東京湾を見下ろすなら夜が一番いい。
超高層ホテル「グラン・オルフェウス」の最上階から東京湾が見えた。
大宴会場「オリンポス」は今夜も満員だった。
天井を埋め尽くすシャンデリアは直径三メートルを超える特注品。一万二千粒ものスワロフスキークリスタルが床から天井まで張り詰めた贅沢な光を受けて、白く、青く、金色に輝く。
政財界の重鎮、海外投資家、老舗名家の当主、視聴率を持つ人気俳優、次世代を担うと謳われる起業家たち。総勢四百名。
日本経済を回しているという自負を持つ者たちが一堂に会する、皇城院グループ主催の慈善晩餐会。
テーマは『未来ある子どもたちへの支援』。実に美しい。そして、実に欺瞞に満ちていた。
バカラのグラスが軽やかに触れ合う音が、あちこちで花を咲かせている。料理はフランス人シェフが腕を振るった七皿のコース。一皿ずつ運ばれるたびにソムリエが年代物のワインをグラスへ注ぐ。
「東都ライフサポート社の今年度寄付額は、かなり増やしていらっしゃいますな。素晴らしい社会貢献です、榊原さん」
声の主は大手建設コンサルの会長、倉島だ。白髪を丁寧に撫でつけ、ダークスーツの胸には慈善団体の徽章が光っている。
声をかけられたのは体格のいい五十代の男性。
榊原義道。東都ライフサポート代表取締役。グラスを傾ける動作は慣れているが、どこか品の欠けた男の素が滲み出ていた。積み上げた金で外見だけを取り繕った男の素の部分が滲み出ている。
「いやいや当然の責務ですよ。我々は社会に生かされているわけですから」
口当たりのいい言葉がよどみなく出てくる。
東都ライフサポート。老人ホーム、障害者グループホーム、福祉住宅、生活支援サービス、介護と福祉を事業の柱に据えた、業界大手の優良企業──表向きは。
実態は生活保護受給者や身寄りのない高齢者を劣悪施設へ囲い込み、国や自治体からの補助金を最大限に吸い上げ、最低限の食事と薬だけを与えて粗利を最大化する、いわゆる「貧困ビジネス」である。収容された老人たちは、古いアパートを転用した施設に押し込められ、貧相な食事を与えられていた。入浴は週に二度だけ。それでも、家族のいない彼らには異議を唱える術も、逃げ出す体力もなかった。
だが、そのような実態をこの会場で話題にする者はいない。
皆が関心を持っているのは、榊原がどれだけ政治家に献金し、どれだけ皇城院グループに利益をもたらすかだ。
「やはり皇城院のお嬢様には敵いませんな」
榊原の目がそのとき、別の方向を向いた。
「麗華様は今夜もお美しい。高嶺の華でございますな」
その瞬間、会場の視線がひとりの女へ収束した。
皇城院麗華。二十八歳。夜そのものを引き裂いて織り上げたような、深い黒のドレス。首元には血のように赤いルビーのネックレスが光っている。
彼女の美しさは人を引き寄せる種類のものではなかった。例えるなら氷を精密に削り出したような美貌。完成されているがゆえに近づきがたい。
そして何よりその瞳。誰にも媚びず、誰にも揺れず、ただそこにあるだけで周囲の温度を奪っていくような冷たく澄んだ黒い瞳。
彼女が歩くだけで空気が張り詰めた。優雅に飾られた舞踏会の会場に猛獣が静かに放たれたように。参列者たちは笑いながら、しかし無意識のうちに道を開けていた。
「高嶺の華ですって」
麗華はグラスを指先でゆっくりと揺らしながら榊原を見た。
見たという表現では足りないかもしれない。品定めをしたと言うほうが正確だろう。
「訂正なさって」
声は鋼のように冷えていた。
「華は美しいだけでしょう?」
一歩。また一歩。
ヒールの音だけが、静まり返った大理石の床に響く。コツ、コツ、コツ。そのリズムはゆっくりで、急いでいるふうもなく、止まるつもりもない。
周囲の会話が途切れた。グラスを持つ手が止まった。誰かが小声で囁くのを、誰かが視線で制した。
「わたくし、棘だけでできておりますの」
榊原の笑顔が一瞬遅れて引きつった。愛想笑いのまま表情が止まった。
「はは、ご冗談を。皇城院様ともあろうお方が」
「ええ。冗談ですわ」
そう言って麗華は微笑んだ。
その微笑みは美しかった。だからこそ、底知れず恐ろしかった。
「あなた程度に本心の言葉を使う価値はありませんもの」
誰かが息を呑んだ。誰かが扇子で口元を隠した。誰かが連れの耳元に口を近づけ、また始まったという顔をした。
傲慢、冷酷、非情。人を人とも思わぬ、社交界のいわゆる悪徳令嬢。
それがこの場にいる全員の認識だった。
「貴様!」
榊原の顔はみるみる赤くなった。
「高齢者の福祉事業を担う私に対して、その侮辱は許されんぞ! いくら皇城院の令嬢とはいえ」
「福祉事業?」
麗華は不思議そうに首を傾けた。
演技ではない。純粋に言葉の意味を確認しているような、無垢な問いだった。
「補助金で弱者を飼育することを、最近はそう呼ぶのですか」
一拍の間。
「勉強になりますわ」
バイオリンの生演奏がかすかに聞こえていたはずなのに、気づけばそれも止まっていた。いや、止まったのではなく、その音すら聞こえなくなるほど場の空気が圧縮されていた。
榊原の額から一筋の汗が落ちた。
「何を根拠にそのような」
「根拠?」
麗華は視線を後ろへ向けた。
そこに立つ女、天堂寺沙夜。麗華付きの執事であり、秘書であり、そして何者でもある女。年齢不詳、無表情の美女。薄いグレーのスーツに身を包み、白い手袋をはめた両手でタブレット端末を静かに抱えている。その瞳に感情はない。
「沙夜」
「はい、お嬢様」
沙夜の指がタブレットの上を滑る。
次の瞬間、会場中央に据えられた巨大スクリーンに何かが映った。
映ったものは、施設の内部写真だった。老朽化した床材に染みだらけの壁紙。布団の上に横たわる骨が浮くほど痩せた老人たちの写真。粗末な給食。職員への残業を強制した記録。政治家の名が連なる裏献金の台帳。そして、死亡率の改ざん記録。
悲鳴が上がった。
「皆様、どうぞご覧くださいませ」
麗華の声はどこまでも優雅だった。
「これが“福祉事業”だそうです」
「不愉快だ! 帰らせていただく」
榊原が扉へ向かった瞬間、沙夜の指が静かにタブレットを操作した。
扉が開いた。
「警視庁です。東都ライフサポート代表取締役、榊原義道さん。ご同行願います」
「国税局査察部です。帳簿の提出をお願いします」
「金融監督庁です。緊急調査命令が出ております。ご協力いただけますね」
榊原は膝から崩れ落ちた。グラスが手から離れ、大理石の床に転がった。砕けはしなかったが、乾いた音を立てて滑り、遠ざかった。
政財界の大物たちは青ざめていた。誰も助けなかった。
さっきまで榊原と笑い合い、グラスを傾け、事業を称賛していた者たちは、最初から無関係だったかのように距離を取っていた。
「市場内買付け、および、第三者割当による株式取得、完了しております」
沙夜が事務的な声で告げた。
「東都ライフサポートの発行済み株式の過半数は、現在、筆頭保有者として皇城院ホールディングスに移っております」
全員が麗華を見た。
公衆の面前で侮辱し、炎上させ、株価を下げ、その裏で静かに買い集める。慈善晩餐会の会場を舞台に、劇を演じながら、その幕の裏で現実の取引を完結させていたのである。
「本日をもって経営陣は全員解任ですわね」
麗華は床に座り込んだままの榊原を、真上から見下ろした。地の底に突き落とすような視線で。
「安心なさい。あなたにも“福祉”を用意しておりますので。最低賃金の介護現場で働いてもらいますわ」
口角が上がるが、目は笑っていなかった。
「ご自身の崇高な理想をどうぞ現場で証明なさって」
皇城院麗華は善人ではない。
彼女が動いた先に弱者が救われるとしても、それは彼女の目的ではなく、結果にすぎない。
ただ、彼女は自分より醜い悪を決して許さなかった。そのことで悪と呼ばれようとも。
会場を去る麗華は記者たちに取り囲まれた。
「皇城院さん。買収が目的ですか?」
「これは正義の行為なのですか?」
麗華は足を止めなかった。
ヒールの音だけが続いていた。
一度だけ彼女は振り返った。
記者たちのフラッシュが集中砲火のように浴びせられる。その光の中で、麗華の赤い唇がゆっくりと動いた。
「正義?」
三日月のように歪んだ。
「そんな安い言葉でこの世界が変わるのなら」
彼女は嗤った。
「誰も泣いてなどおりませんわ」
黒いドレスが翻った。
漆黒の裾が宙に広がって落ちる。
悪女。怪物。冷血令嬢。
その悪名こそが、この腐り切った社会を、正面から買い叩くための最初の通貨だと彼女は思っていた。
夜が明け、日本中が燃えていた。
テレビのワイドショーは朝から特集を組み、コメンテーターたちが口々に語った。経済誌の速報サイトは更新を繰り返し、SNSのトレンドは昨夜から麗華の名が上位を占めたまま動かない。「慈善晩餐会を利用した悪徳令嬢」とワイドショーのテロップは叫び、経済誌は「東都ライフサポート買収劇の全貌」と特集を組んだ。SNSの声は割れていた。「最悪」「アウト」「ただの乗っ取り」という糾弾の声と、「東都は潰れて当然」「老人たちが助かった」「悪い奴が悪い奴を倒しただけ」という複雑な共感がインターネットの海の中で混ざり合い、煮え立っていた。
東京都心、皇城院グループ本社ビル。
地上四十階建てのガラス張りのビルは晴れた朝には空を映して青く光り、曇りの日には鉛色に沈む。昨日から報道陣がビルの前に陣取り、通りがかるスーツ姿の社員に次々とマイクを向けていた。
その最上階、南面全面がガラス張りの執務室で、皇城院麗華は書類にサインをしていた。
「お嬢様、好感度調査の速報です」
天堂寺沙夜がタブレットを差し出した。
「女性層の支持率が上昇しています。特に四十代以上の働く女性層が強いです。高齢者層は施設があった地域を中心に圧倒的支持。一方、富裕層、経済界、保守系政治家からの評価は……」
「壊滅的なんでしょ?」
麗華は書類から目を上げることなく言った。
「ええ」
「結構」
ペンが動く。
「嫌われるのはいつものことよ」
「株価は昨日の午後に一時大幅下落しましたが、朝の時点で上昇に転じています。東都再建への期待感と皇城院グループへの評価でアナリストの見方は割れています」
「当然ですわ」
麗華はようやく顔を上げ、窓の外を一瞬だけ見た。青い空とその下に広がる都市の海。
「腐肉を切り落とせば企業の体力は戻る。わかりやすい算数ですわ」
沙夜がタブレットを引いた瞬間、麗華の視線が机上の別の資料に落ちた。
分厚いファイル。表紙に印字されたタイトル。
【東都ライフサポート施設再建計画 第一次案】
全施設の衛生環境改善スケジュール。介護士の給与の一律引き上げ。前経営陣との違法契約の白紙撤回手続き。入居者への謝罪と補償基金の創設。地域雇用再教育制度の立ち上げ。
破滅させるだけでは三流。奪ったのなら作り直す。
麗華の指先が静かにページをめくる。その横顔は相変わらず冷たく感情を映さない。だが、何かがその目の奥に在った。熱とは呼べない何かが確かに灯っていた。
「次の案件についてですが」
「わかってますわ」
麗華はファイルを閉じた。
「呼んで頂戴」
会議室に集められたのは麗華の極秘組織「リベリオン」。
皇城院グループの公式組織図には存在しない。構成員は麗華とその部下三名。
元検察官・鷹宮真。四十二歳。長身で顎に短い無精ひげ。かつては凄腕の検察官として知られたが、組織の論理に縛られることを嫌い、ある事件を機に辞表を叩きつけた。今は麗華の法的な道筋と、合法と違法のぎりぎりのラインを見極める役割を担っている。
二人目は、ハッカー・黒瀬ジン。二十五歳。細身で常にパーカーのフードをかぶっている。情報セキュリティ会社に在籍していたがそれは表の話で、裏では数々の内部告発を支援してきた。麗華に見出され、今はそのすべての能力を彼女のために使っている。
そして三人目は、執事の天堂寺沙夜。
三人とも、この部屋で笑うことはあまりない。
「次の標的が確定しました」
沙夜がモニターを操作した。映し出された企業名は、《ライフ・アシスト・ファイナンス》。
「若者支援の奨学金返済サポート会社というのが表向きの顔です」
黒瀬が続けた。
「実態は低所得者層へ高金利のカードローンを重ね貸しし、返済不能になった段階で系列のブラック企業へ斡旋。違約金という名の拘束で逃げられなくする、現代のタコ部屋です」
「ターゲット層は?」
鷹宮が問うと、黒瀬はモニターを切り替えた。
「奨学金の返済に詰まった大学生。シングルマザー。非正規の労働者。要するに、声を上げにくく追い詰めやすい人間だけを狙い撃ちにしていますね」
「合法でやってるのかしら?」
「グレーゾーンですね」
「合法であれば問題ないとでも思ってるのかしらね」
問いかけているのではない。むしろ、答えをすでに持った人間の口から言葉が形を借りて出てきているような声。
黒瀬は肩をすくめた。
「お嬢はまた、法の外側で殴るわけですね」
「法律は最低限ですもの」
麗華はテーブルの上の調査資料を一冊手に取り、すらりとした指先でめくった。
「追い込みなさい。ただし」
彼女はそこで初めて全員の顔を順番に見た。
「壊すだけでは終わりませんわ。今回もそのつもりで」
誰も頷きはしなかった。だが全員が理解していた。
これは正義の話ではない。効率の話だ。
腐ったものを壊し、より良いものを作る。そのほうが社会全体として損が少ない。それが彼女の理念だ。
超高層ホテル「グラン・オルフェウス」の最上階から東京湾が見えた。
大宴会場「オリンポス」は今夜も満員だった。
天井を埋め尽くすシャンデリアは直径三メートルを超える特注品。一万二千粒ものスワロフスキークリスタルが床から天井まで張り詰めた贅沢な光を受けて、白く、青く、金色に輝く。
政財界の重鎮、海外投資家、老舗名家の当主、視聴率を持つ人気俳優、次世代を担うと謳われる起業家たち。総勢四百名。
日本経済を回しているという自負を持つ者たちが一堂に会する、皇城院グループ主催の慈善晩餐会。
テーマは『未来ある子どもたちへの支援』。実に美しい。そして、実に欺瞞に満ちていた。
バカラのグラスが軽やかに触れ合う音が、あちこちで花を咲かせている。料理はフランス人シェフが腕を振るった七皿のコース。一皿ずつ運ばれるたびにソムリエが年代物のワインをグラスへ注ぐ。
「東都ライフサポート社の今年度寄付額は、かなり増やしていらっしゃいますな。素晴らしい社会貢献です、榊原さん」
声の主は大手建設コンサルの会長、倉島だ。白髪を丁寧に撫でつけ、ダークスーツの胸には慈善団体の徽章が光っている。
声をかけられたのは体格のいい五十代の男性。
榊原義道。東都ライフサポート代表取締役。グラスを傾ける動作は慣れているが、どこか品の欠けた男の素が滲み出ていた。積み上げた金で外見だけを取り繕った男の素の部分が滲み出ている。
「いやいや当然の責務ですよ。我々は社会に生かされているわけですから」
口当たりのいい言葉がよどみなく出てくる。
東都ライフサポート。老人ホーム、障害者グループホーム、福祉住宅、生活支援サービス、介護と福祉を事業の柱に据えた、業界大手の優良企業──表向きは。
実態は生活保護受給者や身寄りのない高齢者を劣悪施設へ囲い込み、国や自治体からの補助金を最大限に吸い上げ、最低限の食事と薬だけを与えて粗利を最大化する、いわゆる「貧困ビジネス」である。収容された老人たちは、古いアパートを転用した施設に押し込められ、貧相な食事を与えられていた。入浴は週に二度だけ。それでも、家族のいない彼らには異議を唱える術も、逃げ出す体力もなかった。
だが、そのような実態をこの会場で話題にする者はいない。
皆が関心を持っているのは、榊原がどれだけ政治家に献金し、どれだけ皇城院グループに利益をもたらすかだ。
「やはり皇城院のお嬢様には敵いませんな」
榊原の目がそのとき、別の方向を向いた。
「麗華様は今夜もお美しい。高嶺の華でございますな」
その瞬間、会場の視線がひとりの女へ収束した。
皇城院麗華。二十八歳。夜そのものを引き裂いて織り上げたような、深い黒のドレス。首元には血のように赤いルビーのネックレスが光っている。
彼女の美しさは人を引き寄せる種類のものではなかった。例えるなら氷を精密に削り出したような美貌。完成されているがゆえに近づきがたい。
そして何よりその瞳。誰にも媚びず、誰にも揺れず、ただそこにあるだけで周囲の温度を奪っていくような冷たく澄んだ黒い瞳。
彼女が歩くだけで空気が張り詰めた。優雅に飾られた舞踏会の会場に猛獣が静かに放たれたように。参列者たちは笑いながら、しかし無意識のうちに道を開けていた。
「高嶺の華ですって」
麗華はグラスを指先でゆっくりと揺らしながら榊原を見た。
見たという表現では足りないかもしれない。品定めをしたと言うほうが正確だろう。
「訂正なさって」
声は鋼のように冷えていた。
「華は美しいだけでしょう?」
一歩。また一歩。
ヒールの音だけが、静まり返った大理石の床に響く。コツ、コツ、コツ。そのリズムはゆっくりで、急いでいるふうもなく、止まるつもりもない。
周囲の会話が途切れた。グラスを持つ手が止まった。誰かが小声で囁くのを、誰かが視線で制した。
「わたくし、棘だけでできておりますの」
榊原の笑顔が一瞬遅れて引きつった。愛想笑いのまま表情が止まった。
「はは、ご冗談を。皇城院様ともあろうお方が」
「ええ。冗談ですわ」
そう言って麗華は微笑んだ。
その微笑みは美しかった。だからこそ、底知れず恐ろしかった。
「あなた程度に本心の言葉を使う価値はありませんもの」
誰かが息を呑んだ。誰かが扇子で口元を隠した。誰かが連れの耳元に口を近づけ、また始まったという顔をした。
傲慢、冷酷、非情。人を人とも思わぬ、社交界のいわゆる悪徳令嬢。
それがこの場にいる全員の認識だった。
「貴様!」
榊原の顔はみるみる赤くなった。
「高齢者の福祉事業を担う私に対して、その侮辱は許されんぞ! いくら皇城院の令嬢とはいえ」
「福祉事業?」
麗華は不思議そうに首を傾けた。
演技ではない。純粋に言葉の意味を確認しているような、無垢な問いだった。
「補助金で弱者を飼育することを、最近はそう呼ぶのですか」
一拍の間。
「勉強になりますわ」
バイオリンの生演奏がかすかに聞こえていたはずなのに、気づけばそれも止まっていた。いや、止まったのではなく、その音すら聞こえなくなるほど場の空気が圧縮されていた。
榊原の額から一筋の汗が落ちた。
「何を根拠にそのような」
「根拠?」
麗華は視線を後ろへ向けた。
そこに立つ女、天堂寺沙夜。麗華付きの執事であり、秘書であり、そして何者でもある女。年齢不詳、無表情の美女。薄いグレーのスーツに身を包み、白い手袋をはめた両手でタブレット端末を静かに抱えている。その瞳に感情はない。
「沙夜」
「はい、お嬢様」
沙夜の指がタブレットの上を滑る。
次の瞬間、会場中央に据えられた巨大スクリーンに何かが映った。
映ったものは、施設の内部写真だった。老朽化した床材に染みだらけの壁紙。布団の上に横たわる骨が浮くほど痩せた老人たちの写真。粗末な給食。職員への残業を強制した記録。政治家の名が連なる裏献金の台帳。そして、死亡率の改ざん記録。
悲鳴が上がった。
「皆様、どうぞご覧くださいませ」
麗華の声はどこまでも優雅だった。
「これが“福祉事業”だそうです」
「不愉快だ! 帰らせていただく」
榊原が扉へ向かった瞬間、沙夜の指が静かにタブレットを操作した。
扉が開いた。
「警視庁です。東都ライフサポート代表取締役、榊原義道さん。ご同行願います」
「国税局査察部です。帳簿の提出をお願いします」
「金融監督庁です。緊急調査命令が出ております。ご協力いただけますね」
榊原は膝から崩れ落ちた。グラスが手から離れ、大理石の床に転がった。砕けはしなかったが、乾いた音を立てて滑り、遠ざかった。
政財界の大物たちは青ざめていた。誰も助けなかった。
さっきまで榊原と笑い合い、グラスを傾け、事業を称賛していた者たちは、最初から無関係だったかのように距離を取っていた。
「市場内買付け、および、第三者割当による株式取得、完了しております」
沙夜が事務的な声で告げた。
「東都ライフサポートの発行済み株式の過半数は、現在、筆頭保有者として皇城院ホールディングスに移っております」
全員が麗華を見た。
公衆の面前で侮辱し、炎上させ、株価を下げ、その裏で静かに買い集める。慈善晩餐会の会場を舞台に、劇を演じながら、その幕の裏で現実の取引を完結させていたのである。
「本日をもって経営陣は全員解任ですわね」
麗華は床に座り込んだままの榊原を、真上から見下ろした。地の底に突き落とすような視線で。
「安心なさい。あなたにも“福祉”を用意しておりますので。最低賃金の介護現場で働いてもらいますわ」
口角が上がるが、目は笑っていなかった。
「ご自身の崇高な理想をどうぞ現場で証明なさって」
皇城院麗華は善人ではない。
彼女が動いた先に弱者が救われるとしても、それは彼女の目的ではなく、結果にすぎない。
ただ、彼女は自分より醜い悪を決して許さなかった。そのことで悪と呼ばれようとも。
会場を去る麗華は記者たちに取り囲まれた。
「皇城院さん。買収が目的ですか?」
「これは正義の行為なのですか?」
麗華は足を止めなかった。
ヒールの音だけが続いていた。
一度だけ彼女は振り返った。
記者たちのフラッシュが集中砲火のように浴びせられる。その光の中で、麗華の赤い唇がゆっくりと動いた。
「正義?」
三日月のように歪んだ。
「そんな安い言葉でこの世界が変わるのなら」
彼女は嗤った。
「誰も泣いてなどおりませんわ」
黒いドレスが翻った。
漆黒の裾が宙に広がって落ちる。
悪女。怪物。冷血令嬢。
その悪名こそが、この腐り切った社会を、正面から買い叩くための最初の通貨だと彼女は思っていた。
夜が明け、日本中が燃えていた。
テレビのワイドショーは朝から特集を組み、コメンテーターたちが口々に語った。経済誌の速報サイトは更新を繰り返し、SNSのトレンドは昨夜から麗華の名が上位を占めたまま動かない。「慈善晩餐会を利用した悪徳令嬢」とワイドショーのテロップは叫び、経済誌は「東都ライフサポート買収劇の全貌」と特集を組んだ。SNSの声は割れていた。「最悪」「アウト」「ただの乗っ取り」という糾弾の声と、「東都は潰れて当然」「老人たちが助かった」「悪い奴が悪い奴を倒しただけ」という複雑な共感がインターネットの海の中で混ざり合い、煮え立っていた。
東京都心、皇城院グループ本社ビル。
地上四十階建てのガラス張りのビルは晴れた朝には空を映して青く光り、曇りの日には鉛色に沈む。昨日から報道陣がビルの前に陣取り、通りがかるスーツ姿の社員に次々とマイクを向けていた。
その最上階、南面全面がガラス張りの執務室で、皇城院麗華は書類にサインをしていた。
「お嬢様、好感度調査の速報です」
天堂寺沙夜がタブレットを差し出した。
「女性層の支持率が上昇しています。特に四十代以上の働く女性層が強いです。高齢者層は施設があった地域を中心に圧倒的支持。一方、富裕層、経済界、保守系政治家からの評価は……」
「壊滅的なんでしょ?」
麗華は書類から目を上げることなく言った。
「ええ」
「結構」
ペンが動く。
「嫌われるのはいつものことよ」
「株価は昨日の午後に一時大幅下落しましたが、朝の時点で上昇に転じています。東都再建への期待感と皇城院グループへの評価でアナリストの見方は割れています」
「当然ですわ」
麗華はようやく顔を上げ、窓の外を一瞬だけ見た。青い空とその下に広がる都市の海。
「腐肉を切り落とせば企業の体力は戻る。わかりやすい算数ですわ」
沙夜がタブレットを引いた瞬間、麗華の視線が机上の別の資料に落ちた。
分厚いファイル。表紙に印字されたタイトル。
【東都ライフサポート施設再建計画 第一次案】
全施設の衛生環境改善スケジュール。介護士の給与の一律引き上げ。前経営陣との違法契約の白紙撤回手続き。入居者への謝罪と補償基金の創設。地域雇用再教育制度の立ち上げ。
破滅させるだけでは三流。奪ったのなら作り直す。
麗華の指先が静かにページをめくる。その横顔は相変わらず冷たく感情を映さない。だが、何かがその目の奥に在った。熱とは呼べない何かが確かに灯っていた。
「次の案件についてですが」
「わかってますわ」
麗華はファイルを閉じた。
「呼んで頂戴」
会議室に集められたのは麗華の極秘組織「リベリオン」。
皇城院グループの公式組織図には存在しない。構成員は麗華とその部下三名。
元検察官・鷹宮真。四十二歳。長身で顎に短い無精ひげ。かつては凄腕の検察官として知られたが、組織の論理に縛られることを嫌い、ある事件を機に辞表を叩きつけた。今は麗華の法的な道筋と、合法と違法のぎりぎりのラインを見極める役割を担っている。
二人目は、ハッカー・黒瀬ジン。二十五歳。細身で常にパーカーのフードをかぶっている。情報セキュリティ会社に在籍していたがそれは表の話で、裏では数々の内部告発を支援してきた。麗華に見出され、今はそのすべての能力を彼女のために使っている。
そして三人目は、執事の天堂寺沙夜。
三人とも、この部屋で笑うことはあまりない。
「次の標的が確定しました」
沙夜がモニターを操作した。映し出された企業名は、《ライフ・アシスト・ファイナンス》。
「若者支援の奨学金返済サポート会社というのが表向きの顔です」
黒瀬が続けた。
「実態は低所得者層へ高金利のカードローンを重ね貸しし、返済不能になった段階で系列のブラック企業へ斡旋。違約金という名の拘束で逃げられなくする、現代のタコ部屋です」
「ターゲット層は?」
鷹宮が問うと、黒瀬はモニターを切り替えた。
「奨学金の返済に詰まった大学生。シングルマザー。非正規の労働者。要するに、声を上げにくく追い詰めやすい人間だけを狙い撃ちにしていますね」
「合法でやってるのかしら?」
「グレーゾーンですね」
「合法であれば問題ないとでも思ってるのかしらね」
問いかけているのではない。むしろ、答えをすでに持った人間の口から言葉が形を借りて出てきているような声。
黒瀬は肩をすくめた。
「お嬢はまた、法の外側で殴るわけですね」
「法律は最低限ですもの」
麗華はテーブルの上の調査資料を一冊手に取り、すらりとした指先でめくった。
「追い込みなさい。ただし」
彼女はそこで初めて全員の顔を順番に見た。
「壊すだけでは終わりませんわ。今回もそのつもりで」
誰も頷きはしなかった。だが全員が理解していた。
これは正義の話ではない。効率の話だ。
腐ったものを壊し、より良いものを作る。そのほうが社会全体として損が少ない。それが彼女の理念だ。



