放課後、君の弦音が好きになる

 大会が終わるころには、空は夕方の色になっていた。

 結果だけを言えば、白瀬たちの高校は入賞したらしい。らしい、というのは、僕が最後まで順位の仕組みをよくわかっていなかったからだ。

 けれど、藤宮先輩が白瀬の背中を強めに叩いて、ほかの部員たちが笑っていて、白瀬が少しだけ困った顔をしていたから、たぶんいい結果だったのだと思う。

 僕は少し離れたところでそれを見ていた。

 自分には関係ない。

 そう思うのに、胸の奥がじんわり温かかった。

 帰りの電車では、弓道部の集団から少し距離を置いた。部員でもない僕が混ざるのは変だし、何より白瀬と目が合うたび、昼間に叫んだ自分を思い出して落ち着かなかった。

 俺が見てる。

 外しても、見ててやる。

 思い返すだけで、顔から火が出そうになる。

 なんであんなことを言ったのか。

 しかも会場で。大勢の前で。弓道の作法も知らないくせに。

 今すぐ記憶ごとどこかに埋めたい。

「千尋」

 駅を降りて学校へ戻る途中、白瀬に呼ばれた。

 僕は聞こえなかったふりをして、歩く速度を上げた。

「千尋」

 二回目。

 白瀬の声は大きくないのに、不思議と逃げられない。

「僕、急ぎの用事が」

「また?」

「帰宅部は帰宅するまでが部活なので」

「大会、終わったら話すって言った」

「言ったかな。そんな昔のことは覚えてない」

「五時間前」

「人は五時間あれば変わる」

 白瀬は少しも動じなかった。

「じゃあ、変わった千尋と話す」

「白瀬って、意外としつこいな」

「千尋が逃げるから」

「逃げる。僕、そういう生き物だから」

 そう言って、僕は本当に逃げようとした。

 けれど、手首をつかまれた。

 強くはない。

 振りほどこうと思えば、たぶんできる。

 僕は足が速い。スタートさえ切れば、白瀬なんてすぐ置いていける。

 なのに、動けなかった。

「また逃げるの」

 白瀬の声が近い。

 振り向くと、夕日の中で白瀬が僕を見ていた。大会の疲れが少し残っている顔。けれど、その目はまっすぐだった。

「逃げるって言っただろ」

「じゃあ、追いかける」

「弓道部が帰宅部に勝てると思うなよ」

「走るのは無理」

「だろ?」

「でも、待つのは得意」

 ずるい。

 本当に、ずるい。

 追いかけると言ったくせに、待つなんて言う。逃げ道をふさがないまま、僕が振り向く場所に立っている。

 白瀬は、いつもそうだ。

 無口で、不器用で、まっすぐで。

 僕が逃げても、責めない。

 でも、忘れない。

 僕が言った言葉も、僕が見ていたことも。

「……ずるいだろ、それ」

 声が思ったより小さくなった。

 白瀬は、僕の手首をつかんだまま少しだけ首を傾げた。

「何が」

「待つとか言うところ」

「だめ?」

「だめじゃないから困る」

 白瀬の指が、少しだけゆるんだ。

 その隙に逃げることもできた。

 でも、僕は逃げなかった。

 白瀬はそのことに気づいたのか、ほんの少しだけ目元をやわらげた。

「今日」

「うん」

「千尋が見てると、俺は逃げたくなくなるって思った」

 心臓が、一回大きく跳ねた。

 昼間、同じようなことを言われたはずなのに、夕方の静かな道で聞くと、まるで違う意味に聞こえる。

「それは……応援したからだろ」

「うん」

「誰でもよかったんじゃないの」

「違う」

 即答だった。

 逃げ道を探す暇もなかった。

「千尋だからよかった」

 白瀬の声は、弓を引く前の空気みたいに静かだった。

「千尋は、逃げることを知ってるから」

「……それ、褒めてる?」

「褒めてる」

「やっぱり変だよ、白瀬」

「変でもいい」

 白瀬は一歩だけ近づいた。

 僕は下がらなかった。

 足はちゃんと地面についている。逃げ足だけは速いはずなのに、今は一歩も動けない。

「千尋が見ててくれたから、最後の一本を引けた」

「僕は、叫んだだけ」

「それがよかった」

「迷惑だったって言ったくせに」

「少し迷惑で、すごく嬉しかった」

「何それ」

「本当」

 白瀬は、まっすぐすぎる。

 言葉を飾らない。

 だから逃げにくい。

 僕は視線をそらして、夕日の落ちる校舎を見た。放課後のグラウンドには誰もいない。朝からずっと大会だったせいで、学校はいつもより静かだった。

 弓道場のほうから、かすかに木の匂いがする。

 僕が逃げ込んだ場所。

 白瀬に出会った場所。

 僕の帰宅部生活が、予定と違う方向へ曲がった場所。

「……僕はさ」

 言葉を探しながら、口を開いた。

「見てただけなんだよ。白瀬が外すのも、黙るのも、練習するのも、最後の一本も」

「うん」

「でも、見てるだけなのに、なんか嫌だった」

「嫌?」

「白瀬が一人で勝手に苦しそうなのが」

 言ってから、胸が熱くなった。

 恥ずかしい。

 こんなの、ほとんど答えみたいなものだ。

 でも白瀬は、急かさなかった。ただ僕の言葉を待っていた。

「外してもいいから、こっち見ればいいのにって思った。黙る前に、何か言えばいいのにって思った。僕がいるんだから、少しくらい頼ればいいのにって」

 白瀬の目が、少しだけ見開かれた。

「……千尋」

「何」

「それ、すごく嬉しい」

「言うと思った」

「嬉しいことは、言う」

「白瀬のそういうところ、心臓に悪い」

「じゃあ、もっと言う」

「やめろ」

「好きだから」

 時間が止まった。

 今度こそ、本当に。

 風の音も、遠くの車の音も、全部消えた気がした。

 白瀬は、僕の手首をゆっくり離した。

 逃げられるように。

 でも、逃げなかった。

「……何を?」

 間抜けなことを聞いた。

 白瀬は少しだけ困った顔をした。

「千尋を」

「いや、そこは濁してくれても」

「濁したくない」

「白瀬って、そういうところ本当にさ」

「うん」

「……本当に、ずるい」

 顔が熱い。

 たぶん、夕日のせいじゃない。

 僕は視線を落とした。自分の靴先を見つめる。逃げるために何度も地面を蹴ってきた足。

 今日、その足は白瀬のために走った。

 逃げるためじゃなく、届けるために。

「僕は」

 喉が乾く。

 それでも、言わなきゃいけない気がした。

「僕は、まだよくわかんない」

「うん」

「でも、白瀬が外すと気になる」

「うん」

「黙ると腹立つ」

「うん」

「笑うと、もう一回見たいって思う」

 白瀬の呼吸が、ほんの少し止まった。

 僕は顔を上げられないまま続けた。

「今日、最後の一本の前に、白瀬が逃げそうな顔してるって思った。そしたら勝手に走ってた。叫んでた。恥ずかしかったけど、止まれなかった」

「うん」

「だから……たぶん」

 たぶん、なんて逃げ道をつける自分が情けない。

 でも今の僕には、それが精一杯だった。

「俺も、白瀬のこと、好きなんだと思う」

 言った。

 言ってしまった。

 次の瞬間、白瀬が僕の名前を呼んだ。

「千尋」

 顔を上げると、白瀬が笑っていた。

 大会で最後の一本を中てたときよりも、ずっと嬉しそうに。

 その顔を見たら、胸の奥がまた苦しくなった。

「何その顔」

「嬉しい」

「見ればわかる」

「もっと言っていい?」

「だめ」

「でも言いたい」

「だめ」

「好き」

「言うなって言っただろ!」

 僕が思わず声を上げると、白瀬は小さく笑った。

 その笑い方が、反則みたいにやわらかかった。

「毎日、見ててほしい」

「欲張り」

「たまにでもいい」

「譲歩が早い」

「でも、本当は毎日がいい」

「本音も早い」

 僕はため息をついた。

 それから、ゆっくり白瀬の隣に立った。

「……見ててやるよ。たまに」

「うん」

「白瀬が外して黙ったら、文句言う」

「うん」

「逃げそうな顔したら、また叫ぶ」

「それは少し恥ずかしい」

「僕のほうが恥ずかしいんだよ」

「じゃあ、逃げないようにする」

 白瀬はそう言って、僕を見た。

「千尋も」

「何」

「走るの、また見たい」

 一瞬、胸がきゅっと痛んだ。

 走ること。

 好きだったもの。

 逃げてきたもの。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 白瀬に言われると、期待というより、ただ見たいと言われている気がした。

「……気が向いたらな」

「待ってる」

「ほんと、待つの得意だな」

「うん」

 夕日が、白瀬の横顔を照らしていた。

 初めて会った日、弓を引く白瀬の横顔から目が離せなかった。あのとき聞いた弦音は、まだ耳の奥に残っている。

 逃げ込んだ先で、僕は白瀬に出会った。

 逃げるのが得意な僕は、白瀬のまっすぐな気持ちから逃げられなかった。

「帰る?」

 白瀬が聞いた。

 僕は少し考えてから、首を横に振った。

「弓道場、寄っていい?」

「うん」

「別に、白瀬といたいからじゃない」

「うん」

「弦の音が、ちょっと好きになっただけ」

 白瀬はまた笑った。

「それでもいい」

 僕たちは並んで歩き出した。

 校舎の端、あの弓道場へ。

 もう逃げ込むためじゃない。

 帰らない理由を、自分で選ぶために。

 放課後の風の中で、僕の隣を歩く白瀬の手が、そっと僕の手に触れた。

 逃げようと思えば、逃げられた。

 でも、僕は逃げなかった。

 そのまま、ほんの少しだけ指を絡めた。

 白瀬が息をのむ気配がして、僕は前を向いたまま言った。

「見るな」

「見たい」

「弓道場だけ見てろ」

「無理」

「白瀬って、ほんと面倒くさい」

「千尋も」

「僕は帰宅部だから面倒じゃない」

「帰宅部なのに、帰らない」

 言い返せなくて、僕は小さく笑った。

 たぶん、これが始まりだ。

 まだぎこちなくて、名前をつけるには少し照れくさくて、それでも確かに胸の中で鳴っている。

 弦音みたいに澄んだ、初めての恋の音だった。