悪徳令嬢リベリオン

 白亜宮の朝は静かだ。
 夜明け前から使用人たちが動き始めるのに、物音がしない。訓練されているからだ。
 皇城院麗華が白亜宮に泊まることはめったにない。
 だが、今朝はここにいた。
 理由は単純だ。昨夜の父との話が終わったのが深夜を過ぎており、本社へ戻る車を出すには時間が遅すぎた。それだけのことだ。感情的な理由などひとつもない。
 広い客間のベッドで、麗華は夜明けの光が天井を白く染めていくのを眺めていた。眠れなかったわけではない。三時間は眠った。
 頭の中で、父の言葉が繰り返された。
「貧困層は消費し、従い、管理されるから価値がある」
 彼女は着替えを終え、廊下に出た。

 総帥執務室に呼ばれたのは午前九時。
「座れ」
 麗華は座った。
「昨日の続きだ」
 宗一郎は資料を一冊、机の端に押し出した。
「医療、教育、住宅ですか」
「そうだ」
 宗一郎は組んだ手を机に置いた。
「弱者市場は、まだ掘り尽くされていない」
「ええ、そうですわね。お父様の目にはそう映るでしょう」
「お前も同じ目で見ている。違うか?」
 麗華は答えなかった。
「東都を潰し、ライフ・アシストを潰した。そして、お前は再建している。それはなぜだ」
「申し上げましたわ。壊すだけでは三流だと」
「それだけか?」
 宗一郎の目が鋭く光った。
「お前が本当に理想主義者ならこんなやり方は選ばない。株式市場を使い、世論を操作し、タイミングを計って踏み込む。これは革命家の手法ではなく、投資家の手法だ」
「……」
「お前は何かを目指している。その目標に向かって最も効率的な経路を選んでいる。違うか」
 麗華は少しの間、父を見ていた。
 そして、微笑んだ。
「鋭いですわね、お父様」
「答えろ」
「目標は」
 彼女はゆっくりと立ち上がった。
「今のこの構造そのものを、書き換えることですわ」
「構造を書き換える、か」
「お父様が合理的と呼ぶ搾取の設計を、別の設計に置き換える。それが目標です。個別の悪を潰すだけではまた別の悪が同じ穴を埋めるだけ。穴そのものをなくさなければ」
「ほう。大きく出たな」
「ええ」
 麗華は扉の方を向いた。
「ですから、お父様にもそのうちお邪魔することになりますわ」
 宗一郎は答えなかった。
 娘の背中を見送りながら、彼はコーヒーを一口飲んだ。
 熱かった。だが、冷たいものが胸の奥で静かに広がっていくのを感じていた。

 翌日、麗華は黒塗りの車を、東京から二時間の地方都市へ走らせた。
 鷹宮が助手席に座っている。沙夜は後部座席で、タブレットに向かいながら次の案件の資料を整理していた。黒瀬は今日、本部で別の作業がある。
 車が高速を降り一般道を走り始めると景色が変わった。
 コンビニが減る。チェーン店が減る。田んぼと住宅が交互に現れるようになる。信号のない交差点。錆びた看板。シャッターの降りた建物。
 子どもが自転車を押して歩いている。老人が庭先で何かを植えている。軽トラが細い道を走っている。人の生活は、続いている。
 車が止まったのは広大な駐車場。
 巨大なショッピングモールの駐車場。休日でもないのにそれなりの台数が並んでいる。モールの外壁には大手チェーンのロゴが並び、入口の自動ドアが人を吸い込んでいる。
 アスファルトの上を乾いた風だけが通り過ぎた。
「ここが……」
 鷹宮が窓の外を見ながら言った。
「お嬢様のお母様の故郷ですか」
「ええ」
 麗華は車を降りた。
 ヒールがアスファルトに当たる。コツという音が、広い駐車場に響いて消えた。風の中には何も残っていなかった。
 だが、麗華の記憶の中には残っていた。
 二十年以上前。まだ幼かった頃、母に連れられてこの場所に来た。あの頃は商店街があった。アーケードの屋根の下に八百屋があった。魚屋があった。本屋があった。おもちゃ屋があった。そして、いつも煙を上げているコロッケ屋があった。
 母はよく、そこで足を止めた。揚げたてのコロッケをひとつ買って、麗華の手に持たせて笑った。
 その笑顔が、今でも消えない。
 皇城院家の屋敷では見せない、どこにも力の入っていない笑顔。子供の頃の母は、この街に戻るたびに少しだけ違う人間になった。背筋が伸びたまま笑える、白亜宮での母とは違う、ただの一人の人間になっていた。
 その笑顔を麗華は好きだった。
「商店街の人たちはみんな、お母様のことを知っていた。名前を呼んで、笑って、コロッケをおまけしてくれた」
「それが再開発でなくなったんですね」
「ええ」
 強い風が来て黒髪が揺れた。
「皇城院主導の再開発計画。地方活性化、経済合理性、未来への投資。どれも正しい言葉でしたわ」
 美しい言葉でそれらの生活は切り捨てられた。
 計画の資料には「地域経済の活性化」と書かれていた。実際に起きたのは商店街の解体だった。補償はあった。だが補償とは終わりに値段をつけることだった。商店主たちは散り散りになり、長年の顧客との縁は切れ、いくつかの家族は別の街へ移った。
 母が病気になったのは、それから数年後のこと。因果関係は証明できない。
 だが、麗華の中では繋がっていた。
「ここが始まりでしたの」
 彼女はモールの看板を見上げた。
「わたくしが怪物になると決めた」
 鷹宮は何も言わなかった。
 麗華はヒールを鳴らして車に戻った。

 地下クラブ「黒曜」は、都心の雑居ビルの地下三階にある。
 看板はない。入口もわかりにくい。知っている者だけが来る場所だ。
 内装は暗く、落ち着いた色調だった。ジャズが低く流れ、上質な革のソファが並び、年代物のウイスキーが整然と棚に並ぶ。ここには誰でも入れるわけではない。招待状がなければ、そもそも場所が知らされない。
 その夜の招待客は十名を越えていた。
 大臣が二名。省庁の事務次官が一名。大手企業のCEOが三名。海外投資ファンドの日本代表が二名。元最高裁判事が一名。残りは、表に名前を出せない者たち。そして──
 九条院貴政(くじょういんたかまさ)。財務大臣。表向きの肩書はそれだが、実態はもっと広い。彼が動けば法案が動く。彼が頷けば予算がつく。彼が首を振ればどんな計画も日の目を見ない。政治家たちは彼の機嫌を窺い、官僚たちは彼の意図を先読みし、企業たちは彼への利益提供を続ける。
 六十八歳。柔和な顔立ち。だが、その目が笑ったところを誰も見たことがなかった。
 麗華がその場に現れたのは招待を受けたからだ。何が目的かは来る前からわかっていた。
「初めまして、麗華嬢」
 九条院は立ち上がり、手を差し出した。
 麗華はその手を取り、短く握った。
「初めまして」
「噂は聞いていたが、実物は予想以上だ」
 九条院の隣のソファが空いていた。彼女を自分の右隣に置くことで、この場での序列を視覚的に示しているのだろう。
 九条院は語り始めた。
「先日の会見、見ていたよ。搾取は効率が悪い、とは面白い言い方をする」
「ええ。事実ですもの」
「君のやり方は興味深い。壊すだけでなく再建する。破壊と創造をセットにしてコストとして計算に入れる。従来の買収屋とは違う」
「過分な評価ですわ」
「いや、本物だ」
 九条院はウイスキーを一口含んだ。
「だから言う。君の動きはここまでは正しい。だが、これ以上進むと別の問題が起きる」
「別の問題?」
「市場が荒れる。君が正義を振りかざすたびにどこかが不安定になる。不安定は嫌いなんでね、私は」
 麗華は微笑んだ。
「管理、というわけですか」
「安定した社会の方が皆が幸せだろ」
「その皆とは、この部屋にいる方々のことですか? それとも、この街で生きている誰かのことですか?」
「麗華嬢」
「完全な救済は統治の敵だとお思いですか?」
 鷹宮は壁際で身を固くしていた。ここで核心を突くのかと思った。
 だが、麗華は既に攻めに入っていた。
「違う」
 九条院は微笑んだ。
「完全な救済など不可能だ。私が言いたいのは、その不可能を知った上でどう舵を切るかということだ。君の理想は美しい。だが、管理できなければ、それはただの混乱だ」
「管理できるなら許容する、と?」
「そういうことだ」
「あなたは」
 彼女の声がわずかに冷えた。
「人間を資源と仰るのですね」
 九条院は否定しなかった。
「それは悪いことかね」
「いいえ」
 麗華は立ち上がった。
「ただ」
 彼女は一度だけ、九条院の目を真正面から見た。
「資源は枯渇しますわ。搾り取れば」
 その言葉だけを置いて、麗華はグラスを手に持ったまま席を離れた。

 黒瀬から連絡が入ったのは翌朝のことだった。
「出ました」
 声に緊張が滲んでいた。
 作戦室に戻ると、黒瀬がモニターの前に立っていた。鷹宮は既に来ていて、椅子に座ったまま腕を組んでいた。その表情を見た瞬間、麗華は内容の重さを察した。
 黒瀬がデータを展開した。
 生活保護利権。皇城院グループの関連法人が、生活保護受給者向けの住宅を管理し、保護費の大半を家賃として回収する構造。全国十七都市。対象者、推定六千人以上。
 再開発キックバック。地方自治体の再開発案件に皇城院が絡み、設計費・施工費の一部が政治家の政治資金団体へ還流する仕組み。十年以上にわたる継続的な運用。朝霧町の商店街再開発も、その一覧に含まれていた。
 教育ローン債権。ライフ・アシストが生み出した奨学金ローンの債権を皇城院系のファンドが買い取り、高利で運用していた。つまり、ライフ・アシストは末端の実行部隊にすぎず、その上流で皇城院が利益を得ていたのだ。
 そして、すべての中心にひとつの署名があった。
 ──皇城院宗一郎。
「最悪だ」
 鷹宮が吐き捨てた。
「皇城院そのものが日本最大の搾取装置だった。東都もライフ・アシストも末端だったんだ。潰したところで源流は変わらない」
「ええ」
 麗華の声は静かだった。
「知っていましたわ」
 鷹宮が振り返った。
「知っていた?」
「ええ」
「では、なぜ」
「だからこそ、ここにいるのです」
 そのとき、黒瀬がモニターを見たまま言った。
「つまりは、外を片付けて、それから中心に向かうつもりだったんですね」
「外堀を埋める、とも言いますわ」
「一人でそれをやる気だったのか」
 鷹宮の声には怒りとも悲しみともつかないものが混じっていた。
「なぜ言わなかった」
「言えばあなたは来ましたか?」
 鷹宮は答えなかった。
 来なかったかもしれない。それが正直なところだった。皇城院グループ全体を相手にするなどと聞いていれば、最初の段階で踵を返していたかもしれない。
「今は来ています」
 麗華は頷いた。そこには、一人ではないということへのかすかな安堵のようなものが含まれていた。

 皇城院グループ定例株主総会。
 東京国際フォーラムのホールAを借り切り、報道陣も入る大規模な催しだ。株主、機関投資家、報道関係者が三千名近く集まる。ここ数年、この総会は次期後継候補としての麗華を披露する場という側面も持っていた。
 だからこそ、誰もが油断していた。
 壇上には宗一郎。その隣に麗華。今年も粛々と事業報告が行われ、株主への説明が続き、そして後継について何らかのアナウンスがある。そういう筋書きを全員が前提としていた。
「それでは、次に──」
 司会者の声が止まった。
 麗華が立ち上がったからだ。
 予定にない動きだった。議事進行の手順とは違う。司会者は慌てていたが、宗一郎は動かなかった。静かに娘を見ていた。
「提案があります」
 会場がざわめいた。
「皇城院グループ、全関連企業の内部資料、裏資産の運用実態、政治献金の流れ、及び海外租税回避に関する記録を全面公開いたします」
「何を言っている!」
「正気か!」
 壇上の役員たちが立ち上がった。マイクを奪おうとする者、麗華の腕を掴もうとする者、スクリーンのケーブルを抜こうとする者。
 遅かった。
「腐敗は継承いたしません」
 麗華の声が混乱の上を通り過ぎた。
 スクリーンが点灯した。
 沙夜が端末を操作していた。同時に黒瀬が本部からリモートでシステムに侵入した。二つの経路でデータがスクリーンに映し出された。
 生活保護利権。再開発キックバック。教育ローン債権の連鎖。租税回避口座。献金台帳。そして、それらすべてを束ねる一枚の内部文書。
 会場が悲鳴に満ちた。
「自社を潰す気か!」
「ええ」
 麗華は嗤った。
 場の混乱の中で、彼女だけが静かだった。
「終わらせますの」
 そのとき、宗一郎が動いた。立ち上がりマイクに向かった。会場が一瞬だけ静まった。宗一郎が話すということは、何かが変わるということ。
 宗一郎は一度だけ麗華を見た。その目に、何があったのか。怒りか。落胆か。
 麗華はその目を真正面から受け止めた。逸らさなかった。謝罪も懇願もなかった。
 宗一郎はマイクを手に取った。
 だが、何も言わなかった。
 そのままマイクを置き、席に戻った。
 宗一郎は結局、娘を止めなかった。

 その日、東京証券取引所の皇城院関連銘柄はストップ安をつけた。
 テレビの経済ニュースは臨時特番を組み、アナウンサーが青い顔で数字を読み上げた。政界では緊急連絡が飛び交い、九条院派の議員たちが慌ただしく動き始めた。
 皇城院麗華が自社を壊した。
 その夜の記者会見は、総会の会場とは別の場所で開かれた。
「皇城院家を自分で壊す気ですか!?」
「国家経済への影響をどう考えているんですか!?」
「動機は何ですか!?」
 麗華はフラッシュの嵐の中に立ち、見渡した。
 カメラを。マイクを。そして、その向こうにいるすべての人間を。
「質問が違いますわね」
 声は静かだった。
「わたくしが今日したことは、一つの問いを立てたにすぎませんの」
「問い?」
「この国は誰のために動いているのか、という問いです」
 フラッシュが続いた。
「わたくしの答えはもう出ています」
 赤い唇が開いた。
「リベリオンを開始します」
 誰もが次の言葉を待った。
 だが、麗華はそれ以上を語らなかった。
 黒いスーツの裾が揺れた。ヒールの音が、会見場の床を鳴らした。
 その音が遠ざかっていくのを、集まった全員が聞いていた。

 車の中で沙夜が言った。
「お嬢様。今日のことは、正しかったと思います」
「わたくしも、そう思いますわ」
 麗華は答えた。
 窓の外を見たまま。声の色は変わらないまま。
 だが、その目の奥にほんの一瞬だけ何かが灯った。
 炎でも光でもない。ただ、静かに燃え続けるもの。
 麗華は姿勢を直した。
「本番はここからですわ」
 車は夜の街を走り続けた。