを叩く音が一斉に重なった。
「皆様方は国を守ろうとしたのではなく」
麗華の声が議場に響いた。
「国民の不安を金融商品に変えただけですわ」
「証拠はどこだ! そのデータの出所は!」
委員のひとりが怒鳴った。
「ありますわ」
麗華は微笑んだ。
「提出済みですもの。国税庁と、国際金融監査機関に」
九条院の笑みは、ここで消えた。
議場の外は騒然としていた。
廊下で、複数の議員が携帯電話に怒鳴っていた。秘書が走っていた。記者がマイクを向けていた。
麗華は人の波の中を歩きながら、鷹宮に耳打ちした。
「国際監査機関の担当者と、明後日のミーティングを押さえて頂戴」
「もう連絡取ってあります」
「早いですわね」
「あなたが議場に入った時点で、この展開になると思ってましたから」
麗華は少しだけ口角を上げた。
「読まれてしまいましたわね」
「十分の一くらいは」
「上出来ですわ」
国会議事堂の前に、人が集まっていた。デモではなかった。市民がスマートフォンを掲げて何かを撮影していた。
今日の公聴会の中継を見て来た人たちだろう。
麗華はその景色を一秒だけ見て、歩き続けた。
その夜から世界が動いた。
国際金融監査機関が、九条院派関連ファンドへの調査開始を発表した。同日、スイス当局が口座の一時凍結措置を取った。翌朝、九条院派の参議院議員が二名、政治資金規正法違反の疑いで任意の事情聴取に応じた。
市場では、九条院派の関連銘柄が暴落した。
皇城院株は逆に反発した。
理由は単純だ。膿が出た企業は、市場からある程度の信頼を取り戻す。すべての不正が表に出たなら、少なくとも「まだ何か隠れているかもしれない」という恐怖はなくなる。投資家は不確実性を最も嫌うからだ。
「皇城院グループ、解体を開始します」
麗華が発表したのは、国際監査の発表から三日後のことだった。
解体という言葉に記者たちがざわめいた。
「解体とは、つまりは清算ということですか?」
「違いますわ」
麗華は資料を配布させながら言った。
「再編です」
計画の骨格はこうだった。
皇城院グループの事業を、公共性の高いものとそうでないものに分類する。金融、不動産投資、海外資産、利益を最大化するだけの機能を持つ部門は、段階的に縮小する。
その一方で、医療、教育、住宅、介護の分野は、切り離して独立させる。そして、それらを市民ファンド化する。特定の大株主が支配するのではなく、多数の小口投資家が分散して保有する形にする。意思決定に地域住民や利用者が参加できる仕組みを作る。利益の分配を、株主だけでなく労働者にも及ぼす構造にする。
「つまり、独占構造から切り離すということですか」
「ええ」
「しかし、それでは皇城院家は」
「ええ。消えるでしょうね」
麗華はあっさりと言った。
記者が息を呑んだ。
「家名など」
彼女は少しだけ遠くを見るような目をした。
「母の街ひとつ守れなかった時点で、すでに価値はありませんわ」
その夜、沙夜が珍しく長い言葉を話した。
作戦室に二人だけが残っているときのことだった。鷹宮も黒瀬も帰っていた。
「お嬢様」
「何ですか」
「全財産の大半を、今回の再建基金に移管することになります。個人資産も含めて」
「知っています」
「皇城院家から公式に追放されることになります」
「知っています」
「それでも」
沙夜は、珍しく言葉を選ぶような間を置いた。
「後悔はありませんか」
使用人としての問いではなく、個人的な問いだった。
「あなたが聞くのは珍しいですわね」
「滅多には聞きません」
「そうですわね」
麗華は椅子の背に寄りかかった。
「後悔というのは、別の選択肢があったのにそちらを選ばなかったという感情ね」
「そうです」
「わたくしに、別の選択肢はありませんでしたの」
窓の外に夜の東京が広がっていた。
「母が病んで、商店街がなくなって、故郷が駐車場になった。それを見て何もしないでいられる人間ではなかった。それだけのことですわ」
「それだけですか」
「ええ」
麗華は窓の外を見た。
「だから後悔はありません」
沙夜は頷いた。
「沙夜」
「はい」
「あなたは、どうしますか」
「どう、とは」
「皇城院家がなくなれば、あなたの雇用も終わります。わたくしの個人資産もほとんどなくなる。あなたを雇い続ける財力がわたくしにはなくなりますわ」
沙夜は少しの間、答えなかった。
「わたくしはお嬢様についていきます」
「お給料は払えませんわよ?」
「承知しています」
「物好きですわね」
「そうかもしれません」
麗華は沙夜を見た。
何かを言おうとして、やめた。
代わりに頷いた。
その頷きには言葉がなかった。沙夜にはそれで十分だと思えた。
雨の夜。
皇城院本邸の前に、黒塗りの車が一台停まっていた。
麗華は屋敷から出てきた。
傘を持っていなかった。使用人が差し出したが、首を振った。
白亜宮を見た。
白い壁が雨の中で灰色に見えた。正面玄関の照明が水たまりに揺れている。手入れされた庭が雨に打たれて暗く沈んでいる。
二十八年間、この屋敷が生家だった。
好きだったわけではない。だが、あの廊下を母と歩いたことは本当だった。あの窓から見た庭は、確かにここにあった。
麗華は一度だけ目を閉じた。
そして、車に向かって歩き始めた。
ヒールが水たまりを踏んだ。黒い水が跳ねた。
「これで何も残りませんね」
車に近づいたとき鷹宮が言った。
彼は助手席のドアを開けながら、傘を持っていた。だが麗華が傘を断ったことを知っているので、自分の傘の下に入るよう促すことはしなかった。
「いいえ」
麗華は首を振った。
雨が髪を濡らした。
「ようやく、わたくしのものになりますの」
「何が?」
麗華は車のドアを開ける前に、一度空を見上げた。
雨が顔に当たった。だが、彼女にはそれが不快ではなかった。
彼女は車に乗り込んだ。
鷹宮も乗った。沙夜が運転席に座った。
車が動き出した。
白亜宮が遠ざかっていく。
無一文。家なし。権威なし。
だが、潰すべき腐敗がまだある。
作り直すべき仕組みがまだある。
悪女。国賊。怪物。
その悪名こそが棘だった。最初からそうだった。
「次はどこへ向かいますか」
沙夜が前を見たまま聞いた。
「本部に戻って、九条院の残存資産の状況を確認しましょう」
「了解です」
「それと」
麗華は窓の外を見た。
「明日の朝、朝霧町の再建計画の進捗を確認したいですわ。商店街の工事が始まったはずでしょう?」
「はい。先週から基礎工事が入っています」
「そう」
麗華はほんの少しだけ表情を緩めた。
笑顔ではなかった。だが、戦場の外にいる人間の顔だった。
「では、急ぎましょう」
車は、夜の雨の中を走り続けた。



