放課後、君の弦音が好きになる

 大会の日の朝、僕はいつもより早く目が覚めた。

 別に、僕の大会ではない。

 僕は弓道部員じゃないし、選手でもないし、そもそも正式なマネージャーですらない。一週間だけの記録係。しかも、その期限は昨日でほとんど終わっている。

 だから行かなくてもいい。

 そう思いながら、僕は制服に袖を通し、なぜか少しだけ髪を整えて、家を出た。

 駅までの道を歩いていると、朝の空気がやけに澄んでいた。梅雨の晴れ間で、青い空がまぶしい。こんな日に大会なんて、青春すぎてむずがゆい。

 電車の窓に映る自分の顔を見て、僕は小さくため息をついた。

「何してんだ、ほんと」

 白瀬から、来てほしいとは言われていない。

 昨日の練習終わり、白瀬は弓を片づけながら、いつも通り淡々と「明日、大会」と言っただけだった。

「知ってる。藤宮先輩が五回くらい言ってた」

「うん」

「頑張れば」

「うん」

「……それだけ?」

「千尋は来る?」

 そう聞かれて、僕は反射でそっぽを向いた。

「行かない。部員じゃないし」

「そっか」

「そっか、じゃなくて。ちょっとは引き止めろよ」

「来てほしい」

 まっすぐすぎる言葉に、僕は危うく記録用紙を落としそうになった。

「……そういうの急に言うな」

「急じゃない。ずっと思ってた」

「もっと悪いわ」

 白瀬は少しだけ首を傾げた。

「でも、来なくてもいい」

「どっちだよ」

「来てくれたら嬉しい。でも、無理に来てほしくはない」

 そういうところだ。

 押しつけないくせに、ちゃんと逃げ道を残すくせに、その逃げ道の前で静かに待っている。

 白瀬遥斗は、ずるい。

 大会会場は、隣町の武道館だった。

 駅から会場に向かう道には、いろんな高校の生徒が歩いていた。弓道着の入った大きな袋を肩にかけた人たち。緊張した顔で歩く一年生らしい生徒。笑いながら仲間と話す三年生。

 僕はその中を制服のまま歩きながら、場違い感に押しつぶされそうになった。

 やっぱり帰ろうかな。

 何度もそう思った。

 でも、足はなぜか会場に向かっていた。

 逃げ足だけは速いはずなのに、今日の僕は逃げる方向を間違えている。

 武道館の中に入ると、独特の静けさがあった。

 人はたくさんいる。応援の声もある。けれど、射場の前だけはぴんと張りつめていた。弓道場で聞いたあの空気が、何倍にも大きくなってそこにある。

 観覧席の端に座ると、すぐに藤宮先輩が僕を見つけた。

「千尋くん!」

「声大きいです」

「来たんだね」

「暇だったので」

「白瀬、喜ぶよ」

「言わなくていいです」

「もう見てる」

「え」

 藤宮先輩の視線を追うと、射場近くに立っていた白瀬と目が合った。

 白い道着に、黒い袴。

 いつもと同じ格好なのに、今日は少し違って見えた。大勢の選手の中にいても、白瀬だけはすぐにわかる。

 背筋が伸びている。

 表情は静か。

 でも、僕にはわかった。

 緊張している。

 手の動きが、いつもよりほんの少し硬い。視線が的に向かうまでに、少しだけ間がある。

 白瀬は僕を見て、ほんの小さくうなずいた。

 僕も慌ててうなずき返す。

 それだけだった。

 それだけなのに、胸の奥が落ち着かなくなった。

「……何だよ、もう」

 僕は膝の上で手を握った。

 試合が始まった。

 弓道の大会の詳しいルールなんて、僕にはよくわからない。ただ、一人ずつ矢を放ち、的中を数える。たぶん、それだけではないのだろうけれど、僕に見えるのはそのくらいだった。

 でも、見ているうちに少しずつわかってくる。

 中るか外れるかだけじゃない。

 矢を放つ前の呼吸。

 構えたときの肩。

 的を見つめる目。

 たぶん、そこに全部が出る。

 白瀬の一本目は、中った。

 乾いた音が響いた瞬間、弓道部の部員たちが小さく息を吐いたのがわかった。大声で騒ぐような競技ではないから、喜びも静かだ。

 僕は自分でも気づかないうちに、握っていた手をゆるめていた。

 二本目も、中った。

 三本目は、少し端だったけれど中った。

 白瀬は顔色を変えない。

 だけど、射場から戻るとき、ほんの一瞬だけ僕のほうを見た。

 見てる。

 僕はちゃんと見ている。

 そう伝わればいいと思った。

 試合は進んだ。

 ほかの部員たちも頑張っていた。藤宮先輩は三年生らしく落ち着いていて、後輩に短く声をかけている。チーム全体の空気が、少しずつ熱を帯びていく。

 僕は気づけば、前のめりになっていた。

 部活なんて面倒だと思っていた。

 期待なんて重いだけだと思っていた。

 でも、ここにはその面倒なものを、みんなで抱えている人たちがいる。

 誰かが外せば、誰かが次を中てようとする。

 誰かが震えれば、誰かが目で支える。

 重いのに、逃げない。

 その姿が、少しだけまぶしかった。

 そして、最後の立順が回ってきた。

 白瀬だった。

 会場の空気が、わずかに変わった気がした。

 たぶん、僕の気のせいかもしれない。でも白瀬の背中を見た瞬間、わかった。

 あの日の話。

 前の大会で外した、最後の一本。

 あの記憶が、今、白瀬の肩に乗っている。

 白瀬は一本目を中てた。

 二本目も中てた。

 三本目。

 的の端だったけれど、中った。

 あと一本。

 たぶん、これが最後。

 僕は息を止めた。

 白瀬が矢を番える。

 弓を持つ手が、ほんの少しだけ止まった。

 ほんの少し。

 ほかの人なら気づかないくらい。

 でも僕には見えた。

 指が震えている。

 白瀬の視線が、的ではなく、自分の内側に沈みかけている。

 逃げそうだ。

 そう思った。

 白瀬はその場に立っている。弓を持っている。誰の目から見ても、逃げてなんかいない。

 でも、僕にはわかった。

 あれは、逃げる直前の顔だ。

 僕が何度もしてきた顔だ。

 走る前に、スタートラインから心だけ後ろを向くときの顔。

 好きだったものを、自分から遠ざけるときの顔。

 気づいたら、僕は立ち上がっていた。

「千尋くん?」

 藤宮先輩の声がした。

 でも、もう止まれなかった。

 観覧席の階段を駆け下りる。係員に止められないぎりぎりのところまで走って、僕は射場の外側で足を止めた。

 会場で大声を出すなんて、たぶん迷惑だ。

 弓道の礼儀とか、応援の作法とか、僕は何も知らない。

 でも、今言わないと、白瀬がまた一人で黙ってしまう気がした。

「白瀬!」

 自分の声が、会場に響いた。

 何人かがこちらを見る。

 白瀬も、ゆっくりと振り向いた。

 驚いた顔をしていた。

 僕は息を切らしながら、拳を握る。

「俺が見てる!」

 白瀬の目が、少しだけ揺れた。

 その顔を見たら、恥ずかしさが一気に襲ってきた。でも、もう引き返せない。

 僕は続けた。

「外しても、見ててやる!」

 白瀬が、ほんの少しだけ口を開いた。

 声は届かないかと思った。

 でも、届いた。

「……それ、緊張する」

 白瀬がそう言った。

 僕は思わず笑ってしまった。

「じゃあ、中てろ!」

「ひどい応援」

「逃げんなって意味!」

 白瀬は僕を見ていた。

 それから、ゆっくり前を向いた。

 もう、指は震えていなかった。

 静かに弓を構える。

 会場の音が遠くなる。

 僕の呼吸も、白瀬の呼吸も、全部ひとつの線になって的へ向かう気がした。

 白瀬が弦を引く。

 背筋が伸びる。

 ほんの一瞬、時間が止まった。

 そして、弦音が響いた。

 矢が飛ぶ。

 まっすぐに。

 的へ。

 乾いた音が鳴った。

 中った。

 その瞬間、弓道部の部員たちが小さく歓声を上げた。藤宮先輩が拳を握る。白瀬は弓を下ろし、しばらく的を見つめていた。

 僕は足の力が抜けそうになった。

 勝ったのか、何位なのか、そういうことはまだわからない。

 でも、白瀬は勝った。

 たぶん、前の大会の自分に。

 最後の一本を外した記憶に。

 逃げそうになった自分に。

 白瀬が射場から戻ってくる。

 僕は急に自分が何をしたのか冷静になって、顔が熱くなった。

「……ごめん。なんか、叫んだ」

「うん」

「迷惑だった?」

「少し」

「少しかよ」

「でも、嬉しかった」

 白瀬は、まっすぐ僕を見た。

 汗をかいた額。少し赤くなった頬。まだ試合の緊張が残っているのに、その目だけはやわらかかった。

「千尋が見てるって思ったら、逃げたくなくなった」

 胸の奥に、また弦の音が響いた。

 僕は視線をそらした。

「……僕は別に、見てただけだし」

「うん」

「叫んだけど」

「うん」

「恥ずかしいから、あとで忘れて」

「忘れない」

「白瀬って、そういうところ本当に性格悪い」

「千尋が言ったことは、忘れたくない」

 もう、何も言えなかった。

 会場のざわめきが戻ってくる。部員たちが白瀬を呼んでいる。藤宮先輩が遠くから親指を立てていた。

 白瀬はそちらへ行きかけて、もう一度僕を見た。

「あとで、話したい」

「……大会終わったらな」

「うん」

 白瀬は小さくうなずいて、仲間のところへ戻っていった。

 その背中を見ながら、僕は思った。

 逃げ足だけは速い僕が、今日は白瀬のために走った。

 先生から逃げるためでも、期待から逃げるためでもなく。

 誰かに届いてほしくて、走った。

 それが少しだけ、怖かった。

 でも、それ以上に、嬉しかった。