放課後、君の弦音が好きになる

 僕は、走るのが好きだった。

 そんなことを思い出したのは、白瀬の練習を見に行くようになって三日目のことだった。

 放課後の校庭で、陸上部が短距離のスタート練習をしていた。笛の音が鳴るたびに、何人ものスパイクが地面を蹴る。砂が跳ねて、風が起きて、制服の裾が揺れた。

 僕は渡り廊下の柱に隠れるようにして、それを見ていた。

 走りだす瞬間が好きだった。

 全部が一瞬で遠くなる。声も、視線も、期待も、何もかも後ろへ流れていく。体が前に出るたび、自分が自分だけのものになる気がした。

 でも、中学の途中から、走ることは僕だけのものじゃなくなった。

「瀬川なら県大会いけるぞ」

「次はもっとタイム縮められるな」

「おまえがリレーのアンカーだ」

 最初は嬉しかった。

 認められるのは、たぶん嬉しいことだった。

 だけど、期待は少しずつ重くなる。昨日の自分より速く走らなければいけない。前よりいい結果を出さなければいけない。誰かの期待に応えなければいけない。

 走る前から息が苦しくなった。

 好きだったはずのスタートラインが、逃げ場のない場所に見えるようになった。

 だから僕は、逃げた。

 走ることから。

 期待されることから。

 好きだったものから。

「瀬川」

 低い声に呼ばれて、我に返った。

 振り向くと、白瀬が立っていた。制服姿で、肩に弓道部の道具袋をかけている。

「何見てるの」

「青春」

「似合わない言い方」

「失礼だな。僕だって青春くらい見る」

「見るだけ?」

 白瀬は、僕の横に立って校庭を見た。

 笛が鳴る。また陸上部員たちが走りだす。あの中に混ざれば、僕もたぶん走れる。体はまだ覚えている。

 でも、足は動かない。

「見るだけで十分」

「走らないの」

「走らない。疲れるし」

「本当は?」

 僕は白瀬を見た。

 白瀬はいつもの無表情だった。でも、その目は逃がしてくれそうになかった。

 弓を引くときみたいに、まっすぐこっちを見る。

「……本当も何もないよ。僕は帰宅部。走るのは先生から逃げるときだけ」

「もったいない」

「出た。大人がよく言うやつ」

「俺は大人じゃない」

「でも同じこと言った」

 少し強く返してしまった。

 白瀬は黙った。

 言いすぎた、と思った。でも謝るのも変で、僕は校庭に視線を戻した。

 空が少しずつ夕方の色になっている。赤くて、まぶしくて、苦手な色だ。

「ごめん」

 先に言ったのは、白瀬だった。

「責めるつもりじゃなかった」

「……別に。白瀬に責められる筋合いないし」

「うん」

「納得早いな」

「千尋のこと、まだよく知らないから」

 その言い方が、なぜか胸に引っかかった。

 知らないから、勝手に決めつけない。

 そう言われた気がした。

「でも、知りたいとは思ってる」

 白瀬は校庭を見たまま言った。

 僕は一瞬、息の仕方を忘れた。

「……何を?」

「千尋が、何から逃げてるのか」

「重い。三日目の会話じゃない」

「じゃあ何日目ならいい?」

「少なくとも三年目」

「長い」

「知りたがりすぎだろ」

 軽口で流したつもりだった。

 でも、白瀬は笑わない。笑わないくせに、僕の言葉をちゃんと受け止めてしまう。

 そういうところが、少し困る。

「道場、行く?」

 白瀬が言った。

「記録係として?」

「今日は部活休み。自主練」

「それ、僕いらなくない?」

「いてもいい」

 いてもいい。

 短い言葉なのに、変にあたたかかった。

 僕は校庭をもう一度見た。陸上部員たちは、またスタートラインに並んでいる。僕のいない場所。僕が自分で離れた場所。

「……暇だから、行ってやる」

「ありがとう」

「暇だからな」

「うん」

「白瀬が寂しそうだからじゃないからな」

「うん」

「そこは否定しろ」

「寂しかったのかも」

 さらっと言われて、僕は返す言葉を失った。

 弓道場は、部活の日より静かだった。

 道場の床に夕日が長く伸びている。誰もいない空間に、白瀬の足音だけが響いた。

 白瀬は慣れた手つきで準備を始めた。僕は道場の端に座り、膝を抱える。

「白瀬ってさ」

「うん」

「なんでそんなに弓道好きなの」

 前にも聞いた気がする。

 でも今日は、ちゃんと答えが聞きたかった。

 白瀬は弓を手にしたまま、少し考えた。

「静かだから」

「意外。白瀬、静かすぎてこれ以上静けさ必要?」

「うん」

「必要なんだ」

「弓を引いてるときは、余計なことを考えなくていい」

 白瀬は的を見た。

「自分の呼吸と、姿勢と、的だけになる」

「かっこいいこと言うなあ」

「茶化さないで」

「ごめん」

 素直に謝ると、白瀬が少しだけ驚いた顔をした。

「何その顔」

「千尋も謝るんだ」

「謝るよ。僕を何だと思ってるの」

「逃げ足の速い人」

「合ってるけど悪口だな」

 白瀬の口元がほんのわずかに動いた。

 笑った。

 たぶん。

 僕はその一瞬を見逃さなかった。

 胸が、妙な音を立てた気がした。

 白瀬は弓を構えた。静かに息を吸い、弦を引く。

 矢は的の少し右に外れた。

 白瀬はまた黙った。

 僕は膝の上に顎を乗せたまま、言った。

「ほら、また黙った」

「外したから」

「外すたびに黙ってたら、白瀬の人生ほぼ無音じゃん」

「そんなに外してない」

「今日は外した」

「うん」

 白瀬は弓を下ろした。

 そして珍しく、すぐに次の矢を取らなかった。

「前の大会で」

 ぽつりと、白瀬が言った。

 僕は顔を上げた。

「最後の一本を外した」

 道場の空気が、少しだけ重くなる。

 白瀬は的を見たままだった。

「団体で、そこまでみんながつないでくれてた。俺が中てれば入賞だった。でも外した」

「……それで?」

「それで終わった」

「大会が?」

「うん。あと、俺の中の何かも」

 白瀬の声は静かだった。

 でも静かすぎて、痛そうだった。

「誰かに責められたの」

「誰も」

「じゃあ、なんでそんなに引きずってるんだよ」

「誰も責めなかったから」

 僕は黙った。

 白瀬は少しだけ眉を寄せた。

「責められたほうが楽だった。おまえのせいだって言われたら、謝ればよかった。でもみんな、気にするなって言った。次があるって言った」

「いい人たちじゃん」

「うん。だから、苦しい」

 その言葉で、少しだけわかった気がした。

 誰かの期待は、優しさの形をしていることがある。

 だから逃げにくい。

 だから、余計に苦しい。

「俺は、また最後の一本を外すかもしれない」

 白瀬は言った。

「そう思うと、手が止まる」

「じゃあ、やめれば」

 自分でも冷たい言い方だと思った。

 でも白瀬は怒らなかった。

「やめたくない」

「怖いのに?」

「怖い」

「失敗するかもしれないのに?」

「うん」

「また期待されるのに?」

「それでも、引きたい」

 僕は白瀬を見た。

 その横顔は、相変わらず静かだった。だけど、静かなだけじゃない。怖がっている。苦しんでいる。それでも手放そうとしていない。

 僕とは違う。

 僕は、好きだったものから逃げた。

 走ることが好きだったなんて、今さら誰にも言えないくらい遠くまで逃げた。

「……逃げたっていいじゃん」

 気づけば、そう言っていた。

 白瀬がこちらを見る。

「千尋は、そうしてるの?」

「してる。毎日してる」

「楽?」

「……楽じゃない」

 言ってから、喉の奥が詰まった。

 楽じゃない。

 初めて口にした気がした。

「でも、期待されて失敗するよりマシ」

 僕は笑おうとした。

 いつもの軽い感じで。どうでもいいことみたいに。

 でも、うまく笑えなかった。

「中学のとき、走ってた。けっこう速かった。最初は楽しかったんだけど、だんだん周りが勝手に盛り上がってさ。次も勝てる、もっと速くなる、おまえならできるって」

 白瀬は黙って聞いていた。

「できなかったら、僕が悪いみたいで。走るのが好きだったのに、走るたびに怖くなった。だから高校ではやめた。帰宅部になって、全部から逃げた」

「今も、走るの嫌い?」

 僕は校庭のほうを思い出した。

 スタートの笛。風。地面を蹴る感覚。

「……嫌いじゃないから、困るんだよ」

 声が小さくなった。

 白瀬は何も言わなかった。

 何か慰められたら、たぶん僕は笑ってごまかしたと思う。いいことを言われたら、茶化して逃げたと思う。

 でも白瀬は、何も言わなかった。

 ただ、僕の隣に座った。

 近い。

 肩が触れそうで、触れない距離。

「俺も、怖い」

 白瀬が言った。

「でも、弓道は好きだ」

「……うん」

「だから、逃げたくない」

 まっすぐすぎる。

 この人は本当に、まっすぐすぎる。

 見ているだけで、こっちの曲がったところまで照らされるみたいだ。

「じゃあ逃げんなよ」

 僕は言った。

「好きなんだろ」

 白瀬が目を見開いた。

 それから、少しだけうつむく。

 怒ったのかと思った。

 違った。

 白瀬は笑っていた。

 今度は、はっきりわかるくらい。

 ほんの小さな笑顔だったけれど、僕には十分すぎた。

「……何笑ってんだよ」

「千尋に言われると、逃げられない気がした」

「僕、逃げる専門なのに?」

「逃げる人が言うから、効く」

「それ褒めてる?」

「褒めてる」

「絶対違う」

 そう言いながら、僕は顔が熱くなるのを感じた。

 白瀬の笑顔を見た瞬間、胸の奥が跳ねた。

 おかしい。

 ただ笑っただけだ。

 無愛想なやつが、ちょっと笑っただけ。

 なのに、僕はその顔をもう一度見たいと思ってしまった。

 励ましたかったのだと、気づいた。

 白瀬を。

 的を外すたびに黙る、面倒くさくて、まっすぐで、逃げないこいつを。

 もう一度、笑わせたかった。

「もう一本、引く」

 白瀬が立ち上がった。

「見てる?」

「……まあ、暇だし」

「ありがとう」

「暇だからって言ってるだろ」

「うん」

 白瀬は射位に立った。

 弓を構える背中は、さっきより少しだけ軽く見えた。

 弦が鳴る。

 矢が飛ぶ。

 今度は、的の真ん中近くに中った。

 乾いた音が、道場に響く。

 白瀬は振り返らなかった。でも、肩の力が少し抜けたのがわかった。

 僕は膝を抱えたまま、小さく息を吐いた。

 逃げるのは得意だ。

 だけど、その日だけは、帰るタイミングを見失った。

 弓道場の夕日は、校庭で見る夕日より少しだけやさしく見えた。