ライフ・アシスト・ファイナンスへの調査が本格化したのは、晩餐会から三日後のことだった。
黒瀬ジンはその三日間をほとんど眠らずに過ごした。
リベリオン本部と呼ばれる作戦室。外からはただの企業オフィスにしか見えない。だが、内側には四面すべてに大型モニターが並び、床にはケーブルが這い、コーヒーカップとエナジードリンクの缶が散乱している。
黒瀬のキーボードを叩く指が止まったのは、夜明け前の午前四時過ぎだった。
「……出た」
彼はヘッドセットを外した。
モニターに映し出されたのはライフ・アシストの内部サーバーから引き出した顧客データの一部。表向きの契約書と実際の金利計算の乖離。「奨学金返済サポート」という名目で結ばれた契約の裏に埋め込まれた高金利ローンの条項。そして、返済不能になった顧客が系列の人材斡旋会社へと「自発的な意思で」転職している記録。
自発的な意思で。
黒瀬は鼻で笑った。
二十三歳の女性。奨学金返済に詰まり、無利子サポートに飛びついた結果、複雑な契約条項で膨らんだ債務を抱え、系列工場へ。違約金条項があるので三年間は逃げられない。
黒瀬はコーヒーを一口飲み、もう一度キーボードに向かった。
「全部いただきますよ」
翌朝、麗華はそのデータを受け取り三分で読んだ。
「予想通りでしたわね」
「もっと怒ってくださいよ」
鷹宮は苦い顔で言った。
「わかってますわ」
麗華の声は変わらず平坦で、感情を映さない。だが彼女の指先はあるページを押さえていた。鷹宮はそれを見たが、何も言わなかった。
「だからこそ、怒りで動いては駄目ですの」
麗華は指先を離した。
「感情は燃料になる。でも、判断は別のものでしなければ」
「わかりました」
「さて、次の手順を確認しましょう」
ライフ・アシスト・ファイナンス代表取締役、神崎徹。五十四歳。痩身で、常に作り笑いを口元に張り付けたような男。メディアへの露出を厭わず、若者支援のシンポジウムに登壇し、経済番組のコメンテーターまで務める。社会的起業家というレッテルを自ら貼り、そのイメージで信頼を集めていた。
木曜夜九時、民放の経済討論番組「ネクスト・ジャパン」。
神崎はスタジオのソファに余裕の姿勢で腰かけていた。
「我々は若者にチャンスを与えているだけです。今の時代、自己責任の意識を持つことが──」
スタジオのドアが開いた。スタッフではない。
スーツ姿のアシスタントを一人だけ連れた、黒い女だった。
「こんばんは」
スタジオが静止した。
カメラを向けていたスタッフが振り返り、ディレクターが頭を抱え、進行を担うアナウンサーが口を半開きにした。生放送中だ。
「皇城院さん!?」
「少々、自己責任について興味がありまして」
麗華はスタジオを見渡し、空いていた椅子に自分の執務室のソファに腰を下ろすかのように座った。
カメラが反射的に彼女を捉えた。
「か、皇城院様、本日のゲストは別の方なのですが……」
「あら、そのゲストの方、いらっしゃってはいないようですが?」
麗華の根回しだ。
焦った司会者はディレクターの方を見た。ディレクターは視聴率計算を一秒で終えると、小さく頷いた。これは稼げると踏んだのだ。
一方、神崎の笑みはまだ崩れていない。
「皇城院さん。折角お越しいただいたのですから、議論に加わっていただきましょう。若者への金融リテラシー教育は大切だと思いませんか?」
「ええ」
麗華は神崎を見た。
「とても大切ですわ」
一拍の間。
「神崎社長」
「はい」
「あなたの会社が返済不能になった顧客を系列工場へ最低賃金で斡旋し、三年間の違約金条項で拘束している件についてですが」
神崎の顔から作り笑いが消えた。代わりに浮かんだのは計算の色だ。ここで否定するか、あるいは論点をずらすか、それとも制作側に圧力をかけるか、あらゆる選択肢を一瞬で並べ始めた。
「何の話でしょうか」
「これを聴いていただけます?」
麗華が目配せすると、沙夜はボイスレコーダーを取り出した。
スタジオに、神崎の声が流れる。
『払えないなら働け。人生を担保にしろ。逃げたきゃ逃げてみろ、違約金で全部持ってくからな』
音響スタッフが何かを叫んだ。しかし、生放送は止まらない。
「き、貴様ァ!」
神崎が立ち上がった。その瞬間、作られた紳士の仮面が剥がれ落ちた。
「自己責任でございましょう?」
麗華の声は、台風の眼のように周囲の騒乱とは別次元で静まり返っていた。
「ご自身の発言に、どうか責任を持たれて」
神崎は口を開いたが言葉は出なかった。
翌日、ライフ・アシスト・ファイナンスの株価は三十七パーセント下落した。そして、金融庁は調査を開始した。三つの提携企業が契約解消を通告してきた。
社長室に篭った神崎が弁護士に電話をかけている頃、皇城院グループは静かに、ライフ・アシスト関連の株式を市場から買い集め始めていた。
作戦室には重い沈黙が満ちていた。
黒瀬がモニターに映し出したのは、ライフ・アシストの系列企業群の倒産連鎖を示すデータだった。
「見ろよ、これ」
彼には珍しく、声から軽さが消えていた。
「株価暴落で系列ファンドが焦げ付いた。提携していた工場三社は資金繰り悪化。うち、二社が事業停止を決めた」
「派遣社員や下請けの数は?」
鷹宮が問う。
「合わせて約八百人。うち半数以上が非正規」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
「俺たちは、弱者を救うために動いた。だが結果として失業者を増やした」
「それは事実ですわ」
麗華が言った。
「それで?」
鷹宮が振り返った。
「それで、って……八百人ですよ」
彼女はゆっくりと窓から視線を戻した。その目の中には何かがあった。鷹宮が今まで見たことのない何か。後悔ではない。だが、確かに重さのある何か。
「わたくし、計算が足りませんでしたわ」
彼女が自分の誤りを認める声を、鷹宮は初めて聞いた。
「失業者の再雇用まで引き受ける算段をしておくべきでしたわ。次はそうします」
「次って」
「では、今から対応しますわ」
麗華は立ち上がった。
「足りませんわね。破壊だけでは」
「どういうことですか」
「雇用ごと奪われるなら、雇用ごと作り直せばいい」
その目はこれまでと変わらず冷たかった。
だが、その冷たさの奥底に、かすかに火が灯っている気がした。
「ジン。今日中に閉鎖工場の設備評価を出して頂戴」
「マジすか?」
「鷹宮さん。地域雇用の再教育補助、活用できる制度を洗い出して」
「何をするつもりです?」
麗華は答えず、どこかに電話をかけていた。
一週間後、皇城院グループから発表があった。
会見場に集まった記者は百名を超えた。麗華の会見はいつも予測不能だという評判がすでにある。
「新規事業についてご説明申し上げます」
スクリーンに映し出された計画の名称《リベリオン・キャリア・リビルド計画》。
記者たちはざわめいた。
「ライフ・アシスト関連企業の解体に伴い発生した失業者、約八百名の再雇用を保証いたします。加えて、無料の職業訓練校を全国五都市に設立。カリキュラムはIT、介護、製造、農業の四分野。受講者には生活費の補助も行います」
ページが変わる。
「シングルマザーおよびひとり親世帯向けの住宅支援プログラム。奨学金債務の再編ファンド。低所得者向けの生活再建マイクロ投資制度」
誰もが計算していた。この規模の事業を一民間企業が発表している。経費はどこから出るのか。どういう採算なのか。何が目的なのか。
記者のひとりが手を挙げた。
「皇城院さん、これは慈善事業ですか?」
「誤解なさらないで」
麗華は遮った。フラッシュが瞬いた。
「わたくし、慈善など嫌いですの」
会場が静まる。
「慈善とは施しです。施しは上下を作る。救う側が上で救われる側が下。それは構造を変えない。ただ、依存関係を温存するだけですわ」
彼女はゆっくりと全員を見渡した。
「わたくしがしているのは、立つ場所を奪われた人間にもう一度立てる床を用意することです。それは慈善ではなくインフラ整備ですの」
別の記者が声を上げた。
「では、採算は?」
「人を貧困に押し込め、そこから金を吸い上げる仕組みは、一見利益が出るように見える。でもそれは社会全体のコストを見ていない。生活保護費、医療費、治安コスト、生産性の損失、貧困ビジネスが社会に押しつけているツケは、最終的に税金に回ってきます」
そこで一拍置いた。
「つまり、あなた方の財布から出ているのですわ。わたくしはそれを、もっと効率のいい場所に使っているだけです」
しばらく、誰も手を挙げなかった。
麗華は壇上から降りた。その顔には、満足の色も、昂揚の色もなかった。次の仕事があった。
麗華が皇城院家の本邸に呼ばれたのは、その夜のことだった。
白亜宮、東京の一等地に建つ、もはや邸宅というより要塞のような屋敷。白い石造りの外壁に、手入れの行き届いた庭。玄関を入れば大理石の床と巨大な絵画、気配を消して動く使用人たち。麗華が子供の頃から慣れ親しんだ場所だが、いつ来ても居心地が悪かった。
美しさとは選別された権力の形だとこの家は教える。ならば、美しくない者たちはどこへ行けばいいのか。
最上階の総帥執務室。
父、皇城院宗一郎はワインを揺らしていた。
七十に手が届こうとする年齢でなお、この男には猛獣のような圧があった。細く見えても折れない鉄のような体格。白髪は余すことなく整えられ、スーツの折り目は刃物のように鋭い。若い頃に事業を興し、傾いた家を立て直し、今や日本最大の財閥グループを握るこの男は、優しい笑顔と冷酷な判断を同時に持つことができる。それがこの男の最も恐ろしいところだと麗華は物心ついた頃から知っていた。
「座れ」
麗華は従った。命令だからではない。これは交渉の盤上であると理解し、反発する必要がないと判断したからだ。
宗一郎は卓上に分厚い資料ファイルを放った。
「東都再建計画。ライフ・アシスト再編。キャリア・リビルド計画の骨格。数字だけ見れば見事な手際だ」
「光栄ですわ」
「だが」
空気が変わった。
「余計な希望を与えすぎだ」
「希望?」
「弱者救済など麻薬にすぎん」
宗一郎はワインを一口飲むと、グラスを置いた。
「貧困層は消費し、従い、管理されるから価値がある。不満を持たせる程度に貧しく、逃げ出せない程度に希望を与える。それが最も効率的な統治だ。全員を救ってみろ。市場は鈍る。人は従わなくなる」
麗華は静かに笑った。
「人間を燃料程度には見ていらっしゃるのですね」
「綺麗事を言うな」
宗一郎の視線が鋭くなった。
「麗華。支配とは善意ではなく構造だ。お前は弱者を救っているつもりで、まだ優しい支配者を気取っている。慈悲深い皇城院という物語を自分で書いているだけだ」
反論はできた。感情的な言葉も論理的な反証も、どちらも喉の奥に用意されていた。だが、彼女はそのどちらも使わなかった。
「違いますわ」
「ほう?」
「わたくしは、支配者の椅子を奪いに来たのです」
時計の音だけが聞こえた。宗一郎はグラスを置いたまま動かず、娘を見ていた。
そして、宗一郎は笑った。低く、腹の底から来るような笑い。
「ようやく面白くなった」
「話はそれだけですの?」
「では、ひとつだけ聞こう」
宗一郎が言った。
「どこまでやるつもりだ」
麗華は扉の方を向いたまま答えた。
「最後まで」
「最後とは」
「腐っているものが腐っていない何かに変わるまで」
彼女は扉を開けた。
「それとも、お父様はそこに辿り着く前に邪魔をなさいますの?」
宗一郎は答えなかった。遠ざかる黒いドレスを、老いた猛獣の目で、初めて警戒という感情を持って見ていた。
扉が閉まった。
宗一郎はワインを一口飲み、ゆっくりと呟いた。
「……誰に似たのやら」
その答えは、自分でわかっていた。だから、笑いながら恐れていた。
廊下を歩きながら、麗華は一度だけ足を止めた。
長い廊下の端に窓がある。夜の庭が見える。
幼い頃、母とよくこの廊下を歩いた。母は麗華の手を引いて、外の景色を指さしながら商店街の話をした。コロッケの匂い。祭りの音。皇城院家とは違う、別の世界の話。
その世界は、今はない。
皇城院の手で消されたのだ。
麗華は視線を窓から外した。
また歩き始めた。ヒールの音が廊下に響く。
次に彼女が向かうのは、もっと深い場所。
父という巨悪のさらに奥に潜む、本当の怪物のいる場所。
黒瀬ジンはその三日間をほとんど眠らずに過ごした。
リベリオン本部と呼ばれる作戦室。外からはただの企業オフィスにしか見えない。だが、内側には四面すべてに大型モニターが並び、床にはケーブルが這い、コーヒーカップとエナジードリンクの缶が散乱している。
黒瀬のキーボードを叩く指が止まったのは、夜明け前の午前四時過ぎだった。
「……出た」
彼はヘッドセットを外した。
モニターに映し出されたのはライフ・アシストの内部サーバーから引き出した顧客データの一部。表向きの契約書と実際の金利計算の乖離。「奨学金返済サポート」という名目で結ばれた契約の裏に埋め込まれた高金利ローンの条項。そして、返済不能になった顧客が系列の人材斡旋会社へと「自発的な意思で」転職している記録。
自発的な意思で。
黒瀬は鼻で笑った。
二十三歳の女性。奨学金返済に詰まり、無利子サポートに飛びついた結果、複雑な契約条項で膨らんだ債務を抱え、系列工場へ。違約金条項があるので三年間は逃げられない。
黒瀬はコーヒーを一口飲み、もう一度キーボードに向かった。
「全部いただきますよ」
翌朝、麗華はそのデータを受け取り三分で読んだ。
「予想通りでしたわね」
「もっと怒ってくださいよ」
鷹宮は苦い顔で言った。
「わかってますわ」
麗華の声は変わらず平坦で、感情を映さない。だが彼女の指先はあるページを押さえていた。鷹宮はそれを見たが、何も言わなかった。
「だからこそ、怒りで動いては駄目ですの」
麗華は指先を離した。
「感情は燃料になる。でも、判断は別のものでしなければ」
「わかりました」
「さて、次の手順を確認しましょう」
ライフ・アシスト・ファイナンス代表取締役、神崎徹。五十四歳。痩身で、常に作り笑いを口元に張り付けたような男。メディアへの露出を厭わず、若者支援のシンポジウムに登壇し、経済番組のコメンテーターまで務める。社会的起業家というレッテルを自ら貼り、そのイメージで信頼を集めていた。
木曜夜九時、民放の経済討論番組「ネクスト・ジャパン」。
神崎はスタジオのソファに余裕の姿勢で腰かけていた。
「我々は若者にチャンスを与えているだけです。今の時代、自己責任の意識を持つことが──」
スタジオのドアが開いた。スタッフではない。
スーツ姿のアシスタントを一人だけ連れた、黒い女だった。
「こんばんは」
スタジオが静止した。
カメラを向けていたスタッフが振り返り、ディレクターが頭を抱え、進行を担うアナウンサーが口を半開きにした。生放送中だ。
「皇城院さん!?」
「少々、自己責任について興味がありまして」
麗華はスタジオを見渡し、空いていた椅子に自分の執務室のソファに腰を下ろすかのように座った。
カメラが反射的に彼女を捉えた。
「か、皇城院様、本日のゲストは別の方なのですが……」
「あら、そのゲストの方、いらっしゃってはいないようですが?」
麗華の根回しだ。
焦った司会者はディレクターの方を見た。ディレクターは視聴率計算を一秒で終えると、小さく頷いた。これは稼げると踏んだのだ。
一方、神崎の笑みはまだ崩れていない。
「皇城院さん。折角お越しいただいたのですから、議論に加わっていただきましょう。若者への金融リテラシー教育は大切だと思いませんか?」
「ええ」
麗華は神崎を見た。
「とても大切ですわ」
一拍の間。
「神崎社長」
「はい」
「あなたの会社が返済不能になった顧客を系列工場へ最低賃金で斡旋し、三年間の違約金条項で拘束している件についてですが」
神崎の顔から作り笑いが消えた。代わりに浮かんだのは計算の色だ。ここで否定するか、あるいは論点をずらすか、それとも制作側に圧力をかけるか、あらゆる選択肢を一瞬で並べ始めた。
「何の話でしょうか」
「これを聴いていただけます?」
麗華が目配せすると、沙夜はボイスレコーダーを取り出した。
スタジオに、神崎の声が流れる。
『払えないなら働け。人生を担保にしろ。逃げたきゃ逃げてみろ、違約金で全部持ってくからな』
音響スタッフが何かを叫んだ。しかし、生放送は止まらない。
「き、貴様ァ!」
神崎が立ち上がった。その瞬間、作られた紳士の仮面が剥がれ落ちた。
「自己責任でございましょう?」
麗華の声は、台風の眼のように周囲の騒乱とは別次元で静まり返っていた。
「ご自身の発言に、どうか責任を持たれて」
神崎は口を開いたが言葉は出なかった。
翌日、ライフ・アシスト・ファイナンスの株価は三十七パーセント下落した。そして、金融庁は調査を開始した。三つの提携企業が契約解消を通告してきた。
社長室に篭った神崎が弁護士に電話をかけている頃、皇城院グループは静かに、ライフ・アシスト関連の株式を市場から買い集め始めていた。
作戦室には重い沈黙が満ちていた。
黒瀬がモニターに映し出したのは、ライフ・アシストの系列企業群の倒産連鎖を示すデータだった。
「見ろよ、これ」
彼には珍しく、声から軽さが消えていた。
「株価暴落で系列ファンドが焦げ付いた。提携していた工場三社は資金繰り悪化。うち、二社が事業停止を決めた」
「派遣社員や下請けの数は?」
鷹宮が問う。
「合わせて約八百人。うち半数以上が非正規」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
「俺たちは、弱者を救うために動いた。だが結果として失業者を増やした」
「それは事実ですわ」
麗華が言った。
「それで?」
鷹宮が振り返った。
「それで、って……八百人ですよ」
彼女はゆっくりと窓から視線を戻した。その目の中には何かがあった。鷹宮が今まで見たことのない何か。後悔ではない。だが、確かに重さのある何か。
「わたくし、計算が足りませんでしたわ」
彼女が自分の誤りを認める声を、鷹宮は初めて聞いた。
「失業者の再雇用まで引き受ける算段をしておくべきでしたわ。次はそうします」
「次って」
「では、今から対応しますわ」
麗華は立ち上がった。
「足りませんわね。破壊だけでは」
「どういうことですか」
「雇用ごと奪われるなら、雇用ごと作り直せばいい」
その目はこれまでと変わらず冷たかった。
だが、その冷たさの奥底に、かすかに火が灯っている気がした。
「ジン。今日中に閉鎖工場の設備評価を出して頂戴」
「マジすか?」
「鷹宮さん。地域雇用の再教育補助、活用できる制度を洗い出して」
「何をするつもりです?」
麗華は答えず、どこかに電話をかけていた。
一週間後、皇城院グループから発表があった。
会見場に集まった記者は百名を超えた。麗華の会見はいつも予測不能だという評判がすでにある。
「新規事業についてご説明申し上げます」
スクリーンに映し出された計画の名称《リベリオン・キャリア・リビルド計画》。
記者たちはざわめいた。
「ライフ・アシスト関連企業の解体に伴い発生した失業者、約八百名の再雇用を保証いたします。加えて、無料の職業訓練校を全国五都市に設立。カリキュラムはIT、介護、製造、農業の四分野。受講者には生活費の補助も行います」
ページが変わる。
「シングルマザーおよびひとり親世帯向けの住宅支援プログラム。奨学金債務の再編ファンド。低所得者向けの生活再建マイクロ投資制度」
誰もが計算していた。この規模の事業を一民間企業が発表している。経費はどこから出るのか。どういう採算なのか。何が目的なのか。
記者のひとりが手を挙げた。
「皇城院さん、これは慈善事業ですか?」
「誤解なさらないで」
麗華は遮った。フラッシュが瞬いた。
「わたくし、慈善など嫌いですの」
会場が静まる。
「慈善とは施しです。施しは上下を作る。救う側が上で救われる側が下。それは構造を変えない。ただ、依存関係を温存するだけですわ」
彼女はゆっくりと全員を見渡した。
「わたくしがしているのは、立つ場所を奪われた人間にもう一度立てる床を用意することです。それは慈善ではなくインフラ整備ですの」
別の記者が声を上げた。
「では、採算は?」
「人を貧困に押し込め、そこから金を吸い上げる仕組みは、一見利益が出るように見える。でもそれは社会全体のコストを見ていない。生活保護費、医療費、治安コスト、生産性の損失、貧困ビジネスが社会に押しつけているツケは、最終的に税金に回ってきます」
そこで一拍置いた。
「つまり、あなた方の財布から出ているのですわ。わたくしはそれを、もっと効率のいい場所に使っているだけです」
しばらく、誰も手を挙げなかった。
麗華は壇上から降りた。その顔には、満足の色も、昂揚の色もなかった。次の仕事があった。
麗華が皇城院家の本邸に呼ばれたのは、その夜のことだった。
白亜宮、東京の一等地に建つ、もはや邸宅というより要塞のような屋敷。白い石造りの外壁に、手入れの行き届いた庭。玄関を入れば大理石の床と巨大な絵画、気配を消して動く使用人たち。麗華が子供の頃から慣れ親しんだ場所だが、いつ来ても居心地が悪かった。
美しさとは選別された権力の形だとこの家は教える。ならば、美しくない者たちはどこへ行けばいいのか。
最上階の総帥執務室。
父、皇城院宗一郎はワインを揺らしていた。
七十に手が届こうとする年齢でなお、この男には猛獣のような圧があった。細く見えても折れない鉄のような体格。白髪は余すことなく整えられ、スーツの折り目は刃物のように鋭い。若い頃に事業を興し、傾いた家を立て直し、今や日本最大の財閥グループを握るこの男は、優しい笑顔と冷酷な判断を同時に持つことができる。それがこの男の最も恐ろしいところだと麗華は物心ついた頃から知っていた。
「座れ」
麗華は従った。命令だからではない。これは交渉の盤上であると理解し、反発する必要がないと判断したからだ。
宗一郎は卓上に分厚い資料ファイルを放った。
「東都再建計画。ライフ・アシスト再編。キャリア・リビルド計画の骨格。数字だけ見れば見事な手際だ」
「光栄ですわ」
「だが」
空気が変わった。
「余計な希望を与えすぎだ」
「希望?」
「弱者救済など麻薬にすぎん」
宗一郎はワインを一口飲むと、グラスを置いた。
「貧困層は消費し、従い、管理されるから価値がある。不満を持たせる程度に貧しく、逃げ出せない程度に希望を与える。それが最も効率的な統治だ。全員を救ってみろ。市場は鈍る。人は従わなくなる」
麗華は静かに笑った。
「人間を燃料程度には見ていらっしゃるのですね」
「綺麗事を言うな」
宗一郎の視線が鋭くなった。
「麗華。支配とは善意ではなく構造だ。お前は弱者を救っているつもりで、まだ優しい支配者を気取っている。慈悲深い皇城院という物語を自分で書いているだけだ」
反論はできた。感情的な言葉も論理的な反証も、どちらも喉の奥に用意されていた。だが、彼女はそのどちらも使わなかった。
「違いますわ」
「ほう?」
「わたくしは、支配者の椅子を奪いに来たのです」
時計の音だけが聞こえた。宗一郎はグラスを置いたまま動かず、娘を見ていた。
そして、宗一郎は笑った。低く、腹の底から来るような笑い。
「ようやく面白くなった」
「話はそれだけですの?」
「では、ひとつだけ聞こう」
宗一郎が言った。
「どこまでやるつもりだ」
麗華は扉の方を向いたまま答えた。
「最後まで」
「最後とは」
「腐っているものが腐っていない何かに変わるまで」
彼女は扉を開けた。
「それとも、お父様はそこに辿り着く前に邪魔をなさいますの?」
宗一郎は答えなかった。遠ざかる黒いドレスを、老いた猛獣の目で、初めて警戒という感情を持って見ていた。
扉が閉まった。
宗一郎はワインを一口飲み、ゆっくりと呟いた。
「……誰に似たのやら」
その答えは、自分でわかっていた。だから、笑いながら恐れていた。
廊下を歩きながら、麗華は一度だけ足を止めた。
長い廊下の端に窓がある。夜の庭が見える。
幼い頃、母とよくこの廊下を歩いた。母は麗華の手を引いて、外の景色を指さしながら商店街の話をした。コロッケの匂い。祭りの音。皇城院家とは違う、別の世界の話。
その世界は、今はない。
皇城院の手で消されたのだ。
麗華は視線を窓から外した。
また歩き始めた。ヒールの音が廊下に響く。
次に彼女が向かうのは、もっと深い場所。
父という巨悪のさらに奥に潜む、本当の怪物のいる場所。



